「エレクトリック・マイルス」 中山康樹さんに訊く 〈3〉
2010年7月29日 (木)

- --- 「1972-1975」においてマイルスは、「最高か?」 「最悪か?」という究極の二択を聴き手に迫る作品作りをハナから意図的に目論んでいたのでしょうか?
どうだったんでしょうね・・・『Bitches Brew』までは、マイルスの頭の中というのはある程度フォローできるし、見える部分があるんですよね。それは、さっき言ったようにマイルス自身がきちんと頭の中で楽曲を組み立てているからであって、その方程式を解く糸口さえいくつか見つかれば、もちろん逆算ではありますが、判るんですよ。
ただ、『On The Corner』以降、『Agharta』、『Pangaea』になってくると、それが皆目見えてこない。 ひょっとしたら、ただ“ガチャガチャ”やりたかっただけなのかな? と考えてもみたり(笑)。単純な ”サウンドの快楽”というものがあるじゃないですか? それはマイルスがここまでやってこなかった分野なんですよ。もちろん、それまでにも(註)トニー・ウィリアムスのドラムがバシャーンと入るとか(笑)、瞬間瞬間でそういうことはあったわけですが、もうちょっと全体を通しての ”お祭り感覚“が強いというか・・・共通点を探るとすれば、(註)サン・ラーの世界ですよね(笑)。
あるいは、(註)ジェイムス・ブラウン一座ですよね。ドサ回り一座の祝祭的な空間。しかも、その時間が長ければ長いほど愉しいから、終わるのは寂しいなぁ、という感覚(笑)。さらに、その祭りの中央に自分がいる快感と、そのときだけ事故の痛みが忘れられるかも、という期待もありますよね。- --- 『On The Corner』などでの “ガチャガチャ感” は、サン・ラー、JBより遥か上を行っていますよね。
結局、ワウ・ペダルを取り入れて、自分の音を変えてしまったというのは、“参加意識”によるものだったと思うんですよ。トランペットだとバンドの音に馴染めない“よそ者”だと。実際、トランペットのストレートな音は、あの当時の音に合わないんですよ。あるいはまったく逆に、ジミ・ヘンドリックスのワウ・ギターに触発されて、とにかくワウ・ペダルが使いたかったと。そしてワウをかけたトランペットの音に最も相応しいサウンドを探求した結果、『On The Corner』のようになったとか。だから、(註)ロニー・リストン・スミスを『On The Corner』発表後にクビにしたのは、キーボードが多いとワウの効果が発揮できない、とある日気付いたからかもしれないんですね。つまり、ステージの上でみんなで盛り上がりたい、しかも指揮官になれる快感に浸りながら(笑)、ということなんでしょうね。
それまでは、自分のソロが終わると、他のメンバーのソロ回しが終わるまで舞台裏手に引っ込んでいたわけですよ。だけど、『Agharta』の頃になるとずっとステージにいる。自分のパート以外でも、指揮をとっているんですね。マイルスの中でそれは今までにないスタイルでしたから、愉しくてしょうがなかったんじゃないでしょうかね(笑)。- --- バンド・メンバーとの快楽の共有を最優先する場であるため、聴衆からブーイングが飛んできても意に介さない(笑)。
ある意味、“密室”であり、“密教”ですよね(笑)。そういう部分でサン・ラーと同じなんですよ。そして、かなり飛躍した考え方だとは思いますが、その空間というのは、まさに“チャーチ(教会)”ですよね。それはジェイムス・ブラウンがやっていることでもある。結局マイルスを支えていたのは、強烈な黒人意識ですから、行き着くところはジェイムス・ブラウンと結構近いところなんじゃないかなと思うんですよね。
- --- その一方では、黒人の若者層リスナーへのセールスも気にかけていたんですよね?
成功した黒人のエンターテイナーが等しく抱く悩みでもあるんですが、結局自分を支えているのは白人であるというジレンマですよね。それが嫌で、チャリティ活動に走ってしまうような人もいますけど(笑)、それは自分に対する罪の意識みたいなようなものですから。
- --- それでは最後の質問になるのですが、2010年現在、マイルスが84歳現役バリバリで活動していると仮定して、どのようなサウンドを求めて提示していると思われますか?
う〜ん・・・難しいですよね(笑)。
- --- クラブ・ミュージックのような近代サウンドを視野に入れている可能性、あるいは逆に、“バック・トゥ・ルーツ”なアコースティック・サウンドに立ち返っている可能性、色々と想像に限界がないと言いますか・・・
それこそ、個人的にはシンプルな方向に行っていたとは思うんですが、トランペットを吹いているか吹いていないかで、考え方がちょっと変わってくると思うんですね。マイルスは、トランペットを吹かなくても自分の音楽を作れるんで、ひょっとしたらギル・エヴァンスみたいなことになっていたのかなと(笑)。
- --- (笑)アレンジャー的な立場で様々な分野を行き来しているような。
まぁ、91年に死んでいなければ、当然最後にいくつか着手されようとしていたプロジェクトについては、そのまま引き続き行われていたと思うんですよね。それは、(註)イヴァン・リンスとの共演を含めたブラジルものだったり、あるいは、(註)マーカス・ミラーとの再共演だったりですから、その延長線上にあるものだろうなという想像はできますよね。
というのも、65歳で死んで、もし生きていたら来年で85歳。その20年間というのは、マイルスのこれまでの音楽変遷を時間別に見ると、大体4つぐらいのテーマに着手する可能性が大きいんですよ。つまり5年周期で。そうすると、今言ったブラジルものを含めたプロジェクト毎ですよね。- --- 当時にしても、次に何を始めるか? 何に興味を持つのか? というのが最も読みにくかったのでしょうね。
さらに今は、歴史的な進化論がもはや通用しない時代になっているわけですから、あの後どうなったのか? というのはなかなか推測しにくい。僕らはどうしても、終わったものに対しての俯瞰した見方しかできませんけど、例えば、単純に『Bitches Brew』があったから、『Agharta』があるというわけでもないような気がするんですよね。
ジャズの歴史そのものも同じようなことが言えるんですが、ひとつの流れがあって、例えばビ・バップがあってハード・バップがあるという流れ。それは、67年までは正解だと思うんですよ。この年の象徴的なことを言えば、マイルスの『Nefertiti』、そしてジョン・コルトレーンの死。これによって枝分かれしたと思うんですよ。つまり、それまでのように「ビ・バップに取って代わってハード・バップが出てきた」という歴史の積み重ねではなくて、ハード・バップはハード・バップとしてある中で細分化していく。さらに10年ぐらい経つと、またそこから枝分かれしていく。
1967年のマイルス
マイルスの『Nefertiti』というのは、67年当時で、アコースティック・ジャズの最高峰だと思うんですよ。そこまでは、ハード・バップの流れで捉えることができる。ところが、そこから先、『Miles In The Sky』になると、一部の楽曲を除いて、この線上には入らなくなってくるんですよ。そして、どんどん逸脱していく。その逸脱していったものをジャズの歴史の中に無理矢理押し込んで、ハード・バップに取って代わるものとしているのが、つまり現在の歴史観なんです。だから、無理があるんですよ。ハード・バップと、エレクトリック・フュージョン、ブラコンとでは、当たり前ですが、全然違いますからね。
結局、今までは、そういう強引な書き方をしていたがために、マイケル・ヘンダーソンやエムトゥーメなんかがどこから来たのかということに触れることができなかったんですよ。出自がジャズなわけではないですから。ある日突然ジャズ史に入ってくる。でも実際、彼らがいたのはジャズ史ではない、というところなんですよね。今回の本ではそういう無理をできるだけ排除していきたいと思って。だから、ジャズ・ファンが読んだらチンプンカンプンな部分が多いかもしれないんですよ(笑)。せいぜい、キース・ジャレットか(註)ジャック・デジョネットの名前が出てくるぐらいですから。- --- 「エレクトリック・マイルス」がいかに多くの人脈と自由な関係を持っていたかという裏返しですよね。
そういう意味では、この本自体を「最高か?」「最悪か?」と捉えるジャズ・ファンもかなりいると思いますよ(笑)。
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マイルス・デイヴィス・テンテット 1973年4月頃のステージ
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マイルス・デイヴィス・セプテット 1973年6月来日ステージ
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「エレクトリック・マイルス」の20枚
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中山康樹 (なかやま やすき)
1952年大阪府出身。音楽評論家。ジャズ雑誌「スイングジャーナル」編編集長を務めた後、執筆活動に入る。著作に『マイルス・ディヴィス 青の時代』、『マイルス vs コルトレーン』、『マイルスの夏、1969』、『マイルスを聴け!』等多数。訳書に『マイルス・ディヴィス自叙伝』がある。また、ロックにも造詣が深く、『ビートルズとボブ・ディラン』、『愛と勇気のロック50』、『ディランを聴け!!』等がある。
本文中に登場する主要人物について |
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Tony Williams (トニー・ウィリアムス) 1962年にジャッキー・マクリーンのグループに参加するため、故郷シカゴからニューヨークに移る。翌63年には弱冠17歳でマイルスの所謂「黄金のクインテット」のメンバーに抜擢され、69年まで在籍する。常にテンポや拍子を変え、ライド・シンバルのリズムをキープしつつスネア・ドラムで高速のポリリズムを叩き出すテクニック。また、高速の4ビートも得意としており、彼の加入以降のマイルス・グループでは同じ曲においても年を追うごとにテンポが速くなっていくのがよくわかる。以後、ロックへの傾倒からジョン・マクラフリン、ラリー・ヤング、アラン・ホールズワース、ジャック・ブルースらを迎え自身のグループ、ライフタイムを結成したほか、ハービー・ハンコックとのプロジェクト「V.S.O.P.クインテット」に参加している。 |
![]() | Sun Ra (サン・ラー) 「土星からやって来た」となにくわぬ顔で公言するピアニスト/コンポーザー/バンド・リーダー、サン・ラーは、40年代のシカゴでキャリアをスタートさせ、フレッチャー・ヘンダーソン楽団での活動を経て自己のビッグ・バンド、サン・ラー・アーケストラを結成。数々の神秘主義をコンセプトに半世紀に渡り1993年5月に死去するまで活動を続けた型破りな集団。60年代からは、がなりたてるようなオルガンとシンセサイザー、西アフリカのリズム、室内楽の方法論、フリーキーなソロ・プレイ、ビッグ・バンドのダイナミック性、スウィングするメロディ、ときには、バンドのメンバー達がマイクを取り、アフリカ回帰や宇宙についてのプリーチと、様々な音楽(あるいは演劇的な)要素を全て取り込み、さらにその500枚にも及ぶアルバムを自主制作しライヴ会場で限定リリースしていた。 |
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James Brown (ジェイムス・ブラウン) いわずと知れた「ゴッドファーザー・オブ・ファンク / ソウル」、JBことジェイムス・ブラウン。60年代以降、よりハードなサウンドを指向し、63年名作ライヴ・アルバム『Live At The Apollo』、65年『Papa's Got A Brand New Bag』、シングル「I Got You(I Feel Good)」の全米ヒットで白人層の人気も獲得しながら、現在に至る”ファンク・ミュージック”の基礎をも作り上げた。69年にはキャットフィッシュ・コリンズ(g)、ブーツィ・コリンズ(b)がバンド・メンバーに加入。彼らはしばらくするとパーラメントとファンカデリックを結成するためにバンドを離れたが、70年代に入るとJBズを率いて活動した。60年代後半から70年代中期にかけてのジェイムス・ブラウン及びJBズの快進撃はすさまじく、この時期を「本当のファンクの黄金期」と呼ぶ音楽ファンは多い。その後のディスコ・ブームにやや苦戦するも80年代に入ると、彼をリスペクトするヒップホップ・アーティストたちとの活動も増え、86年にはアフリカ・バンバータとのコラボレーションが話題となった。 |
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Lonnie Liston Smith (ロニー・リストン・スミス) 1972年から73年5月までというわずか1年足らずの参加となったが、『On The Corner』におけるキーボードのシンプルなコード反復がアルバムのサウンドを支配しているのは明確だ。バンド脱退後は、RCAのフライング・ダッチマンと契約し、1973年にロニー・リストン・スミス&ザ・コズミック・エコーズを結成し、翌年にファースト・アルバム『Astral Traveling』を発表。その後、独自のスピリチュアルなフュージョン・サウンドを構成していくことになる。 |
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Ivan Lins (イヴァン・リンス) 「Love Dance」、「The Island」をはじめとする数多くの名曲を生んだブラジルが誇る天才メロディ・メイカー、イヴァン・リンス。1960年代からリオ・デ・ジャネイロを中心に創作活動をはじめ、エリス・レジーナに提供した「Madalena」がヒット。80年代に入ると欧米でも絶大な人気を獲得し、マイルスをはじめ、クインシー・ジョーンズ、ジョージ・ベンソン等あらゆるアーティストを魅了しながら、ブラジル音楽界屈指のシンガー・ソングライターとしての地位を確立した。生前マイルスがイヴァン・リンスの楽曲に惚れこんでいたのは有名で、リンスに捧げるアルバムを作ろうとしていた矢先の1991年にマイルスは他界。その遺志を継いだジェイソン・マイルス(以前にマイルスやマーカスの作品をプロデュース/アレンジしていた)が、マーカス・ミラー、スティング、チャカ・カーンらを招いて制作したのがイヴァン・リンス・トリビュート・アルバム『A Love Affair』である。 |
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Marcus Miller (マーカス・ミラー) ジャズ/フュージョンのみでなく、R&B、ファンクといったイディオムを用いながら、スラップ、タッピング奏法などを駆使して表現力豊かなサウンドを弾き出す現代最高のベーシストにして、プロデューサー、作曲・編曲家としても非凡な才能をみせるマーカス・ミラーは、1981年弱冠20歳のときに、マイルスの復帰作となる『The Man With The Horn』にベーシストとして抜擢される。その後の『Tutu』においても、ベースはもとよりマイルスのトランペット以外の楽器をほとんど担当、さらには楽曲提供からプロデュースに至るまで、晩年の帝王の活動はマーカスなしでは考えられないほど全幅の信頼を寄せられていた。 |
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Jack Dejohnette (ジャック・デジョネット) 地元シカゴAACMに参加した後にサン・ラー、ジャッキー・マクリーン、リー・モーガン、チャールズ・ロイド・カルテット、さらには、ビル・エヴァンスのピアノトリオなどへの参加でキャリアを磨いたドラマー、ジャック・デジョネットは、1968年にトニー・ウィリアムスの後任としてマイルス・グループに入団。『Bitches Brew』、『A Tribute To Jack Johnson』、『On The Corner』といった重要作品に参加。また、フィルモアやワイト島フェスティヴァルでの演奏により、白人ロック・ファン〜ヒッピーたちにも強烈な印象を残したと言われている。マイルス・グループを抜けた71年には、ボブーモーゼス(ds,vo)らと初の自己グループ、コンポストを結成。Columbiaから2枚のアルバムを残し解散後、ECMレコードにてデイヴ・ホランドとともにチック・コリアのレコーデイングに参加。その他、新たな自己グループとなるディレクションズ、ニュー・ディレクションズの2つのグループで活動し、また、ゲイリー・ピーコックと共にキース・ジャレットとのスタンダーズ・トリオでの活動を行なっている。 |















































