日本のシンガーTOP30 - 第19位

2005年12月3日 (土)

気がつけば口ずさむ。忌野清志郎

忌野清志郎
hmv.co.jp独断と偏見のJP Top Singer第19位は忌野清志郎。おりしも2005年に活動35周年を迎える忌野清志郎は、いつだってリアルで、いつだってみんなを何かワクワクした所に巻き込む。歌に力があるという事はきっとそういう事。


1970年、全ては始まった。その年の3月に「宝くじは買わない」でデビューしたRCサクセション(以下RC)。彼等はその後、日本のロックに鮮やかな一筋のラインを刻んでいく

今年2005年は、忌野清志郎RCサクセションとしてデビューしてから35年目の節目の年。決してコマーシャルな歌だけを歌っているわけではないのですが、そのずば抜けた才能・センス・キャラクターで、テレビやCMでも大活躍。そういうタレント活動も厭わないナチュラルなバランス感覚と、大衆性、でも媚びずに言うことは言うというスタンスは、新しい熱狂的ファンを今現在も巻き込み続けています。

忌野清志郎駆け足バイオグラフィ

1951年4月2日に東京は中野区にてこの世に生を受ける。

1966年
RCサクセションの前進となるバンド「ザ・クローバー」を結成。メンバーは後にRCにも連なる小林和生と破廉ケンチ。

バンドは1969年にRCサクセションとしてオーディションに合格。高校卒業間近の1970年「宝くじは買わない」という曲で東芝音工(今の東芝EMI)よりデビューを果たした。

結成当時の他のメンバーは小林和生、破廉ケンチの二人。RCサクセションは時代と共にフォーク〜エレクトリックフォーク〜ロック〜ロック/ソウル/R&B〜というおおまかな流れの音楽的変化を経ていますが、デビュー当時は時代背景もあり「フォークグループ」とされていた。

忌野清志郎の盟友といえば後にRCにも加入するChaboこと仲井戸麗市。彼等は1971年ごろには渋谷のライブハウス「青い森」で出会っているようです。

比較的早いデビューを果たした彼等。しかしデビュー後のバンドを取り巻く状況は、決して安定したものではありませんでした。

1972年にアルバム『初期のRCサクセション』をリリースするも、アルバムの録音は思い描いていた通りには進まず、さらに演奏がスタッフの手によって勝手に差し替えられるという事態(最も当時としては普通にあったことだが)も起こり、不信感を募らせる。

同時にリリースしたシングル「僕の好きな先生」がヒットし、RCの名は表面上は浮き上がってきたものの、先述の事件などもあり必ずしも恵まれた状況とは言えなかった。

1973年
フォークからニューミュージックへと時代が変遷していくなかで、RCもフォークギターからエレキギターにシフト。これによりサウンドという点でもロックンロールバンドとしてのRCがスタートする。

バンドは相変わらず売れてはいなかったが、清志郎は井上陽水のアルバム『氷の世界』の制作に参加。共作曲「帰れない二人」「待ちぼうけ」などが収録されたこのアルバムは、日本初のミリオンセラーに。そのお陰で清志郎は多額の印税を手にすることに。バンドは不遇の時期だったが、これでなんとか補うことが出来た。

1976年
1月に今や名曲の誉れ高い「スローバラード」を発表。しかし当時は全く売れず。その後のアルバム『シングル・マン』も発売後間もなく廃盤という憂き目にあう。その後10月には意味深なシングル「わかってもらえるさ」を発売。

1978年頃には前年にバンドを脱退したオリジナルメンバーの破廉ケンチの代わりに、当時古井戸で活動していた仲井戸麗市がサポートギターとして参加。その他にもギターに春日博文、ドラムに新井田耕造を迎え入れさらにエレクトリックバンド色を強めていく。

グラムロックや前衛演劇の影響を受けたような独特の奇抜なメイクを施すようになり、渋谷のライブハウス「屋根裏」を拠点にライブ活動を展開していく。

1979年に発売したアルバム『ステップ!』が一定の評価を得て僅かに風向きが変わってゆく。その年の大晦日「浅草ロックフェス」に出演し、客席を総立ちにさせる。また、廃盤となっていたアルバム『シングル・マン』の再発実行委員会が有志によって設立され、自主制作ながら再発された。

1980年には伝説の久保講堂でのワンマンライブを行い、その模様は6月に『Rhapsody』として発売された。また2005年には『ラプソディネイキッド』という完全盤が発売され、大きな話題となった。メンバーも忌野、小林、仲井戸、新井田、Gee2wooの5人体制で固定された。

1981年頃になると、全国ツアーは完売。さらに夏のイベントはメインアクトクラスを努めるようになる。RCがブレイクの波に乗ったのは意外と遅く、1980年を境に道が開けたとしたら、苦節10年ということになる。

その後は怒涛の活動を続け、1982年に坂本龍一とコラボレーションしたシングル『い・け・な・いルージュマジック』や、83年の三菱自動車のCM曲『ベイビー!逃げるんだ。』(忌野本人も出演)など、質・量ともに活動が充実していく。

1987年
前年に単身で行ったイギリスのカルト・バンド「Ian Dury & Block Heads」のメンバーとともにアルバム『Razor Sharp』をリリース。ソロ忌野清志郎として新たな一面を見せる。

1988年
RCとしては2年ぶりのアルバム『Marvy』をリリース。そのツアー後再びレコーディングに入る。しかし、そこで制作された全編カヴァーアルバム『Covers』が突然発売中止に。反戦や反核、反原発をうたったポリティカルな内容であったため、大手のレコード会社がリリースに難色を示したという。

しかし、その後キティレコードから無事にリリースされるや、その話題性も若干の後押しになりオリコン初登場1位を獲得する大ヒット!という皮肉な結果に。

1990年代に入り、RCも20周年という節目を迎える頃キーボードとドラムが脱退してしまう。しかし、残りの3人で制作したアルバム『Baby a Go Go』を発表。さらに坂本冬美三宅伸治らとSMIなるユニットを結成し、ライブアルバムを発表。

1991年
ついにRCサクセションは活動無期限休止状態となる。ソロとして建設会社のCFソング「パパの歌」を制作したところ、評判が良かった為リリース。ヒットする。

さらに同年SMIの流れからユニットHISを結成。7月にアルバム『HIS』を発表。この辺りから忌野清志郎は即席ユニットや、様々な変名活動などを行う。

1993年には自身初となる映画役者デビュー。アルバム『Music From Power House』をリリース。1994年には念願のプライベート・スタジオ「ロックン・ロール研究所」を設立する。

1995年には忌野清志郎と深ーいつながりのある謎のバンドTimersが5年ぶりのアルバム『復活!The Timers』、さらに『不死身のタイマーズ』をリリース。

1998年
実に14年間在籍した東芝EMIを離れポリドールに移籍。夏にはFuji Rock Festivalに出演。オーディエンスは決して清志郎世代ではないにもかかわらず、大好評。以後フジロックにとって清志郎は欠かせない名物となった。

1999年
バンドLittle Screaming Review名義での3rdアルバムをレコーディングするも、そこに収録されていた「パンク調の君が代」にポリドールが難色を示しリリースが困難に。

結局自身が運営するインディーレーベルからのリリースでカタがつくが、このニュースは当時芸能系ニュースだけではなく、一般の社会ニュースとしても取り上げられた。

2001年
自転車にのることを思い立ち、チームLSDを結成。鹿児島への到着を目標とする。2002年に入ると泉谷しげるとのユニット、宇宙人バンドLove Jetsとしての活動など、かなり多岐に渡る活動を行う。

2003年には4年ぶりのソロアルバム『King』を発表。全国ツアーも行う。さらに自転車乗りとしても注目を集めるようになり、自転車アニメ映画のエンディング「自転車ショー歌」を歌ったりもする。

2004年に入ると、前年からのツアーの追加公演を"One Man Show"としてパルコ劇場で催す。ドラマ出演やテレビ出演もこなし7月にはフジロックのグリーンステージに立つ。

2005年3月にはアルバム『God』を発表。さらにこの年は35周年記念ということもあり、様々なリリースを重ねる。ライムスターと共演した「雨上がりの夜空に35」など、ラップがあまり好きではなかったはずの清志郎にしては大胆な試みもあった。

目下最新のオリジナルリリースは2005年7月に井上陽水とデュエット(意外にもこれが初めて)したシングル『愛を謳おう』、さらに新曲ではないが、結婚式の定番となるラブソングを集めたシングル『仕草』を2005年12月7日に発売。

※表示のポイント倍率は、
ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。