「マイルス ラスト・イヤーズ」 中山康樹さんに訊く
2010年12月21日 (火)
ジャズ界の「帝王」ことマイルス・デイヴィスは、1975年突然音楽シーンから姿を消した。謎に包まれた隠遁生活から6年、奇跡のカムバックを果たしたマイルスは、若い世代のメンバーを集め、さらに新しい音楽を追求する。そして最晩年、マイルスは今まで自らに禁じていた「過去の再演」を行った・・・。
1975年9月6日から復活の晴れ舞台となった1981年7月5日に至るまで、帝王は放電しっ放しの極道電化人生に、一呼吸入れた。その一呼吸は、われわれ地球人のフラットな時間軸にして丸6年。長くもあり、短くもある充電(チューン・アップ)期間を経てシーンにカムバックした帝王は、もはや過去のマイルス像と容易に結び付けることができない真新しい個性をそなえていた。マーカス・ミラーもプリンスもイージー・モー・ビーもクインシー・ジョーンズも、すべてがこのワガママでお茶目な超個性体から発せられるマジックに魅せられ、呑み込まれていく。
前著『エレクトリック・マイルス 1972-1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相』に引き続き、「マイルス新書シリーズ」の完結編となる最新著書『マイルス・デイヴィス 奇跡のラスト・イヤーズ』を発刊された日本におけるマイルス・デイヴィス研究の第一人者・中山康樹さんにお話をお伺いしながら、マイルス最後の16年といざ戯れん。題して、HMVプレゼンツ 「マイルス ラスト・イヤーズ 冬期講習」。
インタビュー/構成: 小浜文晶 |
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--- 今回は、奇跡のカムバックを果たした1981年から晩年に至るまでの時期に焦点を当てた、中山康樹さんの最新著書『マイルス・デイヴィス 奇跡のラスト・イヤーズ』を読み解きながら、前回同様、マイルス・デイヴィスの音楽や人物像などにさらに深く触れていければと思っております。
前回のテキストとなった『エレクトリック・マイルス 1972-1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相』では、いわゆる「沈黙」前の1975年までの活動の流れが主たるテーマとして扱われていました。そして、今回のご著書におけるテーマは、6年の沈黙期を含めた最後の15年間となります。 マイルス晩年の55〜65歳というのは、中山さんが実際にマイルスと交流を持たれていた時期でもあって、あとがきでは「本著を書くにあたり個人的な思い出を打ち消すことに労力を要した」ということを書かれていましたね。 結局このシリーズというのは、「僕」という人間を消して検証にあたっているということなので、当然「僕」という主観が入ると、自分の作業にとってはジャマになってくるわけです。しかしながら、思い出というのはあるわけで。調べていくうちに、過去を振り返っていくうちにマイルスの実像が出てくる。それは書くネタになったとしても、ここまでのストーリーと照らし合わせてみるとやっぱりジャマになってしまうんですね。変な具合ではあるんですけど(笑)。
思い出を入れると客観性が失われる。しかしその時期に付き合いがあったのは確か。というところでのある種の葛藤みたいなものは当然ありました。そこが、これまでのマイルスの新書のシリーズとまず大きく違うところです。- --- 1975〜81年における「沈黙期」。この「沈黙」が、結局は功を奏したというか、“マイルス物語が一種の神話としてグレードアップした”と見る向きがやはり一般的には多いのでしょうか?
少なくとも僕はそう見ています。
- --- それはアメリカでも日本でも同じなのでしょうか?
そうですね。アメリカで、マイルスがカムバックしたときにワッと盛り上がったのもそういうことだし、日本も同様に盛り上がった。だから、「沈黙」が長ければ長いほど、そのまま消える場合もあるにせよ、いい方向に転んだときは効果が何倍にもなるということですよね。マイルスや(註)ブライアン・ウィルソンなんかは、そうやって過去の伝説を塗り替えていったと言えるんじゃないでしょうか。
もし「伝説の力」みたいなものがあるとしたら、ローリング・ストーンズみたいにずっとやり続けているよりは、その「何度か休む」という行為によって、しかもその期間が長ければ長いほど、絶大な効果が発揮されるのではないかと。
(註)ブライアン・ウィルソンの「沈黙期」・・・ご存知ビーチ・ボーイズの元リーダー。1966年の『Pet Sounds』でその類稀なる音楽的才能を世に知らしめたが、ドラッグ依存に加えて、次作『Smile』の制作頓挫をきっかけに次第に精神に異常をきたすようになり、その後は自宅に引き篭りがちになった。ドラッグ、酒、過食におぼれた自堕落な生活に浸り、20年近く「沈黙期」ともいえる低迷の一途を辿る。88年に初のソロ・アルバム『Brian Wilson』で完全復活を果たし、たまにビーチ・ボーイズに参加しつつもソロ主体で活動を続け、弟カール死後の1999年以降は完全にバンドと袂を頒ち、自身の名を冠したバンドを率いて精力的にライヴを行なっている。 - --- もちろん、マイルスはそれを事前に計算して隠居したわけではないですよね?
ええ、もちろん。ただ、仮にそんなことを計算しても計算しなくても、カムバックしたときの音楽がダメだったら、やっぱりダメなんですよね。伝説にはならない。当然ながら、最終的には音楽の力なんですよね。
- --- この沈黙期に、おそらくマイルスは自宅でレコード、テレビ、ラジオなりで、色々な音楽を耳にしていたかと思うのですが、ご著書には、(註)ローズ・ロイス「Love Don't Live Here Anymore」のカヴァー・アイデアを挙げたり、といったようなかなり具体的なことが書かれていました。近所に住んでいたというチャカ・カーンとの交流も含めて、こうしたソウル・ミュージックへの特別な憧憬や執着というものが、この時期特に強かったということなのでしょうか?
特別そういう傾向が強かったということではないと思います。例えば、レコード・ショップなんかに行くと、マイルスのレコードとその辺りのブラック・ミュージックのレコードというのは明確に分かれているじゃないですか。フロアもコーナーも全部。しかし、マイルス、あるいは、(註)チャカ・カーンや(註)ロバータ・フラックのようなアーティストというのは、その辺りの音楽を全部一緒のもとして聴いているんですよね。だから、それぞれの相互影響みたいなものがあってむしろ当然だし、僕らが思っている以上に、あるいは想像の付かない範囲で密接な関係があるわけなんです。
ロバータ・フラックにしてもチャカ・カーンにしても、その音楽のバックトラックだけを聴いていると、別にマイルスが使ってもいいようなものがいっぱいあるんですよ。流用が利くようなものが。最終的にそこに乗っかるものが、チャカ・カーンの声かマイルスのトランペットか、みたいなところでジャンル分けができてしまうということであって、バックトラックを作っている次元においては、実際に共通のミュージシャンもいますし、方法論が違うとは言え、肌触りはほぼ一緒だと思いますし、ジャンル的にもそう遠くはないと思うんですよね。
- --- そうしたこともふまえて、この時期のマイルスに対する評価に関しては、ジャズの世界では「縮小」、ジャズ以外の世界では「拡大」と、聴き手にとってはさらに極端に賛否が分かれていたそうですね。
そうなんですよ。そういう意味では両方の世界で同時に生きることはできないんですよね、たぶん。
- --- 晩年に至るまで、その二極の評価というのは付きまとっていきます。
ただし、その当時マイルス自体は存在している。当然、生前はマイルス中心に見るわけですから、その音楽に対する「ジャンル論」を世界が考える余裕はなかったと思います。だから、死後に時間が経過してから色んなことが初めて系統立てることができたと。もちろん時間が経ってからの見方が正しいとは限らないんですが、マイルスが実際に存在していた時代とは違う見方が増えたことは確かだと思うんですよね。
マイルスに限らず、(註)ジョン・レノンなんかにしてもそうですが、例え活動をしていなくても、その人が「存在する」ということと、本当にこの世からいなくなるということでは、意味合いがかなり違うのかなと。だから、故人になってしまうと、何と言うか・・・我々に「スキを与える」みたいなことになってきて(笑)、色んなことを考えさせられる。そうなると妄想もいっぱい入ってきてしまう。しかし、本人がいる限りは、ある種の緊張感があるわけですよね。「いつか何かをやるかもしれない」みたいな。その違いはかなり大きいと思います。- --- ということは、中山さんが実際マイルスとお付き合いのあった時期と、その後では見方がかなり異なってきたということでもあるわけですよね?
やはり全然違いますよね。こうした本を書くことになるとは思ってもいなかったということもありますが、例えば、(註)ギル・エヴァンスと会ったときに、ギルはその当時かなり年だったんですが、でも本人が目の前にいる限りは、「この人の人生は短いから、今色々と訊いておかないと」だなんて思わないわけですよ(笑)。いなくなってから、あーだこーだになるわけで(笑)。それはマイルスにしても同じ。多分その時にどれだけ質問し尽くしていたとしても残る、後悔あるいは欲求だと思うんですよね。『Sketches of Spain』や『The Man With The Horn』の話をもっと訊いておけばよかった、とか。そんなことは限りなくあるわけで、それはそれでもう仕方がないということなんでしょうね。
本人が生きているときの緊張感というのは確実にあります。それゆえ、本人が前に向かっている以上は、そこにこちらとしては同調したいという気持ちも自ずと強くなる。だから、その場にいると『Sketches of Spain』なんかのこともあまり思い出さない。それは、また会えると思っているからでもあると思います。マイルスに限らず誰に対しても。10項目質問を用意したけど8つしか訊けなかった。だけど、あと2つはまた今度でいいか、みたいなノリなんですよね。- --- 例えば、「1979年に、(註)ポール・バックマスターとギル・エヴァンスに共同作曲を指示していた」というような話の裏付けなりを直接マイルスに訊くこともなかったんですね。
マイルスにとっては終わった時代のことですから、無意味なんですよ。特に音楽の世界ではそういった逸話みたいなものが多い。こうして纏まった本を読むと、ひとつひとつが整理されていますが、リアルタイムに未来も現在も過去も同居しているとき、つまり本人が実在するときには、例えば「1979年にあなたはポール・バックマスターに会いましたね」みたいな質問は生まれようがないんです。順序立てた話の結果、お互いが認識した上でないと、そういう質問は出てこないし、むこうも答えられないんですよね。それだけ細かいことなんですよ、生きてる限りは。僕が本に書いた以上のことがあったかもしれないし、そこに書かれたことが全てだったのかもしれない。
マイルスは、レコード会社的なスケジュールの時間軸で動いているわけではなくて、毎日が音楽の中で生きているようなタイプの人ですから、そこにはポール・バックマスターだけでなく、ギル・エヴァンスも(註)ピート・コージーもいただろうし、とすべて地続きなんですよね。たとえ本人にそのことを訊いたとしても、それは「10年前の何月何日の夕食に何を食べましたか?」というような質問と同じようなもので(笑)、答えようがない。仮に、それに対して答えを得られたとしても、その答えの裏付けは取れない。でまた、本人が言っていることだから信用できるかという部分でも、それは別問題ですからね。
本人が亡くなってから書ける本と、生死を関係なく書ける本と色々タイプがあると思います。この種のドキュメントは、やっぱりどこかで決着が付いた人じゃないと無理なんですよね、少なくとも僕にとっては。- --- 1981年に『The Man With The Horn』で復帰したマイルスは、ステージでワイヤレス・マイクを用いて、「聴衆に語りかける」というパフォーマンスをしますよね。このことについては、どのように捉えていらっしゃいますか?
持ち前のオープンな性格にプラスして、病気をしたことなんかも加味されて、ちょっと丸くなったんですかね。
- --- やはり「丸くなった」と捉えるのが自然?
実は僕はそう思ってないんですけど、一般的にはそう見えると思いますよ。僕は、マイルスは聴衆を信じていた、そのマイルスなりの感情表現だったと思います。
- --- もしくは、ひとつの「演出」として、そうしていた?
基本的には「素」でしょうね。そんなにうまい具合に演技できる人ではないですから。だから、マイルスの意識の中では、自分が目線を下げて動かないと「奉られるだけだ」という不安感はあったと思うんですよ。それこそ「ストリート感覚の欠如」みたいな。それは例えば、すごく有名なスターがTwitterをやるようなもので(笑)、錯覚かもしれないけれど、どこかで世間とつながりを持ちたいという思い。そうするには、自分が動かないと、ということですよね。
- --- 一方で、時代と大衆が求める「ポップ・スター」として振舞うことにも快感を憶えていたという。
オシャレの延長なんですよ。新しい服を買って、着て、それがいちばん見栄えのする場所はどこか、みたいなところからいくと、当然ジャズ・クラブではないわけですよね? もちろん、ファッション先行ということではなくて、色々な要素をひっくるめてあの位置にまで行ったと思うんですが。そういう感覚で、選択肢みたいなものが色々とあったんでしょうね。
- --- 特に、この『ラスト・イヤーズ』においてはその感覚が一層強くなっていた。
そうですね。もう、あれ以上他の何者かになる必要はないわけですから。
- --- その復帰第一作目となった『The Man With The Horn』に関しては、「いまだ確固たる評価が与えられていない」と書かれていらっしゃいますよね。
『The Man With The Horn』のみならず、と思うんですが、復帰後のマイルスはやっぱり捉えがたいと思います。マイルスは最後に『Doo-Bop』でヒップホップをやったわけですが、しかしその完成形を見ずに亡くなっている。だから、どこまでがマイルスの作品かという見方があるにせよ、「ヒップホップ」と「ジャズ」というもの、両方を捉えることができなければ、あの時代のマイルスを理解することは不可能なんですよ。ところが、ジャズの人はヒップホップを聴かない。ヒップホップの人はジャズを聴かないと。ということは、背中合わせというか・・・いつまで経ってもマイルスがやろうとしていた事というのは見えてこないんですよ。
- --- ただ、マイルスの「ストリート回帰」という部分では、一般的にその議論の矛先が『Doo-Bop』 一点に集中してる傾向がありますよね。
ようするに最初からストリート志向なんですよ。それが「新しいこと」ということなんですよね。『Kind of Blue』でも、一般には発売されていませんが、シングル盤をいっぱい切ってジュークボックスに入れたりだとか、とにかくそういったストリートに身を置く若い層に聴いてもらいたいということは常にありましたからね。おそらくそれはマイルスだけじゃないと思うんですが。だから、そのことを特別視する必要もないし、もちろん過小評価する必要もない。ただ、人一倍その思いを強く持っていたのがマイルスだったということですよね。
例えば、ビートルズがシングル盤で出したものはLPには入れないという姿勢とも同じで、お金を持っていなくてもいちばん若い層に常に視点を置いていたと。マイルスのように偉大な存在になってくると、そういった層との乖離が出てくるので、余計に自分自身がそうすることを強く望んで発言しないと、自分の中での「ナウ」という感覚がなくなって(笑)、あっという間に「博物館」というか「大御所」というか、そういう不本意な扱いをされてしまう。そもそも、何にもしなくても、そういったところに持っていかれてしまう立場にいる人ですからね。- --- ヒップホップが新しい黒人の音楽文化として台頭著しい時期でした。
しかも、それがファッションにまで及んだ。現象としては、完全にビバップの焼き直しなんですよね。ビバップの時代にはジャンプ・ス−ツが流行して、それがヒップホップではナイキなんかになったというだけの話で。そこに親和性というものがあるんですよ。マイルスにせよ誰にせよ、黒人意識が強ければ強いほど、政治的なメッセージだったり、そうした現場で語られていることに敏感になるわけですよね。で、そこに活路を見出した。
ビバップから、ラップ、ヒップホップと行って、最後に『Doo-Bop』という大河のような流れがひとつできるような気がしているんですよね。ただし、現在は、ヒップホップ、ラップ、クラブ・ジャズ、リミックスやサンプリング・ミュージックが全部一緒くたのイメージの中で捉えられているような気がしていて、ましてや、そのイメージの中の優先順位として上位にジャズはない。だから、それをまず整理して、こんがらがった糸を解く。「コレとコレは実はつながるんじゃないか?」とか「つながっていると思っていたけど、無理があったんじゃないか?」とか。そういった検証をした上で、(註)パブリック・エネミーだとか象徴的なヒップホップ・アーティストを挙げながら解明していき、最終的にマイルスの『Doo-Bop』まで持っていくという方法が残されていると思う。つまり、マイルスが見た未来と、マイルスに見る未来という構図ですね。
ヒップホップ史で本当に重要なことは、『Doo-Bop』以降に起こっているわけですからね。それはおそらく、マイルスの死後においていちばん大きなムーヴメントだと思うんですよ。- --- 『Doo-Bop』以降、ヒップホップは文化・産業どちらの面においてもすさまじい急成長をみせますよね。
そこまでマイルスがもし生きていたら、その影響圏のド真ん中にいたんじゃないかなという気はするんですよ。実はその部分でのドラマはまだ終わっていないというか。逆に、ヒップホップのプロジェクトが完全に終わる前に最後を迎えてしまったことがドラマチックではあるんですけどね(笑)。
- --- ”ミステリー”をしっかり残しつつ(笑)・・・
そうそう、あのアルバムの1曲目はそういうタイトルだったし(笑)。実は僕が個人的に今ひとつ自信を持てない部分があって、それは例えばヒップホップの中の「ラップ」。それがまず「言葉のサウンド」であるということで、やっぱりちょっと理解が及ばない部分があるわけなんですよね。もうひとつは、黒人の文化とは言え、アメリカに古くからある(註)「ポエトリー・リーディング」のような世界の伝統を持った上で開花しているように思えるということ。そうなると、そこまで歴史をさかのぼる自信がまずないんですよ。
- --- (註)ギル・スコット=ヘロンや(註)ラスト・ポエッツをさらにさかのぼった場合、と。
せいぜい1969、70年のラスト・ポエッツあたりから考え始めて、というのが通例かもしれませんが・・・本当はもっと以前にもそうした世界はあるわけですから、そこで区切っていいのかという目分量が計りきれないんですよね。ものすごく強引に考えると、ラスト・ポエッツから、クインシー・ジョーンズの『Mellow Madness』にも参加した(註)ワッツ・プロフェッツ、あるいはパブリック・エネミーの世代、そして(註)イージー・モー・ビーと、そうしたいくつかの点を結んでいくしかないんですよ、いまのところは。これを拡げるとまたキリがないですからね。
(註)ポエトリー・リーディング・・・詩人が自作の詩を朗読するアート形態を呼び、一般的には、ウィリアム・バロウズ、ジャック・ケルアックらが中心となった1950年代のビートニク文化を指すことがしばしば。一方で、アフロ・アメリカン〜ラティーノ音楽史におけるポエトリー・リーディングの歴史としては、その最始点を確認することは難しいが、60〜70年代のラスト・ポエッツ、ワッツ・プロフェッツ、ギル・スコット=ヘロンらが、主にNYのハーレムを拠点に活動しながら、パーカッションなどをバックに政治的なアジテーションを盛り込んだ内容の作品を多く発表していたことにまずは代表されるだろう。その伝統は、のちのヒップホップ世代にも受け継がれ、現在ではポエトリー・リーディングをさらに進化させた「スポークン・ワード」といったような形態も生まれている。もちろん、これは全人類に共通した言語を用いたアート・フォームであり、日本においても、いとうせいこうが中心となって行なわれたチャリティー・ライブ『ミャンマー軍事政権に抗議するポエトリー・リーディング』が最近では有名かもしれない。写真は、ラスト・ポエッツ(上段)、ワッツ・プロフェッツ(左)、ギル・スコット=ヘロン(右)。
これらのことは次回以降の本のテーマとしてひとつ考えているところでもあるんですよ。「ヒップホップとマイルスの歴史」みたいなところで。そうした線上で、実際にそういうことをやったのはマイルスだけではないんですが、マイルスのやり方がいちばん判り易かったんですよね。とは言え、必ずしも上手くいったとは思えないんですが。それは、あのヒップホップ・プロジェクトが途中で終わったからなのかもしれないんですが、いちばん最後に来る答えとしては、あのアルバムがいちばんシンプルで、全景が見えている。その間に、(註)ハービー・ハンコックの『Future Shock』や(註)ビル・ラズウェルの実験的な作品なんかもいくつかあったんですが、やっぱりそれらは一過性のものにすぎなかったのかなと。
(註)ハービー・ハンコック『Sound System』・・・上掲前作に続き、第27回グラミー賞「ベスト・R&B・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞」を受賞した1984年作品。ビル・ラズウェルの連続プロデュースによって、フェアライトCMI、ヤマハDX7をはじめとする当時最先端のデジタル機材を網羅したテクノロジカル・エレクトリック・ハンコックの世界はひとつの頂点を極めた。CD化に際し、「Metal Beat」の長尺バージョンを収録している。 - --- さらに、ハンコック、ラズウェルにしろ、ジャズかヒップホップのわりとどちらかに偏っている感じもありますよね。
まぁその辺りについては僕の中でまだ勉強中でもあって。実は、次のテーマとして書こうと思っていることが、もうひとつありまして。新書のシリーズは、この『マイルス・デイヴィス 奇跡のラスト・イヤーズ』で一旦終わりなんです。それで次は単行本です。だから、扱うテーマがもっとマニアックになるわけなんですね。ある意味でもっとドキュメント性を帯びさせたいなと。さらに、テーマ設定を年代ではなくて、さらに細かいところに焦点を当てて、かなり絞っていく。取り上げる範囲は広がるにせよ、入り口は狭いものにしたいなと。
1978年3月2日 N.Y. コロムビア・スタジオに於けるセッションから。前列左から:ラリー・コリエル、エレアナ・スタインバーグ・ティー・コブ、マイルス、アル・フォスター、テオ・マセロ 後列左から:氏名不詳、菊地雅章、T.M.スティーヴンス、ジョージ・パヴリス
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「Doo-Bop Song EP」のジャケットより
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だからして、『Doo-Bop』は突然変異的なことではなくて、例えばそれ以前の『Sun City』であるとか、『The Man With The Horn』のある部分であるとか、わりと細々とではあるんですが、水面下ではつながっている世界ではあるんですよね。ヒップホップの文化的な面と昔のビバップとの親和性。それを最初に見抜いたのが、マイルスや(註)マックス・ローチというビバップの世代のミュージシャンなんですよ。マックス・ローチは「次代の(註)チャーリー・パーカーはラップから現れるだろう」みたいな言葉を残していますけど、つまりその辺の動きからもう一度整理しておかないと、ブラック・ミュージックとしてのジャズも、ましてやヒップホップも理解できないし、仮に理解できたとしても、おそらくマイルスまでたどり着けないで、浅い理解の範囲にとどまると思うんですよ。
そこに着目したのが(註)クインシー・ジョーンズで、(註)『Back On The Block』というアルバムでビバップ世代とラッパーを一緒にした。あれがひとつの解答だと思うんですよね。ブラック・ミュージックとしてのジャズの先鋭性や凶暴性、いわゆる過激な部分というのは全部、あの時期ヒップホップに掠め取られたんですよ、僕の所見では。
「ラスト・イヤーズ」の20枚
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【夏期講習】 「エレクトリック・マイルス」 中山康樹さんに訊く
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「エレクトリック・マイルス」 中山康樹さんに訊く
壮大なスケールと密度の「帝王・超電化絵巻」。その謎を解き明かす『エレクトリック・マイルス 1972-1975』を発刊されたマイルス研究の第一人者、中山康樹さんにお話を伺いました・・・
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1952年大阪府出身。音楽評論家。ジャズ雑誌「スイングジャーナル」編編集長を務めた後、執筆活動に入る。著作に『マイルス・ディヴィス 青の時代』、『マイルス vs コルトレーン』、『マイルスの夏、1969』、『マイルスを聴け!』等多数。訳書に『マイルス・ディヴィス自叙伝』がある。また、ロックにも造詣が深く、『ビートルズとボブ・ディラン』、『愛と勇気のロック50』、『ディランを聴け!!』等がある。
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Roberta Flack (ロバータ・フラック) 1973年の「Killing Me Softly with His Song(やさしく歌って)」のヒットやダニー・ハザウェイとのデュエット曲「The Closer I Get To You(私の気持ち)」などで最も知られるであろう黒人シンガー・ソングライター。レス・マッキャンに見出され、1969年にAtlantic レコードから『First Take』でデビュー。ジャズ、ソウル、リズム・アンド・ブルース、フォークのエッセンスを散りばめた自作曲やそのサウンドには、逆説的にどこにも属さない唯一無二の世界が根を下ろし、ソウルや黒人音楽界だけにとどまらない、まさに”スケールの大きな女性歌手”という形容がピタリとあてはまる。ロバータの親日ぶりは有名で、1984年の初来日以降もコンスタントに日本を訪れ、今年10月には、ラウル・ミドン、平井堅との日本武道館ジョイント・ライヴを行なっている。マイルスの沈黙中には、自身のバンドに、半ば ”主人を失っていた” エムトゥーメとレジー・ルーカスらを招き入れている。この両者の共作で生まれたのが「The Closer I Get To You」だということは意外と知られていない事実かもしれない。 |
Gil Evans (ギル・エヴァンス) ピアニスト・編曲者としてアメリカのジャズ・ビッグバンド界に革命をもたらした人物として著名なギル・エヴァンス。1948年に、マイルス、ジェリー・マリガンらとノネット(九重奏曲楽団)を結成し、チャーリー・パーカーのビバップとは対照的な音楽性を志した、49年から50年にかけてのセッションは、のちに『The Birth Of Cool(クールの誕生)』として発表されている。その後、編曲家としての活動を並行しながら、再びマイルスと組み、『Miles Ahead』(1957年)、『Porgy & Bess』(1958年)、『Sketches of Spain』(1960年)、『Quiet Nights』(1962年)を発表。その後においても、クレジットこそされていないものの、スタジオ内でアドバイスをしたり、楽譜のメモ書きを演奏者に渡したりと、マイルスの作品には様々な形でかかわり続け、「マイルスの知恵袋」とも呼ばれていた。 |
Paul Buckmaster (ポール・バックマスター) もともと幼少の頃からマイルスのレコードを好んで聴いていた、チェロ奏者/作・編曲家のポール・バックマスターとマイルスは、1969年11月にロンドンで出逢う。バックマスターの作品における音楽理論に興味を持ちはじめていたマイルスは、『On The Corner』のセッションに入る直前の72年に「ニューヨークで行う新しいアルバムのレコーディングに協力してくれ」という旨の電話を入れた。ロンドンからやってきたバックマスターが持参していたドイツの前衛作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンのレコード『グルッペン』、『ミクストゥール』に、マイルスは夢中になったという。『On The Corner』に及ぼしたシュトックハウゼンのレコードの影響力は不明ながら、セッション後もマイルスは熱心にそのレコードを聴き続けていた。また、『On The Corner』セッションは、バックマスターの意のままに行われることがなかったということを本人自ら告白している。 |
Pete Cosey (ピート・コージー) シカゴ出身で、元々は、チェス・レコードのスタジオ・ミュージシャンとしてマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフなどのバックでギターを弾いていたピート・コージー。72年当時、モーリス・ホワイトらと結成したグループ(のちにアース・ウインド&ファイアに発展)で活動していたコージーは、同年9月のフェスティヴァル出演時の楽屋にたまたま居合わせたレジー・ルーカスやエムトゥーメらとジャム・セッションを行い、エムトゥーメを介してその後73年のツアーからマイルス・バンドに加入(この時点でバンドは”テンテット”にまで拡大した)することとなった。”ブラックベアード(黒ひげ)”と称されたその容姿で、悠然と椅子に座りながら歪みまくった爆音でレスポールをかき鳴らすその様は、痛快極まりない。また、ギターのほかに各種パーカッション、キーボードなどマルチ・インスト奏者としての多彩な才能で、「エレクトリック・マイルス」のサウンドを支えていた。 |
Max Roach (マックス・ローチ) 弱冠18才でデューク・エリントン・オーケストラに参加した後、チャーリー・パーカー、バド・パウエル、クリフォード・ブラウンらとの活動、中でも天才トランペッターのクリフォード・ブラウンと組んだ1954年のローチ=ブラウン・クインテットで一時代を築いた、ビバップ期から活躍する名ドラマー。ケニー・クラークが開拓したモダン・ドラミングを完成させ、また、ポリリズムを初めてジャズにもち込んだパイオニアでもある。黒人であることを強く意識していたローチは、後に夫人となるアビー・リンカーン(vo)と出逢い、思想的な共鳴をする。黒人解放運動の闘士という立場から人種差別撤廃運動にも積極的に参加するようになり、60年発表のアルバム『We Insist!』では、具体的な政治へのメッセージは込められていないが、公民権運動・解放運動にかけるローチの姿勢が強く反映されている。ジョージ・ラッセルの1959年のリーダー作『New York N.Y.』には、ローチの叩く変幻自在のリズムにジョン・ヘンドリックスの軽妙なナレーションが乗る「Manhattan」という曲があるが、すでにローチはこの時点で”ラップ・ミュージック”の源流に目を付けていたのかもしれない。 |
Charlie Parker (チャーリー・パーカー) 1944年、当時18歳のマイルスは、地元セントルイスで偶然にもチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーと同じステージに立つことができた。パーカーをアイドルとするマイルスは、その当時最新のジャズのムーヴメント「ビ・バップ」を求め、言うなれば「バードに会うため」に、同年9月ニューヨークへ行くことを決意。上京のための”口実”とも言われるジュリアード音楽院入学後、昼は学校、夜はパーカー、ディズとのセッションというめまぐるしくも濃厚な日々を送るようになる。そして、1945年秋、ディズの後釜としてマイルスは晴れてパーカー楽団のトランペッターに抜擢され、同年11月、マイルス初めてのスタジオ・レコーディングを行うこととなった。その後の1947年には、パーカーやマックス・ローチらのサポートを得て、「マイルス・デイヴィス・オールスターズ」という名義で初のリーダー・セッションをSavoyで行っている。 |
Quincy Jones (クインシー・ジョーンズ) 1950年代から第一線で活躍を続け、グラミー賞をはじめとする音楽賞を多数受賞している、ブラック・ミュージック界のみならずポピュラー音楽界の偉大なる音楽プロデューサー、作曲家。元々トランペッターだったクインシーは、ライオネル・ハンプトン楽団での活動後パリに渡り、数々のビッグ・バンドを率いて成功を収めた。60年代からはプロデューサー業にも着手。1963年にレスリー・ゴーアの「涙のバースデイ・パーティー」のヒットを皮切りに、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラなどのプロデュースを手がけた。自身の作品でも数々の名作を残し、1981年の「愛のコリーダ」のようなポップ・フィールドでのモンスター・ヒットも生んだ。最も成功を収めた仕事は、1982年に発表されたマイケル・ジャクソンのアルバム『Thriller』であり、史上もっとも売れたアルバムとなり、また、あの「We Are The World」の総指揮も執るなど、キャリアの絶頂を極める。マイルスとギル・エヴァンスの共演作の再現を見事実現させた1991年7月8日スイス・モントルーにおける「再会セッション」では、「過去を振り返らない」マイルスをクインシーは実際にどのように口説き落としたのだろうか? |
Public Enemy (パブリック・エネミー) MCのチャック・D、フレイヴァー・フレイヴ、プロフェッサー・グリフ、DJのターミネーターXらを中心にニューヨークのロングアイランドで結成されたヒップホップ・グループ。1987年、『Yo! Bum Rush The Show』でDef Jamからデビュー。戦闘的なブラックパワー運動のS1W(Security of the First World)と連携していることでも有名で、政治的・社会的あるいは文化的な意識を、巧みで詩的なライムにのせることによってラップの世界を変革した。サウンド面においても、プロデューサー・チームのボム・スクワッドを通じてフリー・ジャズやハード・ファンク、さらにはミュジーク・コンクレートの要素さえも取り込み、前例のないようなぎっしりとした凶暴なサウンドを作り上げた。一説には、『Doo-Bop』は当初2枚組で制作され、その一部にはチャック・Dとフレイヴァー・フレイヴとのセッションが予定されていたという。 |
Easy Mo Bee イージー・モー・ビー 80年代から優れたトラックを繰り出している敏腕プロデューサーのひとり。キャリア初期は、ジュース・クルー、LLクールJの作品に代表され、中でもビッグ・ダディ・ケイン『It's a Big Daddy Thing』は、ダディ・ケインのブレイクスルー作としても今でも評価が高い。ほか、ウータン・クランでのデビュー前のGZA(ジーニアス)のデビュー作『Words From the Genius』や同じくウータン前夜のRZA(プリンス・ラキーム)のデビュー・シングル「Ooh I Love You Rakeem」を手掛けたことでその名をシーンに知らしめた。その後は、パフ・ダディ(現ディディ)のBad Boy エンターテインメントに入閣を果たし、ノートリアスB.I.Gのデビュー・シングル「Party and Bullshit」やデビュー・アルバム『Ready To Die』、クレイグ・マック『Project: Funk da World』、そのほか、2パック、ロスト・ボーイズ、ダス・エフェックスらの重要楽曲のプロデュースを手掛けた。マイルスとイージー・モー・ビーのパートナー・シップは、マイルスがモー・ビーに突然電話をかけたことから始まったという。数日後マイルスの指定する住所に行き、いくつかのリズム・パターンを聴かせ、マイルスが気に入った曲(「The Doo-Bop Song」、「True Fresh MC」など)から順に制作に取り掛かっていったというが・・・マイルスが構想していたヒップホップ・アルバム、その制作意図なりに対しての本人の明確な発言は残されておらず、永遠の謎となっている・・・ |
Herbie Hancock (ハービー・ハンコック) 「Watermelon Man」の大ヒット後は押しも押されぬブルーノート新主流派の中心アーティストにのし上がったハンコックは、ご存知1963〜68年にはマイルス・デイビス・クインテットのメンバーとして活躍。70年代以降もジャズ・ファンク・グループのヘッド・ハンターズ、当初はマイルスをシーンに呼び戻す企みとも言われていたアコースティック・ジャズ・グループ、V.S.O.P.クインテット(マイルス黄金のクインテット再び=ウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムス、ロン・カーター)の諸作、ジャズとヒップホップの垣根を完全に取り払った「Rockit」のヒットを生んだ『Future Shock』など、ジャズの新しい時代を切り拓く話題作を発表してきた。最新アルバムは、2010年6月にリリースされた『The Imagine Project』。シール、ピンク、ジョン・レジェンド、ジェフ・ベック、デイヴ・マシューズ、デレック・トラックス、チャカ・カーン、チーフタンズ、ロス・ロボス、ジェイムス・モリソン、コノノNo.1、アヌーシュカ・シャンカール、ティナリウェン、インディア・アリー、フアネス、ウェイン・ショーター、マーカス・ミラー、リオーネル・ルエケといった豪華ミュージシャンが参加し、「平和と地球規模の責任」をコンセプトに掲げた文字通りのプロジェクト・アルバム。 |
Bill Laswell (ビル・ラズウェル) まさに鬼才という名に相応しいベーシスト、音楽プロデューサー、ビル・ラズウェルのキャリアは、70年代ニューヨークの実験音楽シーンに触発され、ジョルジオ・ゴメルスキーのロフトに参入したことからスタートする。サウンド・エンジニアのマーティン・ビシとの共同経営の自主レーベル=セルロイド・レコードを立ち上げ、国内外のアヴァンギャルド音楽のアルバムの配給を行う。70年代後半は、ゴングのデヴィッド・アレンと結成した「ニューヨーク・ゴング」、マイケル・バインホーン、フレッド・マーらと結成した実験的ファンク・バンド「マテリアル」、アート・リンゼイ、アントン・フィア、フレッド・フリスらとの「ゴールデン・パロミノス」などで活動。ダウンタウンの「ノー・ウェイヴ」シーンで絶対的な存在として君臨するようになる。80年代初頭には、ファブ・ファイブ・フレディ「Change The Beat」、アフリカ・バンバータ「Time Zone」の12インチをセルロイドからリリースし、ヒップホップ・シーンとの距離感を縮め、83年にはハービー・ハンコック『Future Shock』をプロデュースし、時代の寵児曲「Rockit」のヒットを生み出す。84年には、初のリーダー・アルバム『Baselines』を発表し、その後もPIL『Album』、坂本龍一『Neo Geo』、ミック・ジャガー『She's The Boss』、オノ・ヨーコ『Starpeace』など実験的な色合いの作品を数多く制作している。86年にラスト・イグジットの活動を開始し、グラインド・コア、ノイズのサウンド・プロデュースへと実験を試みる。90年代以降はアイランド・レコード内にAXIOM レーベルを立ち上げて、電子音楽やデトロイト・テクノへの関心を高めフリー・ジャズやダブと絡めていき、91年には、ジョン・ゾーン、ミック・ハリスと共に結成したペインキラー、バケットヘッド、ブレイン、Pファンクのブーツィー・コリンズ、バーニー・ウォーレルらと結成したプラクシスといったグループの活動を開始している。2000年代に入ると琉球アンダーグラウンド、ニルス・ペッター・モルヴェルら新世代のアーティストのリミックスも手がけ、インド音楽とダブを融合させたタブラ・ビート・サイエンスを始動させている。マイルスとラズウェルの直接的な共同制作は実現しなかったが、エレクトリック・マイルスが残したマテリアルをラズウェルがリミックスした1999年の編集盤『Panthalassa』は、『In A Silent Way』公式盤でカットされていたジョン・マクラフリンのギター・ソロが発掘されていたり、マニアも唸らずにはいられない神懸ったリコンストラクションぶりが発揮された。 |