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「エレクトリック・マイルス」 中山康樹さんに訊く

2010年8月11日 (水)

interview
「エレクトリック・マイルス 1972-1975〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相」 中山康樹 インタビュー


 〈ジャズの帝王〉 マイルス・デイヴィスは、1970年代、エレクトリックなサウンドへのシフト・チェンジによって、過激にして過酷な運命を辿る。

 ”ポスト・ビッチェズ・ブリュー”を模索する中、スライ、ジミヘンといったあまりある刹那的異能と対峙することにより、ファンクやブラック・ロック・サイケデリアに徐々に指向を強めていったマイルス。度重なるメンバー交替を繰り返しながら、バンドはさらなる電界ムードを遂げ膨れあがった。十分すぎるほどの準備期間を経て、交通事故を原因とした慢性的な体調不良を患いながらも、帝王は完璧なるエレクトリック・シーズンを手中にした。 『On The Corner』制作に本格着手した1972年3月9日から、2度にわたる来日公演を経て、所謂 ”プリンス・オブ・ダークネス”、6年の沈黙期に入る直前までの1975年9月5日。 「過激にして過酷な」 4年間の旅路、その内実と真相とは?

 日本におけるマイルス・デイヴィス研究の第一人者で、最新著書『エレクトリック・マイルス 1972-1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相』の中でも周到な調査と徹底した聴取で鋭い考察を展開されている中山康樹さん。今回、「70年代エレクトリック・マイルスとは何だったのか?」をテーマにお話をお伺いしてきました。題して、HMVプレゼンツ 「エレクトリック・マイルス 夏期講習」。


インタビュー/構成: 小浜文晶
 


--- 本日は、中山康樹さんの新しいご著書『エレクトリック・マイルス 1972-1975 〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相』で言及されていたことを中心に、さらに深くこの時代のマイルス・デイヴィスの音楽や人物像などに触れていきたいなと思っております。

 まずは、今回 「エレクトリック・マイルス」というテーマの中に、さらに具体的に「1972-1975」という特定のスパンを設けていらっしゃいますが、こうした細かい時代区分をする中で、中山さんが最も重要視していた点というのは?

 僕はおそらく人よりも多くマイルスのことを書いてきたと思うんですが、結局その中で判ったことは、マイルスは書いても書いても、書き切ったという満足感が得ることができないということなんですよね。

 今までのやり方だと、まだ捉えきれていない。そこで、それをどう捉えるか? というのが、去年あたりから考えていたことなんですよ。これまで見ていた角度をちょっと変えて見てみようとなって、基本的には年代であったり、ある特定のアルバムの前後数年間であったりと。そうした作業を去年から始めていました。

 それまでは、集英社新書から『超JAZZ入門』という本を皮切りに、ジョン・レノン、桑田佳祐など、5、6冊の本を出していたんですが、「次の1冊を」という話になったときに、「もうネタがない・・・」ということになって。しかし、ふと考えたら、「マイルス・デイヴィスがない」ということに気が付いたんですよ(笑)。

--- 最も専門にされている分野がなかったと(笑)。

 そうだったか・・・なるほどと(笑)。「じゃあ、マイルスをやりましょう」となったときに、そこで今話したようなことをぶつけてみることにしたんですよね。そうすると、まずは「モダン・ジャズの時代にしませんか?」ということで最初に『マイルス・デイヴィス 青の時代』という本を書いたんですよ。そこでは、デビューから『Kind Of Blue』まで、だから最初の10年ぐらいについてですよね。で、同時進行的に、壱岐(真也)さんが編集長をされていた「en-taxi」で、「マイルスの夏 1969」という連載も書いていたんです。それをまとめたものが、今年の2月に扶桑社新書から出た『マイルスの夏 1969』。

 そうこうしているうちに違う出版社からもお話があったりして。マイルスと(註)ジョン・コルトレーンに関する本『マイルス VS コルトレーン』を文春新書から出すことになり、そして今回、すでに自分の中でのテーマは「エレクトリック・マイルス」というのがあったので、壱岐さんにご相談してこの『エレクトリック・マイルス1972-1975』を出してもらったんです。

 だから、読む方は順番どおりではなく、関心のある年代から順に読んでいくと思うんですが、自分の中では今言った流れの中でこの本に行き着いたということですね。そこで、70年代のマイルスをテーマにしたとき、何を中心に据えるか? ということになると、どうしても『On The Corner』から『Agharta』までの間だろうなとなったわけなんです。

--- ジャズ・ファン以外の音楽ファンにとっては、ロックやファンクなどに接近するこの時代のマイルスを扱っているだけに、パイが大きい分ある意味最もポピュラリティの高い1冊になっているのではないかなと感じました。キーワードが「ファンク」、「ワウ・ペダル」、「ジミ・ヘンドリックス」、「スライ・ストーン」・・・すごく入りやすい世界ですよね。

 こうして書いてみて結果的に判ったことは、今までそういったものを1冊に詰め込もうとしていたので、消化しきれなかったということなんですよね。読者にしても、全ての時代に興味のある人というのはわりと少なくて、モダン・ジャズが好きな人はせいぜい64、5年まで、とか。だから、時代を区切った方が書きやすいし、読みやすいし、その分マイルスがしたことや、考えていたことがより見えやすいような気がしているんですよね。



マイルス・デイヴィス
マイルス・デイヴィス / 『On The Corner』発売当時の広告(右上)



--- 今回、1冊に特定の時代を濃密に追い詰めたことで、新しい発見やさらに謎が深まった部分などはありましたか?

 両方あるんですよ。結局どんな書き方をしても、マイルスは無限(笑)。もちろん、「こうだろうな」と思っていた仮説が立証されるという面もあるんですが、その過程で違う謎がぽっと浮かび上がってきたりとか、そういうことはしょっちゅうですよね。


--- この時代の資料というのは、量的にもやはり膨大なものかと思うのですが、それらを整理しながら仮説を立証していくというのは、かなり労力を要する作業だったのではないでしょうか?

 僕の書き方のクセでもあるんですけど、どんなテーマにおいても、最初に全部仮説で作り込んでいくんですよ。で、それを立証するために資料をあたる、ということなんですよね。一時期は、参考文献だとか引用文献を一切明記しないで書いていたんです。つまり自分の中で昇華した文章として書く。そうしたとき、ある本のくだりに対して「この妄想はひどすぎる!」みたいなことを指摘されたことがあるんですよ(笑)。僕が立てる仮説を立証する材料を与えないわけですよね、そういう書き方っていうのは。読む人が読めば判るんですけどね。だから最近では、所謂「証拠物件をきちんと出していきましょう」ということで、参考文献なんかを明記しているんですよ。

 例えば、「おそらくこういう展開になったから、マイルスは(註)キース・ジャレットを雇ったんだ」というようなことは、多分音楽ファンがみんな考えてることだと思うんですよ。それを自分なりに立証しながら構築して読ませるという作業ですよね。


--- 「1972-1975」という時代は、ドラッグの過剰摂取、バンド・メンバーの出入りの多さなどを含め、相当カオティックな時代だと思うのですが、マイルスはもちろん(註)エムトゥーメ(註)マイケル・ヘンダーソンといった周囲の人間による回顧録の「信憑性」という部分ではかなり困惑されたところもあったのではないでしょうか?

 『Kind Of Blue』の時期までのマイルス、あるいは、コルトレーンにしても、どんなことが起きててもジャズの中でカタが付くんですよね。ところが、『Bitches Brew』以降になってくると、ジャズの枠内だけではダメで(笑)、むしろジャズよりもマイルスの周囲にある音楽とか、そっちの方が重要になってくる。だから、(註)ロン・カーターについて書くことと、マイケル・ヘンダーソンについて書くこととは、全く視点が違うということでもあるんですよ。それを同じように均等に書いていると、どっちつかずというか・・・何か書き忘れていることの方が多いなという感じになってくるんですよ。

 だから、『Bitches Brew』以降が逆に面白いのは、「ジャズだけでは片付かないぞ」という、広さですよね。


--- その時期のマイルスを取り巻く人間関係やその相関図も面白いぞ、というニュアンスを多分に含んでいますよね。

 そうですね。逆に、より「マイルスらしく」なっていくと言いますか。



マイルス・バンド
左上から時計回りに:エムトゥーメ、マイケル・ヘンダーソン、アル・フォスター、ピート・コージー



--- その中でスライ、ジミヘンとの交流は、マイルスの音楽創作の中におけるひとつのエポック・メイキングになりましたよね。ですが、意外だったのは、「実際スライとは一緒にドラッグをしたことはあっても、セッションをすることはなかった」と。

 このひとつ前の『マイルスの夏 1969』を書いていたときに判ったことなんですが、(註)ジミ・ヘンドリックスに関しても同じようなことがありまして。僕もそれ以前はそうだったんですが、「マイルスがジミ・ヘンドリックスと共演したがっている」という話は定説どおりきていたわけですよ。ところが調べていくうちに、どうやらそうではなくて、ジミ・ヘンドリックスの方が共演したがっていたわけなんですよ。で、マイルスがそれを断った。その理由に関しては、本の出版後に判ったことなんですが、ジミ・ヘンドリックスはジャズをやりたかった。ところがマイルスは、ジャズなんかやりたくなかったんです(笑)。むしろロック的なイディオムを持った音楽ですよね。


--- ベクトルが真逆だったんですね(笑)。

 これは例えば、エリック・クラプトンとB.B.キングが一緒にやる場合に、クラプトンがルーツ、つまり“時間”を遡りますよね。だから、マイルスもそれをしなきゃいけないということなんですよ。逆に言えば、『Bitches Brew』のようなことをジミ・ヘンドリックスがやれるのであれば、共演は実現していたかもしれない。しかしながら、常にマイルスの“時間”に合わせないと実現はされないんですよ。

 僕たちはどうしても「ジミヘン」、「スライ」という名前の方に重きを置いて見てしまいがちなんですが、調べていくと実はそうではないと。結局、ミュージシャンとしてのマイルスが集めている尊敬の念というのは、そういった部分だと思うんですよね。だから、ほとんどの人がマイルスと一緒にやりたかったんだろうな、と想像できるんですよ。ゆえに、ひとつも実現しなかったと(笑)。


--- マイルスの”時間”にことごとく合わせられなかった・・・

 (註)ローラ・ニーロ(註)ジョニ・ミッチェルもマイルスと共演したかった。晩年は、例えば(註)スクリッティ・ポリッティ(註)チャカ・カーンをゲストに呼んだりなんかはしていましたが、この当時はそこまで丸くはなっていないんですよね。自分の土俵に向こうが登ってこないかぎり、やる必要はないと。そういう意味でも、マイルスは自分のやっている音楽やバンドの音にかなりの満足度を得ていたと思うんですよ。そのバンドが、『On The Corner』、またはそれ以降のバンドですよね。

--- 反面、習作としては「Thank You(Falettinme Be Mice Elf Agin)」だったり「Voodoo Chile」だったりの骨組みはあからさまに拝借しまくっているという。

 「風の中のマリー」のフレーズを突然持ってきたりとか。それは、おそらくビ・バップの発想なんですね。ビ・バップというのは、有名な曲のコード進行を借りて作り直すじゃないですか。全部の曲が「みんなのもの」という意識が強いんですよ。このリフはたまたまAさんが作ったけど、BさんもCさんも自由に使えますよって。そういう意味では、マイルスは結構古いタイプの人なんですよ。著作権意識が薄いというか(笑)。

 言葉は悪いですけど、マイルスがパクっても誰も何も言えないと。なぜかと言うと、原曲を書いた自分がやるよりも、はるかにかっこよくやっているからなんですよ。大袈裟に言えば、盗られてうれしい、みたいな感じがあるのかもしれないですよね(笑)。実際そこは謎ですけど。

--- さらに時代が進んで、『Doo Bop』でヒップホップにおけるサンプリングの手法などに共鳴したのは、そうした習慣が染み付いていたからなのかもしれませんね。

 それと、ラップやヒップホップを聴いて、とにかく「何だこれは!?」と驚いたと思うんですよね。

--- 69年大晦日にジミヘン(バンド・オブ・ジプシーズ)のステージを目の前で体験したときと同じ衝撃だったんでしょうね。

 きっとそうだったと思います。で、数年間はそれに熱中して、でも、憑き物が落ちるようにある日急に熱が冷めて、次に行く。その繰り返しだったんじゃないかなと思うんですけどね。



ジミ・ヘンドリックス / バンド・オブ・ジプシーズ 1969-70
1969年フィルモア・ニュー・イヤー・コンサートにおけるジミ・ヘンドリックスのバンド・オブ・ジプシーズ



--- 新しいものに対するアンテナの感度というのは、ジャズメンの中でもかなり鋭かったと思うのですが、それでも、いきなり着手はせず、かなり「用意周到」だったそうですね。

 慎重な上に、かなりの勉強家なんですよ。

--- フレーズひとつをとっても、思いつきで吹かずに、きっちり頭の中で完成させてから音に出すという。

 特に、何度もスタジオに入ってセッションを繰り返している頃というのは、それをしていたと思うんですけど。事前に自宅でピアノか何かでフレーズを組み立ててから、それをスタジオで実際に音に出してみて、「ここには(註)ウェイン・ショーターがいた方がいい」とか「(註)ベニー・モウピンだけでいい」みたいなシュミレーションをすると思うんですね。だから、スタジオに入る前に曲の骨格みたいなものはほぼ出来上がっているような気はしますよね。

 というのは、その都度セッション・メンバーが変わるじゃないですか? それはつまり、かなり事前に彼らのスケジュールを抑えておかなきゃいけないんですよ。特にシタール関係のミュージシャンなんかになってくると(笑)。だから、たまたま出来上がったということではなくて、やっぱりスタジオに関しては、かなりはっきりと着地点は見えていたと思うんですけどね。その最たる作品が『Bitches Brew』だと思います。あれは、簡単だったと思いますよ、マイルスにとっては。高層ビルを建てるような感覚に近かったんじゃないでしょうか。

--- 明確な設計図があって、あとは図面通りに組み立てていくだけという感じだったんですね。

 すでに頭の中で完成図が出来上がっていたんだと思います。しかし、『On The Corner』になると、「やってみなきゃわからない」という面白さが増幅するんですよ。なぜかと言うと、参加メンバーに、ジャズ・ミュージシャン以外のミュージシャンが増えているからなんですよね。ほとんどワン・パターンではあるんですが、「こいつらは、どう出てくるか予測できない」と(笑)。そういうハプニングを愉しむところはあったでしょうね。

 だから逆に、『On The Corner』は、(註)クインテット時代や『Bitches Brew』の頃と較べて、楽曲自体の完成度はやや落ちるんですよ。ところが、その『On The Corner』にしても、『Agharta』のライヴにしても、完成している部分のグレードはとてつもなく高い。未完の部分を、次につながるような余白として残す。『Bitches Brew』みたいにカチッとしていないんですよね。ルーズな部分とタイトな部分が比較的交互に顔を出す。マイルスはそれを無駄とは思っていないんですよ。ましてや、完成させようとも思っていなくて、何となくそのまま放置している。そこが新しいと思うんですよね。


  (註)60年代黄金のクインテット・・・ハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)に、1964年にウェイン・ショーター(ts)を迎え入れるかたちで確立した第二期クインテットは、60年代アコースティック・ジャズの頂点を極めた「黄金のクインテット」として、68年前半までこのメンバーで活動。『Miles in Berlin』、『E.S.P.』、『Live At The Plugged Nickel』、『Miles Smiles』、『Sorcerer』、『Nefertiti』といった作品を残した。


--- セッションそのものが永続的なものになっているという感じがありますよね。

 大袈裟に言うと、ひとつの「旅」みたいな感じはありますよね。だから、『Bitches Brew』までは、はっきり「楽曲」と呼べるものがあるんですよね。ドラッグのせいか、環境のせいか定かではありませんが、どこかでいきなり『On The Corner』のようなサウンドを指向するスイッチが入る。

--- ちなみに、この「1972-75」という時期におけるドラッグの摂取量というのは、相当なものだったんですよね?

 だと思います。好んでやっていた部分と、あとは事故後の痛み止めだと思うんですよね。1975年の日本ツアーのときは、医者から処方された痛み止めを飲んでいましたが、激しい副作用があるということを知らずに、とにかく痛みを抑えるために飲みまくっていたので、そうした悪循環の中で肉体的にも精神的にも痛めつけられていくという感じではあったでしょうね。

--- 完全な推測として、同じ時代まったくの “しらふ” で作品制作にとりかかっていた場合、やはり『On The Corner』、『Agharta』といった作品が生まれることはなかったと考えるのが妥当なのでしょうか?

 もはやSFに近い想像でもあるんですけど(笑)・・・でもまぁ、すごいことをやっていたのは確かでしょうね。「病」と「芸術的な創造」の相関関係がまだはっきりと判らない部分でもあるんですけど・・・

(壱岐編集長) ただやっぱり、(註)交通事故に遭わなかったら、どうなっていたのかな? という感じはありますよね。


  (註)マイルス自動車事故で、両足骨折・・・1972年10月、スポーツ・カー好きのマイルスは、朝のドライヴに出かけた際、マンハッタンのウエスト・サイド・ハイウェイ中央分離帯に最新の愛車「ランボルギーニ」とともに突っ込んだ。両足の骨折に加え、顔も12針を縫う大怪我を負う重傷。この事故により、痛みを和らげるために大量の鎮痛剤を服用。さらに、以前よりもアルコールとドラッグの量も増えたという。また、この事故で腰を痛めたこともあり人工関節に取り換える手術を行うも、股関節が回復の兆しをみせることはなく、その後生涯にわたってマイルスを苦しめつづけることとなる。


--- 制作期間における演者のヘヴィなドラッグ依存という点では、『On The Corner』と同じ72年に発表されたローリング・ストーンズの『メインストリートのならず者』との共通点も多いのではないかなと僕は個人的に感じていまして。どちらも発売当初は酷評されていたということもありますし、さらに、いかに70年代初期がカオティックな時代だったかということを判りやすく体現しているような気がします。

 ストーンズとの関係で言えば、その頃、ミック・ジャガーがマイルスの家を訪れているんですよ。だけども、門前払いをくらう(笑)。つまり、スライはマイルスに悪態を付く、マイルスはミック・ジャガーに悪態を付くと、すべてがドラッグが原因だったわけではないと思いますが、そういう時代だったようなんですね(笑)。しかも、そのうちジョン・レノンとオノ・ヨーコもマイルスの家の近くに住むことになるんですよ。だから、マイルスと(註)ベティ・デイヴィス、ジョンとヨーコの両夫妻でつるんできっと色々とあったと思うんですが・・・僕らはどうしてもレコードだとか、点でしか見ることができないんですが、結局彼らにも生活がありますから、本人たちからしてみれば、むしろレコードの世界の方が“異例”なものになりますからね(笑)。あの辺りには、スライ、マイルス、ジョンとヨーコ以外にもミュージシャンはいっぱい住んでいたはずなんですよ。



マイルス・デイヴィスとベティ・デイヴィス
1969年ニューヨークの自宅にて マイルスとベティ



--- ジェイムス・テイラーもご近所で、頻繁に遊びに来ていたそうですね。

 そうなんです。ジェイムス・テイラーは、今もそのセントラル・パーク近くにある家を所有しているはずなんですよ。あとは、(註)ポール・バックマスターもそう。ということは、エルトン・ジョンも絡んでくるんじゃないかな? とか。

 今回の本で書いた時代より後、1975年以降の沈黙の後にマイルスが「なんとかしよう」と思って呼んだのが、ポール・バックマスターなんですよね。ポール・バックマスターと(註)ギル・エヴァンス(註)ピート・コージーで、マイルスに言われたことを形にしようとするんですけど、セッションの当日マイルスはスタジオに来なかった。しかもそういうことが何度もあって、嫌気をさしたバックマスターはイギリスに帰ってしまうんですね。

--- 1977、78年ぐらいの出来事ですよね?

 そうです。その辺りについては、次の本で書くかもしれないんですが。つまり表沙汰になっていない部分の方が、人脈なんかにしてもものすごいんですよ。

--- むしろ1976年から81年の沈黙期の交流録の方が、ある意味 “派手” だったのかもしれないということですよね。

 基本的には家にいたらしいんですけど・・・非常に奇妙なんですよね。体は悪いけど、入院するほどでもない。演奏をしようと思えばできるけど、その気力もない。 そうした状態で人間というのは6年近く家にいることができるものなのかと(笑)。ギル・エヴァンスや(註)アル・フォスターなんかがたまにマイルスの家を訪れてみると、ゴキブリだらけ(笑)。でも、本人はそれを立て直そうとしないんですよね。

 だから、いつかカムバックできるという自信があったのか、もう完全に引退してもいいと思っていたのか・・・本当に不思議な時期なんですよね。

(壱岐編集長) ジョン・レノンの “ハウス・ハズバンド”時代とはまた状況が違うわけなんですよね?

 違うんですよね。病気であったことはたしかですから。でも、病状が深刻であれば入院してるはずですからね。

--- その沈黙期の資料なんかも結構残っていたりするのですか?

 資料と言っても、ピート・コージーの談話であるとか、ポール・バックマスターの思い出話程度のものですよね。その間、何度かセッションめいたことはやっていて、マイルスはキーボードを簡単に弾いているぐらいなんですが、そのテープはピート・コージーが何本か持っているんですよ。だから、それがいずれは陽の目を見るのかもしれないんですが、マイルスがほぼ参加していない状態に近いんですよね。

 ただ、マイルスの人生というのはうまくできていて。この沈黙期でボロボロになる。6年間近く休んで、カムバックする。で、(註)最後にギル・エヴァンスの曲をクインシー・ジョーンズと一緒にやって死ぬと。そういう流れで見ていくと、1976年から81年における5、6年の沈黙は必要なんですよ。


Live At Montreux   (註)最後にギル・エヴァンスの曲をクインシー・ジョーンズと一緒に・・・1991年7月8日、スイス・モントルー・ジャズフェスティヴァルに登場。ギル・エヴァンスの編曲による作品をクインシー・ジョーンズが指揮するオーケストラをバックにマイルスが演奏するという企画だった。この年の9月28日、マイルスは天に召され、本作が実質上のマイルスのラスト・アルバムとなった。


--- 俯瞰して見てみると、そこで完全に燃え尽きるということにはいかなかった。

 沈黙が1年ぐらいだと、カムバックにならないじゃないですか? 物語として。だから、5年数ヶ月というところがやっぱり“ミソ”かなと。

 あと、時間の感覚が他の人と違うんですよね。例えばインタビューなんかで、マイルスと話しているとしますよね。で、時間が来て終わる。聞き手はそれで終わるわけですよ。しかし、数ヵ月後にマイルスに会うと、彼は前回の話の続きから話し始めるんですよ。

--- 一旦 “コンティニュー” 状態となって、続いているわけなんですね。

 そうなんですよ。しっかり憶えているんです。「過去を振り返らない」というのが身上だったわけですが、すくなくとも僕が知る限り過去の会話を全部憶えているんですよね。中には勘違いもあるかもしれないんですけど、「あのとき(註)チャーリー・パーカーがこうした」とか基本的には細かく憶えているんです。特別な時計でも持っているかのように。そうした時間の中に生きているんですよね。それは、僕だけではなく、当時のバンド・メンバーの証言なんかを読んでもそう書いてあるんですよ。

 (註)レオン “ンドゥグ” チャンスラーがマイルスのバンドを辞めて、後にクルセイダーズに入るわけなんですが、その当時マイルスが別荘のあるL.A.にいるときに、クルセイダーズのコンサートがあったんですね。マイルスはそのコンサートを観たいと、チャンスラーに電話を入れるんですよ。ところが全然つかまらなくて、マイルスはイラつく(笑)。でも当然、直接会場に行けば顔パスで入れるのに、チャンスラーからの折り返しの連絡を待つ、そこに必要以上にこだわるんですよ(笑)。結局、電話が来ることはなく、そうなるとコンサートにも行かない。で、数年後マイルスはチャンスラーに会って、開口一番その件で怒るんですよ(笑)。

--- 「何で電話に出なかったんだ!?」と、さも昨日の出来事のように(笑)。

 チャンスラーはびっくりして(笑)。本人はそんなこと当然忘れていますから。マイルスは「チャンスラーに嫌われたんじゃないか・・・」と傷付く(笑)。だから、大胆であり繊細であり。マッチョでもあるんですが、ものすごいか弱い面もあったりするんです。われわれ人間が持っている様々な性格をすべて凝縮しているような感じもして・・・まぁ扱いにくい人だったとは思いますよ(笑)。特に全盛期に関わっていた人にとっては。

--- バンド・サウンドの拡大というよりは、具体的に人脈を拡張することに重きを置いていた部分もあるのでしょうか?

 そういう部分もあったんでしょうね。だから、マイルスの音楽というよりは、マイルス自身が謎ですから、そこから派生するものはほとんど謎めいているんですよね。僕らはそれをアルバム単位の「点」で捉えているに過ぎないわけですから、ようするに「エンドレス」ですよね、こういった作業というのは。



(次の頁へつづきます)






「エレクトリック・マイルス」の20枚


  • 1969 Miles

    『1969 Miles』

    『Bitches Brew』吹き込み直前、1969年7月、 ”ロスト・クインテット”による圧巻のフランス公演...

 
  • Bitches Brew

    『Bitches Brew』

    マイルス初のゴールド・ディスクとなった1969年録音、世紀の怪作。ロックや電子楽器、ポリリズムなどを採り入れたことで...

  • Big Fun

    『Big Fun』

    『Bitches Brew』の周辺から、その「子供達」との演奏、そして、来日公演でも見せた強烈なポリリズム演奏に顕著な過渡期的な時代の演奏をドキュメントした...

 
  • Live In Rome & Copenhagen 1969

    『Rome & Copenhagen 1969』

    最強の”ロスト・クインテット”が、1969年、ローマ(10月27日)とコペンハーゲン(11月4日)で行ったライヴをカップリング...

  • Tribute To Jack Johnson

    『Tribute To Jack Johnson』

    1970年4月録音。ジョン・マクラフリンのギターを全面に押し出し、ジミヘン、スライ影響下のロックやファンクの要素を取り込んだサウンドトラック...

 
  • Black Beauty

    『Black Beauty』

    『Jack Johnson』録音の3日後、1970年4月フィルモア・ウェストにおけるライヴ盤。当初マイルスは大会場でのライヴを嫌ったが...

  • Get Up With It

    『Get Up With It』

    1970〜74年にかけてのスタジオ録音を基にまとめられた大作。従来の概念を打ち壊す奇抜で魅惑的なフレージングが満載された...

 
  • At Fillmore

    『At Fillmore』

    1970年6月フィルモア・イースト公演の模様を収録した2枚組ライヴ盤。キース・ジャレットとチック・コリアのWキーボードによる攻撃的なサウンドが...

  • At Fillmore East

    『At Fillmore East』

    『Black Beauty』収録ライブに先立つ、1970年3月7日のライブをノーカットで完全収録した驚くべき内容...

 
  • At Isle of Wight

    『At Isle of Wight』 [DVD]

    1970年8月26〜30日にかけて開催された「ワイト島ロック・フェステイヴァル」に出演した際の映像記録。「世界一のロック・バンドだって俺にはできる」と...

  • Live Evil

    『Live Evil』

    1970年ワシントンD.C.のクラブ「セラー・ドア」におけるライヴと通常のスタジオ録音をカップリングしただけでなく、テオ・マセロの高度な編集が加えられ...

 
  • Cellar Door Sessions 1970

    『Cellar Door Sessions 1970』

    1970年12月16〜19日にかけて「セラー・ドア」で行われた、『Live-Evil』収録の元ライヴ音源を完全収録した6枚組...

  • 1971 Berlin Concert

    『1971 Berlin Concert』 [DVD]

    キース・ジャレット、ゲイリー・バーツらが在籍していた1971年ベルリンでのライブと、1974年のキースのソロ・パフォーマンスをカップリング収録...

 
  • On The Corner

    『On The Corner』

    マイルスのあくなき音楽的探求が、ジャズの領域を超えてブラック・ミュージック全般を突き詰めた70年代最高の...

  • In Concert

    『In Concert』

    『On The Corner』録音直後のライヴ演奏は、その『On The Corner』の世界を忠実に再現したもの。賛否両論巻き起こした混沌としたサウンドは...

 
  • In Stockholm 1973

    『In Stockholm 1973』 [DVD]

    伝説の来日公演から約4ヵ月後、スウェーデン・ストックホルム公演を収録。大音量によるエレクトリック・ファンクの世界がほぼ1時間ぶっ続けで...

  • In Vienna 1973

    『In Vienna 1973』

    1973年のオーストリア・ウィーン公演を収めたライヴ盤。デイヴ・リーブマンを除けば、この時点で ”アガパン・オールスターズ”が揃い踏む絶頂期の電化絵巻・・・

 
  • Dark Magus

    『Dark Magus』

    「悪魔術師」を意味するタイトルどおり、妖しくヘヴィなサウンドを展開する1973年のカーネギー・ホールにおけるライヴ盤...

  • Agharta

    『Agharta』

    1975年2月1日大阪フェスティヴァル・ホール「昼の部」を収録した本盤は、マイルスの70年代におけるポリリズム探求の一つの答えでもある。「Maiysha」におけるトランペット・ソロがすさまじい...

 
  • Pangaea

    『Pangaea』

    こちらは、同じく大阪公演の「夜の部」を収録したもの。日本において、ここまで強い妖気の立ち込めたグチャグチャギタギタな伝説的コンサートが他にあっただろうか? ...








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profile

中山康樹 (なかやま やすき)

 1952年大阪府出身。音楽評論家。ジャズ雑誌「スイングジャーナル」編編集長を務めた後、執筆活動に入る。著作に『マイルス・ディヴィス 青の時代』、『マイルス vs コルトレーン』、『マイルスの夏、1969』、『マイルスを聴け!』等多数。訳書に『マイルス・ディヴィス自叙伝』がある。また、ロックにも造詣が深く、『ビートルズとボブ・ディラン』、『愛と勇気のロック50』、『ディランを聴け!!』等がある。





本文中に登場する主要人物について


ジョン・コルトレーン John Coltrane
(ジョン・コルトレーン)


1955年にマイルス・デイヴィスのグループに入団。それまでほとんど無名だったが、これをきっかけにその名前が知られるようになり、マイルス・グループ以外におけるレコーディングの機会も多くなった。ちなみに両者ともに1926年生まれである。1957年に一旦マイルス・グループを退団し、セロニアス・モンクのグループに加入。その後ブルーノートに初期の代表作『Blue Trane』を吹き込み、翌年マイルス・グループに再加入。マイルスはこの時期、コルトレーンをソニー・ロリンズと並ぶ2大テナー奏者として高く評価していたという。1959年には、マイルスの『Kind Of Blue』の収録に参加。また、アトランティックに移籍し、代表作『Giant Steps』を発表。1960年春、ふたたびマイルス・グループを脱退。マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズを中心に自身のレギュラー・バンドを結成し、同年10月には自身最初のヒット曲となった「My Favorite Things」を吹き込んでいる。


キース・ジャレット Keith Jarrett
(キース・ジャレット)


1970年に、マイルスのバンドに参加したキース。当時マイルスが追求していたエレクトリック・サウンドに合わせるかのように、キーボーディストとして登用され、先に同バンドに在籍していたチック・コリアとのツイン・キーボード制のなかで、主にオルガンを演奏した。「第3回ワイト島ポップ・フェスティバル」での演奏など、3ヶ月強というごくわずかなツイン・キーボード体制の後、チック退団に伴いひとりでオルガンとエレクトリック・ピアノを担当することになる。在籍中の主なアルバムは、『At Fillmore』、『Live Evil』、『Get Up With It』、『Directions』など。マイルス・バンドには71年末まで在籍していた。


エムトゥーメ
Mtume
(エムトゥーメ)


エレクトリック・マイルスのサウンドに独特のリズム感をもたらした人物のひとりとして挙げられるエムトゥーメことジェイムス・フォアマン・ヒースは、テナー・サックス奏者ジミー・ヒースの長男にもあたるパーカッション奏者。71年8月にマイルス・グループに誘われ、レギュラー・メンバーに抜擢。同年10月からの欧州ツアーに、アイアート・モレイラの後釜としてドン・アライアスと共に参加することとなる。その後、『On The Corner』から『Agharta』、『Pangaea』へと至る展開の推進役となる。グループ離脱後には、自身の名をそのまま冠したリーダー・グループ=エムトゥーメを、マイルス・バンドの元同僚レジー・ルーカス(g)らと結成。1983年には「Juicy Fruits」のヒットを飛ばしている。


マイケル・ヘンダーソン Michael Henderson
(マイケル・ヘンダーソン)


スティーヴィー・ワンダーのツアー・サポートに参加していた際にマイルスにスカウトされ、70年初頭からマイルス・グループへのセッションに加わったベース奏者マイケル・ヘンダーソンは、同グループの歴代ベーシスト、ロン・カーター、ハーヴィ・ブルックス、デイヴ・ホランドらが奏でてきたボトムを、さらに太く強い電化されたものへと発展させた。『Tribute To Jack Johnson』の一部セッション、『Live Evil』におけるセラー・ドア・サイドの4曲、『On The Corner』を皮切りに、以降『Pangaea』までに聴くことができるその強烈なファンク・ベースは、「エレクトリック・マイルス」サウンドを雄弁に語る決定的な核となっている。グループ離脱後のソロ・アルバムでは、シンガーとしての魅力を発揮し、1980年には「Wide Receiver」などのヒットを放っている。


ロン・カーター Ron Carter
(ロン・カーター)


いわずと知れたベース巨人ロン・カーターは、1963年にポール・チェンバースの後任としてマイルス・グループに入団する。時を同じくして同グループに在籍したハービー・ハンコック、トニー・ウィリアムスとともに、60年代における「マイルス・クインテット」の黄金時代を築き上げた。ジャズ界の趨勢がモード・ジャズからフュージョンに移行しつつあった1960年代終盤、マイルスのグループを去ることになり、一部諸説では、「マイルスからエレキ・ベースを弾くことを要求されたから」と言われているが、実際は「長いツアーに辟易し自ら脱退を申し出た」と本人は語っている。


スライ・ストーン Sly Stone
(スライ・ストーン)


『スタンド!』、『暴動』、『フレッシュ』における独自のソウル、ファンク、サイケデリア・サウンドで60年代末以降のブラック・ミュージック史を塗り替えた、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの統帥スライ・ストーン。マイルスとの出逢いは、マイルスが『Bitches Brew』を録音、スライが『スタンド!』を発表した1969年にさかのぼり、実際、スライがサンフランシスコからロスに住居を移した69年末〜71年(スライ『暴動』制作時)から、「ファンク」、「ドラッグ」を共通項に、さらに”ハングアウト”の関係を強めてゆく。一説に、『On The Corner』に大きなヒントを与えたのは『暴動』とされている。このことは、中山康樹氏の著書『エレクトリック・マイルス 1972-1975』においても深く考察されている。


ジミ・ヘンドリックス Jimi Hendrix
(ジミ・ヘンドリックス)


スライ同様、70年代のマイルスの音楽性に大きな影響力をもたらしたジミ・ヘンドリックスのパフォーマンス。映画「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」で ”動くヘンドリックス”を観ていたマイスルが、初めて生でヘンドリックスのステージを目の当たりにしたのが、1969年大晦日から70年元旦にかけて行われたフィルモア・イースト。ビリー・コックス(b)、バディ・マイルス(ds)を率いたバンド・オブ・ジプシーズのライヴだった。バディ・マイルスの回想によると、巨大なアンプの山、数々のワウ・ペダルに心を奪われたマイルスは、その夜の楽屋で「今度いっしょになにかやろうぜ」と言い残したが、ヘンドリックスの70年9月の他界により、最終的に共演は実現しなかった。また、ヘンドリックスをマイルスに紹介した当時の前妻ベティ・デイヴィスが、マイルスとの結婚生活中ヘンドリックスとかなり親密な関係にあったことを妬ましく思っていたということも明らかにされている。


ローラ・ニーロ Laura Nyro
(ローラ・ニーロ)


ジャズ・シンガーのヘレン・メリルを叔母に持つローラ・ニーロは、幼い頃から親しんだジャズ、ゴスペルはもとより、R&B、ドゥワップといった黒人音楽に強い影響を受けているシンガー・ソングライター(ソングライター)。1968年の『イーライと13番目の懺悔』のブックレットには、マイルスとのツーショット写真が掲載されており、これは当作録音時に同じCBSスタジオで『Miles In The Sky』をレコーディングしていたマイルスが遊びに来ていたシーンを収めた1枚だ。このアルバムで「1曲吹いてくれる?」とローラに頼まれたマイルスは、「ここに俺が付け加えるべきものはない」と答えたという。また、マイルスは、次作『Newyork Tenderberry』を「完璧な作品」と称賛したらしい。


ジョニ・ミッチェル Joni Mitchell
(ジョニ・ミッチェル)


チャーリー・ミンガスに捧げた『Mingus』や、パット・メセニー、ジャコ・パストリアス(恋仲に)を配したライヴ『Shadows And Light』、または昨今、ハービー・ハンコックが彼女のトリビュート・アルバム『River』を発表するなど、常にジャズと絶妙な距離を保ってきたジョニ・ミッチェル。マイルスとは、1970年イギリス領ワイト島で行われた「第3回ワイト島ミュージック・フェスティヴァル」に、そのマイルス、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フー、ドアーズらと出演した際、おそらく最初の接触があったと思われ、DVD『Isle of Wight Festival』には、ジョニ・ミッチェルがマイルスとすれ違いざま挨拶する貴重なシーンが収められている。


スクリッティ・ポリッティ Scritti Politti
スクリッティ・ポリッティ


お気に入りであったプリンスとの最接近を図ろうとしていたマイルスが、同じワーナー・レコードに籍を移して発表した1986年の『Tutu』には、グリーン・ガートサイド率いるスクリッティ・ポリッティの「Perfect Way」のリメイク・カヴァーが収録されている。本作制作時に、プロデューサーから渡された参考音源の中にこの曲が収められており、それを気に入ったマイルスが、以前彼らの『Cupid & Psyche 85』に参加していたプロデューサーのマーカス・ミラーにバック・トラックを作らせた。さらには88年、スクリッティ・ポリッティが『Provison』をマーカスと共にレコーディングしていた際、彼らを気に入っていたマイルスがそのスタジオによく顔を出しており、最終的には「Oh Patti」というバラード曲に、マイルスはトランペットで参加することになった。


チャカ・カーン Chaka Khan
(チャカ・カーン)


女王チャカ・カーンの1988年のアルバム『CK』に収録されている、プリンスがプロデュース、作曲、演奏参加した「Sticky Wicked」に晩年のマイルスが参加。オーヴァー・ダビングのミュート・トランペットだけでなく”声”(曲最後のやりとり)での客演も果たしており、プリンスとの唯一の公式共演音源として今も珍重されている。ちなみに本曲は、マイルスが晩年(1986〜90年)に他のアーティストの作品や映画のサントラにゲスト参加した音源をコンパイルした『Special Guest is...Miles』(廃盤)という企画盤にも収録されていた。また、チャカの81年のアルバム『恋のハプニング』に収録されていた「チュニジアの夜」には、ディジー・ガレスピー、ハービー・ハンコックが参加。おそらくマイルスのお気に入りの1曲だったのでは?


ウェイン・ショーター Wayne Shorter
(ウェイン・ショーター)


1964年、マイルスのクインテットにジョージ・コールマンの後任として入団。すでに在籍していたハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスとともに所謂「黄金のクインテット」としてアコースティック・ジャズの頂点を極めた。また、マイルス・クインテットへの加入と同時期にブルーノートでのレコーディングを開始し、数多くの作品を発表した。マイルス・グループでは、1969年の『In A Silent Way』より、後のメイン楽器となるソプラノ・サックスをプレイし始める。『Bitches Brew』が世に出た翌70年にマイルス・グループを脱退し、ジョー・ザヴィヌル、ミロスラフ・ビトウスらとともにウェザー・リポートを結成。その後、ジャコ・パストリアスの参加を得ながら、フュージョン/クロスオーヴァー・ムーヴメントを牽引するスーパー・グループへと羽ばたいていった。


ベニー・モウピン Bennie Maupin
(ベニー・モウピン)


『Bitches Brew』所収の「Sanctuary」において妖しく幻想的なバス・クラリネットを響かせるマルチ・リード奏者ベニー・モーピンは、1969年夏以降のセッションにおいて登用され、ほか、『Tribute To Jack Johnson』における「Yesternow」や、未発表編集盤『Big Fun』収録の「Great Expectations〜Orange Lady」でその音を確認することができる。マイルスのセッションへの参加期間は69年末までとされ、その後は、ハービー・ハンコックのムワンディシ・バンド、ヘッドハンターズなどに在籍し、「電化ハンコック」サウンドを支えることとなる。


ベティ・デイヴィス Betty Davis
(ベティ・デイヴィス)


離婚後にマイルスのことを「バイセクシャルだった」と暴露した2番目の正妻フランシス・テイラーに続いた、『キリマンジャロの娘』のジャケットにも登場する第3の正妻ベティ・デイヴィス、旧姓ベティー・メイブリー。モデル、女優、TVタレント、ブティック・オーナーという多彩な顔を持つ才女で、その交遊関係の広さから、ジミヘン、スライといったブラック・ロック人脈、『Bitches Brew』のジャケット画家でもあるアブドゥル・マティ・クラーウィンといった人物をマイルスに引き合わせ、それまでのマイルスの世界(世界観)を一変させた。双方のリスペクト関係は良好であったものの結婚生活はわずか1年半。離婚後もデイヴィス姓を名乗ったベティは、1973年に『Betty Davis』でレコード・デビュー。3rdアルバムの『Nasty Gal』には、前夫マイルスとギル・エヴァンスの協力を得た「You And I」(邦題:マイルスと私)が収録されている。


ポール・バックマスター Paul Buckmaster
(ポール・バックマスター)


もともと幼少の頃からマイルスのレコードを好んで聴いていた、チェロ奏者/作・編曲家のポール・バックマスターとマイルスは、1969年11月にロンドンで出逢う。バックマスターの作品における音楽理論に興味を持ちはじめていたマイルスは、『On The Corner』のセッションに入る直前の72年に「ニューヨークで行う新しいアルバムのレコーディングに協力してくれ」という旨の電話を入れた。ロンドンからやってきたバックマスターが持参していたドイツの前衛作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンのレコード『グルッペン』、『ミクストゥール』に、マイルスは夢中になったという。『On The Corner』に及ぼしたシュトックハウゼンのレコードの影響力は不明ながら、セッション後もマイルスは熱心にそのレコードを聴き続けていた。また、『On The Corner』セッションは、バックマスターの意のままに行われることがなかったということを本人自ら告白している。


ギル・エヴァンス Gil Evans
(ギル・エヴァンス)


ピアニスト・編曲者としてアメリカのジャズ・ビッグバンド界に革命をもたらした人物として著名なギル・エヴァンス。1948年に、マイルス、ジェリー・マリガンらとノネット(九重奏曲楽団)を結成し、チャーリー・パーカーのビバップとは対照的な音楽性を志した、49年から50年にかけてのセッションは、のちに『The Birth Of Cool(クールの誕生)』として発表されている。その後、編曲家としての活動を並行しながら、再びマイルスと組み、『Miles Ahead』(1957年)、『Porgy & Bess』(1958年)、『Sketches of Spain』(1960年)、『Quiet Nights』(1962年)を発表。その後においても、クレジットこそされていないものの、スタジオ内でアドバイスをしたり、楽譜のメモ書きを演奏者に渡したりと、マイルスの作品には様々な形でかかわり続け、「マイルスの知恵袋」とも呼ばれていた。


ピート・コージー Pete Cosey
(ピート・コージー)


シカゴ出身で、元々は、チェス・レコードのスタジオ・ミュージシャンとしてマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフなどのバックでギターを弾いていたピート・コージー。72年当時、モーリス・ホワイトらと結成したグループ(のちにアース・ウインド&ファイアに発展)で活動していたコージーは、同年9月のフェスティヴァル出演時の楽屋にたまたま居合わせたレジー・ルーカスやエムトゥーメらとジャム・セッションを行い、エムトゥーメを介してその後73年のツアーからマイルス・バンドに加入(この時点でバンドは”テンテット”にまで拡大した)することとなった。”ブラックベアード(黒ひげ)”と称されたその容姿で、悠然と椅子に座りながら歪みまくった爆音でレスポールをかき鳴らすその様は、痛快極まりない。また、ギターのほかに各種パーカッション、キーボードなどマルチ・インスト奏者としての多彩な才能で、「エレクトリック・マイルス」のサウンドを支えていた。


アル・フォスター Al Foster
(アル・フォスター)


1972年からマイルス・グループに参加したドラム奏者アル・フォスター。『On The Corner』の世界をライヴで実現させようとした『Miles Davis In Concert』以降、『Agharta』、『Pangaea』に至るまでのステージで、唯一無二のハイハット連打、シンバル捌きをみせた。1981年、マイルスの復帰と共にフォスターもカムバック。同年の日本公演にも同行し、その後晩年に及ぶまでマイルス作品のリズムを生み出した。おそらくマイルスが、技術面においても人間的な面においても最も信頼していたミュージシャンのひとりだっと言えるだろう。


チャーリー・パーカー Charlie Parker
(チャーリー・パーカー)


1944年、当時18歳のマイルスは、地元セントルイスで偶然にもチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーと同じステージに立つことができた。パーカーをアイドルとするマイルスは、その当時最新のジャズのムーヴメント「ビ・バップ」を求め、言うなれば「バードに会うため」に、同年9月ニューヨークへ行くことを決意。上京のための”口実”とも言われるジュリアード音楽院入学後、昼は学校、夜はパーカー、ディズとのセッションというめまぐるしくも濃厚な日々を送るようになる。そして、1945年秋、ディズの後釜としてマイルスは晴れてパーカー楽団のトランペッターに抜擢され、同年11月、マイルス初めてのスタジオ・レコーディングを行うこととなった。その後の1947年には、パーカーやマックス・ローチらのサポートを得て、「マイルス・デイヴィス・オールスターズ」という名義で初のリーダー・セッションをSavoyで行っている。


レオン “ンドゥグ” チャンスラー Leon ”Ndugu” Chancler
(レオン“ンドゥグ”チャンスラー)


マイルス・バンドには71年秋にジャック・ディジョネットの後任として参加。ディジョネットの重厚なそれとは対照的に、軽快なドラミングでバンドに躍動感をもたらしたが、『On The Corner』セッションに入る直前に、「ドラムのチューニングが気に入らない」という理由で解雇を言い渡された。また、キース・ジャレットも長年つれ添ったディジョネットの演奏に慣れていたために、チャンスラーのドラムには不満を抱いていたという。解雇後は、ハービー・ハンコック、ジョージ・デュークらのグループに在籍し、70年代後半には自身のユニット、チョコレート・ジャム・カンパニーを率いて『The Spread Of The Future』、『Do I Make You Feel Better?』といったアルバムをリリース。80年代にはクルセイダーズの一員としても腕を揮っている。