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カラヤン -人生・音楽・美学- 第W章

2008年5月19日 (月)

第IV章 1942〜1949年 激動する運命

「向かい風」

文●阿部十三

 アーヘン歌劇場音楽総監督としての最後の仕事は、1942年4月22日に行われた『マタイ受難曲』の公演だった。演奏後、カラヤンはスタッフ全員を集め、感謝の言葉を述べた。
 同年、エルミーと離婚(1941年という説もある)。10月22日にアニータ・ギューターマンと再婚した。これはリスクを伴うものだった。なぜなら、アニータには四分の一ユダヤ人の血が流れていたからである。
 この結婚についてナチ党内で審議がなされた。呼び出されたカラヤンはそこで離党を宣言したという。しかし、党員名簿から彼の名前が抹消されることはなかった。有名人になったカラヤンの離党をゲッべルスが許可しなかったのか、手続き上のミスなのか、あるいは別の事情があるのか、真相はわからない。
 いずれにせよ、1942年以降、カラヤンが微妙な立場に立たされていたことだけは間違いない。爆撃されたベルリン国立歌劇場が再建された時、その幕開けを飾ったのはフルトヴェングラー指揮による『マイスタージンガー』だった。国立歌劇場の総監督ティーティエンが、それまで対立していたフルトヴェングラーに指揮を依頼したのである。これに驚いたカラヤンは抗議したが、ティーティエンは「理解しようとしなくて結構。これは高度に政治的な問題だから」と突き放した。
 奇妙な出来事はさらに続く。同じ頃、カラヤンのもとに召集令状が届いたのである。突然の招集に困惑しつつも、飛行機の操縦に興味を持っていた彼は健康診断と歯科検診を受けた。その情報がゲッべルスの耳に入り、招集は取り止めになった。著名な音楽家を戦地へ送ったとなれば、ナチスも切羽詰まったかと世界中で噂されるだろう。誰が、何のために、カラヤンに召集令状を送りつけたのか。それはいまだにわかっていない。
 ベルリンでの仕事に行き詰まりを感じたカラヤンは、カール・ベームの後任としてドレスデン国立歌劇場の音楽監督の地位に就くことを望んでいたようだが、すでに50歳の指揮者カール・エルメンドルフが党内に根回ししており、カラヤンが入り込む余地はなかった。
 エージェントのルドルフ・フェッダーが失策を犯したのもこの頃のこと。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサート・マスター、ゲルハルト・タシュナーにフルトヴェングラーを裏切るよう唆し、ベルリン国立歌劇場管弦楽団に(即ちカラヤンのもとに)来いと誘ったのである。タシュナーはそれをフルトヴェングラーに話してしまった。憤慨したフルトヴェングラーは宣伝省に訴え、フェッダーは営業免許を剥奪された。
 カラヤンの仕事は目に見えて減っていった。“生意気な若造”を疎んじる空気がいつのまにか形成されていた。戦況も悪化の一途をたどっていた。爆撃が続くベルリンで限られた回数だけコンサートを指揮しながら、彼はドイツから抜け出すことを本気で考えた。
 1944年にはブルックナーの交響曲第8番を録音。この第4楽章はなんとステレオ録音になっている(CDは廃盤)。なお、同時期、リンツの帝国ブルックナー管弦楽団の指揮者になるべく画策しているが、この計画はフルトヴェングラーに阻止された。
 敗色濃厚になったドイツで、カラヤンは希望と絶望の間を揺れ動いていた。彼は敬愛するリヒャルト・シュトラウス宛の手紙に「いつか私にも重要な楽団が持てる日がめぐってくることでしょう。それを切に願っています。その日が来たなら、私は自分の思い描くままに先生のオペラを上演する機会が持てることでしょう」と書く一方、友人の家では「ロシア人は僕を殺すだろう。ナチの指揮者だとみなして。あの狂った連中とは何の関係もないのに。ボリシェヴィキに殺されるんだ!」と叫んでいる。

「終戦 ―運命の出会い―」

 1945年2月、ベルリンでコンサートを指揮した数日後、ついにカラヤンはアニータとイタリア行きの飛行機に乗り込み、ミラノへと逃れた。とはいえ、イタリアも安全な場所ではなかった。パルチザンによるファシスト協力者の処刑が毎日のように行われていたのである。5月にドイツ軍が降伏したが、治安は乱れ、混乱が続いていた。カラヤン夫妻は音楽好きの建築家にかくまわれ、その後トリエステに住む裕福なバンフィールド・トリプコヴィッチ家の世話になった。この時期、カラヤンはイタリア語の勉強と読書に明け暮れていた。9月と10月には僅かながらコンサートの指揮を務めた。
 これからどうすればよいか悩んでいる時、進むべき道を示してくれたのはマリア・トリプコヴィッチ伯爵夫人だった。「犯罪を冒したのなら、ここに留まりなさい。何も悪いことをしていないなら国に帰りなさい。面倒なことがあっても、それを乗り越えて再出発なさい」と励ましたのである。カラヤンは帰国する決心を固め、通訳になりすましてオーストリア行きの列車に乗った。
オーストリアでは占領軍による尋問が待っていた。いわゆる「非ナチ化審理」である。戦時下ではカラヤンに不利だった要素(アニータと結婚したこと、ヒトラーに嫌われていたことなど)がここで有利に働いた。はじめのうちは全てが順調だった。アメリカ軍の情報監査局から演奏活動の再開を許可されたカラヤンは、ウィーン・フィルハーモニーの理事長フリッツ・セドラックの要請を受け、演奏会を3回指揮することになった(1月12日、13日、19日)。が、そこへソ連軍が待ったをかけた。断罪すべきか否か、様々な駆け引きが行われた後、ようやく許可がおりたのは12日の午後2時のことだった。プログラムはハイドンの交響曲第104番「ロンドン」、R.シュトラウスの「ドン・ファン」、ブラームスの交響曲第1番。ステージにカラヤンが登場した時、拍手はまばらで冷たい反応だったが、終演後、聴衆は興奮し、熱狂した。
 1月19日のコンサートは、当日の正午、ソ連軍により禁止された。しかし落ち込んでいる暇はなかった。その1時間後、カラヤンに運命の電話がかかってきたのである。相手はウォルター・レッグという名のイギリス人で、新しい才能を求めてウィーンにやってきたEMI社のプロデューサーだった。3時間後、レッグはカラヤンを訪ねた。2人は音楽の話ですぐに意気投合した。レッグは録音の契約話を持ちかけた。捨てる神あれば拾う神あり。契約は5月に成立した。
 公の場での演奏活動を禁止されたカラヤンは、オペラのリハーサルに顔を出し、裏方として働いた。ザルツブルク音楽祭で『ドン・ジョヴァンニ』が上演された際も、イタリア人プロンプターの到着が遅れたため、自らプロンプター・ボックスに入り、代役を務めた。
 9月、レッグはカラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏で録音を開始した。抜け目のないレッグはカラヤンが禁止されている演奏活動があくまでも「公の場」のものであることを確認した上で、イギリス外務省の支援をとりつけ、一企業の「私的な企画」として作業を進めたのである。まず録音されたのはベートーヴェンの交響曲第8番、次にシューベルトの交響曲第9番「グレイト」が、その後モーツァルト、チャイコフスキー、J.シュトラウス二世の作品が演奏された。

「終わりなき確執」

 1947年になると、演奏活動を禁止されていた音楽家たちが次々と無罪になり、復帰を許された。カラヤンが公の場に復帰したのは10月25日。その記念すべき演奏会で、彼はブルックナーの交響曲第8番を指揮した。オケはウィーン・フィルである。翌日、2回目のコンサートが終わった後、カラヤンはスコアをレッグに献呈した。そこにはこのような献辞が書かれていた。「音楽上の分身である親しい友へ。この長く待ち望んだ日を記念して」。
 翌年2月、ウィーン交響楽団を初めて指揮。4月にはロンドンを訪れ、レッグが組織した腕っこきの演奏家集団、フィルハーモニア管弦楽団の指揮台に立った。プログラムはR・シュトラウスの「ドン・ファン」、シューマンのピアノ協奏曲(ソリストはディヌ・リパッティ)、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」である。イギリスの楽団員たちはこの紳士的で情熱的な指揮者に好感を持った。以後、このコンビは数々の名録音を世に送り出していくことになる。
 夏にはザルツブルク音楽祭に出演、コンサートにオペラにと大活躍した。フルトヴェングラーもこの音楽祭でベートーヴェンの『フィデリオ』を指揮した。
 レッグは2人を和解させるべく夕食に招いた。最初のうちは緊張感が漂っていたものの、カラヤンがベートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章のテンポについて先輩の意見を求めたことで、フルトヴェングラーは気を良くし、その場は和やかな雰囲気に包まれた。しかし翌日、何が起こったのか、フルトヴェングラーは恐ろしい宣告をしたのである。カラヤンを音楽祭から追い出すという条件のもとでのみ、自分はザルツブルクで指揮をする、と。
 ウィーン・フィルとの仕事も途絶えがちになった。これもフルトヴェングラーから圧力をかけられたためと言われている。カラヤンはウィーン交響楽団に接近し、このオーケストラの演奏技術を向上させることに専心した。
 12月、フランツ・マリシュカ監督の映画『マタイ受難曲』の音楽指揮を受け持ったカラヤンは、製作を通じて一人の有能な男と出会った。アンドレ・フォン・マットーニである。映画の仕事が終わると、カラヤンはマットーニを自分の右腕として雇い、以後25年間にわたり、事務処理を一任した。
 1949年の春にはアニータを連れて南米へ。キューバ、アルゼンチン、チリのオーケストラで客演指揮を務めた。チリでは飛行機の操縦も学んだ。
 7月、ザルツブルク音楽祭に間に合うように帰国したが、今回カラヤンの出番は2回しかなく、翌年からは完全にこの音楽祭から締め出された。作曲家であり音楽祭運営委員でもある貴族出身のゴットフリート・フォン・アイネムとカラヤンの関係がうまくいっていなかったこともあり、音楽祭側はフルトヴェングラーの要求を受け入れたのだ。
(続く)

1942年〜1949年にかけて録音された代表盤

コンプリートEMI レコーディングス第1集
5120382(輸入盤) 87CD

1946年のベートーヴェン交響曲第8番から、1984年のヴィヴァルディ『四季』まで、カラヤンがEMIに遺した音源を集めたボックス。すでに大半が入手困難となりつつあるフィルハーモニア管との音源を一挙に揃えることが出来るのは嬉しい。ベルリン・フィル時代よりフィルハーモニア管と録音していた時期のカラヤンを音楽的に高く評価するファンも多く、その意味でもこれは念願のリリースといえる。特にバルトークのオケコン、ライマーのピアノ協奏曲あたりはマニアなら真っ先に聴いておきたいところ。なお、ボックスの第1集にはオーケストラ作品、第2集にはオペラ・声楽作品が収録されている。

ヴェルディ 『レクイエム』
ツァデク、クローゼ、ロスヴェンゲ、クリストフ/ウィーン楽友協会合唱団/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
AU23415(輸入盤)

1949年8月14日、ザルツブルク音楽祭でのライヴ録音。覇気に満ちた情熱的な演奏で、ライヴならではの高揚感が素晴らしい。これまでいくつかのレーベルからCDが発売されていたが、これはオリジナル・マスター使用による初の正規盤である。この演奏の後、カラヤンは興奮したファンの群れに担ぎ上げられて昼食の会場へ運ばれたという。当時のカラヤン人気を伝えるエピソードである。
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