「評論家の仕事」
2012年6月25日 (月)
連載 許光俊の言いたい放題 第207回「評論家の仕事」
どういうわけか、ここのところ、名を知られた音楽関係者が次々に世を去った。
オペラに関心を持つ者なら、一度は永竹由幸氏の文章を読んだことがあるはずだ。学生時代からイタリア・オペラに熱中し、商社のイタリア勤務を経てイタリア婦人と結婚し、日本に戻ってからは数々の著作を発表した。まさにイタリア・オペラに捧げた人生だったのだろう。親しみやすいというか、妙に下世話な語り口が個性的で、特に新潮社から出していたCDブックは好き勝手言い放題、妄想し放題で、おもしろかった。
畑中良輔氏は声楽界の重鎮だったそうだが、私はそういう世界に出入りしているわけではないので、詳細は知らない。ただ、書いたものは素直で明快な主張を持っていて好感を持てた。特に、自分の生涯を振り返った文章は、重みがあったと思う。
吉田秀和氏は、もう今更言うまでもない音楽界の大物で、ファンがたくさんいた。私も同じ物書きだから、氏の文章がどれほど巧妙なものだったかは、身にしみてわかる。最晩年には文芸誌の「すばる」で「思い出の中の友達たち」という連載をしていたが、これは味があってよかった。記憶の中を歩むうちに自分もその中に溶けていくような夢幻の趣の、まさしく最晩年ならではのしみじみした文章で、たぶんこれが氏の最後の文章になるであろうことは容易に想像できた。
私も彼らの文章をずいぶん読んだ。知らず知らずに学んだことも多いはずだ。
しかし、である。時代は彼らの働き盛りの頃とは大きく変わってしまった。もはや音楽界だの音楽マスコミだの新聞や放送だのが絶対的な力を持つ時代ではない。音楽之友社や朝日新聞やNHKの権威を背景に物が言えた時代は終わった。どんなマスコミだってみんな利権絡み、欲得ずくの話が多いだろうと、たいがいの大人なら疑うだろう。
西洋のものを紹介すればそれでよいというほど単純な時代でもない。また、情報の速度や量という点でほとんど平等になり、誰もがやる気になれば情報発信できる時代だから、誰かがリーダーになって他の人々を引っ張っていくという構図もできにくくなった。
流行り廃りも激しい。人々は常に変化を求めている。吉田氏や宇野功芳氏のように、一度確立した自分のスタイルを高齢になるまでずっと続けるという仕事の仕方はもはや不可能と言ってよいのではないか。
先日も、腕がある料理人が、不景気ゆえに店を畳んだという番組をテレビでやっていた。私がよく知っている人だけに驚いたし、ショックだった。実力者が銀座で店をやっていてもうまくいかないという厳しい時代なのである。経済的にシビアなうえ、人々は飽きっぽくなり、常に新しいものを求め、古いものをどんどん捨てていく。
かつてない世界的な不景気。白熱電灯を作らない、売らないとまで言う、日本における度を超すほどの節約ムード。異常な速度での流行り廃り・・・。こうした風潮に呑まれてはならない。人間が時間をかけて作ってきた美が失われてしまう。時間をかけないとできないものが消えてしまう。最近、私はこう痛感することが多い。
だからこそ、あえてこんな時代に、豊かさや贅沢のすばらしさを訴える本を書いた。それが先日発行された『最高に贅沢なクラシック』(講談社現代新書)だ。新書というきわめて一般向けの形の中で、しょせんは少数者のためのものかもしれない贅沢を勧めるとは、非常に矛盾を抱えた試みであることはわかっている。また、十分な説得力を持たせるためには、ディテールに凝らねばならないが、そうすると新書にしては重みが増しすぎる。うーん、これはやっぱり新書ではできないテーマかと執筆途中で何度も考え込んだ、想像以上に難しいテーマである。
だが、こうした困難な要素があることは明白にもかかわらず、やはり今言っておかねばならないという気がしたのである。理念としての豊かさ、贅沢があるのではないか。それをできるだけ多くの人が読める形で言っておかねばならないのではないか。縮こまる方向性ばかりが目立つ今にこそ。
これもまた最近特に思うことだが、人間は矛盾を抱えている。世界も矛盾に満ちている。「機械のようで魅力がない演奏」と「精巧な機械のような美しさを持つ演奏」は平気で両立することなのだ。もう長いこと矛盾がない文章を書こうと心がけてきた。実際、それが文章の基本ではあると思うけれど、ここしばらく前から、あえて矛盾を消し去らないやり方を取るべきだという気がしている。ぱっと見たところのわかりやすさには欠けることにはなるが、よりリアルであるためにはそうするしかないのではないか。矛盾を追放した文章とは、結局「お話」でしかないことが多いのではないか。
そういう点で、『最高に贅沢なクラシック』は、私が書いた他の本より、わかりにくさがあるかもしれない。誤解される部分があるかもしれない。が、それでよいのである。ぶれ、揺らぎ、曖昧さ、矛盾、ノイズ、そうしたものが混じり合っているところに意味があるのである。むろんただの贅沢万歳、西欧万歳を書いたわけではない。光を描いているようで、そこには影もあること。しっかりした地盤の上に立っているようでも、実はそれは揺れていること。そのあたりのニュアンスが伝わればよいが、さてどんなものか。
評論家は、単なる宣伝文のようなものばかり書いてはいけない。議論、異議を呼び起こすような視点やテーマを提出することのほうがよほど大事なのである。読者にしても、一見わかりやすい解説を喜んだりせず、むしろ書き手の苦渋が感じられる文章のほうに価値を見出すべきなのである。わかりやすい解説には、麻薬のような魔力がある。が、書くほうも読むほうもそれに満足していてはだめだと私は思う。
それにしても、文章は書けば書くほど、自分の無能力ぶりが嫌になる。至らぬ点がたくさん見つかるようになってくる。20代の頃には、もっと簡単に書けた。高齢の音楽家や料理人が、歳を取るほどに仕事の難しさを思い知らされると言うことの意味が最近はよくわかる。
演奏家にしても話は同じである。若気の至りで突っ走れた時代が過ぎ去ったあとで、難しい時期になる。今、この世の中でどんな音楽をやればよいのか。考えれば考えるほどわからなくなって当然だろう。しかも悪いことに、次々に新しい演奏家が売り出され、気が付くと存在感が薄くなっている人がどれほど多いことか。
何しろ5月に来日したポゴレリチのコンサートは、東京では2日とも目を疑うほどのすきぐあいだった。いくら最近は超ノロノロ演奏で、一般受けは期待できない音楽とは言え、惨状と呼びたくなるようなありさまだった。その分、聴き手は熱心な人が多く、音響もよくなるわけだから、よいと言えばよいのだが、弾くほうはおもしろくないだろう。演奏は、超ノロノロ部分と速い部分のコントラストが効いた見事なもので、凄絶な「ロ短調」ソナタを体験できた人がごく少数しかいなかったのが何とももったいなかった。ポゴレリチは今でも1日8時間練習するそうだが、いろいろと解釈を変えてきている。
余談だが、ポゴレリチが髪の毛を切り落としてタコ入道になったのほ、1日3回洗髪するのが嫌になったからだそう。誰も想像できない理由だろう。やはり怪人である。強弱、速い遅いと同じく、普段の生活においても極端なコントラストが好きな人なのかもしれない。
それだけに、今年85歳のブロムシュテットがゲヴァントハウス管を指揮したブルックナーの交響曲第4番のようなあまりにも素直な演奏を聴くと、妙にすがすがしいのも事実だ。一定のテンポで音楽がさらさら流れていくだけと言えばそうなのだが、オーケストラの魅力が生きている。よほど超絶的な個性の持ち主が指揮するのでなければ、これで十分ではないかと思えてくる。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。
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