「グルダがしみる!」

2012年4月2日 (月)

連載 許光俊の言いたい放題 第205回

「グルダがしみる!」

 前回、大学を卒業する若者たちに対して腹立たしい思いがしたことを書いた。
 だが、私はそのとき知っていたのだ。自分が彼らに嫉妬していることを。彼らは新しい世界へ出発する。だが、教師はずっとそこに留まる。もし学校が牢獄だとしたら、教師が看守で、生徒は囚人のようにイメージされるだろうが、しかしこの囚人は、数年のちには釈放され、どこなりとも好きなところへ行ける。が、看守はずっとそこに居続けなければならない。もしかして本当の囚人は自分のほうではないのか? おまけに、自分は歳を取っていくのに、毎年新しい、罪のなさそうな顔をした若者が次々にやってくる。数年前から、教師ほど残酷なめにあわされている職業もないかもしれないと考えるときがある。
 などとついつい悲観的にものごとを見てしまうのが春ならではの憂鬱に違いあるまい。そのせいなのかどうか、最近妙に心にしみるCDがある。グルダの演奏を記録したテープから作られたモーツァルトのセットだ。本来破棄されるべきものが残っていたということらしいが、まことに幸いだった。
 もちろん、とっくの昔からグルダのモーツァルトはクラシック界の至宝とされてきた。私自身も好きで、いろいろな本の中でも褒めてきた。この録音も発売されて間もなく聴いたのだが、そのときはどういうわけか強い印象を受けなかった。が、数日前にふと聴き直してみたら、もう音のひとつひとつが心にしみてくるのである。こういう不思議なことが、ときたま起きる。おもしろいように音楽と自分がシンクロする。次に鳴る音が、まるで自分が生み出した音のように感じられる。何なんでしょう、この現象。
 グルダは、聴衆のほうを見ながらリアクションを確認しつつ弾いているかのようなときがあったが、この録音はそうではない。ひたすら真剣に曲やピアノに向かい合っている。それがすごい緊張感、緊迫感を生む。音に遊びがない。だから、ひたすら視線まっすぐのベートーヴェンの曲のように聞こえる。決め所の和音の力強さも常識を超える。もしかして、ベートーヴェンが弾いたモーツァルトはこのようだったのではないだろうか。K.570のゆっくりした楽章も、ベートーヴェンの中期ソナタのそれみたいに聞こえるのがおもしろい。しっかりしたおおまじめなバスの動きも理由のひとつだ。さらに、フィナーレからは、これが晩年に書かれた死臭漂う音楽だということがわかる。決して枯れた演奏ではないのに、恐ろしく虚無的で孤独に聞こえる。このように強烈な虚無の気配を漂わせる音楽を書いた人は、モーツァルトとシューベルトしかいない。そして、一見ナンパを気取ったグルダほどそれを痛感させるピアニストもなかなかいない。
 グルダほどピアノで巧みに歌える人は稀である。私はロシア系のピアニストをあまり好まないが、それは音楽の根底にこのような歌があまり感じられないからである。ことモーツァルトに関しては、こうしたグルダの特徴が有利に働くのは当然だ。何しろ、モーツァルトの音楽は歌うアレグロと呼ばれ、彼の才能は何よりオペラにおいて発揮されたのだから。おまけで付いているCDの中で、グルダは「フィガロの結婚」のスザンナのアリアを弾いている。もしピアノで恋を語れるピアニストがいるとしたら、グルダが最右翼だと私は拙著『世界最高のピアニスト』(光文社新書)で書いたが、その意見は揺るがない。
 そして、転調が圧倒的に巧みだ。和音のニュアンスが実に鮮やか。あらかじめ調律されてしまっている楽器であるピアノを使って、これほど転調の妙や意味をはっきりわからせるとは、当然こうでなければならないとはいえ、改めて感心する。
 イ短調のソナタK.310は、ゴージャスと言いたいほど壮麗な悲しみの宮殿だ。息を呑むばかりの圧倒的な大きさがある。フーガ的な部分の上昇エネルギーは、バッハの「シャコンヌ」やベートーヴェンの後期ソナタを連想させる。
 とにかく、目下のところ聴くたびに心にしみてしまう、すばらしい演奏が詰まっているセットなのである。

 「しみる」という言葉は不思議である。心にしみるほかにも、胸にしみたり、キズにしみたり。しみるものも、美だったり、油だったり、水だったり。
 最近発売された拙著『クラシックがしみる!』(青弓社)の書名は、出版者側のアイディアだが、結果的にはおもしろいのではないかと思う(背文字が血みたいな赤というのが毒々しくて笑えます)。これは季刊「ステレオサウンド」に連載していたものに加筆して、書き下ろしも2つ加えたもの。比較的ゆったりしたテンポのエッセイ集である。
 本の作り方は大きく2つあって、ひとつは書きためたものを集めたもの。本当にバラバラの内容のときもあるが、私などは将来的にまとめることを見越して構想を練ることも多い。もっとも、最近は本の売れ行きがよくないので、こうした作り方はかつてより減っているようだ。
 もうひとつは完全書き下ろし。これは全体の構成を緻密に考えながら書けるので(と言うか、せっかく一気に書くのだから、そうしないともったいない)、別種のおもしろさがある。
 世の中的には、書き下ろしのほうが偉いみたいな感じがあるかもしれないが、私にとってはどちらも同じ。前者のタイプの本を出したばかりの今は、某新書のために書き下ろしに没頭している。世界音楽地獄巡りのような内容だ。
 最近は、とにかくコマギレの文章が世間に溢れている。クラシック業界も例外ではない。少し前までは400字10枚というのが一種のスタンダードだったのだが・・・。また、ウェブ上では長い文章を読むのが何だか大儀だというのも否定しがたい事実。吉田秀和や宇野功芳のような音楽評論家が生まれたのも、長い原稿依頼が可能な雑誌の時代があったからで、1200字で要点を述べよ、みたいに書かされていなかったからだ。短い文章では、その人ならではの論理の展開や、感覚の変遷を書くことができない。どうしても事実報告型になる。今後、情報の羅列以外で長い評論を書ける人はあまり現れないのではないか。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


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