ジャズ・ジャーナリスト、アシュレー・カーンによるライナーノーツには、トミー・リピューマとマーカス・ミラーに当時を振り返ってもらったというインタビューも掲載される予定。また、そのマーカスが2009年12月22日にフランス・リヨンで行なったマイルス・トリビュート公演の模様も、『Tribute To Miles Davis:TUTU Revisited』としてこのたびCDまたはDVD化される。どちらもマイルスの誕生日となる5月26日前後には出揃うということで、初夏の風に乗った『TUTU』を尊ぶ祭囃子のシンセの音は、すぐそこまで聞こえてきている。
【DISC-1】グレッグ・カルビによる2002年リマスター
1.Tutu 2.Tomaas 3.Portia 4.Splatch 5.Backyard Ritual 6.Perfect Way 7.Don't Lose Your Mind 8.Full Nelson
【DISC-2】1986年7月16日 フランス・ニースのジャズ・フェスティヴァル ライヴ音源
1.Opening Medley:One Phone Call/Street Scenes〜Speak 2.New Blues(Star People) 3.Maze 4.Human Nature 5.Portia 6.Splatch 7.Time After Time 8.Carnival
本編8曲はグレッグ・カルビによる2002年リマスタリング(つまり『Last Word』ボックス・セット時のリマスター)。注目のディスク2には、1986年7月16日にフランスのニースで行なわれた「Festival de Jazz」出演時のライヴ音源を収録。当日のセットを完全収録とはいかなかったが、「Star People」、「Maze」、「Time After Time」といった当時の重要レパートリーや、『TUTU』収録曲の「Portia」、「Splatch」をしっかりとおさえた内容なだけに、この正規初CD化は喜ばしい限り。ちなみにメンバーは、マイルス以下、ロベン・フォード(g)、ボブ・バーグ(ts,ss)、ロバート・アーヴィング(key)、アダム・ホルツマン(key)、フェルトン・クリューズ(b)、ヴィンセント・ウィルバーン(ds)、スティーヴ・ソーントン(per)のオクテット編成。中でも、ロベン・フォードの参加はこの年のツアーならではのハイライト。フォード在籍時の音源、映像は地下流出市場においてもあまり数がないだけにチェックしておきたいところ。翌日のモントルー祭と並び1986年欧州ツアーのベストとの呼び声も高いライヴをご堪能あれ!
『TUTU』はマーカス・ミラーのリーダー作とも言える、という見解にさほど違和感はない。「僕が《TUTU》でやりたかったのは、できるかぎりマイルスと一体化することだった」と以前に語っていたとおり、マーカスによるバック・トラックは、1986年の帝王を担ぎ上げる格好の神輿として過不足なく、見事な機能を果たしていたのだ。また、「あの当時は、最新のテクノロジーを操りながらマイルスのサウンドトラックの一部を制作している感じだった。同時に、そうしたテクノロジーを用いて各自がどれだけ深い自己表現や密なリレーションシップをとり行なえるか試すことができたんだ」と続ける。それから23年が経過した2009年、マーカスは「TUTU Revisited〜The Music of Miles Davis」と銘打ったワールド・ツアーをスタートさせ、9月にはここ日本の地(東京・大阪・仙台・札幌)でもマイルス・トリビュート・セッションは実現した。
言うまでもなく『TUTU』におけるもうひとりの主役は、弱冠27歳の天才マルチ・クリエイター、マーカス・ミラーだ。帝王の復帰作『The Man With the Horn』のベーシストに大抜擢され、そのまま”カムバック・バンド”のボトムを支え続け、1983年発表の『Star People』ではマイルスをさらに太くハリのある最先端ファンクの極北へとホスティングした。ベースだけでなくギター、キーボード、バス・クラリネットといった各種楽器からプログラミング、プロデュース、アレンジまでを自在にこなすマルチ(何でも屋)ぶりは、もはや「マイルスの若き腹心」という肩書きだけでは済まされない末恐ろしい才能に溢れていた。
結果的に『TUTU』には収録されなかった、プリンス書き下ろしの「Can I Play With U?」。 殿下印とも言える疾走感のある一級品のファンク・ナンバーだけに、「何故ここまで完成度の高い曲がボツに?」と謎は深まるばかりだが、冷静に地下流出音源を聴き返していると、殿下のテンションに帝王が若干押されている気も・・・とは言え、厳密にはオーバー・ダビングゆえその録音の過程で出力バランスにムラが出てきてしまったのだろう、とあれこれ邪推を重ねてみたりもする。
そもそものプリンスのマイルス熱というのは、マネージャーのアラン・リーズが『Kind of Blue』と『Tribute to Jack Johnson』のレコードをプレゼントとしてプリンスに贈ったことから始まったのだという。そのマイルス熱、ひいてはジャズへの傾倒ぶりは、側近のサックス奏者エリック・リーズとの覆面プロジェクト、マッドハウス名義でリリースされた2枚のアルバムにて結実する。また、お蔵入りとなった3枚目のアルバム『Madhouse 24』に収録される予定だった「Are You Regal Yet?」、「Jailbait」、「A Girl And Her Puppy」、「Penatration」の4曲はマイルスに贈られ、最晩年(1991年)のライヴでお披露目されている。
マイルスから14年ぶりに電話がかかってきた1985年には、すでにワーナー傘下のエレクトラ・レコードに籍を移し、その移籍第1弾となるアルバム『Thief In The Night』を発表する直前だった。前作『Rendezvous』から続くポップ路線を踏襲したライトなファンク・サウンドは、昔ながらのジャズ・ファンにそっぽを向かれる一方で、マイルスやスティーヴィー・ワンダーのようなジャンル概念を持たない一握りの天才たちからは注目された。86年の『George Duke』は、前2作と較べると一般的な評価こそ高くはないが、「Backyard Ritual」よろしくの打ち込みを大胆に取り入れたシャープなエレクトリック・ファンク・サウンドと生音によるバラードのバランスがニクイほど判りやすく整合化されている佳作だ。安定感のあるブラコン〜スムース・ジャズのヒット・メイカー/プロデューサーとして着実に歩みはじめていた時期のジョージ・デュークにとって、マイルスへの楽曲提供は何物にも代え難い自己キャリアに対する絶対的な自信へとつながっていったのかもしれない。
旧知のポール・バックマスターや、マイケル・ジャクソン「Human Nature」の作曲者でその時期のマイルスがライターとしての腕を最も買っていたTOTOのスティーヴ・ポーカロ、さらにはハービー・ハンコック『Future Shock』のプロデュースで一躍時のヒトとなっていたビル・ラズウェルに、楽曲の提供、プロデュースの依頼などを行なうが、いづれも折り合いが付かずにさしたる成果を挙げられずにいた。ちなみに、スティーヴ・ポーカロおよびTOTOとの共演は、彼らの1986年のアルバム『Fahrenheit』所収の「Don't Stop Me Now」というインスト曲において実現し、その後もマイルスは自身のライヴで頻繁にレパートリーとして取り上げている。
1985年10月17日を初日に、のちに「幻のラバー・バンド・セッション」と呼ばれることになるスタジオ・セッションが行なわれる。シカゴから『The Man With The Horns』以来となるランディ・ホール(g,vo,key)が召集され、グレン・ブリス(sax)、ゼイン・ギレス(g,key)、アダム・ホルツマン(synth)、ニール・ラーセン(key)、ウェイン・リンゼイ(key)、ヴィンス・ウィルバーン(ds)、スティーヴ・リード(per)、そしてこの日のみのマイク・スターン(g)というメンツのセッションに加わった。「Rubberband」という楽曲がすぐさま吹き込まれたというのは、セッションの通称を一目すれば想像に難くない。欧州ツアーの束の間の中断を挟みながらも、ランディやラーセンらが中心となって制作した「Carnival Time」や「Give It Up」といった数曲のデモに、マイルスのトランペットが次々とオーバー・ダビングされていった。順調に行くかと思われたレコーディング作業も、年明けの86年1月にすべてが白紙に戻された。 ワーナー移籍から半年が経過するものの、ニュー・アルバム用のマテリアルはこの時点でなにひとつ出揃っていないことになる。ただし、ほぼ同時進行的に動いていたコラボレイターとのアプローチが二つあった。ひとつはジョージ・デュークへの楽曲提供依頼の電話。もうひとつは晴れてレーベル・メイトとなったプリンスとの接触だった。
プリンスとの初接触は1985年の12月上旬、ロサンゼルス空港。偶然出会った両者は、マイルスの車に乗り込み約20分間の会話を交わしたという。その10日後にプリンスは早速マイルスに提供するためのデモ・テープ作りに取りかかっている。「Can I Play With U?」と題された楽曲のテープは、12月29日にマイルスが滞在するマリブの別荘に届けられた。デモを気に入ったマイルスは、電話でプリンスにこの曲をさらに完成へと進めるように指示し、それに応じて整えられていった「Can I Play With U?」は、あとはマイルスのトランペットがオーバー・ダビングされるだけのマテリアルとなった。それが86年の1月ということで、「ラバー・バンド・セッション」の終息とともに一見白紙になったかのように思えたニュー・アルバム用のレコーディングは、実はこの時点で「Backyard Ritual」、「Can I Play With U?」を起点にしたものへと密かにシフト・チェンジしていたのだ。
ただしまだ完成が見えているのは2曲のみ。焦りの色を隠せなかったのは、プロデューサーに指名されたトミー・リピューマ。そこに”救世主”のように現れたのが、マイルス自身もカムバック・バンド以来知己があり、なおかつ絶対的な信頼を置いている若きマルチ・クリエイター、マーカス・ミラーであった。『The Man With The Horns』〜カムバック・バンド参加以降、自身の2枚のリーダー・アルバムの成功もあり、セッション・ベーシスト、プロデューサーとして各方面で引っ張りだこだったマーカスだが、意外なことに「マイルスのためにできることがあったら何でも言ってよ」と自らリピューマにニュー・アルバム制作への参加を売り込んできたそうだ。シンクラヴィアやドラム・マシンが大胆に使用された「Backyard Ritual」のテープを聴いたマーカスは、「マイルスのやりたいこと」を即座に嗅ぎ分け、「TUTU」、「Portia」、「Splatch」を書き上げた。リズム・マシン、シンセ、ベース、バス・クラリネットをすべて自身の手によってプレイしたデモの完成度は恐ろしく高く、リピューマはおろかマイルスさえも唸らせ、リピューマの判断によりニュー・アルバム・プロジェクトのほぼ全権を一任された。「バンドはいない。君ひとりで出来るところまでトラックを作ってくれ。あとはこっちでどうにかするから」。リピューマの”丸投げ”はむしろマーカスの計り知れない才能への最上級の敬意であったとも言えるだろう。
1986年の2月初旬から約2週間にわたり行なわれたマーカス主導のL.A.セッションで、アダム・ホルツマン(synth)、パウリーニョ・ダ・コスタ(per)らの助力を得て上記の3曲は完成を見た。さらにニューヨークへと戻り、マーカスは「Tomaas」、「Don't Lose Your Mind」、「Full Nelson」の3曲のデモを完成させ、ここに都合8曲のマテリアルが出揃ったことになる。一説には、アフリカ南東部ジンバブエ独立闘争の旗手で、投獄されながらもショナ語で歌いつづけたシンガー、トーマス・マプフーモに共鳴し制作したとも言われている「Tomaas」、「Get Up, Stand Up」のフレーズをさらっと盛り込みながら、ボブ・マーリィやピーター・トッシュのアフリカ回帰思想に接近してみせたことを想像させるレゲエ・タッチの「Don't Lose Your Mind」と、アパルトヘイト撤廃に尽力した運動家デズモンド・ツツ大主教の名を冠した「TUTU」を含めて、母なる大地を十二分に意識させるタイトルが並んだのは、前年にマイルス自身も参加した「Artists United Against Apartheid」による『Sun City』コンピレーションや、マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチーの呼びかけで実現したUSA フォー・アフリカ「We Are The World」など、当時活発化していたアーティストたちによるアフリカ支援の動きとどうやら無関係ではなさそうだ。ただし「Full Nelson」に関して、その「Nelson」が指し示すのは「ネルソン・マンデラ」ではなく、プリンスの本名「プリンス・ロジャーズ・ネルソン」にかけているものと見る向きが大方。プリンスが制作した「Can I Play With U?」のイントロ的な役割を果たす曲としてマーカスによって書かれた「Full Nelson」は、チャーリー・パーカーとの共演時代にマイルスが書いた「Half Nelson」をそのタイトルの拠り所にしながら、プリンス、あるいはプリンスとマイルスの共演そのものに賛辞を贈っている、となるわけだ。
春の訪れとともにマイルスは、ニューヨークに登場する。3月のレーマン・センター公演ですさまじくハイ・テンションな演奏を見せたマイルス一座。ベースは多忙なマーカスに代わってフェルトン・クリューズ、ギターは4月よりマイク・スターンから襷を受けたロベン・フォード、そしてパーカッションにはスティーヴ・ソーントンという顔ぶれが並ぶ新ラインナップ。「One Phone Call」を皮切りに、「Speak」、「Star People」、「Maze」、「Human Nature」、「Time After Time」など前年とさほど変わり映えしないセットだが、フォードのギターが入るだけでこうまで変わるか、といったフレッシュで激しいステージの印象を聴衆に強く植えつける。マイク・スターンもジョン・スコフィールドも素晴らしいギタリストに違いはないが、フォードのギターにはマイルスの出す音に敏感に反応する何かがあったと思わせ、また、ブルースを出自とするギタリストとして知られるフォードだが、マイルス・グループのライヴにおいてはそのプレイ自体にさほどブルース臭を強く漂わせることはせず、あくまでマイルスのトランペットとの同化を積極的にはかろうとしていることが窺える。これはアダム・ホルツマン、ボブ・アーヴィングのキーボードにも同じことが言えそうだ。このあざといまでに練られたアンサンブルや同化の構図は、俯瞰するならば、コラボレイターのアイデアにマイルス自身が歩み寄ろうとするスタジオ・レコーディングとはほぼ真逆なベクトルを持つ。ゆえに、この時期を境にスタジオとライヴの表現方法が明確に分断されていったことを推して知ることができる。
プリンスに届けられたニュー・アルバム用の最終版ソース全9曲が収録されているテープには、「Miles」、「Disinvestment」、「Perfect Way」と二転三転しながらも、あらためて「TUTU」に落ち着いたタイトルが記されていた。もちろん「Can I Play With U?」は、マイルスがトランペットのオーバー・ダビングを終えた状態で、「Full Nelson」を前菜としながらアルバム最後尾のメイン・ディッシュとして堂々と鎮座している。
しかしここへ来て、プリンスは自身が書いた「Can I Play With U?」が、このアルバム全体の流れには相応しくないと判断した。記念すべき初共演曲だからこそ妥協は一切許されなかった、とプリンスが感じたかどうかの具体的な証言は残されていないが、おそらくは遠からず近からず、楽曲のクオリティ自体あるいはマイルスのトランペットが吹き込まれたものにあと一歩納得していなかったことはたしかだろう。また、「Full Nelson」というおあつらえ向きの序奏があるにもかかわらずに「ボツ」と判断した背景には、「マーカス・ミラーやジョージ・デュークが提供した楽曲へのいくらかの敗北感もあったかもしれない」と中山康樹氏が著書「マイルス・デイヴィス 奇跡のラスト・イヤーズ」の中で推察しているとおり、あらためて他の作家陣の楽曲と冷静に比較したときにわずかな ”綻び” を見つけてしまったとするのがごく一般的な解釈だろう。折りしもプリンス&ザ・レヴォリューション名義では最終作となるアルバム『Parade』をリリースしたばかり。その後『Sign O The Times』、『The Black Album』と続くように殿下自身のサウンドもまた過渡期を迎えようとしていた。
結局、「Can I Play With U?」はプリンスの申し出によりアルバムからはずされ、「Full Nelson」を最後尾に配したままの全8曲でリリースされることとなった。ここで中途半端なものを出さなくても、いづれきっちりとしたカタチで共演・共作をする機会は訪れるだろうという両者の中長期的なヴィジョンでの思惑が一致。ゆえにマイルスも「アイツが言うならしょうがねぇな・・・」といったニュアンスで「Can I Play With U?」の収録拒否をあっさりと受諾したのだろう。ちなみにこの両者の共作アルバムというものは以後作られることがなく、1987年の大晦日、ミネアポリスに建設中だったペイズリー・パーク・スタジオのサウンド・ステージで行なわれたプリンスのコンサートにマイルスがゲスト出演(「It's Gonna Be A Beautiful Night」)、翌88年にチャカ・カーンのアルバム『C.K.』でプリンス作曲の「Sticky Wicked」にマイルスがミュート・トランペットをオーバー・ダビングで乗せている、この2点のみに共演の公式データはとどまっている。「Can I Play With U?」は「Red Riding Hood」というワーキング・タイトルとして、その地下流出音源が全国的に有名となっているが、同じ頃にプリンスがマイルスのために書き下ろした「A Couple of Miles」、さらには89年にペイズリー・パークにおける両者のプライベート・セッションで録られた「Crucial Love」、「Fantastic」という楽曲の存在も同じく地下界隈で確認されており、こちらも公式音盤化が長く待たれている。