カラヤン -人生・音楽・美学- 第II章
Wednesday, March 19th 2008
第II章 1929〜1935年 ウルムからアーヘンへ「ウルムの第二楽長」
文●阿部十三
ディートリヒの申し出に応じ、カラヤンはウルム市立劇場へ赴き、新任の第二楽長として『フィガロの結婚』を指揮した。1929年3月2日のことである。評判は上々だった。「新任楽長ヘルベルト・フォン・カラヤンのデビューとなった日曜日の演奏は優れたもので、2回目からはさらに良くなると思われる。彼は活力に満ちており、作品を深く探求する才能も顕著である」(『ドナウヴァヒト』紙)。
同年4月、誕生日に合わせて故郷ザルツブルクへ戻り、そこで『サロメ』の指揮を引き受け、1回だけのリハーサルで演奏、批評家に絶賛された。
その後、カラヤンはウィーンを訪れ、ミラノ・スカラ座の公演を聴き、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮に接した。舞台が狭く、設備も不十分な小都市ウルムの劇場には望めない理想的な舞台、最高の演奏がそこにはあった。彼はトスカニーニの“追っかけ”となり、機会があるごとにその公演に駆けつけ、1930年7月にはトスカニーニのバイロイト・デビューを観に行った。なお、カラヤンがウィーン交響楽団の野外演奏会で指揮を任され、ウィーン・デビューしたのも同年7月のことである。
ウルム市立劇場でのカラヤンの給料は80マルク(楽団員は240マルク前後)。同情した楽団員の何人かが、昇給させるようディートリヒに働きかけたが、素っ気なくこう言い返されただけだった。「彼は見習いだ。ここで勉強してるんだから、こっちが授業料をもらいたいくらいだ」。オーケストラとの関係も微妙で、一部の団員からは敬愛されていたが、多くの団員から嫌われていた。練習が厳しすぎ、技術の衰えた年配の奏者を辞めさせ、若い奏者を増やそうとしたためである。
1933年1月にヒトラーが首相に任命され、3月に行われた総選挙ではナチ党が国民投票の43.1%を獲得した。ウルムの政情も大きく揺れ、ナチ党員が市長の座に就いた。
ユダヤ人だった第一楽長オットー・シュールマンがウルムを離れることになったが、カラヤンがその後任に指名されることはなかった。それどころかディートリヒはカラヤンとの契約延長はしないと明言し、彼より年下のナチ党員マックス・コイェティンスキーを重用し、楽長の座を2人で分け合うように命じた。事態がナチ党員に有利な方へ傾いていることは誰の目にも明らかだった。将来への不安に襲われたカラヤンは、ナチ党に入党する仮続きを行った。しかし、仮党員になったものの、手続き上の行き違いで、正式な党員にはならなかった。
1933年は不穏な年だったが、収穫がなかったわけではない。ザルツブルク音楽祭に正式デビューし、大演出家マックス・ラインハルトが手がけた『ファウスト』の舞台音楽を指揮したのである。ラインハルトのカリスマ性と偉大な才能にカラヤンは大いに魅了された。「ほとんど直感的に的確な配役が決められる(ラインハルトの)能力に、私は感銘を受けた」とカラヤンは伝記の作者エルンスト・ホイサーマンに語っている。「彼はきちんと方向性を示しさえすれば自分の殻から抜け出して成長できる役者を採用した。そして彼の思い通りの方向へ導いた」。
翌年、カラヤンはウルムを去ることになった。ディートリヒは「君はウルムにはもったいない」と言ったが、要するに劇場の上層部やオーケストラ団員たちに疎まれ、お払い箱にされたのである。
「ナチ入党」
失業者となったカラヤンは職を求めてベルリンへ行き、そこを拠点に片田舎の劇場を訪ね歩いた。後年、カラヤンはそんな自分の姿を映画『自転車泥棒』の惨めな主人公にだぶらせて回想している。「私はほとんど何も食べられなかった。あの時のことを思い出すと今日でもまだ身震いがする」。
そんな時、アーヘン歌劇場の支配人が指揮者を探している、という情報を入手した。カラヤンは必死の面持ちで、ベルリンに来ていた支配人エドガー・グロースの部屋を訪ねた。「私は彼に催眠術をかけんばかりに迫り、何が何でも指揮させてもらわなければならないと述べたてた」と彼は後に語っている。その気迫に圧倒されるかたちで、グロースはカラヤンを6月8日に行われるオーディションに招いた。当日、彼は見事なリハーサルを行い、その場にいる者を驚かせた。アーヘンの立派な劇場で働くにはまだ若すぎる、という意見もあったが、有力な音楽評論家ヴィルヘルム・ケンプの口添えもあり、採用となった。
にわかに風向きが変わりはじめたこの時期(8月21日)、ザルツブルク音楽祭の最中にアメリカの未亡人が催したパーティーで、カラヤンはウィーン・フィルを初めて指揮した。プログラムは小規模なもので、ドビュッシーとラヴェルの作品で構成されていた。
アーヘンの指揮台に登場したのは9月18日。演目は『フィデリオ』。聴衆は熱狂し、公演は大成功に終わり、一夜にして彼はアーヘンで有名人となった。失業者時代の苦労が嘘であるかのように、自分を取り巻く状況は180度変わっていた。しかし、それと同時に、人間関係に支障が生じた。歌劇場の音楽監督は62歳の指揮者ペーター・ラーベが務めていたのだが、ラーベよりカラヤンの人気が上回ったことで両者の関係がこじれてしまったのである。
1935年初頭、カラヤンはカールスルーエ歌劇場に招かれ、『タンホイザー』を振り、成功を収めた。彼がカールスルーエと契約するのではないかと危惧したアーヘン歌劇場側は、意地でもカラヤンを手放すまいとした。折しも、ラーベが帝国音楽院の総裁(前任者はR.シュトラウス)に指名され、アーヘンを去ることが決まったところだった。1935年4月13日、アーヘン歌劇場はカラヤンを音楽総監督に任命、3年の契約を交わした。1年目の給料は14000マルク。ウルム時代では考えられない待遇である。
こうして鮮やかな出世を遂げたわけだが、そのために彼はある条件をのまなければならなかった。「音楽総監督に任命される日が近付いた頃」とカラヤンは回想する。「ナチ管区長がやってきて、こう言った。『よろしい、君は総監督になればいい。だが、それならば党員にならなくてはならん』と」。仮党員ではいけないというのだ。ようやく見つけた待望の職に就くために、カラヤンはこの条件をのんだ。戦後、これは悪魔との取り引きとみなされ非難されたが、1935年当時、一体何パーセントの人がそういう認識を持っていただろうか。少なくともこの時のカラヤンには、失業者時代の屈辱をもう一度味わう、という選択肢はあり得なかったに違いない。(続く)
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カラヤンに影響を及ぼした指揮者たち クレメンス・クラウスクラウス(1893-1954)は、ウィーンの指揮者で、ニューイヤー・コンサートの創始者。私生児として生まれた彼の父親はハプスブルク家の貴族だと言われている。30代でウィーン国立歌劇場の総監督やウィーン・フィルの常任指揮者に就任したり、R.シュトラウスのオペラを初演したりと、その活躍は青年カラヤンの羨望の的だった。後年、カラヤンは「クラウスは最小の、最も経済的な身振りで、オーケストラから最大の明晰さと正確さを引き出した」と評している。 ヴィクトール・デ・サバタデ・サバタ(1892-1967)は、イタリアの指揮者。トスカニーニの後任としてミラノ・スカラ座の音楽監督を長年にわたり務めた。彼はカラヤンの将来を最も早くから予言していた人物であり、ベルリン国立歌劇場の総監督ティーチェンに、「私の言うことをよく覚えておきなさい。今から25年経ったら、この男は世界の音楽界を支配し、永久に足跡を残すだろう」と語った。カラヤンもサバタを敬愛しており、「私にとっての真のヒーロー」と述べている。 ウィレム・メンゲルベルクメンゲルベルク(1871-1951)は、オランダの名門アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者として19世紀末から20世紀前半にかけて君臨した巨匠。マーラーをはじめとする同時代の大作曲家達と親交があり、多大な信頼を寄せられていたが、リハーサルが執拗なことで知られ、楽団員から恐れられていた。カラヤンとは1938年にコンセルトヘボウ管を指揮した際に交流を持ち、翌年にはメンゲルベルクがアーヘンを訪れ、カラヤンの手兵を指揮した。 |
ウルム市立劇場、アーヘン歌劇場、ウィーン・フィルにデビューした際のプログラム モーツァルト:「フィガロの結婚」『フィガロの結婚』は、ウルム市立劇場でオペラ指揮者としてデビューを飾った際の演目であると同時に、同劇場で最後に振った演目でもある。当時はテンポをかなり速めにとっていたようで、団員達から「拍子が刻みにくい」と不満の声が上がっていた。緩急の差を極端につけるスタイルは戦後も続けており、1947年にEMIで録音した演奏からもその傾向がうかがえる。 べートーヴェン:「フィデリオ」アーヘン歌劇場で初めて指揮した時も、後年ベルリン国立歌劇場でデビューを飾った時も、演目は『フィデリオ』だった。カラヤンにとっては幸運を呼ぶ作品といえる。今回CD化された1962年のライヴ録音からもカラヤンの自信と気迫に満ちた指揮ぶりが如実に伝わってくる。ちなみに学生時代、助手として初めて関わったオペラの仕事も『フィデリオ』だったようである。 ラヴェル:「ラ・ヴァルス」ウィーン・フィルを初めて指揮した際の曲目。カラヤンは「ラ・ヴァルス」を嫌っていたようだが、この盤に収められた録音は目から鱗が落ちるほどの名演だ。当日は、他にドビュッシーの「ピアノと管弦楽のための幻想曲」と「牧神の午後への前奏曲」を指揮した。これ以降、カラヤンがウィーン・フィルの指揮台に立つのは、ようやく1945年になってからのことである。 |
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