われらに平安を サヴァールの「ミサ・ソレ」

2024年03月28日 (木) 14:45 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第311回


 時代は変わる。あらゆるものが移り行く。あるとき気づいて唖然とする。
つい先日、学生と打ち上げをしていたら、誰ひとりとして合コンをしたことがないというので驚いた。それどころか、「合コンという言葉は知っているけれど、そんなものが本当にあるのか」だって。そうか、出会いもネットでできる時代だからか。
 さらには、「少年老い易く学成り難し」をみな知らないことに肝をつぶした。そういうの、私は小学校の時に習いましたが。今の教科書、どうなっているの?
 と驚いている私に、しかしさらに年上の世代は、「『論語』も暗記していないのか」と呆れるかもしれない。そういうものである、常識などというものは。

 もしフルトヴェングラーやトスカニーニをナマで聴いていた人たちがサヴァールを聴いたら? やっぱり驚愕するだろう。何これ?と思うだろう。
 先ごろ発売されたサヴァールの「ミサ・ソレムニス」(昔の日本では「荘厳ミサ曲」と呼ばれていた)は、その名の通り荘厳、深刻、崇高なイメージに引きつけて聴かれているこの曲を、イケイケゴーゴーの異常な熱っぽさで演奏している。噴き出すような歓喜、歓びのあまり踊り出したかのようなリズムや合唱。「第9」の祝典性やあけっぴろげの肯定感に通じる。
 実は私はこの曲が大昔から苦手で、どこがそんなに名曲なんだよと思ってきたのだが、このサヴァールだとまったく違和感なく聴けてしまう。しつこさ、くどさに辟易させられることがない。かといって、もちろん軽薄で頭が悪そうな演奏でもない。
 処女マリアのくだりではいきなり中世・ルネサンス音楽の光が差してきたようで、あっと思った。これ、きわめて伝統的なマリア賛歌ではないか。こんな音楽をベートーヴェンは書いていたのか。その清澄な合唱の周りで小鳥のように飛び回るフルート。イタリアのルネサンス絵画みたい。
 あるところでは、まさに祈りをつぶやくかのよう。その祈りを威圧するような金管。神の審判は恐ろしいものなのだ。最後、軍楽がちょっとだけ鳴るのだけど、そこでテノールが「ミゼレーレ!」と悲鳴のように叫ぶのにはドキリとした。この録音は2023年のもの。もちろん、この叫びが意味しているものは、あれに違いない。こういうのは、同時代を生きているからハッキリわかるのですね。20年後にこの録音だけを聴いた人にはわからないだろう。そういうことが、誰の演奏にも、誰の曲にも起こり得る。
 そして、このサヴァールの演奏は、あっけなく、まるで未完成であるかのように終わる。考えてみたら、これまであまたの作品でくどいほどの盛り上がりを書き続けてきたベートーヴェンではないか。なのに? それは、本質においてこの曲は終わっていないからなのだ。この曲の中で人間は必死に祈る。いったい何度「平和を」という歌詞が繰り返されることか。だが、その祈りはまだ神に届いていない。あるいはかなえられていない。
 熱いだけなら、かつてバーンスタインの録音が一世を風靡した。だが、大合唱が熱く歌うほど、歌詞は聴き取れなくなる。けれども、サヴァールの録音では、きわめて明瞭に歌われている意味がわかる。発見に満ち溢れている。何より、表現にウソがない。思わせぶりなポーズが皆無だ。演奏家たちが実に当たり前に曲と一体化している。本来演奏とは、すべからくこういうものでなくてはならない。
 ベートーヴェンの後期作品は傑作の誉れ高いものが多いが、これにしても「ハンマークラヴィーア」にしても弦楽四重奏曲にしても、あまりにも執拗すぎ、くどすぎ、モノマニアックではないかと私は思うときがある。それはつまるところ、演奏に無駄があり、しつこさを感じさせてしまうのが一因なのかもしれない。


 ちなみに、執拗でくどい音楽を完全にその路線で演奏したということなら、アファナシエフの「ハンマークラヴィーア」がすごい。ピアノ的快楽にきっぱりと背を向けたアファナシエフが、なぜ晩年になってあえてこの難曲を選んで演奏したのか。聴けばわかる。音が苦しみ、もだえ、暴れ、何かをつかもうとしている。
 そして、ここが肝心なのだが、それと同時にアファナシエフは、音楽のある本質をきっちり理解している。今鳴っている音の中に、次の音への契機が含まれているということだ。これが理解できると、テンポが速いとか遅いとかはまったくどうでもいい話になる。このようなとき、音楽は動いていると同時に止まっているのである。また、止まっているようでいて動いているのである。昨年、彼が王子ホールで聴かせてくれたドビュッシーの「沈める寺院」はまさにその典型だった。おそらくアファナシエフは、この音楽の秘密を、フルトヴェングラーの録音を繰り返し聴くことによって会得したのだろう。静かな水面に小石を落とすと、波紋が広がっていく。小さな波紋が、大きな波紋を呼び出していく。そういうイメージだ。その波紋の広がり方を、速いとか遅いとか言う人はいないだろう。演奏家が音を鳴らすのではない。音はおのずと鳴るのである。
 指揮、ピアノなどジャンルを問わず多くの若手が登場し、世界的な人気を勝ち得ている。しかし、この秘密を会得している者はまずいない。秘密を知っている人間からすれば、みな「わかっていない。論外だ」ということになる。アファナシエフが、「現代の演奏家ではなく、フルトヴェングラーの古い録音を聴け」と言うのは、別に辛辣ぶった意見というわけではなく、きわめて当たり前なのだ。
 音の中から音をつかみ出す。アファナシエフのその感覚がわかる人にとっては、この「ハンマークラヴィーア」はたいへんな聴きものである。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)


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