禁断のラヴ・ロマンスなブルックナー

2022年05月06日 (金) 18:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第299回

 コロナのせいで、海外から演奏家があまり来ない。そんな中で、東京・春・音楽祭ではムーティ、ヤノフスキ、シュタイアーといったところが聴けて実にありがたかった。残念ながら、オーボエのルルーと歌のターフェルは来日できなかったとはいえ、だ。
 ヤノフスキは「ローエングリン」を振ったけれど、実は指揮やオーケストラよりも、久々で聴く高水準の歌の饗宴がめっぽう楽しかった。ややこしいことを言わずとも、考えずとも、とりあえず歌手たちの前方には、まさにドイツの一流劇場の空間が開けた。単刀直入に、ああこれがオペラという贅沢感がした。たとえ、椅子が小さくてしょぼい東京文化会館だろうと。休憩時間に軽食はおろか、水すら売っていなくても。着飾った人たちが皆無でも。ブラヴォーと叫ぶ人が誰もいなくても。断食のあとで大ぶりなステーキにかぶりついた気分がした。肉食バンザイ。


 さて、ワーグナーと言えばだが・・・。その大きな影響を受けたのが、ブルックナー。おそらく一般的に考えられている以上に。
 数か月前に発売されたレーグナーのセットを聴いて、私は大いに楽しんだ。嬉しくなった。ブルックナー6番と「パリのアメリカ人」をいっしょに1枚にするとは、なんて悪趣味なんでしょう。もっとも、これはレーグナーが決めたのではないが。悪趣味すぎて嬉しくなる。
 それはともかく、このブルックナーは第2楽章が信じがたく美しいのだ。このひとつの楽章だけのためにでもこのセットを持っている価値があると私は確信する。すばらしい演奏は頭の1秒聴いただけで吸い込まれる。まったく不思議なほどに決定的なのだ。有無を言わさぬものすごい説得力がある(逆に言うと、最初の1秒で帰りたくなるコンサートも私にとっては珍しくないのだが)。
 このレーグナー、まるでラヴ・ロマンスみたいに甘い。だが、断じて軽薄ではない。まじめに甘いとでも言おうか。堂々とぶあつい弦楽器が切々と歌う。重心は低い。艶々としたはでな色ではない。いわゆる東独的な地味目の音色。それがいい。その音色でないと出せない美しさがある。イギリスやフランスやアメリカの楽団では絶対無理な、暗褐色の美。
 弓をたっぷり使って、まるで「トリスタン」第2幕の夜の秘密デートみたいに濡れそぼつ。恍惚とはこういうものを指す言葉であろう。ああ、これは月光、これは木の葉のざわめき、これは闇の中で僕をじっと見つめる女の瞳なのか、と大いに納得させられる。不器用だったとされるブルックナーだが、どうして、ちゃんとワーグナーからいろいろ学んでいたのだ。
 そんなふうにワーグナー路線で演奏しても、絶対に場違いな感じがしないのがさすがレーグナー。じわじわと盛り上がっていくときの息の長い幸福感。そのあとの、でもすべてには終わりがあるのだと言いたげな名残惜しさと達観。最後にまぶたにキスをして去っていく、ほのかな苦い微笑とともに涙が一筋。そんな情景がもう目に見えるよう。センチメンタルですか。でもつまり、18世紀から19世紀のドイツ音楽は、ことに歌曲を聴けば、そういうものだったとわかりますからね。
 ヴァントやチェリビダッケよりもっともっと官能的。そして、心理劇みたい。ブルックナーの音楽や演奏に「すてき」という形容は似合わないだろうに、それが似合う稀有の演奏。夢のような時間。ちょっと音量を大きめにして浸っていると、「交響楽」という昔の言葉があたまに浮かんでくる。途方もない文明の産物という感じがする。幸せ。
 ガーシュインは、前半は冴えないが、後半がぜんよくなってくる。「ブリュンヒルデの自己犠牲」みたい。しみじみ感がありあり。終わりのほうの壮大さはかつてこの曲で聴いたことがないもの。爛熟のワイマール文化的な、行き止まり的な匂い、崩壊感がすごい。最後、すべては幻でした、みたいなすさまじい虚無感。


 こんなレーグナーのあとで、ロト指揮のブルックナー7番を聴くと、あまりにもあっさりとしているので、レーグナーの6番と同じ作曲家の音楽とは思えない。
 人間は不幸である。この世に救いはない。だから、彼岸に憧れる。神に祈る。宗教が信仰される。だが、現代は、そういう時代ではなくなった。死んだあとを心配するより、今を幸せにすることが大事になった。音楽においても、彼岸を予感させるよりも、その瞬間の音を楽しむ演奏が主流となった。ロトはそういう時代の演奏。第2楽章の終わりなど、実にきれいだ。冴え冴えとしている。だけれど、超越的な感じはしない。そう、超越などもう必要ないのだ。そういう時代のブルックナー演奏。祈るよりは、SNSで活動・運動を呼びかける時代の。聖人ではなく、カウンセラーを求める時代の。
 
 ベームがウィーン・フィルと演奏した第7番は、昔のウィーン・フィル様式の見事な例。たいした音質ではないが、聴いていると全然気にならなくなる。このくらいの時期のウィーン・フィルやベームにとって、ブルックナーはロマン主義作曲家のひとりにほかならなかっただろう。ブルックナーの演奏としてどうなのよ、と思わなくもないが、オーケストラの美意識で統一されていて、これはこれでたいしたものだと言うしかない。素直に、いいなあと思わされる。それに、生前のブルックナーの目の前で演奏されていたのも、つまりはこの手の演奏だったのだろう。忘れてはいけない事実。

 さて、大好評らしいチェリビダッケのリスボン・ライヴ、そのLP化が進行しているということで、制作途上の音を聴かせてもらったが、これにはたまげた。やヴぁい、やヴぁい。若者ならそう連呼するだろう。この話はまた後日。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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レーグナー
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