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「ユートピアは実在した」

2008年2月22日 (金)

連載 許光俊の言いたい放題 第136回

「ユートピアは実在した」

 先日、二期会の『ワルキューレ』に行ったら、片山杜秀氏にバッタリ会った。「現代音楽が専門のはずなのに、なんでこんなのに来ているのだろう?」と思ったら、仕事らしい。毎日のようにコンサートに行くフルタイムの音楽評論家はたいへんです。かといって、誰かみたいに公然と寝ているようでは困るが。
 さて、そのとき、今度の週末に山田耕筰のオペラ『黒船』が新国立劇場でかかるが、これこれこういうわけで興味深いという話を聞いた。そういえば、上演予定を見た記憶もあるが、どうせつまらないだろうとスッカリ忘れていたのである。だが、片山氏の話を聞くと、なんだか見ないと損な気がしてきた。まったく罪作りである。
 片山氏と言えば、最近『音盤考現学』(アルテス)という本が出た。雑誌に連載していた文章らしい。片山氏の文章は雑誌などで単発で読んでももちろんおもしろいが、こうしてまとめてみるといっそう強烈な印象を与える。いかにも中身がいっぱい詰まった片山ワールドという感じがする。
 氏らしい膨大な知識が、意表をついた組み合わせで登場してくる。世の中には、知識はいっぱいあるのだが、文章力やサービス精神がなさすぎて、読むのが苦痛な本を書いている人がいっぱいいる。たとえば、一般向けであるはずの新書なのに、超退屈で寝るしかない授業みたいだとか。片山氏の文章は、ところどころで山師的と言おうか、アクロバティックと言おうか、けれんと言おうか、ちょっといかがわしい娯楽的な匂いをさせつつ進んでいくのが個性である。先が読めてしまう文章はつまらないが、1章1章がえっと思わせるストーリーになっているのだ。うるさ型は、「ものごとをこんなに明快に整理しちゃっていいの?」と思うかもしれない。それも一理あるだろう。だが、20世紀の驚くほど多くの情報をこれほどまでに鮮やかな手つきで見取り図にしてくれた人は、なかなかいないことは確かだ。巧みな語り口のおかげで、ここに出てくる曲がみんな聴きたくなる。こんなにおもしろく現代音楽について語った人は、世界中に誰ひとりいないのかもしれない。快刀乱麻の文章が続くので、たぶん読者は自分が利口になったような錯覚すら覚えるはずだ。
 ひとつだけ印象的な箇所を挙げれば―「川島素晴と歴史の終焉」という章は、著者がおそらくは意識せずに自己を語ってしまった部分だと思う。ここでは世界が終わってしまっていると人間が感じる条件があれこれ挙げられているのだが、片山氏はおそらく本とCDとビデオの洪水の中で、歴史の終焉=ユートピアを感じているのではないか。実は、この本の中ではたぶん何ひとつとして断罪されているものはない。これは驚くべきことだ。あるものを否定するということは、それに対してより好ましいものを対置させようという時間的な行為を引き出す。そして否が応でも社会性を帯びてしまう。だが、何も否定しないということは、時間が止まることであり、それと同時にやんわりと他者を拒んでいることなのではないか。こういうものがあった・・ああいうものもあった・・・その無限の連続。あらゆるものから等距離のいわば天上の神が地上を眺めるかのような視点。それは、「現在」あるいは「時間」が失われているから可能なのではないか。とするなら、実はこの本の書名は、内容と決定的に違ってしまっているのだ。
 どんな読者だって片山氏の文章を読んですぐに気づくのは、喜々としていて楽しそう嬉しそうな様子であろう。もしかしたら、これは必ずしもサービス精神から来るのではないかもしれない。氏の独特の語り口は、今この瞬間がまさに至福のユートピアだという歓喜に由来しているのだろうかと私は考えた。ちょうどマイケル・ジャクソンが自分の理想の空間を作ろうとしたのと同じように、片山氏はありあまる知識でもって自分の楽園を築いているのかもしれない。だとしたら、まさにうらやむべき境地と言うしかないだろう。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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