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たまごかけご飯 さんのレビュー一覧 

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     2011/09/27

    素人合唱団の記念演奏会といった風情。会場の雑音も大きく鑑賞向きではない。

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     2010/10/10

    ルドルフィヌムでのチェコ・スプラフォンの録音であるから、録音の水準としては相当高いが、演奏そのものとしては、ベルリンクラシックスから出されていた1,3,4番、ベートーヴェンの合唱があれば十分といった印象で、この盤ならではという感興がある演奏ではない。

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     2010/10/10

    再生装置の調整レベルは最高水準にあると言って良い。しかしながらここに収められた演奏者と曲目がかなり特殊なものであるため、誰でも楽しめるかといえばそうではないだろう。まず本CD購入に際して目的とするのはマーラーの演奏であろうが、これまでにもあちこちで言われているように、マーラーの演奏は頻繁にテンポの揺れる、今の水準からすればエキセントリックなものであるため、いかに再生性能が高いと言っても受け止める側からすれば相当な違和感は否めない。歌曲2曲は比較的簡易な構成であるため、ピアノによる再現でもそれほどの違和感はないが、もとから小品であるため、マーラーならではという充実感があるとも言いかねる。
    最もレベルの高いのは交響曲第5番の第1楽章であろう。再生レベルの高さは逆にマーラーの演奏スタイルが、ともすれば旋律の心地よさに流されがちであることを明らかにする。ライネッケはシューマンと同時代を生きた演奏家として名高いが、クレンペラーの例を見ても、時代とともに演奏スタイルが変遷することは少なくないため、これが19世紀半ば頃の標準的な演奏スタイルであったとは言い切れないだろう。「戴冠式」協奏曲の第2楽章など聴くにつけても明らかな後期ロマン派のスタイルである。但し、ライネッケはピアノロールが収録された時には既に高齢であり、またロールの制約上大曲は収録できないという点からも、小品集的な性格が強く、ライネッケのピアノとはこのようなものであったというイメージを作るには困難である。
    グリーグは小品3曲のみであるが、わずかに残された記録としては貴重なものである。

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     2010/10/10

    何のためにこのアルバムを制作したのか、その目的がよく分らない。ショパンの練習曲集のアルバムが作りたいというのか。それはピアノロールの生成された時代背景を理解していない企画というより他ない。ウェルテがここに収められているピアノロールを制作したのは1905年から1920年代半ば頃までであるが、この頃は19世紀の演奏慣習を色濃く残す時代で、テープ録音など存在しないから、聴衆はコンサート会場に足を運ぶか、裕福な資産家のサロンに招かれる以外にプロの演奏を耳にする機会はなかった。当然限られたチャンスに聴きたいものといえば、その演奏家の得意とする有名な作品が期待されたことだろうし、演奏家サイドが滅多に演奏されないような「秘曲」を取り出してきたところで、それは聴衆の期待を裏切るものでしかなかっただろう。ピアノロールに収録される作品もそうした事情を反映したものになるから、全集めいたものを手掛けたところで、売れる作品は有名なものに集中し、今のようにショパンの作品集がCD1、2枚に軽く収まるような時代ではない以上、売れもしないような作品の収録をするのは商業的には失敗以外の何物でもなかった。こうした中で、特定の曲は何人もの著名なピアニストがロールを残す一方で、人気のない作品は取り上げられることはなく、ピアノロールに残されることはなかったのである。従って、練習曲の抜粋をピアノロールによって制作することはできても、全曲をロールのみで構成することはできない。ここでタチェットが試みたのは、ピアノロールがカバーしていない穴を、現代のピアニストで補うという奇妙な企画であった。これはなおさら悪い結果を生み出している。というのも、19世紀的な演奏スタイルのピアノロールと、穴埋めしている現代の感性がまったく相容れないものになっているからである。例えばリヒテルやギレリスの演奏でカバーされていない曲を誰かの演奏で補って「ベートーヴェン ピアノソナタ全集」を制作したとして、その意義を誰が認めるというのだろうか。
    録音は良好。ダル・セーニョあたりから発売されるピアノロールの再生録音に較べると、機械の調整レベルは圧倒的に高い。録音会場の響きも良く(データには記載されていないが)スタインウェイのタイプDを使用している割には木質の温かみが感じられる。やや冷たい質感でシャープなエッジを感じるニンバスの録音と双璧をなす水準であろう。

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     2010/03/08

    7番の流れで5番の秀演を期待しつつ購入すると見事にはずれという一枚。6番は7番とのカップリングが出ているのであえてこの盤を購入する意味はない。テミルカーノフは出来不出来の落差がかなり大きい指揮者で、乗らない時の演奏は冴えないと聞いたことがある。また実演でテンションが上がるタイプなので、本来財政的な要請がなければスタジオ録音には消極的だということも語られているが、何といっても力が感じられず、西欧でも多数の競合盤があるこの作品について、この録音でゴーサインを出したというのはあまりにも安直に感じられる。

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     2010/03/08

    「テンペラメントの人」テミルカーノフのショスタコーヴィチ。当然テンポには揺れが見られ、表情は限りなくマーラーのそれに近づいて行く。もともとショスタコーヴィチはマーラーとの親近性が良く言われるだけに、表情付けひとつで似た側面を見せるのは至極当然なのだが、ムラヴィンスキー式(軍楽風とも言う)の無機質な表情をことさらに強調する演奏が定番のようになっていて、これまでこうした一面を見せる演奏は多くなかった(バーンスタインでさえ、比較的インテンポな姿勢を維持している)。ショスタコーヴィチのピアノ自演を聴けば、作曲者自身は比較的自由なテンポ感を持ち、ロマン派的ではないにせよ無機質なものを剥き出しにするような姿勢ではなかったことが伺える。作者の解釈は絶対ではないし、作曲家の手を離れればその瞬間からあらゆる解釈が可能になるものではあるが、共産主義の呪縛を逃れた新ロシアの新たな解釈の可能性を示した演奏として尊重されるべきものだろう。

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     2010/03/08

    音はまずまずだろう。混成オーケストラという制約はありつつもそれなりの形に作り上げている実力は評価したい。但し、音楽に内容があるのかということになればそれは全く別の話であって、率直なところ、この演奏が何を語りたいのか、全く意図が不明なまま全曲が終わり、戸惑ってしまった。一時期は権力に阿る低俗な作品の烙印を押され、その後偽書と言われつつも「証言」によって復権を果たした作品であるが(もっとも、意図は不明だが、ロジェストヴェンスキーはそんな時代にも積極的に演奏し続けていた)、80年代以降は数多くの秀演が紹介されるようになり、これしか聴く機会がないという訳でもない以上、特に全録音を完全制覇する意向でもなければ買う必要はない。爆演で名高いスヴェトラーノフ、濃厚な歌が聴かれるバーンスタイン、録音が古くても良ければ筋肉質のムラヴィンスキーあたりが揃っていれば十分である。個人的には、あまり評価されていないがノイマン・チェコフィルの端正な演奏が好みである。

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     2010/02/27

    狂信的なベイヌム信者は一様にメンゲルベルク時代との隔絶を強調するが、年代を追って収録されたこのディスクの全貌を見れば、ベイヌムの独自な世界、メンゲルベルクを継承した部分が自ずと明らかになるであろう。初期の1939年から1943年頃までの演奏は、曲目の選定からかなりメンゲルベルクと重なる部分が多いばかりか、表情の付け方まで酷似しているのに驚かされる。一つにはメンゲルベルクの健康状態によるキャンセルが多かったため、代役で登場したこともあったろうが、また別の面では聴衆自身がメンゲルベルク的なものを求めていたといったこともあったのかも知れない。1942年にポリドールに収録されたケンペンの「グレート」は同じ年に録音されたメンゲルベルクの同曲と驚くほど表情が異なっており、これに較べるとベイヌムとメンゲルベルクの音作りは根本的にかなり近いものがあったものと思われる。その一方でドビュッシーをはじめとするラテン系作品への傾斜はメンゲルベルクには見られない(実際その解釈を含めて相性が良くないことが窺われる)もので、ベイヌム独自の指向が打ち出されているものと見られる。これまで未紹介だったオランダの現代(当時の)作曲家の作品が多く含まれているのも特色で、ベイヌムとその生きた時代を展観する上でベストのセットと言えるだろう。音質は当時のAVROの放送用録音のため、原盤に問題がある場合を除き、当時の水準から較べれば極めて良好である。

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     2010/02/19

    新進気鋭の指揮者、サイモン・ラトルがクック版にいくらか主観的な変更を加えた演奏で、指揮者ともども、当時あまり光を当てられることのなかった第10番という存在を世に知らしめるのに大きく貢献した録音。第2楽章クライマックスのシンバルの追加、第4楽章のシロフォンをカットした判断等も曲のイメージに沿った変更として納得性がある。後年のベルリン盤よりもストレートな感情が反映されている分、こちらの方が好感が持てる。

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     2010/01/25

    先に評価された方がソースを誤っているようなので訂正しておくが、本CDの原盤は1938年から42年のテレフンケンのスタジオ録音である。愛好家としてフィリップスの放送録音と、本CDのどちらがお薦めなのかというと一概には決めかねるところがあるが、放送録音は語られている通り、他の1940年録音に較べて若干明瞭さに欠ける点があるため、レコードとして楽しむことを純粋に考えるならこちらを採っても良いだろう。但し、ライブならではの感興を期待することはできない。メンゲルベルクといえどもライブとスタジオではややその趣を異にするのは当然であって、スタジオ録音盤では顕微鏡的なテンポの揺らせ方や、微妙なフレージングまで測ったような演奏が実現されている。しかしながら、こうした演奏上の効果の一つ一つは、元はと言えば聴衆に向けて発せられることを意図したものである以上、ライブでは結果的にあっさり処理されているケースも少なからず見受けられるとしても、そのことが決して傷になる訳ではない。むしろスタジオ盤の演出は多分にアーティフィシャルな面が誇張されていると言えなくもないのである。

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     2009/12/21

    何よりもデッドな響きが色彩的なメンデルスゾーンの管弦楽に合わずやや興ざめ。セルの演奏はその解釈よりも、レコーディングエンジニアに恵まれなかったことで大きく損をしていると思う。メンデルスゾーン自身は宗教オタクのような人物で、宗教関連の作品でなければトロンボーンを使わない(本人的にはトロンボーンが神々しい響きを持っているので、他の目的には使うべきではないと決めてかかっていたらしい)ような拘りを持っていたようだが、我々愛好家がストイックな再生音を享受しなければならない理由はない。楽しみのために聞くのである以上、より艶やかな演奏であって欲しいと思うものである。

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     2009/12/21

    第5番が最も優れている。同コンビは1975年にスタジオ録音がされていたはずで(数年前に第9番と共にヴェネツィアで復刻されたもの)、解釈もほぼ同じ。ミスも少なく会場のノイズがなければスタジオ録音かと思うほど水準は高い。一方で録音年代的に当然メロディアでは限界がある訳だが、第1番は演奏上のミスも多く、また会場のノイズも多いためお薦めとは言えない。全体に奏者・聴衆双方に散漫な感じが否めない。とりわけ皆様には期待の高いと思われる>

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     2009/11/22

    1939年、病気で度々コンサートをキャンセルしたメンゲルベルクの代役として登場したシューリヒトの「大地の歌」である。従ってその解釈は限りなくメンゲルベルクに近く、シューリヒトも敢えて個性を主張しようとしてはいないように思われる。第6楽章「告別」の中で「シューリヒトさん、「世界に冠たるドイツ」ですよ」という聴衆の声が聞かれるので有名な演奏であるが、この発言の真意はナチ支配下のドイツで演奏活動を続けるシューリヒトに対しての批判的言動と受け取るのが正当とされるべきもののようだ。ともあれ音質の点では1939年のAVRO録音なので、時代がかったSP録音だと思っているとかなり良好な響きに驚かされる。

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     2009/11/22

    この時代の演奏で音質を云々するのは意味合いに乏しいであろう。優れた演奏であればこそ、音質が貧しくともその中から必死に真の精神を聴き取ろうとし、フルトヴェングラーや、ニキシュでさえ繰り返し聞かれ続けることになるのではないか。演奏された1951年はメンゲルベルクの亡くなった年であり、実質的にクレンペラーの惜別の辞とも言える演奏である。演奏に向けた集中力は極めて高く、当日の聴衆は会場の外に出れば再び1945年の荒廃した風景が広がっているかの如き想いにとらわれた、というエピソードが伝わる程のものである。後年のフィルハーモニア盤、BRSO盤は練り込んだ演奏であるが、クレンペラーの個人体験といった点から見れば、こうした演奏こそが記憶されるに相応しいと思われる。

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     2009/11/22

    表情の随所にメンゲルベルクのニュアンスが残るが、テンポ感はかなりワルター側に引き寄せたようで、あまりメンゲルベルク的な急激なテンポの揺れは見られない。この当時のワルターはロンドンのベートーヴェン「合唱」ライブにも見られるように、かなり硬質な表情と速めのテンポ感(即ちトスカニーニやE.クライバーに近い表現)を持っており、そうしたアプローチはメンゲルベルクの世界とはかなり遠ざかったものではあるが、それでもなおこの盤は限りなくメンゲルベルクの世界を偲ぶべき性格のものであろう。ライナーノーツにもメンゲルベルクの演奏が残っていないのは誠に残念、といった記載が見られるのもレコード製作者側のこうした思いが反映されたものであろう(1940年10月の最後の「巨人」公演はナチの反対を押し切って実施されたものの、放送及び録音が禁止されたため残されなかった)。

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