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「エレクトリック・マイルス」 中山康樹さんに訊く 〈2〉

Thursday, July 29th 2010

interview
「エレクトリック・マイルス 1972-1975〈ジャズの帝王〉が奏でた栄光と終焉の真相」 中山康樹 インタビュー



--- スライやジミヘンとの関係にお話を戻させていただきまして、マイルスが気に入っていたスライ、ジミヘン、あるいは、プリンスの音楽には明確な歌=歌詞というものがあって、メッセージが判りやすく伝わるところがあると思うのですが、一方で、マイルスの音楽には一部を除いて、歌詞、歌というものが存在しません。歌詞または歌手について、マイルスはどういった捉え方をしていたのでしょうか?

 定かではないんですが・・・例えば、1981年の『The Man With The Horns』に歌詞入りの楽曲(「The Man With The Horns」)がありますよね。 あの曲に関しては、マイルスが本当に好きでああなったのかどうかは実際判らないんですよ。流れの中で結果ああいう感じに仕上がっただけということもありえるので。

 そもそもマイルスは、自分が「歌手」だと思っていましたからね。「俺は歌うトランペッターだ」という自負がありましたから、歌詞を付けるとか、歌手を使って歌わせるとか、その発想はなかったと思うんですよ。あったらとっくにやっていたはずですよね。

 ただ、歌い手そのものは好きなんですよ。曲名にもなった(註)ウィリー・ネルソン(註)フランク・シナトラ、晩年には(註)アル・ジャロウだとか。彼らの歌を聴いて、フレージングを学んだり、取り入れたり、逆に「こいつは俺の影響を受けてるな」とほくそ笑んだりしていたと思うんですよ(笑)。

 沈黙期に、ニューヨークでフランク・シナトラのコンサートがあると聞いたマイルスは、マネージャーに連れて行ってもらって、シナトラと会うんですよ。そこで、シナトラ、あるいはシナトラのプロデューサーか誰かが「一緒にやりませんか?」と共演を持ちかけたそうなんです。すると、「その必要はない」とマイルスは断るんですよ。フィルモアに出演していた70年にも、ローラ・ニーロのレコーディングに呼ばれるんですが、ローラの歌を聴いて、「ここに俺は必要ない」と判断するんです。ジョニ・ミッチェルの場合にしてもそう。

--- 「彼女だけの世界で十分だ」と。

 「自分が付け加えるものはない」と。そういう意味でも、ミュージシャン・シップにおいて非常にフェアな人だったと思うんですよね。相手の有名無名、年齢、キャリア、ましてやジャンルや人種的なことは一切関係ないところで創造していたんだろうなと思うんですよ。それはミュージシャンの理想でもあるんですが、なかなかできないことでもある。そういう部分で、ここまで徹底していた人というのは、ほとんどいなかったんじゃないかなと思います。



マイルス・デイヴィスとローラ・ニーロ
ローラ・ニーロ 『イーライと13番目の懺悔』のブックレットより



--- 特に若手ミュージシャンの才能を見抜く力は抜群ですよね。

 『The Man With The Horns』で起用したパーカショニストの(註)サミー・フィガロアは、元々チャカ・カーンと一緒にやっていた人なんですね。マイルスはチャカが大好きで、彼女のデビュー・アルバム『恋するチャカ』をしょっちゅう聴いていた。そのアルバムに1曲だけフィガロアがフィーチャーされていて、その1曲のちょっとした部分を聴いて、「よし、こいつを使おう」となったらしいんですよ。その耳はすごいと思います。そのことを踏まえてその曲を聴いてみても、さして大したことはないんですが、マイルスにとっては、何か“大した”ことがあったんですよね。

 そういう意味でも、「回答」が与えられても、われわれにはそれが解けるとは限らないんですよ。

--- 曲名に「(註)ジョン・マクラフリン」、「エムトゥーメ」、「ウィリー・ネルソン」、「(註)ビリー・プレストン」と何のヒネリもなく名付けるあたりも、誠実なミュージシャン・シップの強い顕れかなと。

 笑えますよね(笑)。普通の感覚でいくと、なんでマイルスが「ウィリー・ネルソン」という曲名を付けるんだ? 共演しているのか? と、ちょっと邪推してしまうじゃないですか。ところがまったくそうではなくて、実にフラットなんですよ(笑)。逆に、何にも考えていないというか(笑)。音楽に対して非常に実直なんですよね。

--- しかも、この時代以前に一度「黄金期」があって、ということですからね。

 自分の立場、名声、財産だとかをすべて台無しにしそうなことばっかりやっているわけですよ(笑)。売れないと判っていてもやってしまう。そういうのが本当のアーティストだとは思うんですが、普通はなかなかできないですよね。

--- 体を酷使してまで、というのもさらに加えて。

 そうなんですよ。だから、コンサートもできるだけキャンセルはしたくない。血を吐いてでもステージに立つ。非常に昔気質なんですよね。でも、やっている音楽は最先端なんですよ(笑)。まさにビ・バップとヒップホップを共存させているような感じで、自分はどんどん膨らみつつ転がっていく。そんな65年の生涯だったと思うんですよ。だから、マイルスに似た人というのはやっぱりいないような気がします。


--- 表層的に似たサウンドを出している人というのは、今も昔もかなりいるとは思うのですが、ここまでミュージシャン・シップに長けて、なおかつ常に革新的なサウンドを求めて、それを生み出し続けているという人はなかなかいないですよね。そう考えると、特にこの時代のマイルスは、当時のマルチ・カルチャーすべてを飲み込んでいたのでは? という気さえしてきます。

 さらに、人間的にすごく魅力的なんですよね。自叙伝なんかを読むと、18歳ぐらいでニューヨークに出てきて、みんなに好かれているわけなんですよ。例えば、「(註)セロニアス・モンクから、マッチ箱にコード進行を書いて教えてもらった」とか。 そんなの“カマし”だろ、とみんな思うじゃないですか?(笑) ところが、マイルスに実際会った人に言わせると、そういった話が全部本当だと思えるほど、「イイ人」なんですよ。ただし、一流のアーティストだから、扱いにくい面もあるとは思うんですが、すごくチャーミングな人なんですよね。

 僕がマイルスと特に親しくなったのは、55〜65歳、最後の10年なんです。だから、若い頃みたいに尖っているようなこともほぼないんですよ。僕がその当時のことをあまり書かないのは、逆の意味でマイルスのイメージが崩れてしまうのを恐れているからなんですよ。

--- マイルスに対する豪快で奔放な世間のイメージが壊れてしまう。

 優しすぎて(笑)。実はとても律儀な人なので、何に対しても誠意をもって答えようとするんです。「マイルス・デイヴィスなのに・・・」とこっちが思ってしまうほど。だから、その時期は、「マイルス語録」的な発言がないんですよ。ただ、取材で会うと、サービス精神旺盛な人なので、キャッチ・コピー的なことは言ってくれるんですね。本心かどうかはかなり疑問なんですけどね(笑)。

 また、世間一般では、「インタビュー嫌い」だとか言われていますが、そういう場合は大抵、聞き手がマイルスの音楽をちゃんと聴いていないんですよ。マイルスはそれをすぐ見抜く。そうすると黙るんですよね。あるいは、「My Funny Valentine」や「Sketch Of Spain」の頃の話しかしない人もいるんですよ。そういうときもマイルスは、なんとなく沈みがちになるんです(笑)。

 日本でも多いと思うんですけど、聞き手が「マイルスこそわが青春」みたいなノリで話をするんですよ。そうすると、『Bitches Brew』までならまだしも、マイルスが今現在取り組んでいる音楽のことに誰も触れてくれない。その当時の最新作とか。「あの時『Cookin'』をよく聴いていました」とか、「私の人生にあなたはどれほどの影響を・・・」みたいなことばっかり言うわけですよね(笑)。そうなると、マイルスは結構シラけるんですよ(笑)。そこでマイルスもプライドがあるから、「当たり前だろ。俺はマイルス・デイヴィスなんだぞ」みたいな態度をわざと取るときもあるんですよ(笑)。それは傍から見ていると、チャーミングではあるんですけどね。でも例えば、「ローリング・ストーン」誌の若い記者なんかでも、ちゃんと作品を聴いていたり、あるいは鋭いツッコミを入れたりすると、マイルスはすごく喜ぶんですよ(笑)。



しばし黙り込む帝王・・・?
しばし黙り込む帝王・・・?



--- 晩年というのは、主に若い世代のミュージシャンや、新しい音楽の話をしていたのですか?

 そういう話しかしないんですよね。

--- むしろエレクトリック期以降、回りには常に自分よりはるかに若いミュージシャンを置いていたのは、そういう理由からなのかもしれませんよね。

 あと、マイルスにとって唯一の家族は、そうしたバンドのメンバーだったんじゃないかなと思うんですよね。もちろんお姉さんやなんかはいるわけですけど、むしろそこの関係はかなり希薄だったのではと。とにかくバンドのメンバーが言うことであれば、絶対に信じるんですよ。例えば、体調が悪いときに、メンバーに「あそこの鍼治療はよく効くから、打ったほうがいいですよ」なんて言われると、すぐ行く。「あそこのワインは美味しい」となるとすぐ試す(笑)。「あのサックスはいい」となるとすぐ聴く。まったく疑う余地がない。中には、クビにしたり、ギャラで揉めたりしたメンバーなんかはいたと思うんですが、誰とでも一様に付き合えるんですよね。

 沈黙期のエピソードなんですが、マイルスの甥にあたり、後のカムバックを手助けすることにもなるドラマーの(註)ヴィンス・ウィルバーンの友人に、グレン・ブリスというサックス奏者がいたんですね。あるとき、ヴィンスとそのグレンが、シカゴからニューヨークに遊びに来たんです。ヴィンスはマイルスの家に泊まり、グレンはどこか近場の安いホテルに泊まる。そうして、グレンはヴィンスにマイルスを紹介してもらい、一緒にセッションしたり食事したりするようになるんですね。で、ヴィンスは先にシカゴに帰る。数日後、グレンからマイルスに「この度はお世話になりました。僕もホテル代がなくなったのでそろそろシカゴに帰ります」という電話が入ったそうなんですよ。するとマイルスが「ウチに来い」、「好きなだけ居ろ」、そして、「サックスを吹け」と言ったそうなんですよ。マイルスはそういうことができる人なんですよね。しかし、グレンがレギュラー・メンバーに起用されたことはない。だから、レコードにはなっていないミュージシャン交流録みたいなものは、ものすごく幅広いんですよ。

---  人情だけで “なぁなぁ” にはならないんですね。

 そこが、まさにマイルス・デイヴィス。そういう部分では、「過去を振り返らない」という身上にも共通している姿勢だと思いますし、なにより、音楽は特別な領域にあるべきものだという考え方をきっちり持っていたんじゃないでしょうか。

 ヴィンス・ウィルバーンがマイルスに抜擢されて、ようやく地元シカゴで里帰り公演が実現するという直前に、マイルスはヴィンスをクビにするんですね。ヴィンスの母親、つまりマイルスのお姉さんは、「せめて今度のシカゴ公演まではメンバーにいさせてあげて。友達もいっぱい来るのよ」とマイルスに泣いてお願いするんですよ(笑)。でも、それも頑なに拒否するわけですからね。

 そういった話を直接的にも間接的にも聞いたりすると、立派な人生哲学だなと。単なるジャズ・ミュージシャンでもないし、単なる変人でも、巨人でもない(笑)。捉えどころのない生物体、それがマイルス・デイヴィスなんですよね。

--- しかも、随所でわりと人間くさい。

 その上、飽きることのない音楽をこれだけ残している。僕も、ビートルズとかボブ・ディランとか、色々なミュージシャンと比較してみたりするんですが、やっぱり最終的にマイルスだけが残ってゆくんですよね。

 この本の最後に、マーク・ロスバウムという当時のマネージャーの発言をいくつか引用して載せているんですが、使わなかった中に「マイルスってどんな人?」と質問されて、ロスバウムが答えているものがあるんですよ。「誰もが、地球上にいるすべての人間と会うことはできないけれど、仮に会ったところでマイルス・デイヴィスのような人物は、多分マイルスひとりしかいないだろう」と言うわけですよ。一番身近なマネージャーがそう言うぐらいなんで、相当特異な存在感を放っていたんでしょうね。



1987年 マイルス・バンドのステージ
1987年のステージ。左から マイルス(当時61歳)、ミノ・シネル(30歳)、ボビー・ブルーム(26歳)、ケニー・ギャレット(27歳)



--- マイルスは、「ブラック・ヒーロー」という強い自負があったそうですが、幅広い交流録の中では、同じような資質を持っていたと言えそうなボブ・マーリー、フェラ・クティといった、レゲエ、アフロ・ミュージックのアイコンと接触していた可能性というのはあるのでしょうか?

  レゲエではないんですが、カッサブというフレンチ・カリビアンのバンドのレコードは好んでよく聴いていたそうなんですよ。誰かに薦められて聴き始めたんだと思いますが。

--- マイルスが沈黙している76年ぐらいには、ボブ・マーリーはわりと頻繁にニューヨークのアポロ・シアターでライヴを行っていますよね。そこで何かしらのコンタクトはあったのかな? と邪推してしまうのですが。

 もちろん観に行っている可能性はありますよね。ただそれを裏付ける十分な証拠がないんですよね。

(壱岐編集長) 『On The Corner』の音の乾き方みたいなものは、当時のブラック・ミュージックの中でも相当珍しいタイプのものだと思ったんですが、何に最も近いのかな? と考えたときに、レゲエのスタジオ・ワンなんかのサウンドが持つ乾き方に少し似ているのかな? と。どちらもしっとりしていない。

 時代的な部分が大きいのかもしれませんよね。



(次の頁へつづきます)







「エレクトリック・マイルス」の20枚


  • 1969 Miles

    『1969 Miles』

    『Bitches Brew』吹き込み直前、1969年7月、 ”ロスト・クインテット”による圧巻のフランス公演...

 
  • Bitches Brew

    『Bitches Brew』

    マイルス初のゴールド・ディスクとなった1969年録音、世紀の怪作。ロックや電子楽器、ポリリズムなどを採り入れたことで...

  • Big Fun

    『Big Fun』

    『Bitches Brew』の周辺から、その「子供達」との演奏、そして、来日公演でも見せた強烈なポリリズム演奏に顕著な過渡期的な時代の演奏をドキュメントした...

 
  • Live In Rome & Copenhagen 1969

    『Rome & Copenhagen 1969』

    最強の”ロスト・クインテット”が、1969年、ローマ(10月27日)とコペンハーゲン(11月4日)で行ったライヴをカップリング...

  • Tribute To Jack Johnson

    『Tribute To Jack Johnson』

    1970年4月録音。ジョン・マクラフリンのギターを全面に押し出し、ジミヘン、スライ影響下のロックやファンクの要素を取り込んだサウンドトラック...

 
  • Black Beauty

    『Black Beauty』

    『Jack Johnson』録音の3日後、1970年4月フィルモア・ウェストにおけるライヴ盤。当初マイルスは大会場でのライヴを嫌ったが...

  • Get Up With It

    『Get Up With It』

    1970〜74年にかけてのスタジオ録音を基にまとめられた大作。従来の概念を打ち壊す奇抜で魅惑的なフレージングが満載された...

 
  • At Fillmore

    『At Fillmore』

    1970年6月フィルモア・イースト公演の模様を収録した2枚組ライヴ盤。キース・ジャレットとチック・コリアのWキーボードによる攻撃的なサウンドが...

  • At Fillmore East

    『At Fillmore East』

    『Black Beauty』収録ライブに先立つ、1970年3月7日のライブをノーカットで完全収録した驚くべき内容...

 
  • At Isle of Wight

    『At Isle of Wight』 [DVD]

    1970年8月26〜30日にかけて開催された「ワイト島ロック・フェステイヴァル」に出演した際の映像記録。「世界一のロック・バンドだって俺にはできる」と...

  • Live Evil

    『Live Evil』

    1970年ワシントンD.C.のクラブ「セラー・ドア」におけるライヴと通常のスタジオ録音をカップリングしただけでなく、テオ・マセロの高度な編集が加えられ...

 
  • Cellar Door Sessions 1970

    『Cellar Door Sessions 1970』

    1970年12月16〜19日にかけて「セラー・ドア」で行われた、『Live-Evil』収録の元ライヴ音源を完全収録した6枚組...

  • 1971 Berlin Concert

    『1971 Berlin Concert』 [DVD]

    キース・ジャレット、ゲイリー・バーツらが在籍していた1971年ベルリンでのライブと、1974年のキースのソロ・パフォーマンスをカップリング収録...

 
  • On The Corner

    『On The Corner』

    マイルスのあくなき音楽的探求が、ジャズの領域を超えてブラック・ミュージック全般を突き詰めた70年代最高の...

  • In Concert

    『In Concert』

    『On The Corner』録音直後のライヴ演奏は、その『On The Corner』の世界を忠実に再現したもの。賛否両論巻き起こした混沌としたサウンドは...

 
  • In Stockholm 1973

    『In Stockholm 1973』 [DVD]

    伝説の来日公演から約4ヵ月後、スウェーデン・ストックホルム公演を収録。大音量によるエレクトリック・ファンクの世界がほぼ1時間ぶっ続けで...

  • In Vienna 1973

    『In Vienna 1973』

    1973年のオーストリア・ウィーン公演を収めたライヴ盤。デイヴ・リーブマンを除けば、この時点で ”アガパン・オールスターズ”が揃い踏む絶頂期の電化絵巻・・・

 
  • Dark Magus

    『Dark Magus』

    「悪魔術師」を意味するタイトルどおり、妖しくヘヴィなサウンドを展開する1973年のカーネギー・ホールにおけるライヴ盤...

  • Agharta

    『Agharta』

    1975年2月1日大阪フェスティヴァル・ホール「昼の部」を収録した本盤は、マイルスの70年代におけるポリリズム探求の一つの答えでもある。「Maiysha」におけるトランペット・ソロがすさまじい...

 
  • Pangaea

    『Pangaea』

    こちらは、同じく大阪公演の「夜の部」を収録したもの。日本において、ここまで強い妖気の立ち込めたグチャグチャギタギタな伝説的コンサートが他にあっただろうか? ...








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profile

中山康樹 (なかやま やすき)

 1952年大阪府出身。音楽評論家。ジャズ雑誌「スイングジャーナル」編編集長を務めた後、執筆活動に入る。著作に『マイルス・ディヴィス 青の時代』、『マイルス vs コルトレーン』、『マイルスの夏、1969』、『マイルスを聴け!』等多数。訳書に『マイルス・ディヴィス自叙伝』がある。また、ロックにも造詣が深く、『ビートルズとボブ・ディラン』、『愛と勇気のロック50』、『ディランを聴け!!』等がある。





本文中に登場する主要人物について


ウィリー・ネルソン Willie Nelson
(ウィリー・ネルソン)


2005年にリリースされた5枚組ボックスセット『The Complete Jack Johnson Sessions』におけるディスク1の半分以上となる6曲が、「Willie Nelson」というタイトルのテイク違いソース。つまり、アルコール漬け、マリファナ大好きのアウトローなカントリー歌手、ウィリー・ネルソンのことだ。マイルスとのつながりとしては、70年代当時の所属レコード会社(CBS)が同じで、さらにマネージャーが共通していた点。また、マイルスの師チャーリー・パーカーが大のカントリー・ファンだったということははたして関係していたのだろうか?


フランク・シナトラ
Frank Sinatra
(フランク・シナトラ)


マイルスが敬愛していたフランク・シナトラは、アメリカのスタンダード曲を歌わせたら右に出る者はいない最高のポピュラー・シンガー。マイルスは、マラソン・セッションで吹き込んだ「My Funny Valentine」といったスタンダード・ナンバーを演奏する際には、しばしばシナトラの解釈を踏襲していたという。


アル・ジャロウ Al Jarreau
(アル・ジャロウ)


1975年、ワーナー/リプリーズから『We Got By』でデビューしたジャズ・シンガー、アル・ジャロウ。78年に『Look to the Rainbow』、翌79年に『All Fy Home』がそれぞれグラミー賞最優秀ジャズ・ボーカル・アルバム賞を受賞。80年代には、ジェイ・グレイドン、ナイル・ロジャース、ナラダ・マイケル・ウォルデンらのプロデュースの下、AOR/ブラック・コンテンポラリー路線を押し進め、ポップ分野でのヒットも多数生み出した。2006年には、ジョージ・ベンソンとの共作アルバム『Givin' It Up』で、マイルスの「Four」を取り上げている。


サミー・フィガロア Sammy Figueroa
(サミー・フィガロア)


パキート・デリベーラ、セイス・デル・ソラール、ミシェル・カミーロなどのサイドメンとして長年活躍しているパーカッション奏者サミー・フィガロア。1981年、マイルスの復帰作『A Man With The Horn』に突如抜擢され、マイルス楽曲史上初のヴォーカル入り曲「A Man With The Horn」ではパーカッションに加え、ランディ・ホール(vo)のバックでコーラスも添えている。


ジョン・マクラフリン John McLaughlin
(ジョン・マクラフリン)


イギリス、ヨークシャー・ドンカスター出身のギタリスト、ジョン・マクラフリンは、1969年に渡米。トニー・ウィリアムスのライフタイムに参加後、マイルス・グループに入団。『In A Silent Way』、マクラフリンの名がタイトルで入っている(しかし、マイルスは不参加)『Bitches Brew』、『On The Corner』、そしてマクラフリンの当時の絶好調ぶりを如実に顕す『A Tribute to Jack Johnson』までに参加した。70年当時のマイルス・サウンドの象徴とも言えるマクラフリンのプレイを、マイルスが「far in(奥深い)」と表現したのは有名で、かなり高い評価を与えていた。マイルス・バンド離脱後は、1971年に、インド音楽に傾倒しはじめた2作目のソロ・リーダー作『My Goal's Beyond』(この後ヒンドゥー教に改宗)を発表。さらには、ヤン・ハマー(key)、ビリー・コブハム(ds)らテク自慢の精鋭らと自己バンドのマハヴィシュヌ・オーケストラを結成。同年に1stアルバム『内に秘めた炎』を発表し、70年代のジャズ・ロック・シーンを牽引した。


ビリー・プレストン Billy Preston
(ビリー・プレストン)


「5番目のビートルズ」としても知られる鍵盤奏者ビリー・プレストンは、1970〜71年に行われたスライ・ストーンの『暴動』セッションへの参加(クレジットはなし)をきっかけに、マイルスと対面した可能性が強いと言われている。実際両者がセッションを行った記録・証言は残っていないらしいが、74年(日本は75年)にリリースされた『Get Up With It』には「Billy Preston」という曲が収録された。72年12月のセッションで録音されたこのファンク・ナンバーは、マイルスが『暴動』のセッションで目の当たりにしたビリーのプレイに興味を示したことが推測できる。


セロニアス・モンク Thelonious Monk
(セロニアス・モンク)


1954年12月24日、プレスティッジ・レコードからの要請でマイルスのレコーディングに参加したセロニアス・モンク。アルバム『Miles Davis And The Modern Jazz Giants』収録の「The Man I Love(Take 2)」において、「オレが吹いているときは、ピアノを弾くな」(当初の世間の解釈は、モンクがピアノ・ソロを途中で止め、それに対して怒ったマイルスが自分の出番でもないのにトランペットを鳴らす、というものだった)とマイルスが牽制した緊張感のあるやり取りが録音された。俗に言う「喧嘩セッション」で、その後も根本的な音楽性の違いから、いっしょにレコーディングをすることはなかった(翌55年のニューポート・ジャズ・フェスにて競演)が、マイルスはニューヨークに来て間もない頃にモンクに出会い多大な影響を受けていることもあり、モンクの作曲能力を大いに認めた上で、『Round About Midnight』や『Milestones』でモンクの曲を取り上げた、とされている。


ヴィンス・ウィルバーン Vince Wilburn
(ヴィンス・ウィルバーン)


1985年に発表された『You're Under Arrest』の録音(84年12月)を最後にバンドを離れたアル・フォスターの後任として、マイルスの甥でもあるヴィンス・ウィルバーンが新任ドラマーとして登用された。CBS時代最後の制作アルバムとなった『Aura』(84年録音)では、デンマークに赴き、ジョン・マクラフリン(g)、ダリル・ジョーンズ(b)に加え、ニールス・ペデルセン(b)ら現地の強豪ミュージシャンを交えてのセッションを行った。本インタビュー中にもあるように、「リズムが遅れる」という理由で解雇を言い渡されたヴィンスの母親、つまりマイルスの姉がマイルスに「クビにするなら、せめて地元のシカゴ公演を終えてからにしてほしい」と懇願したが聞き入れてもらえなかったという。それだけマイルスは、ドラマーに強いこだわりをみせていた。