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CORGI さんのレビュー一覧 

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  • 5人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/11/17

    よい時代になりましたね・・・価格という低次元のレベルではなくそのつらなる楽団員には今失われている何かを感じさせてくれます。音楽(クラシック)が機能主義になってどれだけでしょう?このセットにおさめられれいる人達の演奏は何か懐かしい部分からきているようで・・・ぜひ持っていたいBOXセットですね。

      

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/10/01

    しかしグールドをまるで「神聖化」するひとが(特に日本人の知識人に)多いと「私は」思う。(これは偏見かもしれないが)グールドが音楽史上、偉大な功績を残したのは確かだ。ただ、レヴューを書く者、最低限は「グレン・グールド演奏術」白水社。また他方で「グールドのシェーンベルク」また白水社から出版されているグールドの発言をおさめた本を「しっかり」読んだ上で、レヴューを書くべき。

    「グールドの演奏は素晴らしい?」当たり前のこと、さらにグールドは必ずしも「楽譜」にとらわれなかったとも知るべきだ、その様なひとがグールドのレヴューを書くべきだと思う。精神論も結構、しかし人の心はひとつにあらじ。さてグールドの「ゴルトベルグ」の再録音において終わりのアリアにおいて「倚音ー解決音」(バッハの楽譜ではそうなっている。)グールドは和音で(つまり倚音なしに)終えている。わたしはグールドが再録音にあたって自身の「死」を感じていたようにならない。

    それと、グールドがいわゆる「ヨーロッパ」を中心にに活動をしなかった。(本来なら所謂クラシックの演奏家はヨーロッパにアピールしたいものだが。)

    そこにはやはり、グールドは、ヨーロッパの慣習にとらわれない「カナダ」「北の人」だという部分が多々あると思う。荒涼たる地平に神(そこには倫理あるもの、熱帯的欲望と離れたそういうところでこそバッハがいるのだと思ったに違いない。同じことをニーチェもいってはいるのだがこのところのニーチェ人格者みたいな論評、本が出回っているがそれらの本はニーチェの本質にそむくものだ。彼が全てとはいわないが善人なんてなんでいえるのだろうか?彼は挑発すべき偉人なのだ。そのニーチェに「回答」を求めてはいけない。まず、ニーチェの問いかけに我々はたじろぐものだが、彼ほど人間に「本当にそれでいいのか?」といったひともいない。さらにそれは日本の三島由紀夫にもつらなる問題なのだが・・・ここはグールドに焦点をあわせよう。)グールドがもし。ウイーンに産まれていたら彼の演奏術もかわっていただろう。

            シェーベルク、生誕百年にグールドはラジオ番組をくんだ。

                   討論式形態。

            シェンーベルクのOP1をグールドは対論相手に聴かせます。(あの素晴らしい曲ですね。)

    「まるで、ブラームスみたいですね。」と対論相手。

    さらにこの対論相手「このピアノパートを弾いているのは誰ですか?」と問う。

    グールドは「軽く」な〜に「ローカル・ピアニストですよ」とながす。

    私はこの「ローカル」という部分は逆説的に「本来の、ヨーロッパの慣習にわたしはとらわれていないとの表明だと思います。」

    グールドを崇めるのもいいが、グールドは西洋音楽の根本から(ニーチェ風にいえば)疑い自身の音楽感からはばたいていったひとなのだ。

    東洋人である我々に何故、グールドに胸襟を開くのか。(グールド自身自分のレコードを一番購入してくれているのは日本人であると言明しておりました。)

    私は日本人であるけど、やはりなぜか・・・グールドの音源を求めてしまう。

    ここには音楽にまつわる「倫理観」が感じられます。

    偏見かもしれませんが、他国のひとはまず「生演奏」の祭典を願う。

      演奏会が終わる・・・

    「あ〜よかったですね」「まったく、そうでした。」

    しかし、グールドの発想はこれらと無縁でした。

    ひとは孤独になる時まさに自分自身に帰れるのだと・・・

    レコードプレイヤーの前に祈る様に音楽に接するひとこそ「真の音楽」の理解者だとグールドは感じていた様ですね。

    蛇足ながらグールドが演奏活動をしていた際の録音とコンサート・ドロップアウトした録音には「確かな」違いがあります。

    レヴューを書かれる方、どうかそういう部分でお書きになったらどうでしょう?

    グールドがひとに与えてくれた芸術家として素晴らしいことを「ただ」レヴューに縷々と書いてもしょうがありません。

    彼はもういないのですから・・・

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/10/01

    グレン・グールドの演奏にはそれを聴く者に音楽的知識がなくとも何か「感動、心に通ずるものがある」それはアカデミックな領域ではなく倫理的領域だと思う。しかしグールドをまるで「神聖化」するひとが(特に日本人の知識人に)多いと「私は」思う。(これは偏見かもしれないが)グールドが音楽史上、偉大な功績を残したのは確かだ。ただ、レヴューを書く者、最低限は「グレン・グールド演奏術」白水社。また他方で「グールドのシェーンベルク」また白水社から出版されているグールドの発言をおさめた本を「しっかり」読んだ上で、レヴューを書くべき。「グールドの演奏は素晴らしい?」当たり前のこと、さらにグールドは必ずしも「楽譜」にとらわれなかったと知るべきだ、その様なひとがグールドのレヴューを書くべきだと思う。精神論も結構、しかし人の心はひとつにあらじ。さてグールドの「ゴルトベルグ」の再録音において終わりのアリアにおいて「倚音ー解決音」(バッハの楽譜ではそうなっている。)グールドは和音で(つまり倚音なしに)終えている。わたしはグールドが再録音にあたって自身の「死」を感じていたようにならない。

    それと、グールドがいわゆる「ヨーロッパ」を中心にに活動をしなかった。(本来なら所謂クラシックの演奏家はヨーロッパにアピールしたいものだが。)

    そこにはやはり、グールドは、ヨーロッパの慣習にとらわれない「カナダ」のひとだという部分が多々あると思う。グールドがもし。ウイーンに産まれていたら彼の演奏術もかわっていただろう。

    シェーベルク、生誕百年にグールドはラジオ番組をくんだ。

    討論式形態。

    シェンーベルクのOP1をグールドは対論相手に聴かせます。

    「まるで、ブラームスみたいですね。」と対論相手。

    さらに「このピアノパートを弾いているのは誰ですか?」と問う。

    グールドは「軽く」な〜に「ローカル・ピアニストですよ」とながす。

    私はこの「ローカル」という部分は逆説的に「本来の、ヨーロッパの慣習にわたしはとらわれていないとの表明だと思います。」

    グールドを崇めるのもいいが、グールドは西洋音楽の根本から(ニーチェ風にいえば)疑い自身の音楽感からはばたいていったひとなのだ。

    ここには音楽にまつわる「倫理観」が感じられます。

    蛇足ながらグールドが演奏活動をしていた際の録音とコンサート・ドロップアウトした録音には「確かな」違いがあります。

    レヴューを書かれる方、どうかそういう部分でお書きになったらどうでしょう?

    グールドはひとに与えてくれた芸術家として素晴らしいことを「ただ」レヴューに縷々と書いてもしょうがありませんが。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 1人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/10/01

    グレン・グールドの演奏にはそれを聴く者に音楽的知識がなくとも何か「感動、心に通ずるものがある」それはアカデミックな領域ではなく倫理的領域だと思う。しかしグールドをまるで「神聖化」するひとが(特に日本人の知識人に)多いと「私は」思う。(これは偏見かもしれないが)グールドが音楽史上、偉大な功績を残したのは確かだ。ただ、レヴューを書く者、最低限は「グレン・グールド演奏術」白水社。また他方で「グールドのシェーンベルク」また白水社から出版されているグールドの発言をおさめた本を「しっかり」読んだ上で、さらにグールドは必ずしも「楽譜」にとらわれなかったと知るひとべき、その様なひとがグールドのレヴューを書くべきだと思う。グールドの「ゴルトベルグ」の再録音において終わりにおいて倚音ー解決音」(バッハの楽譜ではそうなっている。)グールドは和音で(つまり解決音なしに)終えている。わたしはグールドが再録音にあたって自身の「死」を感じていたようにならない。

    それと、グールドがいわゆる「ヨーロッパ」を中心にに活動をしなかった。(本来なら所謂クラシックの演奏家はヨーロッパにアピールしたいものだが。)

    そこにはやはり、グールドは、ヨーロッパの慣習にとらわれない「カナダ」のひとだという部分が多々あると思う。グールドがもし。ウイーンに産まれていたら彼の演奏術もかわっていただろう。

    シェーベルク、生誕百年にグールドはラジオ番組をくんだ。

    討論式形態。

    シェンーベルクのOP1をグールドは対論相手に聴かせます。

    「まるで、ブラームスみたいですね。」と対論相手へ。

    さらに「このピアノパートを弾いているのは誰ですか?」と問う。

    グールドは「軽く」な〜に「ローカル・ピアニストですよ」とながす。

    私はこの「ローカル」という部分は逆説的に「本来の、ヨーロッパの慣習にわたしはとらわれていないとの表明だと思います。)

    グールドを崇めるのもいいが、グールドは西洋音楽の根本から(ニーチェ風にいえば)疑い自身の音楽感からはばたいていったひとなのだ。

    ここには音楽にまつわる「倫理観」が感じられます。


    蛇足ながらグールドが演奏活動をしていた際の録音とコンサート・ドロップアウトした録音には「確かな」違いがあります。

    レヴューを書かれる方、どうかそういう部分でお書きになったらどうでしょう?

    グールドはひとに与える芸術家として素晴らしいことを「ただ」レヴューに縷々と書いてもしょうがありません

    1人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 7人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/09/21

    Sex Pistolsも「商売品」になった、なれてよかった。また、リマスターで「音」がどうのとかいう次元じゃないとも思うのだが、とにかく大音量で聴くべきだ。ヘッドホーンでもよい。頭に刺激を与えろと思う。部屋でこそこそとよいオーディオ装置を揃えて「あ〜いい音になったな」というたぐいの音楽じゃない。分からないのかね。

    7人の方が、このレビューに「共感」しています。

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  • 2人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/09/14

    グールドは素晴らしい芸術家にかわりない。でも、ここにおさめられているワーグナー/グールド編:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第1幕への前奏曲の映像があるけれどわたしはグールドがこれほど「表現における幸福」を見たことがない。このCDにおさめられている演奏は自身、デユットしたと語っております。つまり多重録音(一度録音したものにまた演奏をかぶせるということで厳格なクラシック愛好家にはとても許せない行為)したと告白しております。わたしはグールドの倫理観は信じます。つまりどうしても・ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第1幕への前奏曲をピアノで再現したかった。ただ、2本の手では再現できないとなれば録音技術にかけた。

    you tube で「グレン・グールド マイスタージンガー」と検索して頂きたい。

    グールドの理念、そして、オーケストラでは聴きとれない、ワーグナーが今迄の理論における声部に反しつつも微妙なひとへの魅惑が何故あるのか?

    グールドのピアノによる編曲ほどしらしめてくれるものもない。

    オーケストラの豊饒なテクチャーに埋没しがちな声部をグールドはピアノによって明晰に表している。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2012/09/06

    もしかしたら、この「作品」のレヴューなんていらないとも思う。この「作品」にはそれらをはじきかえす「魅力」があるから。わたしが迎合して「この作品は面白いですよ、ぜひ、読んで(観て下さいといっても)反発をうけるだけでしょう。
    レヴューの難しさはつまるところここにあるとと私は思います。

    誰もが「おもしろい」作品などはこの世界にありません。

    ただ、ここには、ユーモアやらもまじえながら「本当の愛情・・・ひとを思う気持ち」に満ちております。

    わたしはここに惹かれました。

    とても素晴らしい「作品」だと思います。

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  • 10人の方が、このレビューに「共感」しています。
     2012/09/03

    まず、公式な形で(非公式でも伝わるならOK!)この作品がリリースされることを率直に喜びたい。ビートルズに詳しい方は御存知のようにあの厳しいイギリス音楽ジャーナリトの連中はこの作品が出るまで「ビートルズ」にはほとんど迎合的なものでした。つまり彼等は大英国の誇るべき宝だと、(後のZEP、QUEENの評価はとても鹹い、ゆえ彼等の評価は他国に委ねた、・・・ZEPは米国、QUEENは日本・・・それら他国においてその評価をバネとして飛翔した・・・勿論、ZEPの場合はじめから、最終的ターゲットは米国だったが・・・)ところがこの作品が放送されるや「ビートルズはその才能を失った」とイギリス音楽ジャーナリトの連中は書きだした。無論一番驚いたのは「ビートルズ」自身だった。この作品のそもそものはじまりは(ビートルズを御存知の方なら知るように)ポールの発案からはじまった。「無計画でバスを使った旅を収録してそこに音楽をいれたら面白いかもしれないね!」ただこの時期のビートルズもライブ活動をせず、その一方でライブから支持を得るミュージシャンが台頭していた時期でもありました。
    ポールは実はもうライブ活動の魅力、ミュージシャンと聴衆がふれあい高揚しそこにあらたなクリエーターとしての作品が生み出せると予感していた様思います。ビートルズの終焉の頃、ポールがジョンに「ね、そろそろライブ活動を再開しない?」との言葉に、ジョンは「お前、阿保か?」で終わりました。
    ジョンにしたらただ熱狂するだけで自分達の音楽を聴かない連中をまた相手にしなくてはいけないのか?とという反面ライブ活動を再開してはたして「ビートルズ・マジック」は通用するのかという不安もあったでしょう。
    解散後、ジョンはライブ活動に消極的でした。

    ジョージの(実は解散後、レコードリリースにおいて一番の成功をおさめたはジョージでした、がそのライブ活動は非常に辛いものとなりました・・・アルコールに酔った聴衆は、ビートルズの曲をやれ!違うぞ!と暴れる等自分の音楽を必ずしもダイレクトには聴いてもらえない・・・この体験は後の彼をライブ活動から遠ざける結果になりました・・・そこに手を差し伸べたのは言うまでもなく、クラプトンでした・・・日本の聴衆ならきちんと聴いてくれるから、僕も一緒にいくからと言葉をかけた結果92年のジョージの「最後の」ツアーとなるジャパン・ツアーとなりました・・・結果は素晴らしく、その録音盤(cd)は米国においても高い評価をうけました。

    ジョージ自身もこのままワールド・ツアーにいかないかい?とクラプトンに語るもクラプトンはやんわりと断ります。レコーディングがあるからと。しかし、多分本心はこうだったでしょう・・・よい音楽を提供できてもそれをきちんとうけとめてくれる聴衆は必ずしもいない・・・僕(クラプトン)もどれだけこのショービジネスに身を削ったかと・・・

    その一方、ポールは解散をうけまず考えたのは直接聴き手と触れ合うライブ活動だった。(没リンダ夫人は彼、ポールはとにかくライブ活動がしたくてたまらないみたいでしたとの言葉もあります・・・)

             ディランはすごい。

    私が思うにジョンが同時代人でライバルと思えたのは、プレスリー、ポールそしてディラン。

    今のディランをどう評価するのは様々ながら往年の声量もない、あきらかに若きジョンにしたら許せない「姿」

    しかし、もし、ジョンが存命だったら今のディランの様な「姿」を見せられただろうか?

    そこには、やはり「ビートルズ」という呪縛があり、今もある。

    ポールは賢く「自分は今でもビートルズ」と云う。

    さて、やはりこの作品は観るべきだし、ここにおさめられている楽曲は実に最高のポップ・ソング

    人々に永く聴かれ愛される楽曲の集まり。

    ちょっと長い、レヴュー(?)ながらもし彼方がこの作品を観たことがないのなら「一度観てそしてその時代を感じて欲しい」

    あなたは「時代」とはその時に存在する感受性だと思う。

    そこに「上」も「下」もない。

    民族やら人種に高い、低い等「まさに」低次元の思考なぞ「ない」とはじめて教えてくれたのは「ビートルズ」だった。

    平和とは偏見をかえりみず(わたしもふくめナショナリズムという毒におかされていないひとがあろうか?)

    「全ての命(ひとにかぎらず)に想いをいたすこと」

    ゆえ、このレヴューに反発を感じてかまわないし、わたしもここでは語りつくせない部分もある。(レヴューに制約がないなんてことない。)

    勿論、わたし以上に「ビートルズ」に詳しいひとがいることは承知。

    結果、お金があるひと(誰もお金があるわけじゃない。そうでしょ?みんなが欲しいものに対する金銭を所有できはしないんじゃないかな。)

    時間もあって「レヴューに反感」を覚えつつもここには、この作品にはなにかあると思われた方どうか観てください。

    できたら、この作品に(商業主義と云われようと)貨幣をおとしてもらいたい。

    ここには一級のほのかな時空間がある。

    が、あまり真剣にならないで読んでもらいたい・・・

    これはある作品にたいする「レヴュー」にすぎない。

    10人の方が、このレビューに「共感」しています。

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     2012/08/14

    植芝理一氏はある意味「天才だと思う」この時代の天才だ。ま、天才がいつのの時代にも評価されないように植芝理一氏の作品が「分からない」というひともいるだろう。それは仕方ない。私は某ノーベル候補の自国作家より植芝理一氏を高く思う。青春期の想い、それを「無理に」超えないでいるこの漫画の主人公に共鳴する。

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