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「マイルス ラスト・イヤーズ」 中山康樹さんに訊く 〈2〉

2010年12月13日 (月)

interview
「マイルス・デイヴィス 奇跡のラスト・イヤーズ」 中山康樹 インタビュー



 今現在、決定稿ではないんですが、次の本のタイトルとして、ひとつは「アガルタとパンゲアの物語」。あるいは、「アガルタとパンゲアにまつわる物語」みたいなものを考えています(注:12月上旬現在、4万字まで執筆が進行している。残るは8万字か?)。

--- それは、「日本とマイルス」というようなテーマ設定なのでしょうか?

 いえ、そうでもなくて・・・実はもうひとつは「アガルタと(註)ロータスの伝説」というタイトルを考えていまして。

--- マイルスとサンタナ!?

 そう。僕が書きたいもうひとつのテーマというのは、(註)ガボール・ザボからはじまって、(註)サンタナとマイルスを結ぶ線。

 都市で言うと、ニューヨーク、ちょこっとインド、それからメキシコ、サン・フランシスコ、最後に大阪の夜みたいな感じで。これは、どこまで拡がるか書いてみないと判らないんですが・・・今からしゃべることと実際の本の内容が異なる可能性があるということを前提にお話ししますが(笑)、『アガルタ』『パンゲア』が劇的というか運命的なのは、たまたま、沈黙期前の最後の作品になってしまったということですよね。その ”たまたま” に固執したいんですよね。

サンタナ「ロータスの伝説」

サンタナ 『ロータスの伝説』・・・レオン・トーマス、トム・コスター、リチャード・カーモード、ダグ・ローチ、マイケル・シュリーヴ、ホセ・チェピート・アリアス、アルマンド・ペラーザを擁したニュー・サンタナ・バンドが1974年に発表したライヴ・アルバム。前年7月3、4日に行われた大阪厚生年金会館公演をの模様を収録。サンタナ作品の日本における発売元だったCBSソニーの主導で制作された。オリジナルLPは3枚組で、CDでは2枚にまとめられたが、2006年に発売された紙ジャケットの再発CDでは、オリジナルと同じ3枚組仕様となっている。ジャケットは、22面という大がかりなもので、デザインは横尾忠則が担当。2006年には世界最大のLPジャケットとしてギネス記録にも認定されている。絶頂期のサンタナの興奮と官能のライヴの凄さを余すところなく収めた、70年代の一連の「ライヴ・イン・ジャパン」ものを代表する1枚。「Gipsy Queen」のみならず「Breezin」の一節を繰り出すなど、サンタナのガボール・ザボへの傾倒ぶりは随所に顕著。引用はその他、コルトレーン、アリ・バローゾなどの名フレーズが所狭しと散りばめられている。左下写真の帯付きLPは、厳選された10曲を収録したコンパクト編集盤。



 どちらも日本のCBSソニーがレコーディングをしたのですが、そもそもあれをなぜレコーディングしたのか? というところから解いていきたい。そうすると、それ以前、(註)シカゴの『ライブ・イン・ジャパン』とか、他社ですが(註)ディープ・パープル『ライブ・イン・ジャパン』とか、それこそ『ロータスの伝説』とか、前例、しかも成功例がいくつかあるわけなんですよね。1973年にマイルスが来日した際には交渉したけど断られて、しかし、1975年にそれは実現する。これは「ライブ・イン・ジャパン」の一連の成功の流れで説明ができることなんですが、当人たちが思ってもみなかったこと、例えば「これが最後になる」といったようなこと。こういうことは俯瞰して見るともっとあるような気がするんですよ。


(註) 「ライブ・イン・ジャパン」 各種アルバム

こちらの商品は現在廃盤となっております Deep Purple Beck Bogert & Appice こちらの作品は未CD化となります
Chicago
Deep Purple
Beck Bogert & Appice
Sergio Mendes & Brasil '77


 CBSソニーが市ヶ谷に社屋を構えたときに、サイモン&ガーファンクルの『卒業』が大ヒットして会社が潤う。日本コロムビアから同じくS&Gのレコードは出ていたけどヒットしていなかった。一方、ニューヨークでは(註)テオ・マセロが『卒業』のサウンドトラックを手掛けていたこともあって、それが爆発的に売れて、マイルスはスタジオを自由に使えるようになった、とか。このエピソードは『マイルスの夏、1969』で書きましたけれど。ともあれ、ある部分は強引ですが、ある部分はおぼろげながらにも共通項が見当たる。ほかにも、『ロータスの伝説』と『アガルタ』はどちらも大阪公演で、さらに両者を結ぶのが(註)横尾忠則であったりと。ただ、それらはすべて現象面での共通性。そこだけではなくて、直接的な影響かどうかは別として、ガボール・ザボにはじまる正体不明の流れみたいなものがありますよね? その辺りを突き詰めていきたいというか・・・


横尾忠則   横尾忠則・・・1936年兵庫県生まれの美術家、グラフィックデザイナー。ニューヨーク近代美術館、アムステルダム美術館、カルティエ現代美術財団など内外で個展を開催。毎日芸術賞、紫綬褒章、日本文化デザイン大賞など受賞多数。70年代以降、土俗的風俗を、挑発的でポップ・アート風なコラージュに構成した作風から、ヒンドゥー教的幾何学図形やドレの聖書挿絵などをモチーフとした精緻(せいち)な作風へと移行したが、81年からは画家としての活動を開始し、ニュー・ペインティング風の作風を展開。代表作に『腰巻お仙』、『第6回東京国際版画ビエンナーレ展ポスター』、『クリアーライト』など。 また、国内外の音楽LPジャケットやポスターのアートワークを手掛けることも多数。サンタナ、マイルス、下記参照作品のほか、未CD化作品の中には、高倉健「高倉健デラックス」、藤純子「緋牡丹博徒」、藤竜也「茅ヶ崎心中」、ハプニングス・フォー「あなたが欲しい」EPなどがある。アーティスト・ポスター制作では、ビートルズ、73年のローリング・ストーンズ幻の日本武道館公演が有名。

(註) 横尾忠則が手掛けたその他のジャケット・デザイン

アガルタ Amigos Millennium - 千年伝説 雲井時鳥国
Miles Davis
『アガルタ』
Santana
『Amigos』
Earth Wind & Fire
『千年伝説』
玉木宏樹、松武秀樹
『雲井時鳥国』
東京ワッショイ Cochin Moon Cosmos 宇宙 浅丘ルリ子のすべて: 心の裏窓
遠藤賢司
『東京ワッショイ』
細野晴臣
『Cochin Moon』
山口百恵
『Cosmos 宇宙』
浅丘ルリ子
『浅丘ルリ子のすべて』


--- ラーガというか、インドっぽい雰囲気の得体の知れなさは共通してありますよね。

 モードなんですが、インドがかっている。さらに、サンタナが演る以前に、(註)ラリー・コリエルがガボール・ザボの「Gipsy Queen」をカヴァーしていたりとか。そうした関係性というのは、マイルスだけに目配せしていると、やっぱり抜け落ちてしまうんです。この新書の視点から眺めると、あまりにも遠いところにいますからね。共演はしていなかったけれど、実際の共演者以上に影響を与え合う関係というのはあると思うんですよ。かつての(註)ジミ・ヘンドリックス然り、(註)プリンス然り。

 サンタナはガボール・ザボを聴いていた。マイルスはサンタナを聴いていた。で、そのマイルスに並走していたのは、実は「マイルス・ファミリー」と称されるミュージシャンやグループよりもサンタナなんですよね。

--- サンタナは、マイルスの楽屋にも訪れていたそうですね。

 しょっちゅうです。あの時期、『In A Silent Way』『Bitches Brew』という当時の頂点にあったサウンドにより近い音を出していたのがサンタナなんですよね。(註)ウェザー・リポートではないんですよ。世間一般ではそう言われていますが。たまたま共演者が後にウェザー・リポートや(註)リターン・トゥ・フォーエヴァーを結成して、「マイルス・ファミリー」と呼ばれているだけであって、マイルスにいちばん近い距離で並走して、言わば近似値が高いサウンドを出していたのは、実はサンタナ。「In A Silent Way」のカヴァーなんかもありましたしね。

 サンタナは一方で、(註)ジョン・マクラフリン(註)アリス・コルトレーンなんかと一緒に演りつつ、インド方面も抱え込もうとしていた。そこまでの動きというのは、マイルスとぴったり符号するんですよ。これはどっちがどっちという話ではなくて、双方に宿命的なものを感じさせるんですよね。それが結果として『ロータスの伝説』になったり、『アガルタ』になったりして、それが ”たまたま” 日本で録られたということなんです。

--- その、“たまたま”ということなんですね。

 そうなんです。だから、『アガルタ』『パンゲア』の物語ではあるんですが、実態は、『アガルタ』とまた別の何かの物語でもある。それが『ロータスの伝説』なのか、もっと違うものなのかは定かではないんですが・・・今まさにその辺りを構築しようとしている最中なんです。


--- 興味深いテーマであるのはもちろんですが、かなり突っ込んだ、しかもとてつもなく斬新な角度からの検証ですね(笑)。

 よほどの事がない限り、ガボール・ザボは絶対出てこないですからね(笑)。先ほどのマイルスとヒップホップの話もそうですが、そういう視点に立たないと、まとめきれないんですよ。僕が「マイルスは書いても書いても尽きない」と言うのはそういうことでもあって。

 『Doo-Bop』にしても『The Man With The Horn』にしても、今の評価というのはあって無いようなものなんですよ。『You're Under Arrest』もそう。ひとことで言えば「ポップなマイルス」ということなんですが、その意味するものが考えられていないというのが現状でしょう。『Doo-Bop』にしても「ストリート感覚がほしかった」「若いヤツらに向けての・・・」みたいな側面でしか語られていない。それは事実であって否定するものではないんですが、やっぱりもっと語られるべき別の側面、つまり何かしらの意味があると思うんですよ。ただ、それを問いただすための実際的な材料があまりにも少なすぎるんですね。その材料のひとつとして、ヒップホップとの関連性をどう見るかという視点がある。これは大きな材料。

 「マイルスはジャズの人である。ヒップホップは向こうの世界のものである。そこでマイルスは、売れているヒップホップを利用した」という見方は、過去に「ロックを利用して『Bitches Brew』を作った」とすることと同じ轍を踏むことにもなりかねないわけで。つまり、受け手としては笑ってしまうくらい成長していないという(笑)。

 実際に『Bitches Brew』は当時そう言われていましたが、徐々にその意味が明らかになってくるわけですよね。当たり前のように思えたことだったのに、そのとき気付かなかったことが何となく後から説得力を持ち始める。ヒップホップと『Doo-Bop』の関係についても、もうじきそうなるかなと。

--- ヒップホップがそれなりの歴史となりつつ、むしろ、ひと段落着いた現在が、冷静にその意味を解き明かすいい機会なのかもしれませんね。

 だから、ヒップホップがまだ成長著しく、まさしく渦中にあったときには、こういう視点はなかなか持てなかったんですよ。だけど、いま現在においても、こうした視点があまりにもなさすぎるんですよね。例えば、マイルスがああいった音楽をやった意味だとか、(註)ウィントン・マルサリスの意味だとか、考えたくても材料がないと当然そこから先に進めないわけですから。特にブラック・ミュージックの世界はそういう意味で、解き明かせない謎が多いんですよ、いまもって。

--- 歴史の厚みなどもふまえていくと・・・

 ウィントン・マルサリスがなぜああいった活動をしているのか、というのも絶対に判らない部分なんですよ。人に教えたがり屋であったり、伝統主義者であったりという部分はもちろん判るんですが、それ以上のこととなるとなかなか・・・

 ウィントンは、1981年に(註)「Live Under The Sky」というジャズ・フェスティバルで、ハービー・ハンコックのサイドメンとして日本に初めて来たんですね。まだ田園コロシアムで開催されていた頃で、ちょうどマイルスの『The Man With The Horn』が出たとき。当時(註)スイング・ジャーナル誌上で「4つの意見」という、1枚のアルバムについて各界の4人から意見を訊くというコーナーがあったんです。評論家、ミュージシャン、俳優、デザイナーみたいにできるだけ異なる分野の人を4人集めて。当時僕が担当していたので、『The Man With The Horn』の感想を訊こうと思い、ウィントンの宿泊先のプリンス・ホテルに行ったんですよ。


V.S.O.P. Quintet -Live Under The Sky   (註)Live Under The Sky(ライブ・アンダー・ザ・スカイ)・・・1977年(昭和52年)から92年(平成4年)にかけて毎年7月に催されていた日本の野外ジャズ・フェスティバル。81年まで田園調布の田園コロシアムで行なわれ、その後は会場をよみうりランド・オープンシアターEAST(野外音楽堂)に移している。79年、ハービー・ハンコックのV.S.O.P. クインテット(写真およびリンク先はそのときの模様を収録したアルバム)など、「伝説」と呼ばれる名演が数多く残された。ちなみにマイルスは、85、87、88年開催時に出演している。

スイング・ジャーナル誌上コーナー「4つの意見」   (註)スイング・ジャーナル誌「4つの意見」・・・「話題の新譜4つの意見」として、その月に取り上げた新譜アルバムに対して、ミュージシャン、評論家に限らず、小説家、デザイナー、俳優など、ジャズに造詣のある各界の様々な人物から屈託のない意見を求めた、スイング・ジャーナル誌の名物クロス・レビュー・コーナー。


 そうしたら・・・ボロくそに言うわけですよね(笑)。それはそのまま記事になったんですが、ようするにマイルスがこんなことをやっているのが「嘆かわしい」と。「マイルスはコマーシャルな世界に魂を売った。金儲けがしたいだけなんだ」という口ぶりなんですよ。まぁ、それはそれでいいんですが、そのときウィントンが言っていたのは、「今の若い黒人は忍耐力がなくなっている。だからジャズなんか聴けないんだ」ということなんですよね。「堪え性がないから、3分を越える音楽を連中は聴けない」と。特に、ラジカセをかついで大きい音を鳴らして街中を歩く黒人にいちばんがっかりしていたんです。当時ウィントンと同世代、あるいはもっと若い世代だったりするんですが、とにかく大嫌いだったんですね(笑)。「黒人がそうであってはダメなんだ」と思っていて、さらに「ボクはジャズを広めたい。そういう連中にこそ聴かせたい」と言っていて、実際そこがウィントンの原点だと思うんですよ。逆にマイルスは、そっちの世界に行きたかった。ラジカセの中で鳴らしてほしかったんです。「Shout」という曲なんかはまさにこの世界を目指している。だから、ウィントンはマイルスに牙を剥いたわけなんですよね。

 ということは、ウィントンは誰と闘っているのか? というと、ようするにヒップホップなわけです。やや極論かもしれませんが。つまり、ヒップホップが黒人にとって無視できない動きだった。むしろウィントンにとっては脅威として映ったんですよ。聞き手からして、ブラック・ミュージックとしてのジャズのおいしい部分、それを全部持っていかれたような危機感をウィントンは察知したんだと思うんですよ。自分がマイルス、ミンガス、エリントンにしびれたような、それと同じようなしびれを自分より若い世代はヒップホップに感じている。だから、チャック・D(パブリック・エネミー)や(註)ドクター・ドレーがエリントンになってしまったんですよね。

--- それは歴史観としてはある意味で正しい見方、感じ方でもありますよね。

 その坩堝にマイルスが行こうとした。実際に行ってしまいましたが。ラジカセを毛嫌いするウィントンと、ラジカセで流されることを求めたマイルス。ベクトルが真逆ですから(笑)、当然敵対もする。そういうこともあって、先ほど言った「ヒップホップとマイルス」の物語の主人公は、ひとりはウィントンでもあるんですよ。ウィントンの世代によってヒップホップがどれだけ恐いものか、ジャズ・ミュージシャンにも易々と理解できてしまったという。

 マイルスは、白人つまり「白いアメリカ」と闘っていた。一方、ウィントンは「白くさせられている黒人」と闘っているような気がします。おそらくウィントンには、白人と闘う以前に同胞との闘いがあったと。その発端は、“何年か”のヒップホップによってできた断層によるものだと思っているんです。具体的にこの時期、この作品というのは判らないんですが。それはヒップホップがその頃すでに日常生活にあったからなんだと思うんですよね。



メンチをくれ合うウィントンと帝王
1986年「ヴァンクーヴァー・インターナショナル・ジャズ・フェスティヴァル」にて。ウィントン・マルサリスと帝王



---  ジャズが脆弱だったという言い方もできそうでしょうか?

 う〜ん・・・ジャズは現在各国で盛んではありますが、ブラック・ミュージックとしてのジャズが脆弱なんですよ。それが他の国、他の人種に余裕を与えているんですね。スキを見せているというか。つまり色々な人が出現する余地。今まで積まれていた重石がちょっとずれて光が見えて、そこから多国籍の人がどんどん出て行くような感じがあるんですよね。

 だから、『Bitches Brew』のレガシー・エディションに入っている(註)1970年のタングルウッドでのライヴを今聴いてみんなブッ飛ぶのは、「本当はこんなにすごかったんだ」と思うぐらい威圧的な迫力があったからだと思うんですが・・・それがいま現在のブラック・ミュージックやジャズにはないから余計にビックリするということにもつながっているわけで(笑)。


タングルウッドのマイルス   (註)1970年8月18日のタングルウッド公演・・・このたび、『Bitches Brew』のレガシー・エディション盤にて正規初登場となった、1970年8月18日マサチューセッツ州ボストン郊外のタングルウッド、バークシャー・ミュージック・センターにおけるライヴ音源。地下流出市場では「タングルウッドの嵐」として長らく有名だが、文字通り荒れ狂う嵐のごとくのセプテットによる凶気の演奏は、バンド離脱直前となるチック・コリアと、キース・ジャレットの「Wキーボード」のぶつかり合いに因るところが大きいだろう。


 例えば、何らかのコピーのようなものを聴いて満足しているような人が、もしオリジナルに出逢ったとしたら、そのときの衝撃は二重の意味で大きいと思うんですね。「今まで自分はコピーを聴いていたのか・・・」というショックがまずひとつ(笑)。そしてオリジナルのすごさというのはやっぱり普遍。問題は、音楽市場が今そういったオリジナルになかなか出逢えないようなシステムになっていることなんです。

--- オリジナルを辿るおもしろさに無頓着なシステム・・・

 コピーしか知らない人は、それがその人にとってのオリジナルなわけですから、僕が今言ったような概念すら意味のないことなんですよね。たまさか何かのきっかけでマイルスやらミンガスやらを知ったときにどうなるか? ということなんですよね。

--- 価値観が180度覆るかもしれない人もいる。

  それが音楽を聴くたのしみでもあるんですけどね。あと、今は、その『Bitches Brew』のレガシー・エディションにしろ、(註)この間のローリング・ストーンズにしろ、一番高価なボックス・セットのようなものから安いレギュラー盤まで、何種類も一度に出る時代じゃないですか。そういうことをやっているから盛り上がらないんですよ(笑)。


Exile On Main Street: メイン ストリートのならず者 〈スーパー・デラックス・エディション〉   (註)この間のローリング・ストーンズ・・・ずばり、5月にリリースされた『メイン ストリートのならず者』のスーパー・デラックス・エディション。リニューアル・ボーナス・サイドを加えた本編2枚のSHM-CD(日本盤のみ)に2LP、さらには、『ならず者』のメイキング、1972年の北米ツアーを捉えたコンサート映画『レディース&ジェントルメン』からの抜粋、「裏ドキュメンタリー」とも言うべき『コックサッカー・ブルース』からの抜粋を収録したDVDを付属した超豪華セット。


--- 「松」「竹」「梅」と、価格による差別がわりと露骨ですよね(笑)。

 お金持ちしか買えないようなセットも存在するわけですし。本当は値段ではなくて、みんなが同じものを手にして、そこで話題を共有するということにしないと盛り上がらないんですよ。だから、いまはみんなが違うことについてしゃべっている(笑)。しかもその差がお金。一番安いセットを買った人は、一番高いセットを買った人に対して劣等感しか生まれない(笑)。これは盛り上がれないに決まってますよ。

--- 格差社会が娯楽文化であからさまになるという悲しさ・・・(笑)

 しかも、高いセットには必ずそれなりのプラス・アルファがある。それが未発表ソースなんかの場合、誰だって人間ですから、出されたらやっぱり聴きたいわけですよ。その弱みにつけ込んで(笑)・・・ただ、出されたら聴きたいけど、出されなかったら誰が困るのかということ、あるいは、それをどれだけの人が聴きたいのか、ということですよね。タングルウッドのライヴだったら、それだけを単体で出すべきなんですよ。そうすれば、さっき言ったオリジナルにも届かないような人たちにも、より届きやすくなる。

--- むしろ、そこからマイルスに入る人だっているでしょうし。

 そうです。それを例えば、1万円近く出してたどり着けというのは無理な話なんですよ。『Bitches Brew』にさえたどり着いていない人がいっぱいいるのに、さらにその奥座敷にあるいわゆる未発表音源にタッチするのは到底不可能。逆に、単体で出した方が何回も商売できるような気がするんです。今でも「同じものを何回買わせるんだ」というような声が多々ありますが(笑)、そういった不満を抱かせないで何回も買わせることができるような気がします。ただ、そうした“延命”策に演出がなさすぎるのがつらいんですよね(笑)。一度にドカッと出されても「聴けないじゃん」と・・・まぁ、話は少しそれてしまいましたけれど(笑)。

--- 未発表曲と言えば、この「ラスト・イヤーズ」では、やはりプリンスとの共演曲が目玉でもありますよね。『Doo-Bop』制作途中のドイツ公演では共演も行なわれていたそうで・・・

 いや、共演ではなくて、プリンスの書いた新曲をライヴで4、5曲やっているんです。それで、そのときスタジオでもリハーサル程度だと思うんですが、プリンスの曲だけレコーディングされているんですね。完全なものとは言えないと思いますが。ここで注目すべきなのは、外国に行ってまでもプリンスの新曲を録音したかったという、その意欲でしょうね。そこだけに着目してもいいんじゃないかなと思っています。

--- 共演曲の(註)「Can I Play With U ?」は、結局直前で『Tutu』への収録が見送られました。プリンスからのボツ提案でしたが、マイルスはそれなりに気に入っていたのでしょうか?

 まぁ、どっちでもよかったんですよ(笑)。つまり、ひとつのミュージシャン・シップのカタチとして、プリンスが嫌がるものに対してはそこに従うということですよね。もちろん彼がいいと言えば、そこに賛同していたはずでしょうし。だから、前回も話したことだと思いますが、その辺のミュージシャン・シップにおいては実にフェアですよね、マイルスは。

 しかもマイルスは、例えばプリンスの曲を入れようが、マイケル・ジャクソンの曲をやろうが、そんなことで売れる売れないを図ってはいないし、そもそもそんな価値観を持っていないんですよ。


有名私家盤「Crucial」   (註)マイルス×プリンス「Can I Play With U」・・・85年6月にワーナー・ブラザーズと契約を締結したマイルス。晴れてレーベル・メイトとなったプリンスとマイルスは同年12月7日に偶然ロサンゼルス空港で出会い、約20分間マイルスの送迎車に乗り込んで会話を交わしたという。そのわずか20日後、プリンスは熱心なマイルス信者であった側近のサックス奏者エリック・リーズとマイルスのためのデモ・テープ制作に入り、12月29日、マイルスのマリブの別荘に「Can I Play With U?」と題された、”らしさ全開”のファンク楽曲が届けられた。翌86年にはマイルスのトランペットのオーバーダブも終わり、最新アルバム『Tutu』のラストに、「Full Nelson」を序奏(プリンスの本名”プリンス・ロジャーズ・ネルソン”への制作者マーカス・ミラーによる一種のトリビュート)にして収録されるはずだったが、土壇場でプリンスによる「待った」がかかりお蔵入りとなっている。「アルバムにフィットしない」というのが大元の理由だそうだが、完ぺき主義者の王子にとっては、楽曲自体のクオリティおよび帝王のソロ・テイクにはまだまだ修正の余地があったということだろう。写真は、当該曲を収録した有名ブート『Crucial』。


--- 単純に気に入った曲を演奏するだけという。

  だから、最後の(註)「再会セッション」にしても、一般的には「お金のため」と言われていますが、そういう価値観に基づいたものではないんですよ。実際お金のためであったら毎年やっているわけで(笑)、しかももっと早い時期から。

 マイルスのようなアーティストを僕らのような一般的な感覚で捉えるのはあまり・・・僕らであったら「お金のため」というのは日常的に大いにありえること(笑)。ただあそこまでの人になると、もちろんお金は欲しいに決まってるでしょうが、それだけで動くわけはないよなと。「お金は用意しました。宜しくお願いします」という話ではない。だから、よっぽど諸々のタイミングがうまくはまらないと、「再会セッション」のようなイベントというのはできないような気がするんですよね。最終的には自分で決めることではあるんですが、その段階に行くだけでも周囲にとっては大変な労力を要すると思うんですよ。

--- としますと、その「再会セッション」に出演することを最終的に決めたマイルスを突き動かしたものというのは・・・

  本にも書いたことなんですが、やっぱり音楽をやりたいという気持ちひとつですよね。だから、「再会セッション」であってもなくても音楽はやっていた、その程度の選別。つまりどちらを選択するにしろ、どの道音楽をやることには変わりないということだったんだと思います。それが「Human Nature」と「Summertime」の違いなだけであって、本質は変わらない。ただ、方法や時期を選ぶということで、やるまでには当然悩んだとは思いますから、そこはクインシー・ジョーンズだったりの尽力が多分にあったんじゃないでしょうかね。


Live At Montreux   (註)「再会セッション」・・・1991年7月8日、スイス・モントルー・ジャズフェスティヴァルに登場。ギル・エヴァンスの編曲による作品をクインシー・ジョーンズが指揮するオーケストラをバックにマイルスが演奏するという企画だった。この年の9月28日、マイルスは天に召され、本作が実質上のマイルスのラスト・アルバムとなった。


--- その前後に「俺は引退する」(1991年6月、ル・モンド紙上)とマイルスは発言していますが、その意志のようなものが前提にあった上での「再会セッション」出演の選択とも解釈できそうですが。

 ただし、それは残された者が想像で遊ぶレベルの要素でしかないんですよ。「マイルスは死ぬことを知っていたんだ」と思って聴いた方が感動的に聴こえる人、それはそれで正解なんだと思う(笑)。そうじゃなかったという意見も当然あるし、来年引退するからお別れの意味も込めてステージに上がったというふうに捉えても別に不自然ではないですから。ある年齢を過ぎて、体が悪くなって騙し騙し活動を続けている人に関しては、今言ったようなほぼすべての要素があてはまるように思います。つまり何が起きても不思議ではないと。

 これが例えば、『Bitches Brew』の次に「再会セッション」だったら辻褄が合わない(笑)。当然まだ若いから。がしかし90年代ともなると、一般的には年寄りとは呼べないかもしれませんが、体のあちこちにガタがきて満身創痍な状態なわけですからね。



ち、近い! 「再会セッション」におけるマイルスとクインシー。
1991年7月8日スイスの「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」にて実現された「再会セッション」



--- ただ、この時期は並行して『Doo-Bop』の制作にかなり前向きに取り組んでいますから、「死期を悟っていた」あるいは「来年引退するから」という捉え方には少し不自然な感じも・・・

 そうなんです。だから、こうした様々な解釈にはすべてツッコミどころ満載なんですよ(笑)。「来年引退するから」となると「じゃあ『Doo-Bop』はどうなるんだ?」となりますからね。ひとつひっくり返るとそれまでのカードがすべて裏返っていくような、その程度の説得力しか持たない想像でしかないんですよ。そこがマイルスの最後の物語の面白いところなんですよね。

 『Doo-Bop』に固執して、マイルスは最後まで新しいことをやろうとしていたんだという想像。それは当然そうなんですよ。マイルスのようなミュージシャンというか表現者は本能的にそういうものでしょうから。じゃあ一方で、クインシーとの「再会セッション」にはなぜ出演した? となったときにどういう言葉で返すかという(笑)。

 ただ、ひとつ言えるのは、『Doo-Bop』は永続性のあるプロジェクトですが、クインシーとのステージは「ワン・ナイト・スタンド」、ようはイチ企画ですからね。そこは明確に違うとは思うんですよ。別にクインシー楽団の編成でツアーに出るわけではなかったので。

--- 逆に、イージー・モー・ビーとはツアーに出ようとかなり意欲的に考えていたようですね。

 それはごく自然な流れですよね。質の異なる両方を本筋として一緒くたにしてしまうと、どっちつかずになる。例えば、(註)ハービー・ハンコックのV.S.O.P. クインテットは、結局は世界ツアーに出て恒久的なグループになった。そういったこととはまた質が違うんですよね。さらに、「再会セッション」をきっかけに(註)デイヴ・ホランド(註)チック・コリアとグループを組んでもよかったけれど、それもしなかった。そういうことを見極めた上で最後の個人個人の総括をしていかないと、質が違いすぎて較べられないんですよ。

 マイルスとしては何としてでも『Doo-Bop』の路線をベースにしてこの先を見据えていた、そう考えるのが自然ではないでしょうか。自分のグループにイージー・モー・ビーを加えたりだとか。その方がたのしいし、現実性も高いんですよね。だから、そこに懸ける思いだったり、明日へのつながりみたいなところでは、マイルスの本音はやっぱり『Doo-Bop』になりますよね。しかもその『Doo-Bop』は、未完に終わったからこそ永遠の未来が約束されたわけで、逆に「再会セッション」は企画性としては秀逸ですが、あそこで音を出した瞬間に終わった。チャレンジではあったでしょうが、マイルスにとってはある意味でさして難しいチャレンジではなかったんだと思います。『Doo-Bop』でイージー・モー・ビーとツアーに出る方がよっぽどハードルの高いチャレンジだったと思いますよ。それまで、ハンコックがやっていたようにライヴでターンテーブリストを雇ったことなんかなかったですしね。

--- 『Doo-Bop』のチャレンジにはもちろんワクワクしていたんでしょうね。

 そうでしょうね。そこが「俺は過去を振り返らない」というところだと思うんです。

--- 『Doo-Bop』は、当初2枚組になる予定だったそうですね。1枚目には、パブリック・エネミーのチャック・DらをMCでフィーチャーしたヒップホップ・サイドで、2枚目は昔のセッションやプリンスとの共演を収めたりと、想像しただけでものすごい作品になるという。

 『On The Corner』にしろ『Bitches Brew』にしろ、判らないなりに作品としては完結しているので、いつかは判るんですよ。自分なりにその作品に対する決着は付けられる。ところが『Doo-Bop』は、「誰の作品なんだ?」という話から入っていくと、もちろんマイルスなんですが、最後までは関わっていないんですよね。そうなると、謎しか残らないというか・・・いつまでも浮遊感が残ったままお互いに付き合っていくしかないという(笑)。

--- だからこその「永遠の未来」という・・・

 「終わる前に終わったから、終わっていない」というレトリックですよね。ジョン・レノンみたいに遺作として見届けた上で、ということとはやっぱり勝手が違うんですよ。



(次の頁へつづきます)







「ラスト・イヤーズ」の20枚


  • The Man With The Horn

    『The Man With The Horn』

    6年の「沈黙」を経て復活した帝王の力強いブロウが衝撃的! 若き日のマーカス・ミラーやマイク・スターンらの才能を見抜くマイルスの眼力はさすが...

 
  • We Want Miles

    『We Want Miles』

    ボストン〜ニューヨーク〜東京と、6年ぶりの復活と共に来日まで果たしたマイルスのステージを収録した、復帰後初のライヴ・アルバム...

  • Live At The Hollywood Bowl 1981

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    『Decoy』

    マイルス自身のプロデュースによる復活後4作目。シンセサイザーを導入しながら、その後の80〜90年代ジャズ・シーンを大きくリードすることになるブランフォード・マルサリスを迎えた快作...

 
  • Live In Poland 1983

    『Poland 1983』 [DVD]

    1983年10月にポーランドのワルシャワで行われた「Jazz Jambolee」ライヴ・パフォーマンス。ジョン・スコフィールドや、サックス奏者のビル・エヴァンスのパフォーマンスも必見...

  • You're Under Arrest

    『You're Under Arrest』

    マイケル・ジャクソンの「Human Nature」、シンディ・ローパーの「Time After Time」を取り上げ、しっかりと自分のカラーに染め上げた、マイルスの底知れぬポップな才能をあらゆる音楽ファンに見せつけた...

 
  • Aura

    『Aura』

    マイルス自身マスターピースと呼ぶほどの名盤。ソニー・ミュージック時代の最後を飾ったアルバムとしても知られる1枚で、ニールス・ペデルセンなど、北欧のミュージシャンとの共演も聴きどころ...

  • Montreal Concert

    『Montreal Concert』

    1985年モントリオール・ジャズ・フェスティヴァル出演時のライヴ音源。オーラス「Jean Pierre」は80年代マイルス・ライヴ屈指の名演...

 
  • Tutu

    『Tutu』

    1986年発表のワーナー移籍第1弾。かつての門下生マーカス・ミラーをはじめ、トミー・リピューマ、ジョージ・デュークらをプロデューサーに迎え、当時還暦のマイルスが放った後期の傑作...

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    『Siesta』

    映画「シエスタ」のサントラ盤。マーカス・ミラーとの絶妙なコラボレーションによって『スケッチ・オブ・スペイン』以来28年ぶりにスペインの旋律に再挑戦...

 
  • Amandla

    『Amandla』

    1989年、60歳を越え、若いミュージシャンたちと刺激を与え合いながらさらなる魅力を発揮した、純粋な意味でのマイルス最後の傑作...

  • That's What Happened: Live In Germany 1987

    『Germany 1987』 [DVD]

    1987年独ミュンヘンで公式にフィルム収録されていたもののこれまでに陽の目を見ていなかったライヴ映像。ボーナス映像として、同年収録の30分に渡る本人へのインタビューも収録...

 
  • Dingo

    『Dingo』

    マイルスが初めて俳優として出演した同名映画のサントラ盤。音楽担当はミシェル・ルグランながら、ルグランとの共演を希望し、推薦したのがマイルスということを知れば...

  • Time After Time

    『Time After Time』 [DVD]

    1988年独ミュンヘンのフィルハーモニック・ホールで行なったライヴ映像。既発DVDでは欠如していたシンディ・ローパー「Time After Time」がめでたく収録された完全版。マイルスのポップな側面が見られる貴重なライヴ...

 
  • Doo Bop

    『Doo Bop』

    強烈なインパクトと共に放たれる斬新なヒップホップ・サウンド。最後まで革新的でありつづけた帝王マイルスがイージー・モー・ビーを”メインマン”に据え制作した、未完のラスト・レコーディング・アルバム...

  • Doo Bop Song EP

    『Doo Bop Song EP』

    ヒップホップとの本格的な邂逅を果たした『Doo Bop』からのスペシャル・リミックスを集めたミニ・アルバム・・・

 
  • Live At Montreux

    『At Montreux』

    「過去を振り返らない」マイルスが自らの禁じ手「過去の再演」に着手。1991年7月8日、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルにおいて、クインシー・ジョーンズ指揮のもとに行なった、ギル・エヴァンスとのコラボレーションで発表した作品の再現ライヴ・アルバム...

  • Live Around The World

    『Live Around The World』

    1988年から90年にかけて行われたL.A.、オーストリア、シカゴ、ローマ、大阪におけるライヴ演奏を集めたオムニバス盤。最後のステージとなった91年8月25日L.A.のハリウッド・ボウルにおける「Hannibal」が、短尺編集ヴァージョンながら収録されている...

 
  • Perfect Way -The Miles Davis Anthology

    『Perfect Way』

    帝王のワーナー期2枚組ベスト。1985年10月17日L.A.での通称「ラバーバンド・セッション」における「Rubberband」、ジェフ・ローバー(synth)参加の87年12月21日のハリウッド録音「Digg That」の収録が目玉だろう...








【夏期講習】 「エレクトリック・マイルス」 中山康樹さんに訊く




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profile

中山康樹 (なかやま やすき)

 1952年大阪府出身。音楽評論家。ジャズ雑誌「スイングジャーナル」編編集長を務めた後、執筆活動に入る。著作に『マイルス・ディヴィス 青の時代』、『マイルス vs コルトレーン』、『マイルスの夏、1969』、『マイルスを聴け!』等多数。訳書に『マイルス・ディヴィス自叙伝』がある。また、ロックにも造詣が深く、『ビートルズとボブ・ディラン』、『愛と勇気のロック50』、『ディランを聴け!!』等がある。





本文中に登場する主要人物について


サンタナ(カルロス・サンタナ) Santana(Carlos Santana)
(サンタナ / カルロス・サンタナ)


1966年にサンフランシスコで結成されたサンタナ・ブルース・バンドが前身。その後サンタナと改名し、1969年にレコード・デビュー。同時期にウッドストック・フェスティバルに出演し、話題となる。翌年のセカンド・アルバム『Abraxas(天の守護神)』はビルボード誌のアルバム・チャートで1位を獲得。ジャズ・ロック色を強めた1972年のアルバム『Caravanserai』発表後、大幅なメンバー・チェンジを敢行。73年7月の大阪公演の模様は、横尾忠則デザインのジャケットでも有名なライヴ盤『ロータスの伝説』に収録された。76年の『Amigos』収録曲の「Europa」は、カルロス・サンタナを代表する名演として知られている。その後もコンスタントに活動を継続し、1999年に発表したアルバム『Supernatural』は、バンドにとって28年ぶりの全米1位獲得を果たし、アメリカだけで1500万枚、全世界で2500万枚以上を売り上げるという大復活となり、グラミー賞史上最多の9部門を受賞した。バンドの中心人物でありギタリストのカルロス・サンタナがマイルスをかなり敬愛しており、72年の『サンタナV』では「In A Silent Way」をカヴァーし、さらに『ロータスの伝説』の舞台となった73年の日本公演ツアーでは、まさにエレクトリック・マイルスの世界をサンタナ流に構築したかのような演奏を聴くことができる。また、東洋哲学に傾倒しており、シュリ・チンモイに帰依していた73年には、同じくシュリの信奉者であるジョン・マクラフリンとの連名で『Love, Devotion and Surrender(魂の兄弟たち)』というアルバムを発表している。


ガボール・ザボ
Gabor Szabo
(ガボール・ザボ)


ハンガリー、ブダペスト生まれで、渡米後の1958年から60年にかけてバークリー音楽院で学び、その後チコ・ハミルトン楽団で活動することとなったギタリスト。チコ楽団脱退後は、Impulse!レコードとの契約を得て、バンド・リーダーとしても活動。65年11月には『Gypsy '66』、66年5月には『Spellbinder』という2枚の代表的なリーダー・アルバムを録音。後者収録の「Gypsy Queen」は、ラリー・コリエル、さらには、サンタナのアルバム『天の守護神』で、フリートウッド・マックの「Black Magic Woman」とのメドレーという形でカヴァーされた。その後、フラワームーヴメント〜サイケデリック・カルチャーに触発されて制作した『Jazz Raga』や、インド音楽からの影響も取り入れ、シタール奏者も含む編成でレコーディングされた『Wind, Sky And Diamonds』など、本文中にて中山氏が「サンタナとマイルスを結ぶ線上にある」と指摘していた重要作品を発表。70年、ブルース・レーベルのBlue Thumb レコードから発表されたアルバム『High Contrast』では、ボビー・ウォマックと共演。同作でウォマックがガボールのために書き下ろした「Breezin'」は、76年にジョージ・ベンソンによるカヴァー・ヴァージョンが大ヒットした。81年、故郷ブダペストの病院で死去。


ラリー・コリエル Larry Coryell
(ラリー・コリエル)


ジャズとロックの融合に早くから取り組んでいたギタリスト、ラリー・コリエルは、1965年に結成したジャズ・ロック・バンド、フリー・スピリッツのアルバム『Out Of Sight And Sound』にて今日、「ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズやマイルス・デイヴィスよりも早くからジャズとロックの調和を試みたバンド」として評価されている。また、チコ・ハミルトンのバンドにガボール・ザボとともに在籍。ゆえに、ザボのギター・プレイをよく研究していたのではないかと思われる。60年代後半には、ジミ・ヘンドリックスやクリームのエリック・クラプトンのギター・プレイに大きな衝撃と感銘を受け、71年にはジミのエレクトリック・レディ・スタジオで、フィードバック奏法と斬新なディストーション・ギターが炸裂する『Barefoot Boy』を録音し、そこには10分超えの「Gipsy Queen」のカヴァーが収められている。72年からは、ランディ・ブレッカーらと共に、イレヴンス・ハウスというフュージョン・バンドとして活動していたが、75年には、スティーヴ・カーンと共にアコースティック・ギターだけによるツアーを行ない、以後1980年代中期まで、アコースティック・ギターの演奏が中心となり、ジャズとクラシックの融合を試みるようになった。当時のマイルスの「きわめて親しいガールフレンド」であったエレアナ・スタインバーグ・ティー・コブ(歌手・作詞家・プロデューサー・詩人)が友人のジャーナリスト、ジュリー・コリエルに夫であるラリー・コリエルのセッションへの参加を相談。「沈黙期」真っ只中であった78年2月のコロンビア・セッションにラリーは姿を現すことになったが、実際は「弾きすぎる」という理由で、帝王受けはよくなかったらしい。


テオ・マセロ Teo Macero
(テオ・マセロ)


マイルス作品、1959年の『Sketches of Spain』から83年の『Star People』までの期間の数多くのアルバム・プロデュースを手掛けていたコロムビアの名プロデューサー、テオ・マセロ。『Sketches of Spain』、『Porgy and Bess』、『Kind of Blue』のプロデュースはテオの名声をより確固たるものにしたが、何よりその手腕が光ったのは1968年以降の作品。数十テイク何時間にも及ぶ録音テープを切り貼りして緻密にして大胆な音絵巻を作り上げてきた鋭い感性は、『In A Silent Way』、『Bitches Brew』、『Jack Johnson』、『On The Corner』、『Get Up With It』、『Live Evil』などでの鋏さばき(≠編集マジック)に最も顕著。テオがいなければ、「エレクトリック・マイルス」という混沌とした総合芸術は生まれることはなかっただろう。マイルスのほかにも、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス、デューク・エリントン、ビル・エヴァンス、デイヴ・ブルーベック、サイモン&ガーファンクル『卒業』、ラウンジ・リザーズなど多岐ジャンルに亘る作品を数多く制作してきた。2008年死去。


ジミ・ヘンドリックス Jimi Hendrix
(ジミ・ヘンドリックス)


スライと並び、70年代のマイルスの音楽性に大きな影響力をもたらしたジミ・ヘンドリックスのパフォーマンス。映画「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」で ”動くヘンドリックス”を観ていたマイスルが、初めて生でヘンドリックスのステージを目の当たりにしたのが、1969年大晦日から70年元旦にかけて行われたフィルモア・イースト。ビリー・コックス(b)、バディ・マイルス(ds)を率いたバンド・オブ・ジプシーズのライヴだった。バディ・マイルスの回想によると、巨大なアンプの山、数々のワウ・ペダルに心を奪われたマイルスは、その夜の楽屋で「今度いっしょになにかやろうぜ」と言い残したが、ヘンドリックスの70年9月の他界により、最終的に共演は実現しなかった。また、ヘンドリックスをマイルスに紹介した当時の前妻ベティ・デイヴィスが、マイルスとの結婚生活中ヘンドリックスとかなり親密な関係にあったことを妬ましく思っていたということも明らかにされている。


プリンス Prince
(プリンス)


ジミヘン、スライと並ぶ「マイルスの創造へのカンフル剤」となった愛すべきブラザー。1982年から、バック・バンドを「ザ・レヴォリューション」と名付け、それまでのプリンス単独名義からプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションに変更し、「Little Red Corvette」、「Delirious」、「1999」といった全米ヒット・シングルを収録した『1999』でいよいよブレイクを果たす。84年、同名映画のサウンドトラックとして『Purple Rain』が発表され、プリンスのコマーシャル的な価値は頂点に。発表初週に100万枚を売り上げたこのアルバムは、ビルボード・チャートのトップに24週も居座りつづけ、シングル・カットされた「When Doves Cry」、「Let's Go Crazy」の2曲がシングル・チャートで1位となり、プリンスは全米でのボックス・オフィス、アルバム、シングル・チャートですべて1位を獲得するという偉業を達成した。全米で1300万枚、全世界で1500万枚を売り上げた『Purple Rain』の収益で独自レーベルであるペイズリー・パーク・レコードを設立。同年このレーベルから『Around The World In A Day』を発表し、こちらも全米チャートで1位を獲得。まさに時代の寵児となった「殿下」に帝王が目を付けないわけがない。翌86年にワーナーに移籍となったマイルスとプリンスはその年の12月に偶然ロサンゼルス空港で初めて出会い、約20分間マイルスの送迎車に乗り込んで会話を交わしたという。そのわずか数日後、プリンスは熱心なマイルス信者であった側近のサックス奏者エリック・リーズとマイルスのためのデモ・テープ制作に入り、12月29日、マイルスのマリブの別荘に「Can I Play With U?」と題された、”らしさ全開”のファンク楽曲が届けられた。翌86年にはマイルスのトランペットのオーバーダブも終わり、最新アルバム「Tutu」のラストに収録されるはずだったが、土壇場でプリンスによる「待った」がかかりお蔵入りとなっている。また、同時期プリンスはもう1曲「A Couple of Miles」という曲を書き上げていたという。ちなみに、マイルスが晩年にライヴで演奏した「Are You Regal Yet?」、「Penetration」、「A Girl and Her Puppy」、「Jailbait」といったプリンス作の新曲は、殿下のジャズ要素の強い別働インスト・ファンク・バンド、マッドハウスの幻の3作目に収録される予定だったという。両者の共演アルバム実現とはいかなかったが、87年の大晦日にライヴで一度、さらにチャカ・カーンの88年録音作『C.K.』で共演が果たされている。


ウェザー・リポート Weather Report
(ウェザー・リポート)


「マイルス・ファミリー」の長男坊とも言えるだろうか、第2期クインテット以降1970年までマイルス・グループに在籍していたウェイン・ショーターと、『In A Silent Way』をはじめ初期エレクトリック・マイルスへの貢献度も大きいジョー・ザヴィヌルの2人が中心となり、ドラマにアルフォンス・ムーゾン、パーカッションにアイアート・モレイラとドン・ウン・ロマン、ベーシストにミロスラフ・ヴィトウスを迎えて1971年に結成したグループ。その初期作品は、マイルスの『Bitches Brew』の延長線上にあり、それを十二分に意識したサウンドになっていたが、3作目の『Sweet Nighter』の時期から、ファンク・グルーヴの要素が採り入れられるようになり、ヴィトウスもアコースティックに加えてエレクトリック・ベースを頻繁に使うようになった。74年にベーシストがヴィトウスからアルフォンソ・ジョンソンへと交代。ザヴィヌルによるシンセサイザー多用もあり、幻想的で新たなグルーヴとサウンドがもたらされる事になった。75年の『Black Market』制作時にはジャム・ファンク・セッションが熱を帯び、その年自身のソロ・デビュー・アルバムを発表したばかりのジャコ・パストリアスがアルバム制作後半で参加することになった。 アレックス・アクーニャ(ds)、マノロ・バドレナ(per)を迎え入れ、76年のモンタレー・ジャズ・フェスティバルへの出演なども含めて、ウェザー・リポートはグループとして頂点に向かいはじめた。77年の『Heavy Weather』、79年のキューバ「ハバナ・ジャム」への参加、80年アルバム『Night Passage』発表とまさに人気絶頂の81年にジャコが脱退。その後は「フュージョン」シーズンの収束傾向もありグループは失速。86年に解散している。


リターン・トゥ・フォーエヴァー Return To Forever
(リターン・トゥ・フォーエヴァー)


こちらは「マイルス・ファミリー」の次男坊? マイルス『In A Silent Way』、『Bitches Brew』でキーボードを弾き、エレクトリック・ジャズの黎明期を担ったチック・コリアが、当時スタン・ゲッツのバンドなどで活動していたベーシスト、スタンリー・クラークを誘い、その他こちらもマイルス・グループの盟友アイアート・モレイラ(ds)とその奥方フローラ・プリム(vo,per)、ジョー・ファレル(sax,fl)を加え1972年に結成したリターン・トゥ・フォーエヴァー。チック・コリアのソロ名義だが、実質的にはバンドとしてのデビュー作となった同年ECMから発表された『Return to Forever』、さらには、翌73年の『Light As a Feather』所収のイントロにホアキン・ロドリーゴ「アランフエス協奏曲」のメロディを挿入した「Spain」で一躍全国区に。アイアート&フローラ夫妻、ジョーが脱退し、ビル・コナーズ(g)、レニー・ホワイト(ds)が正式メンバーに固まった第2期ではロック色が強まり、コナーズ脱退後、アール・クルー(g)の一時的参加を経てアル・ディ・メオラ(g)が加入した74年の『銀河の輝映』において、黄金期と呼ばれるラインナップが揃う。続く75年の『No Mystery』は、グラミー賞「ベスト・ジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンス(グループ)」を受賞した。76年にコロムビアに移籍したバンドは『浪漫の騎士』を発表し大ヒットさせた後、ディ・メオラ、レニーが脱退。ジェリー・ブラウン(ds)、チックの妻のゲイル・モラン(vo,key)、初期メンバーのジョー・ファレルを迎え、さらにホーン・セクションを加えた編成で77年に『Musicmagic』を発表するも同年解散をしている。82年にディ・メオラ在籍時のラインナップで再結成を果たし、さらに2008年には再々結成が実現。同年5月の全米及び欧州ツアーの模様は2枚組のアルバムまたはDVD『Returns〜Reuinon Live』として発表された。


ジョン・マクラフリン John McLaughlin
(ジョン・マクラフリン)


イギリス、ヨークシャー・ドンカスター出身のギタリスト、ジョン・マクラフリンは、1969年に渡米。トニー・ウィリアムスのライフタイムに参加後、マイルス・グループに入団。『In A Silent Way』、マクラフリンの名がタイトルで入っている(しかし、マイルスは不参加)『Bitches Brew』、『On The Corner』、そしてマクラフリンの当時の絶好調ぶりを如実に顕す『A Tribute to Jack Johnson』までに参加した。70年当時のマイルス・サウンドの象徴とも言えるマクラフリンのプレイを、マイルスが「far in(奥深い)」と表現したのは有名で、かなり高い評価を与えていた。マイルス・バンド離脱後は、1971年に、インド音楽に傾倒しはじめた2作目のソロ・リーダー作『My Goal's Beyond』(この後ヒンドゥー教に改宗)を発表。さらには、ヤン・ハマー(key)、ビリー・コブハム(ds)らテク自慢の精鋭らと自己バンドのマハヴィシュヌ・オーケストラを結成。同年に1stアルバム『内に秘めた炎』を発表し、70年代のジャズ・ロック・シーンを牽引した。


アリス・コルトレーン Alice Coltrane
(アリス・コルトレーン)


故郷デトロイトで自己のトリオやヴィブラフォン奏者のテリー・ポーランドとデュオを組んでプロとして活動し始めたアリス・コルトレーン。1962年から63年にかけてテリー・ギブスのカルテットにも参加し、この間にジョン・コルトレーンと出会う。65年にマッコイ・タイナーに代わり、ジョンのグループに参加。翌年にジョンと結婚するが、67年にジョンは肝臓癌の為に亡くなる。彼との間には、ジョン・ジュニア(長男 1982年死去)、サックス奏者のラヴィ・コルトレーン、サックス/クラリネット奏者のオラン・コルトレーンがいる。ハープのみを演奏していると思われがちだが、ピアノ、オルガン、シンセサイザー各種鍵盤楽器を演奏。亡き夫の遺志を受け継ぎながらも独自の東洋思想に基づいた天上世界を築き上げたImpulse!からの代表的なリーダー・アルバムは、近年のDJ的視点から『A Monastic Trio』、『Ptah, the El Daoud』、『World Galaxy』などに注目が浴びている。2003年には古巣Impulse!から26年ぶりとなる新作『Translinear Light』を発表し話題となった。2007年呼吸不全で死去。


ウィントン・マルサリス Wynton Marsalis
(ウィントン・マルサリス)


「ジャズ・アット・リンカーン・センター」の芸術監督を務めるなど、ウィントン・マルサリスは、ジャズ・パフォーマンスと作曲の技術、洗練されたスタイル、ジャズとジャズの歴史に関する目を見張る知識、またクラシック音楽の名演奏家であることによって、現代ジャズの世界で最も高い名声を得ているミュージシャンのひとりだろう。ニューオーリンズ出身で、父はピアニストのエリス・マルサリス、兄はサックス奏者のブランフォード・マルサリスという由緒正しき音楽一家に育ったウィントンは、1978年にジュリアード音楽院へ入学。80年には、わずか18歳でアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに加入し、プロとしての活動を開始。81年7月、ハービー・ハンコックのバンドの「Live Under The Sky」(@田園コロシアム)興行一員として初来日を果たし、同年バンド・リーダーとして『Wynton Marsalis』でデビュー。伝統的なアコースティック・ジャズを継承する大型新人として話題となり、その後クラシック音楽の奏者としても活動を開始している。この初来日時に、中山氏は、時を同じくしてマイルスが復帰第一作として放った『The Man With The Horn』の感想をSJ誌の企画の一環として訊きにウィントンの宿舎に足を運んだそうだが、その総評たるや散々な・・・


ドクター・ドレー Dr. Dre
(ドクター・ドレー)


それまで「東高西低」だった全米のヒップホップ勢力図を塗り替えた西海岸ヒップホップ=Gファンク・ムーヴメントの開祖にして、現在においても最も影響力があり、最も成功し、最も有名なプロデューサーのひとりである、ドクター・ドレー。80年代のワールド・クラス・レッキン・クルー、90年代のN.W.A.での活動後、91年にシュグ・ナイトと共にDeath Row レコードを設立。92年には、初のソロ・シングル「Deep Cover」、ソロ・デビュー・アルバム『The Chronic』を発表。共に、まだデビュー前のスヌープ・ドギー・ドッグ(現スヌープ・ドッグ)を大々的にフィーチャー。アルバムは、マルチ・プラチナとなり、歴史上最も売れたヒップホップ・アルバムのひとつとなった。93年には、スヌープのデビュー・アルバム『Doggystyle』をプロデュース。同アルバムは、初のビルボード・チャート1位デビューという驚異的なヒットを記録した。96年には、2パックの「California Love」をプロデュースし、自らも客演することで大ヒット。これにより、デス・ロウ、そしてドレー自身の音楽業界での立場が確固たるものとなったが、同年暮れの2パックの銃撃死に端を発したレーベル存続の危機を察知し、Death Rowを脱退。自らの手でAftermath Entertainmentを立ち上げた。やや燻った状況が続いていたものの、98年にデトロイトのラッパー、エミネムと契約したことでレーベルに転機が訪れた。エミネムのメジャー・デビュー・アルバム『The Slim Shady LP』から2004年『Encore』に至るまでに制作に関与し、これらはもれなくモンスター・ヒットを記録した。2003年にはクイーンズのラッパー、50セントのメジャー・デビュー・アルバム『Get Rich Or Die Tryin'』をエミネムらとプロデュースし大ヒットさせている。ドレー自身の2枚目のアルバム『2001』は99年に発表され、スヌープをフィーチャーした「The Next Episode」が大ヒット。その中毒性の高いドープ・ビートこそが「第二次ウェッサイ・ブーム」の火付け役となったことを証明した。ドレー自身の最後のアルバムと噂されている『Detox』は、最初のリリース・アナウンスから6年という月日が流れてしまったが、2010年末、遂に正式先行シングル「Kush」(feat. スヌープ・ドッグ&エイコン)が届けられた。


デイヴ・ホランド Dave Holland
(デイヴ・ホランド)


世に言う”ロスト・クインテット”に在籍していたイギリスの白人ベース/コントラバス奏者デイヴ・ホランド。 1968年も夏場を過ぎると、大きく変貌したマイルスの音楽にロン・カーターのベースは追いつくことができなくなっていた。『キリマンジャロの娘』における「Frelon Brun」の主役は完全にデイヴ・ホランドの生み出すファンキー・グルーヴであり、長尺のバラード「Mademoiselle Mabry」においても泥臭いリズム・アンド・ブルース風の粘りが核となっている。ベースがロン・カーターからホランドに代わった時点で、「エレクトリック・マイルス」の旅路は始まったと見るファンも多いのではないだろうか? マイケル・ヘンダーソンにその増幅された電化のたすきが渡される70年6月頃まで、ホランドは「エレクトリック・マイルス」のボトムを「生」「電気」の両刀でしっかりと支えていた。グループ脱退後は、チック・コリア、バリー・アルトシュル、アンソニー・ブラクストンらとサークルというグループを結成し、ECMからアルバムをリリースしている。最新リーダー作は、ロビン・ユーバンクス(tb)、ネイト・スミス(ds)ら強力メンバーを揃えたオクテット編成録音の『Pathways』。


チック・コリア Chick Corea
(チック・コリア)


1968年の暮れからハービー・ハンコックに替わりマイルス・グループに加入したチック・コリア。デイヴ・ホランド同様『キリマンジャロの娘』における「Frelon Brun」と「Mademoiselle Mabry」の録音から参加。『In a Silent Way』、『Bitches Brew』などのアルバムでは、マイルスの指示でエレクトリック・ピアノ(フェンダー・ローズ)を弾くようになる。また演奏面においても、アバンギャルドなアプローチを見せるようになっており、「フィルモア」、「タングルウッド」、「ワイト島」に代表されるこの時期のマイルス・グループのライヴで聴かれるチックのソロは、かなりフリーの要素が強い。70年7月にグループを脱退した後、ベースのデイヴ・ホランド、ドラムのバリー・アルトシュルとサークルを結成。後にサックスのアンソニー・ブラクストンを加えフリー・ジャズ寄りの演奏を展開。71年にはスタンリー・クラークを誘ってリターン・トゥ・フォーエヴァーを結成し、革新的な音楽性と卓越した演奏技術に裏打ちされたこのバンドは、数々の作品を生み出し、トップ・アーティストとしての地位を確立する(以下、リターン・トゥ・フォーエヴァーの章参照)。