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mimi さんのレビュー一覧 

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     2018/02/02

    いい演奏ですね。M.Esfahaniの演奏は、意外とその真価を明らかにしづらいC.P.E.Bach演奏において、現時点で望み得るベストな再現の一つと言えるのではないでしょうか。疾風怒涛期の代表的な作曲家として、C.P.E.Bachに求められるのは、確実な技術による生命力に溢れた演奏でしょうが、一方で、ともすると単調で勢いだけの音楽に聴こえかねない。M.EsfahaniはC.P.E.Bachの、どちらかと言えば若い時代のこの曲集を、深い理解と心からの共感を持って、生き生きと、そして細部を疎かにせず繊細に演奏しており、これがこの盤に並のC.P.E.Bach演奏にはめったにみられない、ある種の気品、高貴さを与えています。確かにこれは現代音楽に至るまで、あれだけの名演を成し遂げる能力を持ったM.Esfahaniにして、初めて実現できたことなのでしょう。実はM.EsfahaniのJ.S.Bach演奏には、未だに十分満足できたことはないのですが、このC.P.E.Bachは文句なしの良演と言えると思います。決して目を見張るような派手さはありませんが、古典派以前、古楽、バロック音楽に親しむ方なら、お聴きになって損はないと思います。

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     2018/01/28

    まず自分は決してKeith Jarrettのファンではなく、特にStandards Trioなどは、そのJazzとしての質の高さは否定しようもないものの、Keith独特のあのねっとりしたまとわりつくようなピアノからくる、彼の音楽の体臭のようなものが生理的?に受け付けず、結局買ってもいつか聴かなくなっていました。星の数ほど発売されているKeithのSoloも、その十分の一も聴いてないでしょうから、全く偉そうなことを言う資格はありませんが、それでもこの最初のSolo Performanceだけは、大人になってすぐにCDを購入して以降、繰り返す引っ越しにもずっと離さず持ち歩き続けていました。今回ふとしたきっかけで、数十年ぶりに引っ張りだしてみると、CDのツメは一つ残らず折れ、Disc自体も長年の傷のためか全く再生できなくなってたので、思い切ってKoln, SunBearと同時に購入し直しました。Keith Jarrettの音楽全般にはついに親近感は持てず(その割に長年CDはかなり購入してる)、正直、現在に至るまでの歩みにもついていっていない自分ですが、このBremen-Lausanneだけは特別です。Koln Concertの項でも記しましたが、Keith Jarrett音楽の最大の魅力は、彼のルーツであるBlack musicに根ざすあくまで素朴で土臭い(Jazzとしての)旋律・リズムに、ヨーロッパ近代ピアノ音楽歴史の高度な技法が高い次元で衝突した時に現れると思うのですが、このBremen-Lausanne、特に最初の完全即興performanceであるLausanneは、その後のKoln, Sunbear, Scaka, Bregenz-Munchenなどと較べても、土臭い強烈なビートを土台にしたリズムが主体になっています。この上に、Keith独特の夢見るような旋律が絡まっていきますが、ある意味ともすれば通俗に堕しかねないような甘い旋律であっても、Koln以降にみられるような、ロマン〜印象派のパクリではなく、あくまで彼のルーツに根ざす素朴さ・純粋さから逸脱しないものであり、その結果としてこのLausanneのPart2からラストにかけては、あくまでBlack musicとしてのジャズでありながら、同時に西洋古典音楽の最良の魅力も兼ね備えた、史上ちょっと類をみない音楽時間が現出します。Beethovenのピアノ・ソナタ32番の終楽章を想像すると言ったら、褒めすぎでしょうか? 初めてのSolo performanceとして、その後にみないような、躊躇いや逡巡、突発的な変更などが伺われる部分も(特にBremenにおいて)時折散見され、この盤の全てが傷のない完璧なものではないかも知れませんが、それでもこの盤の大部分、特にLausanne後半は、普通なら一人の音楽家が一生かかっても実現できない音楽が実現できた、希有な瞬間です。ここで時間が終われば、Keith Jarrettの今に至る人生も、全く苦しむことはなかったのでしょうし、逆にこの奇跡的演奏を出発点とした(せざるを得なかった?)事が、Keith Jarrettの悲劇かも知れません。ともあれ、自分が知る限りにおいて、Keith Jarrettファンでなくとも、あるいはJazzファンでなくとも、(現代ピアノが嫌いでなく)音楽の好きな方ならばお薦めできる、数少ないJazz名盤の一つと思います。

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     2018/01/25

    J.S.Bachのヴァイオリン協奏曲は、たった3曲しか完全な形で残されていないにもかかわらず(BWV1060Rは原曲がオーボエ主体)、またほぼヴィヴァルディを代表とするバロック時代の協奏曲形式に忠実に拠っているにもかかわらず、その内包する音楽内容の充実度において、バロック協奏曲の枠を大きく超える傑作揃いですが、決して名演に恵まれているジャンルではありませんでした。その理由の第一は思うに、Bachの管弦楽作品が抱える最大の課題、管弦楽作品としての各要素 ー 旋律、和声、リズム、速度、音色(これが非常に重要で、現代楽器を使用してはほぼ解決不能!)、ソロとトゥッティ、など ー の理想的なバランス、特に全体が複雑に入り組んだ多声音楽としてのバランスの理想的な姿を見いだすのが、ほぼ不可能に近いくらい困難であるからで(最近のR.Goebelのように、その解決自体を放棄してしまったような演奏もみるくらい)、古今の名演奏でもこの真の解決に迫り得たのはほとんど一つ二つ、あるかないかくらいではなかったかと思います(個人的にはヴァイオリン協奏曲においてはS.Kuijken, Pinnockがようやく、くらい?)。当然の事ながら、この問題に最も重要な役割を果たすのは独奏者やオーケストラ個々の能力ではなく、指揮者がいかにJ.S.Bachの音楽構造に深く迫れてそれを体現できるか、ではないかと思うのですが、この盤にみるLars Urlik Mortensenは、チェンバロ協奏曲全集でもそうであったように、決して目立たないながらあまりにも自然な音楽構造のバランスを実現しており、それがこの協奏曲演奏の全体に極めて強固な土台を提供しています。チェンバロ協奏曲全集の時も書きましたが、Trevor Pinnock/English Concertがその最後期に実現していたJ.S.Bach管弦楽作品演奏における、理想的なバランスに近い姿をこのMortensen/Concerto Copenhagenにも感じることができるのは、ある意味大きな驚きで、やはりPinnockの同志としてともに歩み学んだ環境が生み出すものでしょうか?。独奏者、オーケストラすべて、非常に優秀ながら、特に目立つような腕利きというわけではなく、全く余計な装飾や感情を付与せずある意味素っ気ないくらいに簡素な演奏ですが、全くJ.S.Bachが書いた音楽構造に寄り添ってこれを体現することのみに徹底しており、それがためにBWV1043のLargoなどもともとの曲本来の美しさ、純粋さ以外感じられず、却って計り知れない感動を覚えます。チェンバロ協奏曲全集同様、派手ではありませんが、J.S.Bach協奏曲演奏において、確実に現在最も素晴らしい盤で、すべてのBach愛好家に一度は聴いていただきたいですね。J.S.Bachの音楽を、日々生きる糧とする者の一人として、今後のMortensen/Concerto Copenhagenの活躍がとてもとても、楽しみです。

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     2018/01/21

    おそらく多くの方同様自分も、この作品のLP初発売時、若くて貧乏だったので手が出ませんでした。Solo Concert, Koln Concertは、幸いつてがありテープに録音してくれる方のご好意で全曲聴けたのですが、さすがにこの10枚組ばかりは、所有しておられる方は身近にはおらず、FMで放送されたKyoto, Sapporoの一部(だったか?)のみが、このLPで自分が知っていた全てでした。今回、あるきっかけでBremen-Lausanne, Kolnを(再)購入した機会に、思い切って過去に聴けなかったこの作品も購入。2週間かけて繰り返し全部を聴きました。で、感想ですが、Keith Jarrettの最初の完全?ImprovisationによるPiano Solo Concertが、Lausanneで1973年3月、Kolnが1975年1月で、この日本公演が1976年11月で、この頃になると、最初のBremen-Lausanneの頃と較べると、随分Keith Jarrettの姿勢およびその演奏内容が微妙に変わってきてるのがよく解ります。おそらくSoloを始めた最初の頃は、試行錯誤の連続で、おそらく演奏途中での戸惑いや予定変更などで、意図した音楽がちゃんとできない事も多かったでしょうが(Bremenや特にKolnでそういった瞬間は多くみられるようです)、この1976年11月頃になると、一口で言うとかなりまとめ方が手慣れてきているようで、そういった瞬間は少なくなってきており、全体の構成面でのまとまりは向上しているようです。今回これだけKeith Jarrettに付き合って解ってきたことは、マスコミに当時から流布されてたイメージと異なり、Keith Jarrettがかなり観客に対して律義に、サービス精神旺盛に、対しているらしい、と言うことで、どんな日にもとりあえず、与えられた時間をきちっと弾いて楽しんで聴いてもらおうとする姿勢が、結構痛い程感じられます(一般に流布してたような孤高の人なら、こんだけきっちり時間通り弾いてくれる事はあり得ないでしょう)。従って、この5ヶ所のどれも、ピアノ音楽としてそれなりのまとまりと水準は保とうとしてくれてます。ただ、出てきた音楽の質は、まとまりとか構成の良さとは独立したものなので、Tokyoの後半や、Kyotoの後半のように比較的良い内容がラッキーにもみられる時(特に前者)もありますが、その一方でOsakaの大部分やNagoyaの部分のように、形的にはある程度まとまってても、音楽内容は信じられんくらい凡庸でつまらない瞬間も多々あります。公平にみて、この5ヶ所の公演記録の中で、これは、と思えるくらいの素晴らしい瞬間は決して多くなく、その意味で構えて真剣に聴こうとすると、だんだん演奏内容のつまらなさに耐えられなくなってくる事も非常に多いと言わざるを得ません。ここらへんは、会場で聴く時はまだそこまで思わんのでしょうが、LP/CDでの繰り返しの聴体験に耐え得る演奏は、そう簡単にできるものではないのでしょうね。しかしながら、どの公演も、Jazz pianistとしては極上のテクニックを有し、Jazzから西洋クラシックの古典〜ロマン〜印象派まで幅広い引出をもつKeith Jarrett、響いてる音自体は不快な瞬間は少ないため、なまじ真剣に聴こうとせず、何か仕事や単純作業をしながら流しておくと結構快適に付き合えるように思います。本質的にBGM、と言って悪ければ環境音楽、それ以上でもそれ以下でもない。レビュアーの中でKeith Jarrettのソロをガラクタばかり、と酷評された方がおられましたが、その言い方は言いすぎとしても、言わんとする気持ちはよく解ります。もともと現代ピアノの音が堪らなく好きで、かつKeith Jarrettのピアノの音がそんなに嫌いでない(嫌いな方もいます)方には、時と場所にもよるけど、結構いいBGMとしてならお薦めできると思いました(BGMとしては値段高すぎ、コスパ悪すぎかも知れませんが)。

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     2018/01/19

    S.Kuijken/La Petite Bandeは、これでJ.S.Bachの4大宗教曲に加えて、教会カンタータ年鑑の5大シリーズをOVPPで完成させました。言うまでもなく前人未到であり、そしてOVPPによる教会カンタータ全集がこれほどに揃う見込みが他の団体(リチェルカーレ・コンソートなど含めて)に未だ無い事を考えれば、控えめに言っても、しばらくは超える者の無い偉業、と言えるのではないでしょうか。しかもこの5大シリーズ全てがOVPPで統一されていることだけでも凄いのに、この5大シリーズの演奏は、現在私たちが聴き得るJ.S.Bach声楽作品演奏の、明らかに最高レベルのものばかりであるというのがさらに驚嘆すべき事実と思います。もちろん、聴き手によって、この演奏形式に対する好みは大きく分かれるでしょう。私たちが音楽を消費する側としてあくまでとらえるならば、自分に心地よくない演奏は好みでない、とすれば良い。しかしながら、この教会カンタータ年鑑(と4大宗教曲)において、S.Kuijkenが(師のLeonhardtから引き継いで)一貫して追求し続けているのは、あくまで「当時の音楽、演奏の姿はどうであったか」「J.S.Bachが意図していた演奏の姿は真に何か」という地道な研究と実践の成果に他ならず、それが私たちにどれだけ「うける」かは二の次、三の次です。これは昨年秋の来日公演でも顕かで、その追求の姿勢は決して止まることを知らず、常に自分たちが本当は知らないJ.S.Bachの音楽・演奏は何か、を過去の自分たちの成果には目もくれず新しいアプローチを試行し続けていました。従って、このOVPPによる教会カンタータ年鑑の完成(完成で無いと文句を言う方もおられるようですが)も、S.Kuijkenにとっては、長い長い追求途上の一里塚かも知れません。しかしながら、S.Kuijken/La Petite Bandeの意図がどうであれ、確かに言えることは、J.S.Bachのまとまった教会カンタータ集で、これだけ素朴で美しく、純な演奏は空前絶後であることで、そこには人を威圧するような堅苦しい大げさな音楽は皆無。ヨハネ受難曲やクリスマス・オラトリオの時にも強く感じましたが、まるで自分のご近所さんが集まって歌っているような、実際の生活に根付いたもの以外は存在しないような、身近で親しみやすい音楽ばかりが詰められており、演奏形態に対して好みはあるかもしれませんが、ここにある演奏の姿こそが、当時のLeipzigで日々の人々の生活・教会の営みの傍らをそっと支え続けたBachの音楽の、真の姿に(現時点で)最も近いのではないか、と(個人的には)強く感じます。この64曲の教会カンタータ演奏が全てに遜色の無い演奏ばかりとは言えないかも知れず、若く無名の演奏者を多く起用しているためか、部分部分でもちろん、過去の名演奏に及ばない演奏も多々あるでしょう。けれども多少の演奏の質のむらはあれ、総じて現在われわれが望み得る最も理想的なBach再現に近づいた演奏を、S.Kuijken/La Petite Bandeは(OVPPによるロ短調ミサ以来)実現しており、その演奏精度はやはり驚異的と言わざるを得ません。いくつかの記念日の曲が含まれておらず、また教会カンタータ年鑑の曲の選択もRichterなどに較べると、どちらかと言えばあまり有名でない地味な曲(S.Kuijkenの全ての曲に対する愛ゆえか?)が多いかも知れませんが、それでもこれだけ純で美しく愛らしく、そして最上質の演奏の教会カンタータ集は皆無です。決して派手でも華やかでもありませんが、古楽、バロック音楽、J.S.Bach音楽のファンだけでなく、すべての音楽を愛する人たちにお薦めできる最高の名盤と思います。

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     2018/01/08

    自分は普段、古典〜ロマン派の音楽を聴く人間でなく、最近ではBeethovenの交響曲も1年に1度も聴きません。交響曲全集に至っては5−6年に一度も聴かないのですが、そんな自分がこの全集の購入を思い立ったのは、ひとえにHerbert Blomstedtという音楽家に対して、これまでSKDで、SFSで、そしてN響で接した演奏において、非常な敬意を感じてきたからでした。特にSKDとのMozart、Brucknerは、いまだにあれ以上の演奏を知りません。近年は上記のようにあまりオケを聴かないので、Blomstedtとゲヴァントハウスの演奏を聴くのも初めてなのですが、全曲を聞き通して、ここまで響きの純度の高い、透徹したBeethovenの交響曲演奏は、いかにオーケストラ技術の進歩した現代でも、稀なのではないかと感じました。とにかく全曲どの部分にも、曖昧な部分が一瞬もなく、理知的に考え抜かれ整理され切った音楽であり、常に醒めた冷静な目で見通され、忘我とか熱狂とかから最も遠い構築的な名演奏と思います。こういったBlomstedtの音楽で最も感銘を受けるのは疑いなく、曲そのものが一種の哲学とさえ言える第9番であり、その崇高さ・気高さは他に類をみないものです。次いで、第8番の、超厳格な音楽構造に詰められた諧謔とユーモアのバランスが絶妙で、SKDの全集を遥に超える老巨匠の至芸が素晴らしい。これに対して、中期の4〜7番は、やはり透徹した、音楽構造をあくまでクリアに提示して、そのものに音楽を語らせる極めて客観的な演奏で、同じく名演奏ですが、これについては素晴らしい(クラシック以外の)音楽が世界中に溢れている現代において、果たしてこのように何も思い入れや感情を付与しない、Beethovenの音楽構造のみを提示する音楽がどこまで存在意義をこれからの世界で有していくのか、不安に思う瞬間が無くはありません。これは特に「田園」について強く感じ、とにかく隅々まで整理された教科書に載せるような美しい演奏ではありますが、一方で常に醒めた目を感じる冷静な音楽であるため、我を忘れた喜びや恐れ、感動や感謝といった感情は、聴き手によっては感じ難いかも知れません。とはいえ、初期の第1〜3番を含めて、これ以上ないくらいの磨き抜かれた響きによる名演奏ではあります。今日に生きる現代の聴衆にとって、本当に必要なBeethoven交響曲演奏は、未来に生き残っていくBeethoven交響曲演奏はどんなものか、Blomstedtのこの全集がその回答をどれだけ前向きに与えてくれるかは、難しいところかも知れませんが、それでも演奏レベル的に現在の最新のBeethoven交響曲全集としても(響きの純粋さと厳格さにおいてはRattle/BPOの新盤も凌駕する)最高のセットの一つであることは間違いないのではないでしょうか。

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     2018/01/03

    アルペジョーネ・ソナタは、Schubertの室内楽曲中の代表作であるのみならず、西洋古典音楽中でも、Schubert以外決して書けなかった傑作です。自分はこの作品を、この録音のFMエアチェックで初めて知り愛聴していたため、その後にチェロやヴィオラ、コントラバス、フルートなどで聴いても、どうも(特にモダン・チェロ)作品の味わいが殺されてるようで、他の楽器の録音は買う気になりませんでした。今回入手困難だったシュトルク/コンタルスキーの演奏の復刻CDが発売されてるのをみつけて、飛びついたように購入。久しぶりに聴くと、確かにチェロ演奏などに較べると、表現の拙さは否定しようもありませんが、一方でこの独特の軽くて浮遊するような滋味は替え難いものです。歴史的価値を越えた貴重盤として、残しておくべきものでしょう。ちなみに、すべての古楽器復興にみられた現象ですが、現在アルペジョーネの演奏技法はこの録音の頃より進歩していることは、いくつかの録音で証明されており、それらの盤に聴く「アルペジョーネによるアルペジョーネ・ソナタ」は、他楽器ではもはや聴きたくない、と想わせるレベルに近づきつつあることを、申し添えておきます。

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     2018/01/03

    この名高い盤は、40年近く前にテープで聴いていました。当時貧乏学生で、2枚組LPなど購入する余裕はなく、たまたま所有されていた友人の上司に頼んでもらって、録音してもらいました。今回、久しぶりにBregenz/Munchen3枚組を購入した機会に、(安くなってたので)初めてCD購入、それこそ30年ぶりくらいに聴き直しましたが、当時も前作のBremen-Lausanneに比較すると今一つであった印象を再確認した想いです。結局、K.Jarrettの音楽の魅力は、彼のルーツ(アメリカ黒人?)に根ざす土臭さ(素朴さ、純粋さ)と西洋音楽の伝統の高度なピアノ技法が、高い次元で衝突した時に現れ、Bremen-Lausanneの最終章(LP時代の第6面)はそれが最高潮になった希有な瞬間だったと思うのですが、このKolnはそういったルーツに根ざす土臭さは希薄で、代わりにほぼ、ショパン、ドビュッシー、ラベル、サティといったロマン〜印象派のピアニズムの最も安っぽい旋律・和声の模倣と、ブルックナーゼクエンツ風の反復進行が全体を覆っています。正直これだけロマン派・印象派のパクリの積み重ねなら、本家のクラシック作品を聴いた方がよほどましなのでは? ホテルや高級バーで流す高級BGMに流すのとしてはこれ以上はないのかも知れませんが、真剣に向き合うに耐えるだけの音楽ではない、というのが偽らざる印象です。この後K.Jarrettが自分の音楽に悩み続け、(決して一流の域にはなれないのに)BachやMozartを録音し、また一時期はピアノ演奏ができなくなるのも、ここにみる自分の音楽の価値が(彼自身の言葉とは裏腹に)よく解っていたからではないでしょうか...

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     2017/10/18

    最大級の絶賛を呈する宣伝とレビューに動かされ、またGardinerの新録音を購入してしまいましたが、予想通りが半分、予想外が半分、といったところでしょうか。予想通りなのは、合唱団としてもはや歴史的に越えるもののない伝統を誇る、モンテヴェルディ合唱団の演奏が手堅くまとまりがよいこと、さらにGardinerの演奏がやはり手堅く、誰にも文句のつけられないような最大公約数的、優等生的演奏であること。従って、どんなにまずい時でも平均的演奏以下に落ちることはまずあり得ません。しかしながら、それは同時にやりつくされ、型に嵌まった再現に傾く危険と裏腹で、実際この演奏からは新鮮さや緊張はほとんど感じられず、「ああ、またいつものマタイだな」という印象です。この西洋音楽史上の最高傑作であると同時に最大の問題作において、聴き手を新たに揺さぶってくる要素は極めて少ない演奏なのです。予想外なのは、ライブであることも大きいかも知れませんが、この超一流演奏者にして、ここまでに、というくらい演奏に粗さが目立つことで、合唱やソロのリズムが揃わないこと、バランスが崩れることが非常に多いことで、これは10年以上前のヨハネのライブを上回ります。ライブだけに非常に激しい場面の盛り上げは意図的に行われていますが、反面粗さが目立つために、何か非常に締まらないだらっとした印象を受ける場合が多いのです。ライブ会場ならこのような激しいけど粗い演奏も、感動に結びつくのかも知れませんが、CDとして聴いてみると素直に感銘を受けるのは難しいです。自分は決してGardinerのファンではなく、若い頃のGardinerのMonteverdiやBach演奏にみる、非常に鋭角的で前のめりなリズムがバロック音楽のものとしてはやや独特過ぎるようで馴染めませんでしたが、生命力に富んだ精緻で隙の無い演奏は、やはり替え難いものであったと思います。この10年くらいのGardinerの演奏は、上記の独特の「くせ」が影を潜め、どんなBachファンにも違和感のないような普遍的(常識的?)な外観をみせるようになった反面、次第に次第に演奏の精緻さ、厳しさは後退し、可もなく不可もない「型に嵌まった」平均的な演奏になっていくように思えます。偏見と言われればそれまでですが、やはり「老い」という言葉を思い浮かべざるを得ない、と言うのが正直な感想です。公平にみて、マタイの数ある演奏の歴史では、特筆するところのない、平均的な出来、というところではないでしょうか。

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     2017/10/15

    毎月毎月、次々に発売されるGoldberg変奏曲の、たぶん一部も把握できていないので全く偉そうなことは言えませんが、近年のGoldberg新録音中でも(特にチェンバロによるものの中で)最も新鮮なものの一つではないでしょうか。M.Esfahaniの録音中でも、おそらく初めてのJ.S.Bach本格的録音であり、そしてたぶん最も素晴らしい演奏の一つ(ラモーやC.P.E.Bachを未聴ですが)かも知れません。前作のW.Byrd, A.Scarlattiなど、ルネサンス・バロック作品における未だ食い足りない部分は、この録音においても、もちろん散見され、これまでの名匠達にみる時代的歴史的背景をしっかり踏まえた演奏には、まだまだ及んでいません。そもそも、Esfahani自身がチェンバロ演奏によって目指しているものが、現在に至る厳格で誠実な古楽演奏復興とは視点が違った、チェンバロによる過去から現在まですべての生きる音楽の演奏という要素が主眼である以上、当然ながら歴史的要素は希薄でしょうか。それでもこれだけ魅力的な演奏になるのは、M.Esfahaniの好演ももちろんですが、それ以上にGoldbergというとてつもない包容力を有した作品であることが大きいと思われます。J.MacGregorの演奏などでも強烈に感じましたが、この演奏ではGoldbergの各再現の向こうに、現代音楽から(ひょっとしたら)彼自身の生まれた非西洋世界、そして生まれ育った新大陸に及ぶ、非常に多様な音楽のルーツが見え隠れするような印象を持ちます。それは時とすると、バロック音楽としてのGoldberg再現には相応しくない要素もあるかも知れず、それが前々作の音楽の捧げ物などでは、ややマイナスに働いていたと思うのですが、ことGoldbergとなると、こういった異文化的な要素が加わることで、作品の魅力がさらに輝きをますように思われるのは、これまで幾度か経験したとは言え、改めて驚異的です。曲構造の再現、特に全体構造の再現において、未だに満足できない部分も皆無ではなく、今後も進化していくべき演奏、奏者であり、採点もやや甘いかと思いますが、それでも近年の新鮮なGoldberg好演として、Bachファンには一聴をお薦めしたいですね。

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     2017/10/13

    2014年秋(でしたか)に発売予告され、すぐ予約したものの、繰り返す発売日延期の末に、いったん発売中止の告知までされてたMinkowskiのヨハネ受難曲が、3年経ってようやく陽の目をみました。すったもんだの事情がなんだったのか、一切説明が無いので判りませんが、ミサ曲ロ短調で、粗削りながら非常に新鮮な演奏であっただけに、聴けるようになったのは喜ばしい限りです。演奏は基本的に全集版に依拠しており、ロ短調ミサの時もそうであったように(あの時は歌手10人でした)、OVPPに準じながら、各パート二人まで許容して、コラールや群衆合唱などはかなり声部に厚みを持たせており、数年前に出たHaller/La Chapelle Rhenane、Pierlot/Richercar Consortなどとほぼ、同じ方式です。Minkowskiは特にHallerと同様、かなり群衆合唱の効果を重んじているようで、正直、OVPPとはほぼ言えない位の補強をしているようにも感じられます(同じフランスだからでしょうか?)。実は演奏の方向性もHaller盤と同一のようで、徹底的に劇性を第一にして、特にヨハネで特徴的な群衆合唱の連続を山として、非常に激しいテンポ変動、強弱、リズムの煽りを持って、ヨハネに多く含まれる狂奔とも言える場面を強調していきます。当然の事ながら、EvangelistやJesusの言葉の静的な部分は影を潜め、群衆の狂奔に対抗するかのような感情的な語りが前面です。こうしたヨハネは、もちろんOVPP以前からも多くあったし、それを好まれる聴者も多いようですが、一方であくまで聖句の性格と内容を伝えることに専心した静的なヨハネ受難曲(それはとりもなおさずヨハネ福音書の本質でもある)の美しさと感動は、到底望むべくもありません。音楽的にみても、群衆合唱で多用されるフーガ形式を中心とした、多声的構築が全く表出されず、すべてがまるで一部のハードロックのような勢いだけの音楽になってしまっており、同じOVPP(各パート一人だった!)によるKuijken盤の、全く外見上の激しさはなくとも、まるでまるでルネサンス時代のマドリガーレのように精緻で美しい群衆合唱(そこにあるのはただただ聖句のテキストに内在する秘められた激しさのみ!)とはあまりにレベルが違いすぎます。もちろん他の部分においても、独唱、合唱、器楽演奏すべて、部分的に美しさはあっても、全く縦の線の揃わない、Bach音楽構造の再現が二の次の粗い演奏です。マタイと並ぶBachの西洋音楽史上の遺産としてのヨハネ受難曲の真価には、少なくともまだ遠く及ばないのではないのでしょうか。「ヨハネ受難曲」にあくまで劇性のみを求める方向きの演奏かと思われます。

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     2017/10/08

    Wigmore Hall Liveに続く、そして同様に非常に意欲的なアルバムです。”La Follia”をテーマとするバロック音楽と、現代音楽を交互に配し、最後をJ.S.BachのBWV1052で締めくくるという構成で、前作程の統一性のあるプログラムには感じなかったものの、確かにルネサンス・バロック変奏曲とMinimal musicの繋がりは共通の根をもっているのかも知れません。プログラム中では、ライヒのPiano Phaseが、作曲者自身の言葉にもあるように、まさに圧倒的な名演奏で、ついでやはりグレツキの協奏曲が水を得た魚のようなこれも名演奏です。反面、J.S.Bachを含むバロック音楽の演奏は(C.P.E.Bachはバロックとしてよいか?)、演奏細部の掘り下げがまだ十分でない部分が多いためか、過去の名匠の演奏に比較して、あまりにまだニュアンスに乏しく一本調子で、とても現代音楽における名演と比較できないのが辛いところです。M.Esfahani自身はチェンバロの現代復興を使命と考え、Leonhardt以降の現代のチェンバロ奏者が、現代のチェンバロ音楽を弾かず古楽復興に専心したことを批判的にとらえているようですが、彼自身が肝心要のルネサンス・バロックのレパートリーにおいて、Leonhardtら過去の巨匠に、とてもまだ較べられるレベルでないのが痛いところでしょうか。とは言え、今はすっかり名匠となったTrevor Pinnockも、デビュー時は技術のみでニュアンスの乏しい演奏をすることもあったことを思えば、M.Esfahaniも今後にまだまだ期待すべきなのでしょう。J.S.Bachを含むバロック作品の演奏水準としては、公平にみてまだ平均レベルですが、ライヒ始め現代音楽における超名演があるため、評価はやや甘くさせていただきました。ちなみにコンチェルト・ケルンの演奏は、以前からのこの団体の演奏同様、手堅いがやや重々しく、古楽オーケストラとしては平均以上ではないと思われました。

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     2017/10/07

    非常に意欲的で、かつ意義のあるアルバムと思います。16世紀のW.Byrdから21世紀のLigetiまでが、明確な一本の線で結ばれ、そこに500年以上の時代が隔てられたことによる違和感は全くありません。現代音楽に至る、西洋音楽の流れが確かに確固たる根を共有することによって移り変わってきたことを、このまだ若い、しかも西洋出身でないチェンバロ奏者が見事に示してくれたことには、感嘆しかありません。演奏に関して言えば、Ligetiの生命力溢れる見事な演奏がさすがに最も素晴らしい。Byrdの演奏は、生き生きとして美しいものの、過去に様々な巨匠たちの一瞬一瞬に無限のニュアンスが込められた名演に数多く接した耳には、未だ一本調子で味わいがあまりに乏しい。3声・6声のリチェルカーレも、一音一音、声部の意味付けが非常に雑な割に、意味不明なテンポ変動(決してルネサンス・バロック音楽ではあり得ないような)が頻出するやや特殊な演奏で、若い世代でもM.Borgstedeなどの厳格で極めて構造的な演奏に較べると、Bachの音楽構造の真価の半分も、まだ表出はできていないと思います。ただ、特にByrdの音楽などは、このようなひろいコンサート会場での再現にそぐわない面も多いと思われ、できたらスタジオ録音でこのプログラムをじっくり聴いてみたいと思いました。ともあれ、、今後に大いに期待したいできる素晴らしい若い才能であり、月並みな言い方で恐縮ですが、ルネサンス・バロック音楽が全く今日、現代を生きる音楽として確固たる存在であることを示す好企画です。ルネサンス・バロック音楽ファンにもぜひ一聴をお勧めしたいですね。

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     2017/10/05

    昨年末に購入して以来、折りに触れて数回聴いてきました。この現在、世界的に最高のBach演奏家としての名声を得ているA.Hewittに対して、これまで自分は決してよい聴きてではありませんでした。1999年のGoldberg旧録音についても、かなり以前にiTunesで購入していましたが、演奏の外形はさすが当代一と言えるくらいに美しくまとまっていても、その中身に意外な程詰まったものが少ない音楽に、いつしかライブラリから削除していました。この最新録音、A.Hewittにとっては、もはや彼女の代名詞であるFAZIOLIによる再録音、という意味が大きいと思われ、事実世間的な評価もそれを越えるものでは無いようです。しかしながら、この半年ばかり聴いてきた自分の印象では、これはこれまでのA.HewittのBach演奏で最も優れたものではないでしょうか。確かに演奏外形上は、旧盤と一聴して違いは判り難いかも知れませんが、聞き込むにつれ、その違いが明らかです。決して新鮮なGoldbergとは言えず、G.Gouldによって確立されたモダンピアノによるGoldbeg演奏の方法論上に、特に新しいことは何もやってないのですが、曲の細部、声部と声部のバランス、それによって構成される多声音楽としての曲構造、何よりもBach演奏の永遠の課題である、至適なリズム、テンポ、バランスを見いだすことにおいて、旧盤とは比較にならない程、進歩しています。そう、同じカナダ出身のGouldが新旧2種のGoldberg名演で、全く例をみない方法で辿り着いた理想的なBach再現法に、まだ並んだとは言えないが、彼女の数十年のBach演奏キャリアを経てやっと近づくことができつつあるように思います。思えば同国出身で、同じくBachを主要レパートリーとするGouldに対してHewittも、旧盤や他の文章で当然のことながら意識と尊敬をこれまでも表現しているようですが(ここはGouldに対する敬意と屈折、反感が同じくらい、言葉と演奏に表れるA.Schiffと違う)、一方でHewittの背景がGouldと大きく異なるのは「フーガの技法」を近年までBoringと感じていたのが端的なように、はなからルネサンス・バロックの多声音楽的要素に(たぶん)馴染まなかった点ではなかったでしょうか。Gouldは自分の音楽のルーツは、中世に端を発するルター派のコラールである、と述べ、バード、ギボンズから現代のシェーンベルク、ウェーベルンに至る、あくまで声部声部が独立して対等である音楽を身上とし、その上に立って、やはり多声的音楽構造がその本質であるJ.S.Bachの音楽構造を生涯をかけて愛し再現しましたが、その点がまさにA.HewittのこれまでのBach演奏のWeak pointに一にも二にも繋がっていたように思います。8年前の平均律新盤では、まだあまりにも恣意的な古典派的ロマン派的解釈とその一方で、最高のフーガにおける構造再現がとても未熟な姿であったことを思えば、HewittのこのGoldberg新盤のすべてのバランス(その核になるのが声部間の多声構造であるのはいうまでもありませんが)が理想に近づく演奏を実現できたのは、おそらく彼女が数年前に、それまで避けてきた「フーガの技法」の演奏に初めて取り組んだ事が大きいのではないでしょうか。その演奏自体はクラシックマスコミの持て囃しとは裏腹に、まだ決して一流の「フーガの技法」レベルには遠いものでしたが、それでもそれを体験し通過することにより、A.Hewittの演奏はそれまでの彼女のものとは明らかに変貌しつつあるように感じます。GoldbergはBachの作品中でも、類をみない幅広い包容力を有しており、演奏者の背景、音楽的思考、歩みが如実に反映される傑作ですが、ここにいたって、A.Hewittが真の意味でのJ.S.Bach演奏家となりつつある事を示した、記念すべき盤ではないでしょうか。決して新鮮でも驚くような内容でもありませんが、Goldbergの普遍的再現(それは一つではありませんが)に近づき得た演奏として、Bachファンにはお薦めしたいです。個人的には、ぜひ平均律の三度目の録音にもチャレンジして欲しいですね。

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     2017/10/05

    基本的に、横の旋律線の流れ(しかもかなり気侭なテンポの揺れ動きを伴った)の組み合わせで構成された演奏であり、縦の線の厳格さは全く実現されておらず、また音色(これはモダン・ピアノによる場合、相当な難題)、リズムの声部間のバランスも、よく言えば即興的、悪く言えば深く考察されたものでないので、一つ一つの曲においても、曲集全体においても、「フーガの技法」のすべてと言ってもいい厳格な音楽構造が全く見えてきません。まだ曲初の基本からSimple fugeあたりはそれほど違和感がないのですが、曲集が進むにつれ、全体の曲構造が見えづらいのがじわじわ顕になってくるため、長い曲集を集中して聞くのが次第に苦痛になってきます。未完の三重フーガなどは(これがこの曲集の一部かは未だに決着がついていませんが)、どちらかと言えば主旋律をロマンティックに追うだけの音楽になってしまっており、「フーガの技法」の名演にみる、巨大な音楽建造物を前にした痺れるような感動が全く感じられません。自分がこれ以前のA.HewittのJ.S.Bach演奏にどうも馴染めなかった理由が、この演奏を聞き通して、よく判ったように思います。「フーガの技法」の演奏として(ピアノによるものであっても)とても一流には数えられないレベルの演奏ですが、Hewittが(これまで避けていたようですが)このJ.S.Bachの音楽の核とも言うべき曲集にアプローチした事で、彼女の中で少なからず変わったものもあったのではないでしょうか。今後の活動に期待したいと思います。

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