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「コルボの『ロ短調ミサ』」

2009年6月19日 (金)

連載 許光俊の言いたい放題 第165回

「コルボの『ロ短調ミサ』」

 「心洗われる音楽」とか、「すがすがしい音楽」といった言葉を見かけることが時々ある。だが、本当にそう呼ばれるべき演奏など、ほとんどありはしない。私もこのコラムをはじめとしてあちこちで、さまざまな魅力ある演奏について述べてきたが、圧倒されたり叩きのめされたりした経験は多くても、心洗われる経験などほんの数えるくらいしかしたことがない。
 そのきわめて貴重な機会のひとつが、この前、5月の連休中、例のラ・フォル・ジュルネで行われたミシェル・コルボ指揮「ロ短調ミサ」のコンサートだったのだ。
 コルボはこの音楽祭の常連として毎年来日しているし、それ以前にも定期的に日本で演奏していた。だが、正直に言おう、もう十年か十五年以上もの間、少なくとも私が聴いた限りでは、コルボの演奏には、これでなくてはと思わせる格別の魅力がなかった。1970年代が彼のピークだったのではないかと考えざるを得なかった。今度だって、家から1時間以上かけてホールに向かいながら、めんどくさいな、あまりよくないかもな、などと思わなかったわけではないことを告白しよう。
 だが、「ロ短調ミサ」が彼にとってまったく特別の重要な作品だと痛感させられるのに時間はかからなかった。振っている姿がまるで違うのである。そして、音楽の完成度、熟成がまったく違うのである。
 冒頭からして全然ドラマティックではない。大きな声を出そうとはしない。あっけなく始まって、すいすい進んでいく。かといって、ことさら軽やかなキレを見せようともしない。何かを強調するとか、際立たせるといった作戦もほとんど皆無。強弱の幅は狭い。声や楽器が名技で聴き手を楽しませるということもない。ひたすら清潔な、真っ白なシーツみたいな響き。端正な時間の流れ。
 しかし、これは何十年も演奏してきた人がたどりついた、「余計なものは何もいらない」という境地なのである。まったく力みがない。ひたすら淡々としている。あらゆる要素が絶妙のバランスで溶け合う。それだけなのだ。美しいが、いかにも美しいものを作りましたという気配はゼロ。うまれつきの美女が、何の化粧もしないでたたずんでいるようだ。素朴と言えば、超素朴である。が、この美の世界にはまり込むと、抜け出したくなくなる。私は合唱の経験がないけれど、このときだけは、こんな合唱に加わることができたらどんなに幸せだろうかと想像した。演奏者に嫉妬を覚えた。
 ごく当たり前のように敬虔な趣がある。ごく当たり前に宗教音楽らしい聖なる雰囲気がある。ごく当たり前にきれいである。すべてがごく当たり前のようなのだ。この淡々とした音楽を聴いていると、世界の大問題も、仕事のやっかいごとも、すべて忘れ、ただただこの音楽を聴いていることの幸せだけが意識される。この清浄な音楽を永遠に聴き続けたくなる。
 声楽パートの響きはグレゴリオ聖歌的と言おうか、俗っぽさがない。難しい歌を歌っている、すごい芸術作品を演奏しているという気負いや欲や自意識がない。春になれば、ごく当たり前に暖かくなり、あたりまえにきれいな花が咲くような、そういう「当たり前の奇跡」なのだ。バッハにとってこの曲がどうだったとか、そんなことはどうでもいいように感じられてくる。
 最後、「われらに平安を与えたまえ」の美しさは、絶品などという言葉では追いつかないくらいだった。言葉が、音楽が、そのまま煙のように天に立ち上っていくかのようだったのである。音が上がっていくところの、なんという感銘の深さ。まさに天に向けられたまなざしである。静かな祈りである。私はこういう音楽を、以前ただ一度だけ聴いている。ギュンター・ヴァントが最後にハンブルクで指揮したコンサートの、ブルックナー第4交響曲だ(CDあり)。あの最後も、あんな曲なのになぜか音楽が重たさを捨て去って、不思議な軽やかさで上昇していった。

 嬉しいことに最近発売されたCDにおいても、東京で聴けたのと同様のすばらしさが十分感じ取れる。クレンペラーリヒターの「ロ短調ミサ」を聴くときには、「よし聴くぞ」という覚悟や緊張が必要だが、これにはいらない。当たり前のように聴き始めればいい。終わるとまた最初から聴きたくなる。
 コルボの過去の録音も取り出してみた。確かに見事な演奏なのだけれど、このCDに比べれば、俗っぽく感じられるのは否めない。
 もう一度、コルボの「ロ短調ミサ」を聴きたい。できれば、いや必ずや音のいい小さなホールで。それが今の私の切なる願いである。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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