「マイルス ラスト・イヤーズ」 中山康樹さんに訊く 〈3〉
2010年12月13日 (月)

- --- 1985年の(註)「ラバー・バンド・セッション」において、マイルスは直々に(註)ジョージ・デュークをグループに誘っていますが、そこでまたしても一般的な時間の感覚を超越したエピソードが明らかにされていました。1971年に「俺のバンドに入れ。また後で電話する」と伝えたまま音沙汰なしの状態が続き、実際には14年後の1985年に再びマイルスはジョージ・デュークに勧誘の電話を入れています。
だから、沈黙期の6年にしても僕らの時間の感覚とは違うと思いますよ。
(註)「ラバー・バンド・セッション」・・・1985年10月17日から行なわれたセッションの通称。ランディ・ホール(g,key,vo)を中心的なコラボレイターに起用し、グレン・ブリス(sax)、ゼイン・ギレス(g,key)、アダム・ホルツマン(synth)、ニール・ラーセン(key)、ヴィンス・ウィルバーン(ds)、ウェイン・リンゼイ(key)、スティーヴ・リード(per)、マイク・スターン(g 10月17日のみ)という布陣で行なわれた最初のセッションで「Rubberband」という楽曲が吹き込まれ、この名が付いた。欧州ツアーのためしばしの中断を挟み、85年11月にセッションは再開。この時点でランディ・ホールがセッション・メンバーから外され、「ラバー・バンド・セッション」は事実上の終息。翌86年1月、マイルスは、14年前の1971年に一度グループ参加を持ちかけたジョージ・デュークに再び電話を入れ、新曲とデモ・テープの提出を求めた。マイルスから参考に送られてきたというイラケレのテープを聴き、書き上げた1曲が「Backyard Ritual」であった。また、長年未発表となっていた「Rubberband」は、先ごろリリースされた帝王のワーナー期のアンソロジー盤『Perfect Way -The Miles Davis Anthology』に収録されている。 - --- あっという間だったのでしょうか?
どうなんでしょうね?・・・とにかく、アーティストであるというところなんですよ、肝は。例えば、映画監督は、映画をそこで撮影していなくても映画監督なんですよね。そこで実際に絵を描いていなくても画家であると。テレビ・タレントみたいに毎日のようにテレビに出ずっぱりという感覚ではないわけで・・・何と言うか、別に作品を発表しなくてもアーティストはアーティストであるという。その中で、締め切りだったり、いつ何かしなきゃいけないみたいな時間の拘束というのは、マイルスぐらいになると余程の契約事項にない限りはないと思うんですよ。朝、昼、夜ぐらいの感覚だけで。僕らには、どうムチャクチャやったってあるじゃないですか(笑)? それが多分どこかでなくなるんだと思うんですよ。時空を越えたところでなければ、僕らが棲んでいない世界に棲まないと、発想の部分なんかで、ああいった作品は作れないでしょうね。クスリに頼っていたところはあったにせよ。僕らがそんなところへ行ったらバカになるだけでしょうけど(笑)、本当に才能のある人間というのは・・・
- --- ほぼ、十進法で物事を捉えていないという・・・
だから、マイルスに会っても、「久しぶりですね」「今日はいい天気ですね」のような日常の挨拶や会話なんかは生まれない(笑)。前回もお話しましたが、昔のことを執拗に憶えていたりして、そのこと自体が違う時計を持っているんですよね。それは結局、音楽の中に生きているということだからなんですかねぇ・・・。僕らのように18時に仕事が終わり、時間が切り替わって、立場が変わって、みたいなことではなくて、ずっとマイルス・デイヴィスなわけですから。
- --- また当然、音楽をやっていること自体に、「仕事」という意識はさほど強くないのでしょうね。
きっとそうでしょうね。そういう意味では、必要のないときに音を出さなかった。それがたまたま6年近くになったということかもしれないですよね。マイルスにとっての表現のいち手段としての沈黙とも言えますし、その逆に、ただ単純に休みたかったから休んで、現場復帰したかったから復帰したんだとも言えますしね(笑)。
- --- 今ではザラにあると思いますが、70年代から80年代初頭当時、ジャズにしてもポップやロックのアーティストにしても、5年以上のインターバルを空けて作品を発表するというのは、かなり珍しいことですよね?
ようするに、いきなり6年経ったわけではないんですよ。数ヶ月単位で「新譜まだなのかな?」みたいな話だったんですよ。その間に編集盤なんかも出たんですが、そういった積み重ねとして、振り返ってみたら2年経ち、3年経ちと。死亡したり、どこかに移住したみたいなニュースも来ないわけですから、こちらとしては待つしかないというか。ただ何も起こらない状態が今日も続き、明日も続き・・・だから6年ってこんなに長かったんだというのが実感ですよね。
当時僕みたいな熱心なマイルス者は、「まだ出ないの?」と日々思って、「今年も出なかった・・・来年はどうなんだろう?」となっていたわけですよ。不安と期待で毎年を過ごしていたんですね。それはそれでたのしかったんですが(笑)。ただし、そのときはまさか6年もとは思わないから我慢できるんですよ。今からあれをもう1回やれって言われたらさすがに無理ですよね。- --- 今はインターネットなんかでそれなりの情報を仕入れつつ、わりとのんびり待ち構えることもできますよね。
それと、当時と今とでは、マイルスも含めてスターの伝説が小さかったんですよ。ジョン・レノンを例に出すと判りやすいんですが、(註)ジョン・レノンも数年間何もしていない時期があった。その間、何度も東京や箱根に来ていたりするんですよ。でも、誰も騒いでない。僕の友人でも「今日、骨董通りでジョン・レノンに会ったよ」「京都駅ですれ違ったよ」なんてよく言っていたぐらいですから、ホントにその程度。ジョン・レノンが箱根に滞在しているということをみんな知っていても、サインを貰いにだとか、こっちからわざわざ行くようなことはなかったですからね。

(註)ジョン・レノンも数年間何もしていない時期があった・・・いわゆるジョン・レノンの「ハウス・ハズバンド(専業主夫)」時代。「Stand By Me」のヒットを生んだ1975年のカヴァー・アルバム『ロックン・ロール』発表後の1976年、前年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は98年の『ジョン・レノン・アンソロジー』の中で発表されている。その間の77年から79年には、ヨーコ、ショーンと毎年来日し、東京や京都、小野家の別荘がある軽井沢で夏を過ごしていたという。当時宿泊していた軽井沢の万平ホテルや、一家が毎日のように通っていたフランス・ベーカリー、喫茶店、離山房などゆかりの場所は、今では観光名所になっている。 - --- マスコミも特別群がることもなく。
全然いなかった。今そんなことになったら大変な騒ぎ(笑)。だから、より大きくなっているんですよ、スター像やその伝説みたいなものが。こんなものかと思われていたグループやミュージシャンが伝説になる。例えば、クイーンやスライ・ストーンがいつの間にこんなにデカい存在になっていたんだ、という話と同じで。ましてマイルスやジョン・レノンのデカくなりようというのはすごいわけですよ。何がきっかけかは明確には判りませんが。
- --- 時代の流れと共に神格化されてきたんですね。
だから、死なないとダメっていうところもあるのかもしれませんけど(笑)。ただ、先ほどの話に戻ると、ジョン・レノンで言えば、『Rock 'n' Roll』が出た後の沈黙においては、「今年も出なかった・・・」と思っていた人もいたかもしれませんが、一般的にはさほど気にはされていなかったですよ。(註)『Double Fantasy』自体も初回盤はそんなにプレスされていなかったはずですよ。おそらく初回出荷枚数は数万でしょう。それが、発売3週間後に死んでから世界的にヒットしたわけですよね。つまり、ジョン・レノンですら当時はその程度の大きさだったりするんですよ。
マイルスの6年間も、ジョン・レノンの5年間も、今見るとものすごいことになっているんですが、リアルタイムではどちらも一般的には「何しているのかな?」という程度。それだけ情報によって、まさに拡大されてきたんじゃないかなと。そういう現象というのは、すべてに見られると思いますけどね。(註)ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』がいつの間にこんなに聴かれるようになったんだ、とか。
- --- 現在35歳の僕なんかが物心ついた頃には、今名前の出たアルバムにはすでに「名盤」のハンコがしっかりと押されていましたからね。
そういうことが、ひょっとしたら歴史を重ねるということなのかも知れませんけどね。良い悪いは別にして、どこかでプロデューサーやサイドメンを気にするような風潮になっていくわけですよ。ついこの間まで誰もそんなこと気にしていなかったのに。それが音楽を聴くたのしみ方を拡げたとも言えるのでしょうが、どうもその後違う方向に行っているような気がするんですよ・・・その結果のひとつとして、CDが売れなくなっているような(笑)。
- --- (笑)「木を見て森を見ず」のようなところは多少あるかもしれません。でも、昔はそこまでプロデューサーや参加ミュージシャンを気にしていなかったんですね。
関係なかったんですよね。ビートルズの作品ですら、ジョンとポールどっちが作っているのかなんて話にはならない(笑)。ふたりで作っていると思い込んでいましたから。ジョージ・マーティンというプロデューサーがいるだとか、フィル・スペクターという人がいるだなんて、ついこの間の話ですよ。昔の基準からすると、そんな細かいことに構っていられるほどヒマではなかった。リアルタイムにどんどん刺激的な作品が出てくるわけですから。
ジョン・レノンのスター像や伝説というものが特に大きくなったのは、復活してすぐ死んだからであって、そこに及ばないものの、マイルスも同じように沈黙期というものが長かったから大きい存在となった。復帰を果たしたときは、マイルスの身長は変わらないんですが、世間から見た身長が変わっているんですよね(笑)。身長が3倍くらい伸びてる(笑)。- --- さらにマイルスは、1991年の死後にも、『On The Corner』や『アガルタ』なんかがまた別の世代の人たちによって再評価されはじめますよね。
マイルスとジョン・レノンの再評価・再発見には違いがあると思います。マイルスはポイント、ポイントで再評価されている。クラブ系と呼ばれるような人たちが『On The Corner』を再評価した時期があれば、その次の世代がまた違うアルバムを再評価する。またあるところでは『The Birth of Cool』がいいと言われていたり、時期と作品がバラバラなんですよね。それがひとつになると再評価ムーヴメントとして大きくなるんですが、いまだバラバラのままなのが現状だと思うんですよ。
だから、アコースティックのマイルスとエレクトリック・マイルスを較べるのとかなり似たようなもので、常に分断されて、さらに細分化されているんですね。同じアコースティック作品でも『Nefertiti』、『The Birth Of Cool』、『Sketches of Spain』、『Quiet Nights』だったりと、とにかく分かれ方が細かいんですよ。- --- それがある種マイルスの音楽の魅力と言いますか。
だから細分化されればされるほど、こっちから見ると大きい人だなと。
- --- ちなみに、その沈黙後に『The Man With The Horn』がいよいよ出るぞというときの世間の反応というのは?
もちろん沸きましたよ。あれほど切望されていた新作もなかったでしょうし、一方では恐いもの見たさみたいなところもありましたしね(笑)。反マイルス的な人たちからすると、「どこまで落ちぶれているかこの目で確かめてやる」みたいなところがあったでしょうし、嫌な面も含めた人間の色々な期待感が集約されていたと思うんですよ。
- --- 実際にこうしたような音が届けられるとは?
思っていなかったでしょうね。僕も思っていませんでしたし、かと言って具体的にイメージしていた音もなかったですし。つまり、マイルスの次の音が読めなかったのは、情報が一般的に公開されても、そこにクレジットされているメンバーをその当時ほとんど知らないわけなんですよ。「(註)アル・フォスターは判るけど、(註)ビル・エヴァンスって何なの?」って(笑)。これがおなじみの顔ぶれだったら、それなりに読めたりもするんですが、こうなると聴いてみないと判らないというのが実際のところで、そういう意味で期待感が否が応にも高まるというのはありましたよね。
だから、最初に顔ぶれでやっぱりマイルスはすごいなと思わせましたよね。(註)マーカス・ミラーも含めて当時まだ全く無名のミュージシャンを多く起用していますから。- --- 無名のミュージシャンを起用する一方で、『Star People』でテオ・マセロと、『Decoy』でギル・エヴァンスと、それまで名参謀と呼ばれていたプロデューサーと袂を分かつわけですが、マイルスはそこに多少の不安要素などを感じなかったのでしょうか?
生涯ソロ・アーティストということなんだと思います。アーティストは冷たいという見本でもある。友情や温情はそれなりにあるにせよ、そこで彼らを躊躇なく切れるすごさというものがあるんですよね。
- --- それは前回お話にあった甥っ子のドラマー、ヴィンス・ウィルバーンを躊躇うことなくクビにした一件にも顕著でしたね。
リスクを背負うこともありますが、最終的にはその方が新しいところに行きやすいんでしょうね。僕らがいちばん陥りやすいのが、プロデューサーという存在に対しての評価が二つに一つというところなんですよ。つまり「過大評価」か「過小評価」しかない。ちょうどよい加減では見れないんですよ。ビートルズとジョージ・マーティンの関係にしたってそうだし、マイルスとテオにしてもそう。そういうものなんですよ、プロデューサーという存在は。
- --- 宿命的に評価が真っ二つに分かれる存在。
「テオ・マセロは偉大なプロデューサーです」というのは当然そうなんですが、一方で偉大とは呼べない、マイルス以外の作品もいっぱい作っているんですよ。ジョージ・マーティンもそうです。そうなってくると、どこまでがプロデューサー本人の才能なのか、となってくる。だから、「過大」か「過小」かでしか評価できないんですよ。ミュージシャンによってはそのプロデューサーを評価する人もいれば、誰でもよかったと言う人もいるんですよね。
- --- スポーツなどにおける監督やコーチに対する評価の難しさと一緒ですよね。
(註)王貞治を育てた荒川コーチ、みたいなもので(笑)。僕らには明確な評価軸がないんですよ。だから、「王を一から育て上げてすごいな」となるか、「王なんだから、誰がコーチでも伸びただろう」となるか(笑)。

(註)王貞治を育てた荒川コーチ・・・日本プロ野球界最高峰の「二人三脚」ストーリーといえば、やはり読売巨人軍の王貞治と荒川博(博久)の「一本足打法」を作り上げた師弟関係だろう。少年時代の王の素質を見出して母校の早稲田実業高校への進学を薦め、川上哲治監督に請われ巨人の打撃コーチに就任し、「荒川道場」と呼ばれる厳しい指導で一本足打法を生み出した。入団当初は毎夜の銀座通いに明け暮れる怠け者だったという王だったが、1961年のシーズン・オフ、荒川の闘魂注入により練習の虫に。酒、たばこ、女を断ち、夜間練習では荒川の自宅で、バットの代わりに日本刀を構え、わらの束や天井からつるした半紙を切る特訓の日々。翌62年、38本塁打を記録し、「世界のホームラン王」への第一歩を踏み出した。
話を戻しますが、マイルスにとってテオ・マセロは、評価できる男だから一緒にやっていてもいいけど、最終的には自分の力で作ったという思いしか当然ないわけですから、いつ切ってもいいぐらいの存在だったんでしょうね、きっと。それとマイルスは、セルフ・プロデュースみたいなことをやりたくなったんでしょうね。あるいは完全に違う人とやりたくなったとか。それはある意味で恋人を替えるようなことと同じですから、新しい相手に刺激を求めるというところではごく自然なことだったんではないでしょうか。- --- 悪く言えば、できるだけいいように使って都合のいいところで、ポイと。
テオ・マセロ、ジョージ・マーティン、あるいはビル・ラズウェルにしても、あれだけの素材が用意されたら、どう編集したってそりゃ良いものしかできないだろうって思いますよ(笑)。(註)「In A Silent Way」なんかにしても、よくDJの人たちがリミックスしたり、サンプリング・ソースに使ったりってあるじゃないですか。当然それなりにかっこよくなるわけなんですよ、素材が素材ですから。
- --- そこでスベったら、むしろ大事件(笑)。
(笑)スベりようがないぐらいの素材があるわけですから、しかもそれがプロと名の付くプロデューサーであれば、そのぐらいは作って当然だろうと思いますしね。それがひょっとすると「過小評価」なのかもしれないんですが。
僕らは最初にテオ・マセロの手が入った『In A Silent Way』を聴いているから、あれがベストだと思うんですが、ちょっとでも違う編集のものを最初に聴いていたら、そっちがオリジナルとしてすごいと思うのかもしれないし・・・だから、その辺りに関しては永遠に謎ですね。
(註) 「In A Silent Way」 の各種リミックス
そういう意味で、マイルスがテオ・マセロを切ったことを真剣に見ることはないと思うんですよ。アメリカ人がよく転職を繰り返している、その程度の風景だと思っていればいいんじゃないでしょうかね(笑)。- --- マイルスにとっては、それなりの評価に値する人物だとは思っていたけれど、二人三脚で作品を作っているような意識はほとんどなかったということですよね。
例えば、ピカソが「私は、ある画商と二人三脚でやってきました」と絶対に言わないのと同じで、アーティストの意識としてはまずありえないでしょうね。ジョンとヨーコぐらいですよ(笑)。あれはなかなか異常だと思いますけど。
ひとつ重要なことを言えば、例えば、(註)オーネット・コールマンだったり(註)アーチー・シェップだったり、いわゆる60年代にフリー・ジャズと称されていた作品をいま聴くと、わりと普通のジャズに過ぎなかったりするということがある。それは、僕らが“類似商品”を耳にする機会が増えたり、ああいったノイジーな音に慣れたからということでもあるんですが、つまりは、経年変化の中で普通に聴こえるようになっていったということですよね。
その逆に、エレクトリック・マイルスは時代を追うごとに前衛になっているんですよ。当時呼ばれていたフリー・ジャズと主流派の構図が、ゼロ年代以降180度ひっくり返っていると、僕は見ています。だから、『On The Corner』にしろ『アガルタ』にしろ、あの辺の作品はすべて今の前衛なんですよ。あの時代の音源が少ないから、その実感がないだけで、例えば、(註)1973年11月1日のベルリン公演の音なんかは、明らかに前衛ジャズなんですよ。あるいは、ミニマル・アートとかああいった類のものに近い。時代が何周かして、マイルスの音楽が初めて前衛になってしまったんです。
そして、前衛になったがゆえに、アコースティックだとかエレクトリックだとかの境目がなくなったんですよ。しかも、今やっている多くのミュージシャンのアコースティック・ジャズよりも『Nefertiti』の方が前衛。今あるエレクトリックのノイジーな音楽よりも『パンゲア』や『Dark Magus』の方がはるかに前衛なんですよね。もちろんすべてではないんですが、今の音楽シーンが向かっているところは「過去のマイルスの音楽」というのが僕の位置づけなんです。みんなが目指しているものは、過去に作られたものであると。あるいはマイルスは、過去に未来の音を創造したと。- --- がゆえに、今まさにマイルスは前衛と。
とは言え、「死んでも音楽は永遠だ」ということではなく、マイルスの音楽が元々備えていたいくつかの要素の中で、時代によってどんどん表面化する部分が増えてきた。今ではある部分の全貌はほぼ見えてきて、『On The Corner』が普通に聴かれるようになったということが前衛だということなんですよ。それは、60年代にオーネット・コールマンや(註)ジョン・コルトレーンが前衛と呼ばれていたことよりも前衛なんだと思う。
音楽的に前衛であると同時に、『Nefertiti』や『Sketches of Spain』なんかは、方法論としても前衛だと思うんですよね。少し強引かもしれませんが、マイルスの音楽の鮮度は時代とともに増している感じがするんです。それが唯一無二である証明かなと。前衛という言葉の意味自体も色々あるかと思いますが、実感としてはそういう感じがします。- --- 年を追うごとに鮮度が増しているというのは、経年変化の中ではなかなかありえないことですよね。
繰り返し聴くことによってマイルスの音楽でさえ自分にとっては普通に聴こえてくるんですが、今の音楽シーンというところで俯瞰的に見た場合、『On The Corner』のようなサウンドというのは他にないはずなんですよ。一時的に流行った時期もありましたが、あくまで亜流の域を出ていなかった。ヒップホップでもそうですが、盛り上がりが一度落ち着いたときに残ったものは何かというと、結局はごくごく限られた名作とそれ以前からある『On The Corner』のような作品なんですよね。オリジナルとしての強度と耐震構造をそなえた作品ということです。
リアルタイムで聴いて感じた新しさと、50年経ってから聴いて感じた新しさとでは、どっちが新しいか? となればそれは間違いなく後者だと思うんですよね。相当新しいっていう(笑)。- --- 常に新しさが更新されていく、そのすごさですよね。
まぁ、それを他との才能の違いと言ってしまえば、身も蓋もないんでしょうけれど、早い話、そういうことですよね(笑)。(註)マハヴィシュヌ・オーケストラやウェザー・リポートみたいな「マイルス・ファミリー」と今聴き較べてみても、ファミリーの作品はやっぱり小っちゃく聴こえる。その差ですよね。マイルスの音楽から派生したものは、マイルスほどではないにしろ、そこに比肩するぐらいのものとして続いているというのが理屈としてはあるべきなんですが、どこかで置き去りにされている。それらの作品を今聴くには、自分を過去にリセットしないと熱中できないんですよ。今、2010年の生活空間の中で聴く音楽として、マイルスには伴走できますが、ウェザー・リポートやリターン・トゥ・フォーエヴァーなんかは明らかに周回遅れですから(笑)。
- --- どんな作品にしろ、未来永劫その鮮度をキープすること自体なかなか困難だと思います。
結局、クラブ・ジャズがマイルスを尊敬し脅威に感じながらも最終的に取り込めなかったのはそこなんだと思います。コルトレーンまではいけるんですよ。マイルス絡みのトリビュートだったりサンプリングしたものだったりがことごとく聴くに耐えない理由というのも、やっぱりそこにあるんだと思うんですよ。つまり、利用できない音楽というか・・・
- --- 常に解釈が更新されていくということもあって、クラブ・ジャズ的な文脈の中の「古典」としてまだ見做されていないということも?
あるいは、サンプリングのような未来の技術を当時からマイルスは取り入れていたがために、相容れることができないのかもしれませんよね。時代がここまできて、僕らも周囲の音楽環境で耳を慣らされて、その音楽的にも手法的にも新しいということがようやく露になったわけですから。当時もちろんそういった言葉はなかったんですが、要素としてはまさしく『On The Corner』はサンプリング・ミュージックであり、『In A Silent Way』はアンビエント。先ほど言った「目指していたものは過去にある」というひとつの好例だと思うんですよ。僕らが「この先こんな音楽が聴きたい」「こういうサウンドが出てくれば」と思っているすべてがマイルスの作品の中にあって、気付いていなかっただけで実はすでに通り過ぎていた可能性もありますよね(笑)。
マイルスの音楽を聴いていて飽きないのは、そういうところなんです。さらに、マイルスと他のミュージシャンの違いというのもまさにそこなのかなと思うんですよ。それについてしゃべればしゃべるほど漠然とした表現しか出てこないんですが(笑)、あえてひとことで言えば「創造力の違い」となるんでしょうね。
結局、マイルスについて持っている情報をつぎ込んで書いても、それを読んでさらに謎が深まるケースも多いわけで(笑)。- --- 僕がまさにそのタイプです(笑)。
それがマイルスなんですよね。新説が立てられたとしても、それによって理解が深まることはない(笑)。
- --- (笑)歴史的な事実は判っても、それが直接謎を解明する鍵にはなり得ない。
そこと音楽との距離ですよね。解明しようとすること自体間違っているのかもしれないんですが(笑)。
- --- しかしながら、それこそがマイルスとの「戯れ」ということですよね。晩年においては、特にフランスと日本がよくマイルスと「戯れて」いたということですが。
フランスはやっぱり勲章でしょうね、その象徴としては。それと「再会セッション」の舞台になったということ。それからマイルス自身、フランスが好きだったということでしょう。
- --- 日本はまた異なる「戯れ」方というか、お国柄、フランスとは正反対の付き合いとも言えそうですね。
(註)お金ですよね。文化度の違いというか質の違いというか・・・マイルスだけではなくて、そういうものを受け入れる際の土壌の違いですよね。
帝王、お茶の間に。マイルスの各種企業CMと広告。左上より時計回りに、三楽焼酎「VAN」、TDKカセットテープ「SR60」、アーストン・ボラージュ(広告)、Hondaスクーター
まぁどちらにせよ、そうした「戯れ」を含めて、ずっとマイルスと一緒に人生をたのしめるわけなんですよ(笑)。そのたのしみをもっと大きくするには、やっぱり知ることなわけで。音楽に関して言えば、とにかく聴くことですよね。アーティストによってはそれで色褪せる場合もあるんですが、ところがホンモノは、特にマイルスの場合は知れば知るほど大きくなる。その大きくなっていく部分には謎もあるし、そのひと本人には聴こえていないサウンドもあるし。気付かないうちにどんどん余白というか未来が増えていくんですよね。
だから、最後の10年、15年だったりというのは特に謎が多いんですよ。まだ評価されていないわけですから。ある種の評価はされていても、それが定着していない。評価している人に「本当にそう思ってる?」って訊いても、どこか自信なさげな評価で(笑)。- --- この先も評価が定着することはなかなか考えにくいような・・・
結局は、個人個人のマイルスのたのしみ方次第なんだと思います。僕みたいな人もいれば、ある一定の時代だけをずっとたのしむ人もいる。ひょっとしたらそれは同質なことなのかもしれませんが。マイルスの音楽にしろ、ピカソの絵にしろ、フェリーニの映画にしろ、最終的には受け手の頭の中に描かれるものでしかないんですよ。そういう風に頭の中に大きく描けるような物語を差し出してくれる人に対して、僕らはお金を払ったり、時間を費やしたりするわけで、あまり小さいもので細々埋める必要もないような気がするんですよ(笑)。そのことを教えてくれているのが、マイルスの音楽ではないかなと。
- --- なにより、こうした具合に延々と議論できるところがマイルスのすごさなのではないかなと(笑)。
大のおとなが2時間以上も熱心にしゃべっているわけですからね(笑)。あとは、今も古くさくないという点。ビジュアルにおいても。70年代のエレクトリック期に着ている服はときに奇妙奇天烈だったりするんですが(笑)、まったく古くさく見えないのは、やっぱりすごい存在感だなと。それ以前のスーツ期にしても同様に時代を感じさせないんですよ。
- --- どの時代も一様にヒップな感じがありますよね。
マイルス・デイヴィスという存在を中心にして、その周りに時代があるかのようで。むしろ、パブリック・エネミーの方が古くさく見えるという(笑)。
70年代マイルスのファッション。左から、75年トルバドール、75年成田空港、73年コペンハーゲン
よく言われることですが、「マイルス・デイヴィス」というジャンルがあるということですよね。音楽的にもビジュアル的にも。それは本人の生死に関係なく厳然とあるんですよ。そういう部分では今回の本も着地点が見えていたわけではなく、それは「体重が40キロを下回っていたという」とした終わり方にも明らかなわけで。「マイルスが死んでも音楽は永遠である」みたいなシメでもなんでも書くことはできたんですが、どう終わらせるかだったんですよね。これに苦労しました。- --- その直前には(註)クラーク・テリーによる「最後の会話」(実際には姉ドロシーを介しての電話伝言)の述懐が書かれていました。
けれども、僕にはクラーク・テリーが誰のことを話しているのかピンとこなかったんですよ。つまり、マイルス・デイヴィスが人間ではない感覚があります。極端に言えばロボットみたいな。これはマイケル・ジャクソンにも言えることで、マイケルが亡くなったときにみんなが悲しみに暮れるんですが、それはおもちゃが壊れたときのような悲しみ方に僕は見えたんですね。その人が亡くなったという悲しみはもっと後から実感として沸いてくるとは思うんですが・・・まぁそれがアイドル、アイコンの死というものなんでしょうけど。だから、クラーク・テリーの最後の会話のエピソードにしても、マイルスがすでに自分たちとは異なる空間に存在するものとして感じてしまったんですよね。まったく別の次元の生物体というか。だから、マイルスが亡くなったときにさほど悲しくなかったのは、そういうことなのかなと。
- --- 物語の中のヒーローが死を遂げたという感覚でしょうか?
肉体を伴っていない死というか・・・かと言って、繰り返しますが、「死んでも音楽は永遠だ」なんていうことは思っていないんですよ。ある種の真理ではあると思いますが。肉体的な痛みや悲しみという人間的な感情を伴わない死というか、例えば柱時計が止まったような感じ・・・だから、また動き出しても不自然ではないような、そういう感じでもあったんですよね。
- --- それでは、最後にマイルス・デイヴィスの総評を・・・といきたいところなのですが、中山さんのご著書を通して見えてきた部分は多々ありながらも、やはりマイルスは音楽性、人間性すべてをひっくるめて、正直僕の中ではまだまだ漠然とした巨人というイメージが拭えません(笑)。
音楽を聴いて理解を深める。こうした本を読んでまた理解を深める。僕自身はさらに真相に迫りたいとう思いで、こうした本を書いているんですが、そうしたことをやればやるほど謎が解ける場合もある一方では、逆に解けない人もいるのは確かです。かえって、謎が謎を呼ぶというか、膨らむ部分がある。マイルスはそうしたのりしろがものすごく大きいんですよ。しかし、それが大きいかどうかは、聴き手のイマジネイションに拠るところなんだと思います。
結局、マイルスの音楽というのは聴き手をある意味で選ぶ。正確に言うと、聴き手に想像力、または創造力を求める。緊張感を常に与えつつ何かを投げかける、というのがマイルスの音楽なんですよね。残したアルバムが10枚程度であれば話は簡単なんですが、なにせその数は多いですから。一様にジャズ・ミュージシャンのアルバムというのは多いものなんですが、マイルスのようにほぼアルバム毎に大きく変化をしているミュージシャンというのは他にいない。だから、聴き手として体験が浅ければ浅いほど、余計にこんがらがってしまうんですよね。テーマパークのさらにその中にある迷路に入ったようなもので、仮にそこから脱出したとしてもまた違うトリックが待っている、みたいなことがあるわけなんですよ(笑)。
マイルスを聴いて理解を深めるということは、実際に理解は深まっているんですが、それがどこに向かっていて、どの程度の範囲の理解なのかということは自分では判らないんですね。で、自分もまた年を重ねていく。同じアルバムでも、それを繰り返し聴くことによって少しずつ違ったように聴こえたり、見えてくる景色が変わったりするわけですよね。つまりそれが、マイルスの音楽が飽きないという所以だと思うんですよ。
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1971年、コロムビア・スタジオ前にて。テオ・マセロとマイルス
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「ラスト・イヤーズ」の20枚
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【夏期講習】 「エレクトリック・マイルス」 中山康樹さんに訊く
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「エレクトリック・マイルス」 中山康樹さんに訊く
壮大なスケールと密度の「帝王・超電化絵巻」。その謎を解き明かす『エレクトリック・マイルス 1972-1975』を発刊されたマイルス研究の第一人者、中山康樹さんにお話を伺いました・・・
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ヨミウリ オンライン 「新おとな総研」で連載中の 「ジャズ定盤入門」
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中山康樹 (なかやま やすき)
1952年大阪府出身。音楽評論家。ジャズ雑誌「スイングジャーナル」編編集長を務めた後、執筆活動に入る。著作に『マイルス・ディヴィス 青の時代』、『マイルス vs コルトレーン』、『マイルスの夏、1969』、『マイルスを聴け!』等多数。訳書に『マイルス・ディヴィス自叙伝』がある。また、ロックにも造詣が深く、『ビートルズとボブ・ディラン』、『愛と勇気のロック50』、『ディランを聴け!!』等がある。
本文中に登場する主要人物について |
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George Duke (ジョージ・デューク) ジョージ・デュークにとってハイスクール時代から憧れの存在だったマイルス。そんなアイドルから直々に「オレのバンドに入れ」というグループ加入の電話が入ったのが1971年。自身は、キャノンボール・アダレイ、クインシー・ジョーンズ、フランク・ザッパ、ビリー・コブハムらのグループに参加し、また、『Solus (The Inner Source)』、『The Inner Source』という2枚のリーダー・アルバムをMPSから発表し、まさにキャリアが軌道に乗り、心技体ともに伸び盛りにあった時期。だがしかし、帝王は「あとで電話する」と言ったきり14年の歳月は非情にも流れた。とは言えその間、77年にEpic/CBSに移籍して『From Me To You』、『Reach For It』、79年には『Brazilian Love Affair』といった持ち前のファンキーなプレイが折からのディスコ/AORブームと見事にシンクロした傑作リーダー・アルバムを次々に発表することで、ジョージ・デューク自身のキャリアは絶頂期を迎えたと言ってよいだろう。その後も古くからの盟友であるスタンリー・クラークとのユニット=クラーク・デューク・プロジェクトなどでコンスタントにアルバムを発表しているところへ、またしても何の前ぶれもなくマイルスから連絡が。86年の「Tutu」セッション用に新曲とデモ・テープの提出を求められる。結局は、合計3曲を書き下ろし、そのうちの1曲「Backyard Ritual」が採用された。 |
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Al Foster (アル・フォスター) 1972年からマイルス・グループに参加したドラム奏者アル・フォスター。『On The Corner』の世界をライヴで実現させようとした『Miles Davis In Concert』以降、『Agharta』、『Pangaea』に至るまでのステージで、唯一無二のハイハット連打、シンバル捌きをみせた。1981年、マイルスの復帰と共にフォスターもカムバック。同年の日本公演にも同行し、その後晩年に及ぶまでマイルス作品のリズムを生み出した。おそらくマイルスが、技術面においても人間的な面においても最も信頼していたミュージシャンのひとりだっと言えるだろう。 |
![]() | Bill Evans (ビル・エヴァンス) 『The Man With The Horn』、誰もがそのクレジットを見て「誰だよ!?」とツッコミを入れたはずだろう。もちろん「Waltz For Debby」のあのピアニストとは同姓同名の別人で、血縁関係もない。こちらのビル・エヴァンスは、イリノイ州出身のテナー/ソプラノ・サックス奏者。このビル・エヴァンスしかり、マーカス・ミラー、マイク・スターンといったこの当時ほぼ無名だった若手を起用したマイルスもすごいが、帝王に萎縮することなく喰らい付いていった彼らのガッツもすごい。「若いということはそれだけで武器なのだ」とは聴き手以上にマイルスが強く感じたことだったのかもしれない。また、ビルは、82年にジョン・マクラフリンのマハヴィシュヌ・オーケストラに参加し、才能を高く評価された逸材。1989年に初リーダー作『Summertime』を発表して以降、順調にアルバムを制作し、90年代のフュージョン界を引率する存在となった。 |
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Marcus Miller (マーカス・ミラー) ジャズ/フュージョンのみでなく、R&B、ファンクといったイディオムを用いながら、スラップ、タッピング奏法などを駆使して表現力豊かなサウンドを弾き出す現代最高のベーシストにして、プロデューサー、作曲・編曲家としても非凡な才能をみせるマーカス・ミラーは、1981年弱冠20歳のときに、マイルスの復帰作となる『The Man With The Horn』にベーシストとして抜擢される。その後の『Tutu』においても、ベースはもとよりマイルスのトランペット以外の楽器をほとんど担当、さらには楽曲提供からプロデュースに至るまで、晩年の帝王の活動はマーカスなしでは考えられないほど全幅の信頼を寄せられていた。 |
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Vince Wilburn (ヴィンス・ウィルバーン) 1985年に発表された『You're Under Arrest』の録音(84年12月)を最後にバンドを離れたアル・フォスターの後任として、マイルスの甥でもあるヴィンス・ウィルバーンが新任ドラマーとして登用された。CBS時代最後の制作アルバムとなった『Aura』(84年録音)では、デンマークに赴き、ジョン・マクラフリン(g)、ダリル・ジョーンズ(b)に加え、ニールス・ペデルセン(b)ら現地の強豪ミュージシャンを交えてのセッションを行った。本インタビュー中にもあるように、「リズムが遅れる」という理由で解雇を言い渡されたヴィンスの母親、つまりマイルスの姉がマイルスに「クビにするなら、せめて地元のシカゴ公演を終えてからにしてほしい」と懇願したが聞き入れてもらえなかったという。それだけマイルスは、ドラマーに強いこだわりをみせていた。 |
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Ornette Coleman (オーネット・コールマン) 1959年、Atlantic レコードに移籍し、『ジャズ来るべきもの』、『フリー・ジャズ』といった、既存のビーバップにおけるハーモニーのルールを破壊した実験的な秀作を発表。オーネット・コールマンが生み出した新しい音楽は、常に賛否両論の的となり、ミュージシャンの間でも、モダン・ジャズ・カルテットのメンバーたちから高く評価される一方、マイルスやマックス・ローチからは批判された。しかし、オーネットの先進性はとどまることなく、「フリー・ジャズ」という新たな流れを生み出していった。1960年代には、トランペットやヴァイオリンもマスターし、自身のリーダー・アルバムで成果を披露。65年にはBlue Noteから『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』を発表。オーネットの多面性と静謐なフリーの精神を見事に結実させた作品として最高傑作に挙げるファンも多い。70年代後半からは、エレクトリック・ジャズの領域にも手を染め、ハーモニーとメロディの融合をめざした「ハーモロディクス理論」(造語)という独自の理論を考案。88年には、オーネット率いるプライム・タイムによる、ギター2本、ベース2本、ドラム2セットのダブル・リズム・セクションが繰り出す音世界『Virgin Beauty』が発表され、小難しいアヴァンギャルド理論をポップで能天気なメロディにて180度ひっくり返した。 |
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Archie Shepp (アーチー・シェップ) 精力的なアフリカン・アメリカン活動家としてもその名をとどろかせたテナー・サックス奏者アーチー・シェップは、作曲家、詩人、劇作家として多方面に渡り才能を発揮した。彼の作品はいずれも、黒人であることのフラストレーションや怒りを唸るようなブロウでストレートに表現し、「60年代の闘士」「怒れる若きテナー」と称されることもしばしば。1965年前後には、Impulse!から当時のフリー・ジャズ・ムーヴメントに呼応した『Four For Trane』(ジョン・コルトレーンのプロデュース)、『Fire Music』、『Mama Too Tight』といったアルバム、さらには、71年収容環境の改善を求めて蜂起した黒人囚人に対し、白人州兵が銃により鎮圧、43人の死者を出した「アッティカ刑務所暴動」に触発され制作された『Attica Blues』が代表作として挙げられるだろう。また、伝統的なブルースやアフリカ回帰思想に根差した作品『Blase』、『Yasmina, A Black Woman』なども仏BYGから発表している。近年は、Venus レコードから、自身のヴォーカルを交えた甘口なバラード・アルバムをいくつかリリースしている。 |
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John Coltrane (ジョン・コルトレーン) 1955年にマイルス・デイヴィスのグループに入団。それまでほとんど無名だったが、これをきっかけにその名前が知られるようになり、マイルス・グループ以外におけるレコーディングの機会も多くなった。ちなみに両者ともに1926年生まれである。1957年に一旦マイルス・グループを退団し、セロニアス・モンクのグループに加入。その後ブルーノートに初期の代表作『Blue Trane』を吹き込み、翌年マイルス・グループに再加入。マイルスはこの時期、コルトレーンをソニー・ロリンズと並ぶ2大テナー奏者として高く評価していたという。1959年には、マイルスの『Kind Of Blue』の収録に参加。また、アトランティックに移籍し、代表作『Giant Steps』を発表。1960年春、ふたたびマイルス・グループを脱退。マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズを中心に自身のレギュラー・バンドを結成し、同年10月には自身最初のヒット曲となった「My Favorite Things」を吹き込んでいる。 |
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Mahavishnu Orchestra (マハヴィシュヌ・オーケストラ) ジャズ、ロックを高度なアンサンブルで融合し、インド音楽のエッセンスも加え、ヴァイオリンもリード楽器として取り入れる、70年代当時のジャズ・ロック勢の中でも異彩を放っていたマハヴィシュヌ・オーケストラは、1970年にジョン・マクラフリンの主導の下で結成された。マクラフリン(g)以下、マイルス・バンドの盟友でもあったビリー・コブハム(ds)、リック・レアード(b)、ヤン・ハマー(key)、ジェリー・グッドマン(vl)といったメンバーで、翌71年に『The Inner Mounting Flame(内に秘めた炎)』で衝撃的なデビュー飾り、2作目の『Birds of Fire(火の鳥)』がジャズ・ロックのアルバムとしては異例の全米15位を記録。一躍人気グループの仲間入りを果たした。バンド結成時にマクラフリンは、ヒンドゥー教の導師シュリ・チンモイに宗教的に師事して「マハヴィシュヌ」という名前を与えられていたため、この名前が付いた。マクラフリンは、トレードマークとなったダブルネックのエレキ・ギター、ヤン・ハマーもモーグ・シンセサイザーを導入するなど、それぞれ手段を選ばずアグレッシブに自分の理想とする音を追求した。それによって生まれたマハヴィシュヌの音楽は、ジミ・ヘンドリックスを思わせるディストーション・サウンドのギターが鳴り響く中、インド音楽やファンク、ジャズなどの即興演奏や、クラシック音楽の和声法までもが雑多に取り入れられた独特なものとなり、しばしばプログレッシブ・ロックの視点で語られる事もあった。マハヴィシュヌは76年で一旦解散するが、84年にビル・エヴァンス(sax)らを迎え再結成され、2枚のアルバムを発表した。 |
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Clark Terry (クラーク・テリー) ミズーリ州セントルイス出身、つまりはマイルスと同郷となるトランペット/フリューゲル・ホルン奏者クラーク・テリー。マイルスより6つ年上のトランペッターでもあったクラークは、1940年代になると地元のクラブで演奏し、その後47年からは、チャーリー・バーネット、カウント・ベイシー、50年代からはデューク・エリントン、60年代からはクインシー・ジョーンズなどの各ビッグ・バンドに在籍した。この間の演奏スタイル、特にミュートを効かせたホーンはマイルスにも大きな影響を及ぼした。歌心溢れた軽快なアドリブ・ソロ、それを支える確かな演奏技術、楽団をひとつにまとめる統率力、どれをとってもマイルスの師、アイドル、頼れる兄貴分として申し分ない存在だった。本書のラストでは、最晩年のマイルスの病室へクラーク・テリーが毎日のように電話をかけていたというエピソードが綴られている。 |
























































