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Ben Sidran+Georgie FameインタビューB

Monday, April 7th 2008

無題ドキュメント
Ben Sidran & Georgie Fame interview

Ben Sidran & Georgie Fame インタビュー


ビリー・ジョエルは、すごく嫌がったのだけれど、
歌詞やアレンジを変えて「New York State of Mind」をレコーディングしたんだ


--- ジョージィさんにお伺いします。79年の『That's What Friends Are For』。この表題曲は、エルヴィス・コステロによるものですが、あなたをアイドルとして慕う、次の世代のアーティスト達と仕事をするということは、大変意義深いことだったのではないでしょうか?

Georgie  当時は、彼のことを全く知らなかったんだけど、私向けの曲だと言って、彼がレコード会社にデモを送ったんだ。その後、コステロとは2、3回ぐらい会ったかな。私が初めてビッグバンドを編成したアルバム(Georgie Fame & The Harry South Big Band『Sound Venture』(66年))について、彼はどこかのインタビューで「ああいうのをやりたいと思っていたんだ」と話していたのを見てね。ちょっとびっくりしたよ(笑)。

--- 80年には、ジャマイカン・ビートを取り入れたユニークなアルバム『Closing The Gap』をリリースしています。当時は、レゲエ・ミュージックにも大きな関心があったのでしょうか?

Georgie  60年代前半、特に61〜63年ぐらいのロンドンでは、ジャマイカ文化が非常に栄えていて、まさにジャマイカの人達と生活を共にしているという感じだったんだよ。自主制作で、本当に初めて作ったレコードというのは、ジャマイカのミュージシャン達と一緒に演っていたものだったんだ。

それから20年後、所属していたレコード会社の方が、「これからどういう方向性で行こうか?」と、私に何をやらせていいか分からないようなことを言っていたんだ(笑)。その時、私は、ちょうど西インド諸島に居たので、じゃあ、ちょっとジャマイカン・ミュージックみたいなものをやってもらうのはどうだろう、っていう話になったんだ。でも、あのレコード自体は、個人的にあまり好きじゃないんだ。レコード会社に言われるままに作ったところがあったからね。61年とかに自分で作ったものの方が、全然いいものだったと思っているよ。

--- 内容的にも、少し不本意だったと?

Georgie  ジャマイカン・ミュージックは好きだし、ジャマイカ人の友人も大勢いるんだけれど・・・ただ、あのアルバムに関しては、プロダクションや、作曲法もそうだし、アーティストとしての感情的な部分にしても、クリエイティヴな面にしても、考えていたような方向性で作られたものではなかったんだ。まぁ、不本意だよね。だから、そのマスター・テープを持っておいて、全部燃やしてしまおうって思っていたんだ(笑)。長いキャリアの中では、こういった、ちょっとした「しゃっくり」みたいなものは付き物だよね(笑)。もちろん2度としないけど(笑)。

--- では、ベンさんにお伺いします。『Feel Your Groove』(1971)では、ジェシ・エド・デイヴィスがプロデュースを行なっているのですが、何をきっかけに知り合い、プロデュースを依頼するに至ったのでしょうか?

Ben  確か、69年ぐらいにロンドンのオリンピック・スタジオで初めて会ったんだと思うけれど。グリン・ジョーンズが、ジェシのアルバムをプロデュースしていて、その時に、キーボードを弾いてくれないかと頼まれたんだ。その2年後、私がキャピトルと契約した時に、今度は私のアルバムで一緒にやるようなったんだ。それ以前、ジェシは、タジ・マハールなんかとバンドをやっていたんだよね。

彼は、確か20年ぐらい前に死んでしまったと思うけれど・・・とてもワイルドで、クレイジーな人間だったよ。レオン・ラッセルなんかと一緒で、オクラホマ州ノーマンの出身でね。本当に素晴らしいスライド・ギターを弾いて、リズム感も抜群で、ただ、感情的にはちょっと不安定なところがあったんだ。でも、私とジェシは音楽的な面で、とても通じ合える部分があって、彼のまさに「ロックしている」ところが、私も大好きだった。70〜72年あたりのロサンゼルスの音楽シーンっていうのは、本当にワイルドだったよ。「何でもやっちゃえ!」みたいな空気が充満していた時期だったんだ。


Ben Sidran@Cotton Club
                                      写真提供:コットンクラブジャパン/撮影:土居政則


--- 『I Lead A Life』から『Don't Let Go』までは、クライド・スタブルフィールドが、ほとんどの曲でドラムを叩き、素晴らしいグルーヴを聴かせてくれます。

Ben  彼とは、同じ街に住んでいるから、今もよく会うんだよ。セッションなんかは、しばらくやってはいないけどね。息子のリオが、16か17の時だったかな。毎週月曜に「マンデイ・ブルース・ギグ」というのがあって、そこでクライドが叩いていると、急にステージを降りて、リオのいるところにやってきて、スティックを渡して、「あとは頼む」ってどこかに行ってしまったことがあるんだ(笑)。そんな風に、リオは、クライドに教育されたんだ(笑)。

--- 『Free in America』では、プロダクション・アシスタントにトミー・リピューマと、マイケル・カスクーナのクレジットがあるのですが、制作上、彼らからどのようなアドヴァイスを受けていたのでしょうか?

Ben  面白い質問だね。トミー・リピューマとは、1972年にブルーサム・レコーズでの仕事で初めて会ったんだ。彼は、当時とても売れっ子で、ワーナーからのヒット・アルバムをほとんど手掛けていたんだ。マイケル・カスクーナもそうだ。

最初の3枚のアルバムでは、本当に色々なことをやっていたんだ。そこで、もう少し統括した形にしたいと考え、彼らに、最初の3枚のアルバムとは違った感じのものがやりたいと言ったんだ。そして、2人が一緒にスタジオに入ってきて、コントロール・ルームにいて、私がプレイを始めたわけなんだけれど。「さぁ、作ろう!」というような、フォーマルで気負った感じは全くなくて、友達同士で遊んでいたら、何となく出来てしまったというのが正直なところだよ。トニー・ウィリアムス(ds)や、リチャード・デイビス(b)は、マイケルが紹介してくれたんだ。

--- このアルバムでは、まだ無名だったビリー・ジョエルの「New York State of Mind」を誰よりも早く吹き込んでいますね。

Ben  あの曲は、元々、ビリー・ジョエルが、フランク・シナトラの為に書いたものだったんだ。実際、シナトラにテープを送ったのだけれど、採用されなかったんだ。偶然、L.A.のある出版会社のオフィスにいたら、そこの社長が、「ベン、これいい曲だと思うんだけど、ちょっとやってみないか?」って言ってきたんだ。それが、「New York State of Mind」だったんだ。私は、「歌詞やアレンジをちょっと変えてもいいのなら」と言って・・・ビリー・ジョエルは、すごく嫌がったのだけれど(笑)、レコーディングしてみたんだ。リチャード・ティーがオルガンを弾いて、これぞニューヨークという感じのヴァージョンでね。だから、当時のニューヨークでは、よくラジオでかかっていたよ。でも、ビリー・ジョエルは、私のヴァージョンを認めなかったんだ。もっと言えば、私が演ったこと自体が、もう気に入らなかったんだね。

その頃、私はニューヨークにある「ビター・エンド」というクラブで演奏していたのだけれど、そこにビリー・ジョエルが来て・・・確か「Piano Man」ぐらいのヒットはあったけれど、そこまで大スターにはなっていなかったと思うけど・・・私の目の前に座ったんだよ(笑)。すでに、彼が私のヴァージョンを気に入っていないというのは知っていたから、その晩は、3セットのショウだったのだけれど、最後の最後まで「New York State of Mind」をやらずにいたんだ(笑)。そこまで、ずっと気が気じゃない感じで待っていた彼の姿が、なんとも可笑しかったよ(笑)。


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ベン・シドラン
1943年シカゴ生まれの彼は7歳でピアノを始め、間もなくジャズやロックの虜に。大学時代のバンド仲間には、スティーヴ・ミラーやボズ・スキャッグスもいた。ソロ・アルバムも20枚を超え、プロデューサーとしてもヴァン・モリソン、リッキー・リー・ジョーンズ、クレモンティーヌ、モーズ・アリソンなどのヒット作に関与。90年代には、Go Jazzレーベルを設立して話題の的となり、現在は自らの姓を逆につづった(敬愛するマイルス・デイヴィスの曲名でもある)Nardisを本拠地として活動中。音楽のフィールド以外でも、評論家、作家、テレビ・キャスター、ラジオDJ等の活動を行ない、その見識の広さから「ドクター・ジャズ」の異名をとり、常に時代の一歩先を行くスタイリッシュな音楽をクリエイトしている。

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ジョージィ・フェイム
本名・クライヴ・パウエル。1943年6月26日、イングランドのランカシャー州のリーに生まれた。やがて50年代のアメリカン・オリジナル・ロックンロールの数々に刺激され、ロンドンに進出。60年には、ジーン・ヴィンセントとエディ・コクランの英国ツアーに参加。その後、ジョージィ・フェイム&ザ・ブルー・フレイムズとして本格的に活動を開始し、所謂「モッズR&B」の先駆者的存在となる。60〜70年代には、ジャズ志向を打ち出したりと、音楽的領域を広げながらコンスタントに名作をリリース。80年代末からは、モッズの復興やレアグルーヴ・ムーヴメントによる再評価を獲得。89年、ツアー先のオーストラリアで共通の友人を通じ、ベン・シドランと出会う。意気投合した2人は、ベン主宰のGo Jazzレーベルより『クール・キャット・ブルース』、『ザ・ブルース・アンド・ミー』という2枚のアルバムを制作。その後も、敬愛するモーズ・アリソンの作品集『Tell Me Something』で共演したり、再び、Go Jazzレーベルでタッグを組み『ポエット・イン・ニューヨーク』をリリース。ヨーロッパでは、互いの息子たちをサポートに従え、ライブ活動も精力的に行なっている。

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