CD 輸入盤

交響曲全集 エルンスト・メルツェンドルファー&ウィーン室内管弦楽団(33CD)

ハイドン(1732-1809)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC818
組み枚数
:
33
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


史上初のハイドン交響曲全集(33CD)
メルツェンドルファー指揮ウィーン室内管弦楽団
初CD化!


英スクリベンダム・レーベルの快挙。ジャケットの面白さも絶好調で、ハイドン埋葬の際に、コレクターによって遺体の頭部が切断され、関係者の努力にも関わらず、145年ものあいだ頭蓋骨が体と離れた状態にあったことを示唆するような不気味さも雰囲気満点。レコーディングから半世紀を経てようやくCD化される全集音源にふさわしい意匠と言えるかもしれません。

 ハイドンの交響曲全曲を、世界で初めてレコーディングしたのは、オーストリアの指揮者、エルンスト・メルツェンドルファー[1921-2009]が指揮するウィーン室内管弦楽団ですが、プロデュースが有名なクルト・リストとはいえ、販路がアメリカの通販系マイナー・レーベルだったのと、クルト・リスト自身が1970年に57歳で亡くなってしまったことでマトモなプロモーションがおこなわれなかったのか話題にならず、有名レーベルのデッカが制作したドラティによるレコーディングが、世界初の「全集」として人々に記憶されることとなります。

 メルツェンドルファーはクレメンス・クラウスの弟子で、クラウスといえば、まだハイドンがあまり注目されていなかった1920年代初頭からけっこう頻繁にハイドン作品をとりあげていたので、メルツェンドルファーの周囲にも大なり小なりハイドン情報があったとも思われます。しかし、メルツェンドルファーの本職が、超多忙な歌劇場カペルマイスターということもあり、ハイドン全集制作に関して直接・間接のきっかけになったのは、やはり、戦後ウィーンを訪れて長く滞在し、同地でハイドン・ルネッサンスを巻きおこしたアメリカ人研究者のロビンズ・ランドンではないかと考えられます(ちなみにロビンズ・ランドンに気に入られて戦後ウィーンでのハイドン録音に参加していたアントン・ハイラーは、クリップスからのウィーン国立歌劇場カペルマイスターへの就任要請を断っていますが、理由は歌劇場カペルマイスターは多忙すぎるというものでした。その後、ハイラーはオルガン奏者、チェンバロ奏者としての仕事がメインになりますが、晩年のインタビューでは、クリップスの誘いを断らなければ自分は指揮者として有名になっていただろうとも語っていました)。

 そのロビンズ・ランドンのフルネームは、ハロルド・チャンドラー・ロビンズ・ランドンで、ハロルドがファーストネーム、チャンドラーがミドルネーム、ロビンズが母方姓、ランドンが父方姓ということなので、ここではロビンズ・ランドンと記しておきます。
 なお、ロビンズ・ランドンがウィーンに長期在住することになったきっかけは、1947年の卒業旅行で、生活費の安さから滞在が延び、さらに新たな「選抜徴兵法」の施行の情報を得たことから、ウィーンのアメリカ占領軍政府に登録して軍事歴史家として活動、イタリア解放の際のアメリカ軍第5軍団の役割について研究して文書化。この活動により、ロビンズ・ランドンは、研究対象の一次情報源を扱う実践的な経験を蓄積、以後の資料検索・研究・執筆に役立つこととなったほか、21月の兵役期間もクリアしています。

 ちなみに、ロビンズ・ランドンがハイドンに開眼するきっかけとなった作品は交響曲第93番で、演奏はビーチャムだったということですが、メルツェンドルファーの演奏の迫力・生気には凄いものがあり、一方でエレガントな楽想への対処も見事にこなし、対比の交響曲でもあるこの作品の魅力をフルに引き出しています。実に素晴らしい演奏です。


【戦後ウィーンの外為効果がもたらしたハイドン・ルネッサンス】
ハイドン作品の録音が盛んになったのは第2次大戦後のウィーンでのことですが、理由としては、以下の要素が考えられます。

●固定相場制下の通貨改革でオーストリア・シリングが約53%切り下げとなり、これによりウィーンでのアメリカ人の生活費や、アメリカ人がオーストリア人に支払うギャラが対ドル換算で半分以下に低下。
●外為格差による生活のしやすさや、各種資料の存在もあって、ロビンズ・ランドンはウィーンを拠点に活動を開始。
●ロビンズ・ランドンが、ウィーンでの研究資金捻出のため、伯父の遺産で設立したボストンのレーベル「Haydn Society」は、演奏家事情・資料事情・経済事情に恵まれたウィーンでレコーディングを実施。
●「Westminster」、「Vox」、「Concert Hall Society」などアメリカのレーベルがウィーンの音楽家を起用。ハイドンの珍しいレパートリーで順調に収益を上げていた「Haydn Society」に倣ってハイドン作品を多く取り上げます。
●「Westminster」の創始者のひとりが設立に関わった「Musical Heritage Society」は、「Library of Recorded Masterpieces」、「Supraphon」、「Christophorus」などとも提携、その他、各社からハイドンのアルバムがリリース。

米 Haydn Society
こうしたことから、ウィーンの音楽家によるハイドンの交響曲レコーディングは非常に盛んになり、まずロビンズ・ランドン自身が1949年に設立したレーベル「Haydn Society」から、下記の演奏家たちによる録音がパラパラとモノラル期に登場します。

・ウィーン室内管弦楽団 指揮:フランツ・リッチャウアー[1903-1972]
・コレギウム・ムジクム・ウィーン 指揮:アントン・ハイラー[1923-1979]
・ウィーン交響楽団 指揮:ジョナサン・スターンバーグ[1919-2018]
・ウィーン国立歌劇場管弦楽団 指揮:ハンス・スワロフスキー[1899-1975]

米 Westminster
続いて同じく外為効果でウィーンで大量にレコーディングをおこなっていた「Westminster」が、ヘルマン・シェルヘンの指揮で18作品をモノラル期にレコーディング。ロビンズ・ランドンが解説も書いていました。

・ウィーン国立歌劇場管弦楽団 指揮:ヘルマン・シェルヘン[1891-1966]
・ウィーン交響楽団 指揮:ヘンリー・スウォボダ[1897-1990]
・ウィーン交響楽団 指揮:ラースロー・ショモギ[1907-1988]
・ウィーン放送管弦楽団 指揮:ラースロー・ショモギ[1907-1988]

米 Library of Recorded Masterpieces
その後、1960年になるとステレオ録音も十分に普及、楽譜の準備も整いつつあったため、アメリカの通販系レーベル「Library of Recorded Masterpieces」で、全集録音への取り組みが開始されます。指揮者はアメリカ人のマックス・ゴバーマンで、オーケストラはシェルヘンと同じくウィーン国立歌劇場管弦楽団。しかし、45曲を録音したところでゴバーマンは心臓発作に倒れ、全集企画は途中で終わってしまいます。

・ウィーン国立歌劇場管弦楽団 指揮:マックス・ゴバーマン[1911-1962]

米 Vox
アメリカの「Vox」もウィーンで録音。ウィーン音楽院チェロ教授ヴィルフリート・ベトヒャー指揮するウィーン芸術週間管弦楽団と、伝統的レパートリーのホーレンシュタインという対照的なアルバムを制作。

・ウィーン交響楽団 指揮:ヤッシャ・ホーレンシュタイン[1898-1973]
・ウィーン・プロ・ムジカ交響楽団 指揮:ヤッシャ・ホーレンシュタイン[1898-1973]
・ウィーン芸術週間管弦楽団 指揮:ヴィルフリート・ベトヒャー[1929-1994]

米 Musical Heritage Society
さらに、同じ1960年代には、「Westminster」の共同設立者のひとりが設立したレーベルであるアメリカの「Musical Heritage Society」からウィーン室内管弦楽を指揮したフロシャウアーの単独盤が登場し、それからほどなくしてメルツェンドルファーが同じウィーン室内管弦楽団を指揮した全集録音が完成。

・ウィーン室内管弦楽団 指揮:ヘルムート・フロシャウアー[1933- ]
・ウィーン室内管弦楽団 指揮:エルンスト・メルツェンドルファー[1921-2009]

米 Concert Hall Society
アメリカの通販レーベル大手「Concert Hall Society」もウィーンでハイドン・アルバムを制作。

・ウィーン国立歌劇場管弦楽団 指揮:デイヴィッド・ジョセフォウィッツ[1918-2015]

チェコ Supraphon
ソ連により解放されたチェコは共産主義国家になっていましたが、ウィーンは米英仏のほかソ連の統治も受けていたので、「Supraphon」の活動も問題なくおこなえていました。また、当時のオーストリア・コインは「ツチカマ」仕様ですし(下の画像左側)、ウィーンは戦後から現在に至るまでずっと社民党政権でもあります。ちなみに「Supraphon」は、「Musical Heritage Society」の提携レーベルです。

・ウィーン国立歌劇場管弦楽団 指揮:ハンス・スワロフスキー[1899-1975]

英 HMV
伝統的レパートリーからのウィーン録音。

・ウィーン・フィルハーモニー 指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー[1886-1954]

蘭 Philips
伝統的レパートリーからのウィーン録音。

・ウィーン交響楽団 指揮:ヴォルフガング・サヴァリッシュ[1923-2013]

英 Decca
のちにランドン監修、ドラティ指揮によりドイツで全集を完成させるデッカは、1950〜1960年代にはクリップス、ミュンヒンガー、モントゥー、カラヤンとウィーン・フィルの組み合わせで伝統的レパートリーのアルバムを制作していました。

・ウィーン・フィルハーモニー 指揮:ヨーゼフ・クリップス[1902-1974]
・ウィーン・フィルハーモニー 指揮:カール・ミュンヒンガー[1915-1990]
・ウィーン・フィルハーモニー 指揮:ピエール・モントゥー[1875-1964]
・ウィーン・フィルハーモニー 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン[1908-1989]

フィルハーモニア・フンガリカ
ちなみに、のちにドラティと交響曲全集を制作するフィルハーモニア・フンガリカも、結成当初はウィーンのオーケストラでした。死傷者1万7千人という犠牲を出した「ハンガリー動乱」は、20万人とも言われる難民を産み出し、ウィーン郊外の収容施設には、膨大な数の人々が受け入れられ、中には音楽家たちも数多く存在。
 難民で指揮者のゾルタン・ロズニャイ[1926-1990]は、そうした音楽家たちの中から選りすぐったオーケストラ「フィルハーモニア・フンガリカ」を結成、ウィーン市は楽器と衣装を用意したほか、バーデン・バイ・ウィーンの「ホテル・エスプラナーデ」を練習会場として提供。1957年5月28日にはウィーン・コンツェルトハウスで第1回演奏会を開催。その後、ロックフェラー財団とフォード財団などの支援を受けながらアメリカ・ツアーをはじめとして世界各地で演奏会を実施。
 翌年、名誉会長にアンタル・ドラティを迎え、1960年にはドイツ、ヴェストファーレン州の人口7万人の小都市マールがオーケストラを受け入れることとなり、西ドイツ政府から冷戦対策費の一環として補助金を支給されながら活動を継続、しかし冷戦が終わると、西ドイツは東ドイツを抱えて国庫がひっ迫、冷戦も終わったことで助成金もすべて打ち切りとなり、演奏会収入の減少もあって、オーケストラの経営状態は悪化、結成から44年目の2001年に活動を終えています。


【プロデューサー:クルト・リスト】
メルツェンドルファーのハイドン交響曲全集をプロデュースしたのは、ウエストミンスター・レーベルで活躍していたウィーン生まれのクルト・リスト[1913-1970]です。
 リストは、クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィルのブルックナー交響曲第8番とワーグナー管弦楽曲集や、モントゥーのベルリオーズ、シェルヘン、ロジンスキー、レイボヴィッツらの有名アルバムの制作に携わった人物で、指揮者としても活動したほか、オペラを2曲のほか、室内楽なども書いた作曲家でもあり、また、ウィーン大学では哲学で博士号を取得してもいました。
 クルト・リストが1960年代に取り組んだ大仕事がこのハイドンの交響曲全集ですが、脳梗塞を患ったのち体調が悪化、全集での発売を見ることなく、57歳で亡くなっています。


【指揮者:メルツェンドルファー】
生涯オペラ指揮者だったメルツェンドルファーは、コンサートの分野でも活躍、師のクラウス譲りの指揮テクニックで複雑な作品も着実にこなし、バロック、古典派、ロマン派から近現代作品まで多彩なレパートリーを取り上げ、ときにはブルックナー交響曲第9番の完成版をとりあげるなど、88歳で亡くなる直前まで、現役として活動していました。
 メルツェンドルファーは、1921年5月26日、オーベルンドルフ・バイ・ザルツブルクに誕生。グラーツ音楽院でロベルト・ワーグナーに、モーツァルテウム音楽院でクレメンス・クラウスに師事。
 クレメンス・クラウスからいろいろと学んだのち、かつてクレメンス・クラウスも在籍したグラーツ市立劇場で指揮活動を開始。メルツェンドルファーもクラウスと同じく、歌劇場のオーケストラを用いたシンフォニー・コンサートを開催し、現代作品も取り混ぜた多彩なプログラム構成をおこない、1952年までグラーツの音楽シーンに貢献しています。
 その間、1951年にはモーツァルテウム音楽院で指揮科のクラスを担当し、1952年にはブエノスアイレスのコロン劇場に客演するなど、メルツェンドルファーはクレメンス・クラウスが歩んだ道を辿り、1953年からはモーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者に就任、翌年にはザルツブルク音楽祭にも出演。1958年まではコンサート分野で活躍しています。
 1958年になるとベルリン市立歌劇場のカペルマイスターとして契約、リヒャルト・クラウス[1902-1978]音楽監督のもとで1961年まで指揮しますが、1960年にウィーン国立歌劇場に客演するとそちらが気に入り、1961年にベルリンを辞してウィーン国立歌劇場のカペルマイスターとして契約。当時の音楽監督はクレメンス・クラウスの弟子でもあったカラヤンでした。
 ウィーン国立歌劇場ではバレエもよく指揮し、その縁で1965年からはニューヨーク・シティ・バレエに何度も客演。また、同じ年には師のクラウスがリブレットを担当したR.シュトラウス『カプリッチョ』のアメリカ初演をおこなってもいました。R.シュトラウス本人と交流があったメルツェンドルファーにとって、R.シュトラウスのオペラとバレエは、全曲、得意なプログラムでもありました。
 メルツェンドルファーはオペレッタにも造詣が深く、1971年からはウィーン・フォルクスオーパーのカペルマイスターも兼務、79歳まで務め上げます。ウィーン国立歌劇場でのオペラ指揮は285回、バレエの指揮は129回に及んでいました。
 メルツェンドルファーは80歳を超えても指揮を続けており、Marco PoloレーベルにJ.シュトラウス作品集を何枚も録音したほか、オーストリアのサマー・フェスティヴァルである「ザンクト・マルガレーテン・フェスティヴァル」の音楽監督も務め、ヴェルディ作品などで立派な演奏を聴かせていました。2009年9月16日に脳腫瘍で亡くなっていますが、最後の指揮はその4か月前の『魔笛』でした。

【年表】
1921年(0歳)
●メルツェンドルファー、5月26日、オーストリアのオーベルンドルフ・バイ・ザルツブルクに誕生。

1927年(6歳)
◆7月、ウィーンで暴動発生。左翼勢が民衆デモを巻き込んで警察署や裁判所を襲撃して戦闘状態となり、89人が殺害(デモ参加者85名、警官4名)されたのち収束。


1929年(8歳)
◆10月、ニューヨークで株価が大暴落。アメリカ政府の保護貿易への転換や、経済政策の失敗により、やがて影響が世界に及ぶようになります。世界大恐慌。

1931年(10歳)
●メルツェンドルファー、グラーツで、ロベルト・ワーグナーに師事。
◆「世界大恐慌」の影響で経済が疲弊していたドイツとオーストリアが2国間の関税同盟を結んで、少しでも経済を活性化しようとしたことに対し、フランス政府は反発、国際連盟や国際司法裁判所に提訴、両国の関税同盟成立を阻止します。
◆フランスがオーストリアから資本を引き揚げたこともあって、ロスチャイルド(ロートシルト)家創業のウィーンの大銀行「クレディート・アンシュタルト」が倒産、取引先のドレスデン銀行なども破綻するなど経済が悪化。

1934年(13歳)
◆2月、ウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と、オーストリア社会民主党の支援する戦闘員が衝突、4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。
◆7月、ドルフース首相が、敵対するオーストリア・ナチスのメンバーにより殺害。オーストリア・ナチスは、クーデターにより政権奪取を果たすべくオーストリア各地で暴動を引き起こすものの、隣国イタリアのムッソリーニ率いるイタリア・ファシズム政権が国境線まで軍隊を進めたためオーストリア・ファシズム政権はなんとか事態を鎮圧。以後、1936年に政権がドイツに屈服するまで、オーストリア・ナチスは地下活動を展開。
 当時のオーストリアは、ドルフース首相のオーストリア・ファシズム政権と支持者たち(護国団など)、オーストリア社会民主党の支援する全国で8万人規模とも言われる活動員とその支持者たち(共和国保護同盟など)、オーストリア・ナチ党員とその支持者たちという三者によるみつどもえの闘争という状態で、国中で小競り合いが多発していました。


1935年(14歳)
◆3月、ドイツ、徴兵制復活(再軍備宣言)。3年後のオーストリア併合後は、オーストリア人も対象となります。

1938年(17歳)
◆オーストリア併合。当時のドイツは失業率が劇的に改善し、国民の貯蓄額も急伸、公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方、アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も,国境線拡大に加え,オーストリアの保有していた金資産や外貨,鉱物資源、そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際,ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億ライヒスマルクに達し、これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万ライヒスマルクの実に18倍以上という凄いものでした。
 しかし、景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く、約60万人も失業者がおり、自国経済の改善に期待する市民の思いは、併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映、賛成99.75%という数字にも表れていました。
 併合後は、1925年にクローネから変更されたばかりのオーストリア通貨シリングを廃止してライヒスマルクを導入。ライヒスバンクは当初、オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを想定していたものの、市民感情にも配慮し、「1.5シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを設定して、民間組織の国有化など経済再建を進めます。

1939年(18歳)
◆9月、第2次世界大戦開戦。

1940年(19歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
●メルツェンドルファー、グラーツ市立劇場のカペルマイスターに就任。世界遺産に指定されるほどの美麗な街並みのグラーツの当時の人口は20万人ほどで、200万人を超えていたウィーンの10分の1ほどですが、オーストリアでは第2の規模の都市でした。1899年に開場した豪華なグラーツ市立劇場は、座席数1,400ほどの劇場で、常設のオーケストラは、シンフォニー・コンサート開催時には「グラーツ・フィルハーモニー」として演奏しています。


1943年(22歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
●5月、メルツェンドルファー、ヴェンツェル・ミュラー[1767-1835]のオペラ『アルプスの王と人間嫌い』を指揮。グラーツ市立劇場。

1944年(23歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
●メルツェンドルファー、ピアノ協奏曲とバレエ音楽『悪魔伝説』作曲。

1945年(24歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
◆1月、赤軍(ソ連軍)がドイツ領内に侵攻。ハインツ・グデリアン将軍[1888-1954]がラジオ放送でドイツ国民の注意を喚起。
◆4月27日、オーストリア暫定政府が誕生しますが、この政府はソ連の傀儡政権と見なされて、米英仏は承認を拒否、1945年から1955年までの10年間、ソ連と米英仏の4か国による分割統治がおこなわれることとなります。
●5月1日、メルツェンドルファー、ウィーン国立歌劇場の再開公演『フィガロの結婚』に参加。指揮はヨーゼフ・クリップス[1902-1974]、メルツェンドルファーはレツィタティーヴォ・セッコのピアノ伴奏を担当。
●6月、メルツェンドルファー、グルック『皐月の女王』を指揮。グラーツ市立劇場。
◆ソ連のオーストリア支援は他国を圧し、1945年の食糧支援が132,600トンと米英仏の合計と同等だったほか、電気やガス、住宅設備などの重要な生活インフラの整備に加え、文化の復興も支援、ウィーン国立歌劇場の公演をアン・デア・ウィーン劇場で早期に再開できるようにもしていました。こうした経緯もあってか、ウィーン市の議会は1945年から現在に至るまで70年以上に渡って社民党(旧称:社会党)が政権を担っています。
●7月、メルツェンドルファー、オッフェンバック『ランタン灯りでの結婚式』を指揮。グラーツ市立劇場。
◆7月31日、アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍がウィーン入り。ウィーンでの4分割統治がおこなわれることとなります。
●8月、メルツェンドルファー、オッフェンバック『ホフマン物語』を指揮。グラーツ市立劇場。
●10月、メルツェンドルファー、ロルツィング『密猟者』を指揮。グラーツ市立劇場。
●11月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『トラヴィアータ』を指揮。グラーツ市立劇場。


1946年(25歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
●3月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『仮面舞踏会』を指揮。グラーツ市立劇場。
●4月、メルツェンドルファー、プッチーニ『西部の娘』を指揮。グラーツ市立劇場。
●10月、メルツェンドルファー、プッチーニ『ボエーム』を指揮。グラーツ市立劇場。
●10月、メルツェンドルファー、トーンキュンストラー管弦楽団とR=コルサコフ「道化師の踊り」、チャイコフスキー『くるみ割り人形』組曲ほかを演奏。
●11月、メルツェンドルファー、モーツァルト『バスティアンとバスティエンヌ』、『劇場支配人』を指揮。グラーツ市立劇場。

1947年(26歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、ウィーン交響楽団とベートーヴェン『田園』、アイネム:カプリッチョほかを演奏。
●2月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。グラーツ市立劇場。
●4月、メルツェンドルファー、マイヤーベーア『ユグノー教徒』を指揮。グラーツ市立劇場。
●5月、メルツェンドルファー、ビゼー『カルメン』を指揮。グラーツ市立劇場。
●11月、メルツェンドルファー、ヴェーバー『魔弾の射手』を指揮。グラーツ市立劇場。

1948年(27歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
●3月、メルツェンドルファー、ヴァインベルガー『笛吹シュワンダ』を指揮。グラーツ市立劇場。
●9月、メルツェンドルファー、スメタナ『売られた花嫁』を指揮。グラーツ市立劇場。

1949年(28歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
●10月、メルツェンドルファー、オッフェンバック『ホフマン物語』を指揮。グラーツ市立劇場。

1950年(29歳) グラーツ市立劇場カペルマイスター
●2月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『運命の力』を指揮。グラーツ市立劇場。
●6月、メルツェンドルファー、ストラヴィンスキー『夜鳴きうぐいす』を指揮。グラーツ市立劇場。

1951年(30歳)
●メルツェンドルファー、モーツァルテウム音楽院で指揮科のクラスを担当。

1952年(31歳)
●メルツェンドルファー、ブエノスアイレスのコロン劇場に客演。ヴェルディ『ファルスタッフ』とフンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』を指揮。


●12月、メルツェンドルファー、ウィーン・コンツェルトハウス協会室内管弦楽団とベルク『抒情組曲』、ベルガー『マリンコニア』、マルタン『小協奏交響曲』、ティペット:二重協奏曲、バルトーク:ディヴェルティメントほかを指揮。

1953年(32歳) モーツァルテウム管弦楽団首席指揮者
●メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者に就任。

1954年(33歳) モーツァルテウム管弦楽団首席指揮者
●6月、メルツェンドルファー、ウィーン交響楽団とR.シュトラウス:ブルレスケ、ベルク『アルテンベルク歌曲集』『3つの管弦楽曲』ほかを演奏。
●10月、メルツェンドルファー、チューリッヒ放送管弦楽団を指揮してアイネムの管弦楽曲『トゥーランドット』を初演。

1955年(34歳) モーツァルテウム管弦楽団首席指揮者
◆5月、占領軍政府による統治終了。オーストリア共和国、永世中立国として独立。
●11月、メルツェンドルファー、リカルド・オドノポゾフ[1914-2004]をソロに迎えウィーン交響楽団とシベリウス、チャイコフスキー、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を演奏。オドノポゾフはクレメンス・クラウスの熱烈な推薦でウィーン・フィルに入団するものの、1938年にオーストリアがドイツに併合されたため解雇、アメリカで活躍していたヴァイオリニストで、この演奏会がウィーン帰還公演となります。

1956年(35歳) モーツァルテウム管弦楽団首席指揮者
◆オーストリア政府、ハンガリー動乱で難民多数受け入れ。
●メルツェンドルファー、アメリカ・ツアー。

1957年(36歳) モーツァルテウム管弦楽団首席指揮者
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。ハイドンの第105番(協奏交響曲)ほかを指揮。


1958年(37歳) モーツァルテウム管弦楽団首席指揮者、ベルリン市立歌劇場カペルマイスター
●メルツェンドルファー、ベルリン市立歌劇場(ベルリン・ドイツ・オペラ)のカペルマイスターに就任。
●メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者に退任。

1959年(38歳) ベルリン市立歌劇場カペルマイスター
●4月、メルツェンドルファー、ウィーン国立歌劇場への客演で、ヴェルディ『リゴレット』を指揮して成功を収め、カペルマイスターとして契約。

1960年(39歳) ベルリン市立歌劇場カペルマイスター、ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●12月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『サロメ』、ヴェルディ『仮面舞踏会』を指揮。ウィーン国立歌劇場。


1961年(40歳) ベルリン市立歌劇場カペルマイスター、ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●メルツェンドルファー、ベルリン市立歌劇場(ベルリン・ドイツ・オペラ)のカペルマイスターを退任。
●3月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『トラヴィアータ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『サロメ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●10月、メルツェンドルファー、ベートーヴェン『フィデリオ』、スメタナ『売られた花嫁』、R.シュトラウス『サロメ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』、R.シュトラウス『サロメ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『エレクトラ』、ベートーヴェン『フィデリオ』、プッチーニ『トスカ』、ビゼー『カルメン』、R.シュトラウス『サロメ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、ウィーン交響楽団とドヴォルザーク『新世界より』、コダーイ:交響曲第1番ほかを演奏。

1962年(41歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』、ベートーヴェン『フィデリオ』、R.シュトラウス『サロメ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●2月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』、R.シュトラウス『エレクトラ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3月、メルツェンドルファー、エリカ・ケートのアリア集をレコーディング。
●3〜4月、メルツェンドルファー、ロルツィング『密猟者』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3〜5月、メルツェンドルファー、モーツァルト『フィガロの結婚』、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4〜5月、メルツェンドルファー、ワーグナー『さまよえるオランダ人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4〜6月、メルツェンドルファー、モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、プッチーニ『ボエーム』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●6月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『カプリッチョ』、R.シュトラウス『サロメ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●9月、メルツェンドルファー、ワーグナー『さまよえるオランダ人』、R.シュトラウス『エレクトラ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●10〜12月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『ドン・カルロ』、『仮面舞踏会』、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、ワーグナー『さまよえるオランダ人』、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1963年(42歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、プッチーニ『ボエーム』、『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4〜5月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』、『フィガロの結婚』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、オーストリア放送管弦楽団を指揮してブルックナー:交響曲第4番、シューベルト:交響曲第6番演奏。
●9月、メルツェンドルファー、モーツァルト『フィガロの結婚』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』、スメタナ『売られた花嫁』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1964年(43歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●メルツェンドルファー、初来日。読売日本交響楽団に客演して『ルル』組曲の日本初演など指揮。

1965年(44歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●5月、メルツェンドルファー、ベルリン放送交響楽団を指揮してアイネムの管弦楽曲『メドゥーサ』を初演。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。
●メルツェンドルファー、ニューヨークでR.シュトラウス『カプリッチョ』を指揮。アメリカ初演。
●メルツェンドルファー、ニューヨーク・シティ・バレエに客演。

1966年(45歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●5月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5〜6月、メルツェンドルファー、ヘンツェ『タンクレーディ』、ストラヴィンスキー『結婚』、チャイコフスキー『弦楽セレナーデ』を指揮。ウィーン国立歌劇場バレエ。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。
●メルツェンドルファー、ブルックナー交響曲第9番の第4楽章完成版を指揮。

1967年(46歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●1〜2月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、ブリテン『パゴダの王子』を指揮。ウィーン国立歌劇場バレエ。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。
●9月、メルツェンドルファー、マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、アイネム『ダントンの死』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、ウィーン室内管弦楽団を指揮してハイドン交響曲第43番『マーキュリー』ほかを演奏。

1968年(47歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』、ヴェルディ『トラヴィアータ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●2月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『エレクトラ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『トラヴィアータ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●6月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●10月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『ドン・カルロ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3〜5月、メルツェンドルファー、ブリテン『パゴダの王子』を指揮。ウィーン国立歌劇場バレエ。
●11月、メルツェンドルファー、ウィーン室内管弦楽団を指揮してハイドン交響曲第60番『うかつ者』ほかを演奏。
●12月、メルツェンドルファー、アイネム『ダントンの死』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
◆オーストリア政府、プラハの春で難民多数受け入れ。

1969年(48歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、プッチーニ『蝶々夫人』、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●1〜2月、メルツェンドルファー、オッフェンバック『ホフマン物語』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●2月、メルツェンドルファー、プッチーニ『ボエーム』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3月、メルツェンドルファー、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、ワーグナー『ローエングリン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。
●8月、メルツェンドルファー、カヴァリエーリ『魂と肉体の劇』を指揮。ザルツブルク音楽祭。
●11月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『ドン・カルロ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』、プッチーニ『ボエーム』、ヴェルディ『トラヴィアータ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1970年(49歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、ワーグナー『ローエングリン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3月、メルツェンドルファー、ウィーン室内管弦楽団を指揮してハイドン交響曲第39番ほかを演奏。
●4月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●6月、メルツェンドルファー、ワーグナー『さまよえるオランダ人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●8月、メルツェンドルファー、カヴァリエーリ『魂と肉体の劇』を指揮。ザルツブルク音楽祭。
●11月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『カプリッチョ』、モーツァルト『魔笛』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、ワーグナー『ローエングリン』、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1971年(50歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●2月、メルツェンドルファー、ワーグナー『さまよえるオランダ人』、R.シュトラウス『エジプトのヘレナ』をを指揮。ウィーン国立歌劇場。
●2月、メルツェンドルファー、オーストリア放送交響楽団を指揮して、マイヤーベーア『ユグノー教徒』を演奏会形式で上演。
●4月、メルツェンドルファー、ワーグナー『ローエングリン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3〜5月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『カプリッチョ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●6月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』、『フィガロの結婚』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。
●8月、メルツェンドルファー、カヴァリエーリ『魂と肉体の劇』を指揮。ザルツブルク音楽祭。
●メルツェンドルファー、ウィーン・フォルクスオーパーのカペルマイスターに就任。
●12月、メルツェンドルファー、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。


1972年(51歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●3月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』、プッチーニ『蝶々夫人』、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、モーツァルト『フィガロの結婚』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●6月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。
●8月、メルツェンドルファー、カヴァリエーリ『魂と肉体の劇』を指揮。ザルツブルク音楽祭。

1973年(52歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●3月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3〜4月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、ワーグナー『ローエングリン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。
●8月、メルツェンドルファー、カヴァリエーリ『魂と肉体の劇』を指揮。ザルツブルク音楽祭。
●10月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『アラベラ』、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11〜12月、メルツェンドルファー、ワーグナー『さまよえるオランダ人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『カプリッチョ』、ワーグナー『ローエングリン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1974年(53歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●3月、メルツェンドルファー、プッチーニ『ボエーム』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3〜5月、メルツェンドルファー、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4〜5月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』を指揮。ウィーン国立歌劇場。●10月、メルツェンドルファー、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『運命の力』、『トラヴィアータ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』、ヴェルディ『運命の力』、『トラヴィアータ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1975年(54歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、モーツァルト『フィガロの結婚』、プッチーニ『蝶々夫人』、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、ウィーン室内管弦楽団を指揮してハイドン交響曲第97番ほかを演奏。
●5月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』、プッチーニ『ボエーム』、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、グノー『ファウスト』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●9月、メルツェンドルファー、ワーグナー『ワルキューレ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●10月、メルツェンドルファー、モーツァルト『フィガロの結婚』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』、ワーグナー『ローエングリン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1976年(55歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●3月、メルツェンドルファー、ヴェルディ『ドン・カルロ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、モーツァルト『フィガロの結婚』、ヴェルディ『リゴレット』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●メルツェンドルファー、ザルツブルクのヘルブルン音楽祭音楽監督に就任(1993年まで)。


1977年(56歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●3月、メルツェンドルファー、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1978年(57歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●1月、メルツェンドルファー、モーツァルト『後宮からの誘拐』、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1979年(58歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●2月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『カプリッチョ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。
●10月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『カプリッチョ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ヨゼフ伝説』『4つの最後の歌』を指揮。ウィーン国立歌劇場バレエ。

1980年(59歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●1〜2月、メルツェンドルファー、ビゼー『カルメン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、ビゼー『カルメン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1981年(60歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●1月、メルツェンドルファー、モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●2〜4月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『カプリッチョ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、ビゼー『カルメン』、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●6月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1982年(61歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●3〜4月、メルツェンドルファー、プッチーニ『ボエーム』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『カプリッチョ』、プッチーニ『蝶々夫人』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●4〜5月、メルツェンドルファー、ビゼー『カルメン』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●8月、メルツェンドルファー、モーツァルテウム管弦楽団を指揮してザルツブルク音楽祭に出演。


1985年(64歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●2月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●6月、メルツェンドルファー、プフィッツナー『パレストリーナ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1986年(65歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●1月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ヨゼフ伝説』『4つの最後の歌』を指揮。ウィーン国立歌劇場バレエ。

1987年(66歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●3月、メルツェンドルファー、ペーター・ロンネフェルト[1935-1965]のオペラ『ナハトアウスガーベ(夕刊紙)』のアレンジ版を作成し初演。ウィーン国立歌劇場、キュンストラーハウス。
●5月、メルツェンドルファー、ウィーン室内管弦楽団を指揮してグルック『テレーマコ、または見捨てられたキルケ』を演奏会形式で上演。
●10〜11月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1988年(67歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●2月、メルツェンドルファー、ヘンツェ『白痴』を指揮。ウィーン国立歌劇場、キュンストラーハウス。
●メルツェンドルファー、トマ『ミニョン』を指揮。ウィーン・フォルクスオーパー。

1989年(68歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●メルツェンドルファー、J.シュトラウス『ヴェネツィアの一夜』を指揮。ウィーン・フォルクスオーパー。

1990年(69歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●2月、メルツェンドルファー、モーツァルト『フィガロの結婚』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●3月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『サロメ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1991年(70歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●2月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●12月、メルツェンドルファー、プッチーニ『トスカ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1992年(71歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●2〜3月、メルツェンドルファー、ロッシーニ『セヴィリアの理髪師』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●8月、メルツェンドルファー、オーストリア・ヨハン・シュトラウス・アンサンブルを指揮してワルツ関連作品を演奏。

1993年(72歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター、ヘルブルン音楽祭音楽監督
●メルツェンドルファー、ザルツブルクのヘルブルン音楽祭音楽監督を退任。

1994年(73歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●4月、メルツェンドルファー、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1995年(74歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
◆1月1日、オーストリア共和国、EUに加盟。
●9月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、ヨゼフ・シュトラウス作品集(第17集)をMarco Poloにレコーディング。『天体の音楽』で12分超えの演奏を展開。

1996年(75歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●10月、メルツェンドルファー、シュニトケ『ジェズアルド』、ヴェルディ『トラヴィアータ』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●メルツェンドルファー、シリングス『モナ・リザ』を指揮。ウィーン・フォルクスオーパー。

1997年(76歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●1月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『無口な女』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『無口な女』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●10〜11月、メルツェンドルファー、レオポルト1世『失われた息子』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●11月、メルツェンドルファー、シュニトケ『ジェズアルド』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

1998年(77歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●3〜4月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『無口な女』を指揮。ウィーン国立歌劇場。


1999年(78歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●2〜3月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『無口な女』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●9月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『無口な女』を指揮。ウィーン国立歌劇場。

●10月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●メルツェンドルファー、ウィーン国立歌劇場の名誉会員に選出。

2000年(79歳) ウィーン国立歌劇場カペルマイスター、ウィーン・フォルクスオーパー カペルマイスター
●2月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『ばらの騎士』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●5月、メルツェンドルファー、R.シュトラウス『無口な女』を指揮。ウィーン国立歌劇場。


2002年(81歳)
●6月、メルツェンドルファー、J.シュトラウス作品集(第3集)をMarco Poloにレコーディング。

2003年(82歳)
●6月、メルツェンドルファー、J.シュトラウス作品集(第4集)をMarco Poloにレコーディング。

2004年(83歳)
●5月、メルツェンドルファー、J.シュトラウス作品集(第7集)をMarco Poloにレコーディング。
●7月、メルツェンドルファー、ザンクト・マルガレーテン・フェスティヴァルでヴェルディ『アイーダ』を指揮。

2005年(84歳)
●7月、メルツェンドルファー、ザンクト・マルガレーテン・フェスティヴァルでビゼー『カルメン』を指揮。

2006年(85歳)
●3月、メルツェンドルファー、J.シュトラウス作品集(第10集)をMarco Poloにレコーディング。

2007年(86歳)
●2月、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』を指揮。ウィーン国立歌劇場。
●7月、メルツェンドルファー、ザンクト・マルガレーテン・フェスティヴァルでヴェルディ『ナブッコ』を指揮。
●10月、メルツェンドルファー、J.シュトラウス作品集(第12集)をMarco Poloにレコーディング。

2008年(87歳)
●7月、メルツェンドルファー、ザンクト・マルガレーテン・フェスティヴァルでヴェルディ『トラヴィアータ』を指揮。

2009年(88歳)
●4〜5月、メルツェンドルファー、J.シュトラウス作品集(第12集)をMarco Poloにレコーディング。
●5月23日、メルツェンドルファー、モーツァルト『魔笛』を指揮。ウィーン・フォルクスオーパー。
●6月、メルツェンドルファー、グラーツのシュティリアン楽友協会の名誉会員に選出。
●6月、メルツェンドルファー、声が出なくなり、アメリカで手術不能な脳腫瘍と診断。
●9月16日、メルツェンドルファー、ウィーンで死去。


【収録情報】

Disc1
●交響曲第1番ニ長調[1757]
●交響曲第2番ハ長調[1757-59/61-64?]
●交響曲第3番ト長調[1759/60-62?]
●交響曲第4番ニ長調[1760-62?]
●交響曲第5番イ長調[1760-62?]

Disc2
●交響曲第6番ニ長調『朝』[1761?]
●交響曲第7番ハ長調『昼』[1761]
●交響曲第8番ト長調『夕』[1761?]

Disc3
●交響曲第9番ハ長調[1762]
●交響曲第10番ニ長調[1761-66?]
●交響曲第11番変ホ長調[1761-62?]
●交響曲第12番ホ長調[1763]
●交響曲第13番ニ長調[1763]

Disc4
●交響曲第14番イ長調[1762/63]
●交響曲第15番ニ長調[1761]
●交響曲第16番変ロ長調[1760/63?]
●交響曲第17番ヘ長調[1760/62?]
●交響曲第18番ト長調[1762/64?]

Disc5
●交響曲第19番ニ長調[1757-59/60?]
●交響曲第20番ハ長調[1757-59/63?]
●交響曲第21番イ長調[1764]
●交響曲第22番変ホ長調『哲学者』[1764]

Disc6
●交響曲第23番ト長調[1764]
●交響曲第24番ニ長調[1764]
●交響曲第25番ハ長調[1761?]
●交響曲第26番ニ短調『ラメンタチオーネ』[1768]

Disc7
●交響曲第27番ト長調[1761?]
●交響曲第28番イ長調[1765]
●交響曲第29番ホ長調[1765]
●交響曲第30番ハ長調『アレルヤ』[1765]

Disc8
●交響曲第31番ニ長調『ホルン信号』[1765]
●交響曲第32番ハ長調[1760?]
●交響曲第33番ハ長調[1760?]

Disc9
●交響曲第34番ニ短調[1767?]
●交響曲第35番変ロ長調[1767]
●交響曲第36番変ホ長調[1761?]
●交響曲第37番ハ長調[1757-59?]

Disc10
●交響曲第38番ハ長調『エコー』[1769?]
●交響曲第39番ト短調[1765?]
●交響曲第40番ヘ長調[1763]
●交響曲第41番ハ長調[1770?]

Disc11
●交響曲第42番ニ長調[1771]
●交響曲第43番変ホ長調『マーキュリー』[1771?]
●交響曲第44番ホ短調『悲しみ』[1772?]

Disc12
●交響曲第45番嬰ヘ短調『告別』[1772]
●交響曲第46番ロ長調[1772]
●交響曲第47番ト長調『パリンドローム』[1772]

Disc13
●交響曲第48番ハ長調『マリア・テレジア』[1769?]
●交響曲第49番ヘ短調『受難』[1773]
●交響曲第50番ハ長調[1771?]

Disc14
●交響曲第51番変ロ長調[1771?]
●交響曲第52番ハ短調[1771?]
●交響曲第53番ニ長調『帝国』[1778-79?]

Disc15
●交響曲第54番ト長調[1774?]
●交響曲第55番変ホ長調『校長先生』[1774?]
●交響曲第56番ハ長調[1774]

Disc16
●交響曲第57番ニ長調[1774]
●交響曲第58番ヘ長調[1776]
●交響曲第59番イ長調『火事』[1766?]

Disc17
●交響曲第60番ハ長調『うかつ者』[1774]
●交響曲第61番ニ長調[1776]
●交響曲第62番ニ長調[1780?]

Disc18
●交響曲第63番ハ長調『ラ・ロクスラーヌ』[1779?]
●交響曲第64番イ長調『時の移ろい』[1773/78?]
●交響曲第65番イ長調[1771?]

Disc19
●交響曲第66番変ロ長調[1775-76?]
●交響曲第67番ヘ長調[1775-76?]
●交響曲第68番変ロ長調[1774?]

Disc20
●交響曲第69番ハ長調『ラウドン』[1775-76?]
●交響曲第70番ニ長調[1778-79?]
●交響曲第71番変ロ長調[1778-79/80]

Disc21
●交響曲第72番ニ長調[1763-65?]
●交響曲第73番ニ長調『狩』[1781/1782?]
●交響曲第74番変ホ長調[1780/81?]

Disc22
●交響曲第75番ニ長調[1779-80]
●交響曲第76番変ホ長調[1782]
●交響曲第77番変ロ長調[1782]

Disc23
●交響曲第78番ハ短調[1782]
●交響曲第79番ヘ長調[1783/84]
●交響曲第80番ニ短調[1783/84]

Disc24
●交響曲第81番ト長調[1783/84]
●交響曲第82番ハ長調『熊』[1786]
●交響曲第83番ト短調『めんどり』[1785]

Disc25
●交響曲第84番変ホ長調[1786]
●交響曲第85番変ロ長調『王妃』[1785?]
●交響曲第86番ニ長調[1786]

Disc26
●交響曲第87番イ長調[1785]
●交響曲第88番ト長調『V字』[1787?]
●交響曲第89番ヘ長調[1787]

Disc27
●交響曲第90番ハ長調[1789]
●交響曲第91番変ホ長調[1788]
●交響曲第92番ト長調『オックスフォード』[1789]

Disc28
●交響曲第93番ニ長調[1791]
●交響曲第94番ト長調『驚愕』[1791]
●交響曲第95番ハ短調[1791]

Disc29
●交響曲第96番ニ長調『奇蹟』[1791]
●交響曲第97番ハ長調[1792]
●交響曲第98番変ロ長調[1792]

Disc30
●交響曲第99番変ホ長調[1793]
●交響曲第100番ト長調『軍隊』[1793-94]
●交響曲第101番ニ長調『時計』[1793-94]

Disc31
●交響曲第102番変ロ長調[1794]
●交響曲第103番変ホ長調『太鼓連打』[1795]

Disc32
●交響曲第104番ニ長調『ロンドン』[1795]
●協奏交響曲 変ロ長調(交響曲第105番)[1792]

Disc33
●交響曲 A 変ロ長調(第107番)[1757-61?]
●交響曲 B 変ロ長調(第108番)[1757-61?]

ウィーン室内管弦楽団
エルンスト・メルツェンドルファー(指揮)

録音時期:1960年代
録音場所:ウィーン
録音方式:ステレオ(アナログ)
プロデューサー:クルト・リスト



【ハイドン】
ヨーゼフ・ハイドンは1732年に生まれ、1809年に亡くなっています。その77年の生涯は、29歳から58歳までを過ごした30年に及ぶエステルハージ時代を中心に、それ以前とそれ以降の3つの時期に分けて考えることができます。
 「エステルハージ以前」の28年間は、幼少期の声楽やさまざまな楽器演奏の修行、青年期に入ってからの作曲の勉強により、弦楽四重奏曲を多数作曲したほか、十数名という小編成オーケストラのための交響曲を作曲して指揮するという実地経験により高いスキルを身につけた時期。
 続く「エステルハージ時代」の30年間は、楽才にも恵まれたニコラウス・エステルハージ候のもと、二十数名規模のオーケストラも常設され、安定した境遇下で膨大な作品を作曲・演奏しています。シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)様式と言われるスタイルが導入され、数多くの交響曲やピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲、協奏曲、そしてオペラやオラトリオが書かれたほか、ニコラウス候が熱中していたヴィオラ・ダ・ガンバに似た楽器「バリトン」を主役にした「バリトン三重奏曲」も大量に作曲されています。それに伴い海外での名声も高まって、1780年代なかばからは作曲依頼が舞い込むようになり、『十字架上のキリストの最後の七つの言葉(管弦楽版)』や、『パリ交響曲集』、『ドニィ交響曲集』などの傑作が生み出されます。
 「エステルハージ以降」の19年間は、二度のロンドン長期滞在により、国際的な知名度を獲得した時期で、市民がお金を払って訪れるコンサート・ホールという環境で、大型のオーケストラを駆使して演奏される楽曲を創造した円熟の頂点ともいうべき時代でした。

【ハイドン年表】
エステルハージ以前 [1732-1760](交響曲第1番)



1732年(0歳)
●オーストリアのローラウ村に誕生。

1738年(6歳)
●ハインブルクの親戚、ヨハン・マティアス・フランクのもとで、学校に通い、通常の学科のほか、声楽、ヴァイオリン、管楽器、ティンパニなどを学びます。

1739年(7歳)
●ウィーンのシュテファン寺院の合唱長ゲオルク・ロイターに歌の才能を見出されます。

1740年(8歳)
●ウィーンのシュテファン寺院聖歌隊に入り、解雇されるまでの9年間、中心的存在として活躍しますが、美声ゆえにカストラート手術を施されそうになったり、また、食事などの環境も劣悪だったりと、子供ながらに社会の汚さ・厳しさに晒されることとなります。

1749年(17歳)
●声変わりで美声を失ったハイドンは、他の聖歌隊員の髪をハサミで切るなどの奇行により聖歌隊を解雇されてしまいます。着のみ着のままでウィーン市中をさまよっていたハイドンは、ミヒャエル教会の聖歌隊員であるヨハン・ミヒャエル・シュパングラーと出会い、その家に身を寄せることとなります。同家を拠点に、教会や劇場の合唱のエキストラ、酒場の楽隊のエキストラ、野外のセレナード楽団などに参加して生活費を捻出。

1750年(18歳)
●シュパングラー家に2人目の子供が生まれて手狭になったため、ミヒャエラーハウスという共同住宅の屋根裏部屋に転居。古いチェンバロと理論書を入手し、作曲を勉強。

1751年(19歳)
●個人相手のクラヴィーア教師の仕事を開始。ジングシュピール『せむしの悪魔』、『ミサ・ブレヴィス』作曲。

1752年(20歳)
●クラヴィーアを教えていた女性マリアンネのつてで、かつてロンドンでヘンデルと競い合っていたイタリアの作曲家、ニコラ・アントニオ・ポルポラの知己を得て、雑用もこなすという条件でやがて内弟子となり、師に同行して社交界に出入りするうちに貴族社会との接点も増え、顔が売れるようになってきました。

1755年(23歳)
●フュールンベルク男爵家の音楽家として雇用され、邸での音楽会のために、弦楽四重奏曲を多数作曲。

1759年(27歳)
●フュールンベルク男爵の推薦により、モルツィン伯爵家の楽長として契約。在任2年間に交響曲を10数曲作曲。

1760年(28歳)
●マリア・アンナ・ケラーと結婚。


エステルハージ時代 [1761-1790](交響曲第2〜92番、107、108番)
1761年(29歳)
●モルツィン伯爵家経済的困窮により楽長職解雇。ほどなくモルツィン伯爵の推薦により、エステルハージ侯爵の副楽長として契約。アイゼンシュタットへ赴任。交響曲『朝』『昼』『晩』作曲。

1765年(33歳)
●交響曲第31番『ホルン信号』作曲。

1766年(34歳)
●楽長ヴェルナーの死により楽長に昇格。楽団を22名ほどに強化し、「シュトゥルム・ウント・ドラング様式」とされる交響曲作曲時期が到来(1773年頃まで)。

1767年(35歳)
●『スターバト・マーテル』作曲。

1768年(36歳)
●アイゼンシュタット最初の大火。エステルハーザのオペラ劇場が完成し、オペラ『薬剤師』によってこけら落とし。交響曲第49番『受難』作曲。

1772年(40歳)
●交響曲第45番『告別』、弦楽四重奏曲集『太陽四重奏曲』作曲。『聖ニコライ・ミサ』作曲。

1773年(41歳)
●マリア・テレジア、エステルハーザを訪問。劇場を絶賛しウィーンで評判に。交響曲第48番『マリア・テレジア』作曲。

1774年(42歳)
●『エステルハージ・ソナタ』出版。

1775年(43歳)
●オラトリオ『トビアの帰還』初演。

1776年(44歳)
●アイゼンシュタット2度目の大火。

1777年(45歳)
●オペラ『月の世界』初演。

1779年(47歳)
●エステルハーザのオペラ劇場焼失。オペラ『無人島』初演。

1781年(49歳)
●弦楽四重奏曲集『ロシア四重奏曲』作曲。

1782年(50歳)
●『マリアツェル・ミサ』作曲。オペラ『騎士オルランド』初演。

1783年(51歳)
●チェロ協奏曲第2番作曲。

1784年(52歳)
●チェンバロ協奏曲ニ長調作曲。オペラ『アルミーダ』初演。

1785年(53歳)
●カディスのサント・ロザリオ教区教会から依頼され『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』オーケストラ・ヴァージョンを作曲。モーツァルトより『ハイドン四重奏曲』献呈。

1786年(54歳)
●パリのコンセール・ド・ラ・ロージェ・オランピックより交響曲6曲の作曲を依頼され、交響曲第82番から第87番の『パリ交響曲集』を完成。ナポリ王フェルディナンド4世の依頼でリラ・オルガニザータ協奏曲を作曲。

1787年(55歳)
●弦楽四重奏曲集『プロシャ王四重奏曲』作曲。交響曲第88〜89番『トスト交響曲』作曲。

1788年(56歳)
●弦楽四重奏曲集『トスト四重奏曲』作曲。交響曲第90〜92番『ドニィ交響曲』作曲。

1789年(57歳)
●『ナクソスのアリアンナ』作曲。

1790年(58歳)
●エステルハージ候死去。後継のアントン二世により楽団は解散。ハイドンは名誉楽長となりウィーンに転居。興行主ヨハン・ペーター・ザロモンとロンドンでの一連の演奏会を契約。12月15日にロンドンに向けて出発し、途中ボンでマクシミリアン・フランツ選帝侯と会席、ベートーヴェンと知り合います。弦楽四重奏曲集『第3トスト四重奏曲』作曲。

エステルハージ以降 [1791-1809](交響曲第93〜104番、協奏交響曲)


1791年(59歳)
●ロンドン到着。ザロモン・コンサート大成功。オックスフォード大学より名誉音楽博士号を授与。交響曲第93〜96番作曲。オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』初演。

1792年(60歳)
●プレイエルを指揮者に迎えてのプロフェッショナル・コンサート。ザロモン・コンサート。ロンドンを後にし、ボンでベートーヴェンに会った後、ウィーンに戻ります。交響曲第97番、第98番、協奏交響曲作曲。

1793年(61歳)
●弦楽四重奏曲集『アポニー四重奏曲』作曲。

1794年(62歳)
●第二回ロンドン旅行。交響曲第100番、第101番作曲。

1795年(63歳)
●ヘンデルの『メサイア』を鑑賞し、ウィーンに戻ります。交響曲第102〜104番作曲。

1796年(64歳)
●ニコラウス二世よりエステルハージ家の楽団再建の依頼。『メサイア』に影響を受け、オラトリオ『天地創造』に着手。トランペット協奏曲、『戦時のミサ』作曲。

1797年(65歳)
●弦楽四重奏集『エルデーディ四重奏曲』作曲。

1798年(66歳)
●『天地創造』非公開初演。『ネルソン・ミサ』作曲。ジギスムント・ノイコム弟子入り。

1799年(67歳)
●オラトリオ『四季』作曲に着手。『テレジア・ミサ』作曲。弦楽四重奏曲集『ロプコヴィッツ四重奏曲』作曲。

1800年(68歳)
●妻マリア・アンナ死去。

1801年(69歳)
●『天地創造ミサ』作曲。オラトリオ『四季』非公開初演。

1802年(70歳)
●『ハルモニー・ミサ』作曲。

1803年(71歳)
●弦楽四重奏曲第83番作曲(未完)。

1804年(72歳)
●エステルハージ家の楽長を辞任。

1806年(74歳)
●弟ミヒャエル死去。

1808年(76歳)
●エステルハージで右腕だったトマッシーニ死去。ウィーン大学で『天地創造』の演奏会に出席。

1809年(77歳)
●5月31日、ナポレオンのウィーン侵攻の中、死去。



【商品説明:年表シリーズ】
指揮
ルロイ・アンダーソン
アレクサンドル・ガウク
セルゲイ・クーセヴィツキー
クレメンス・クラウス
パウル・クレツキ
オットー・クレンペラー
ニコライ・ゴロワノフ
ヴォルフガング・サヴァリッシュ
カール・シューリヒト
アンタル・ドラティ
レナード・バーンスタイン
ポール・パレー

フレデリック・フェネル
ピエール・モントゥー
フェルディナント・ライトナー
エーリヒ・ラインスドルフ
ハンス・ロスバウト


鍵盤楽器
ラルフ・カークパトリック
ロベール・カサドシュ
イェルク・デムス
タチアーナ・ニコラーエワ
マリア・ユージナ
ワンダ・ランドフスカ

弦楽器
ガスパール・カサド
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
ルッジェーロ・リッチ

作曲家
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ

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ハイドン(1732-1809)

ハイドンは1732年に生まれ、1809年に亡くなっています。その77年の生涯は、29歳から58歳までを過ごした30年に及ぶエステルハージ時代を中心に、それ以前とそれ以降の3つの時期に分けて考えることができます。「エステルハージ以前」の28年間は、幼少期の声楽やさまざまな楽器演奏の修行、青年期に入ってからの作曲の勉強に

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