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2012年5月8日 (火)

連載 鈴木淳史のクラシック妄聴記 第36回

「遅ればせながらのSACDデビューで聴こえてきたもの」

 何を今更の話だが、松の飾りも残る今年初旬、初めてSACDプレーヤーを買った。
 ずいぶん以前より欲しいねえと思いつつも、好みのメーカーがこのような製品を作ってないとか、いくらか良さげな香りがする製品は到底高くて手が出せないとか、無くても明日死ぬわけでもなし、何よりもソフトがまだ少ないもんね、へへーん、などと逡巡するうちに、使っていたCDプレーヤーを中心としたシステムが理想の音に完成、何もそうバタバタ買い替える必要なんてないやんけ、ということになっていたのが、SACDデビューを大幅に遅らせていたのだった。
 ところが、昨年あたりからか、SACDが復権、あまり乗り気でなかった大手メーカーも往年の名演のハイブリッド盤を出すようになった。さらに、CD層を備えたハイブリッドではなく、SACD層しかないシングルレイヤー盤がリリースされるようになると、これはウカウカしてられなくなる。もしも聴きたくて仕方なかったディスクがSACDでしか出ません、あっかんべー、とかなったら、只事じゃありませんし。
 レコード会社の担当者のわたしへの眼差しも、以前は「まだSACDプレーヤーを持ってないの? 貧乏人はこれだから困るね」などと主張するに留まっておったのだけど、最近は「業界を舐めんじゃねえ。てめえの腐れ切った内蔵を売っ払って買っちまえ」みたいに言っているように感ぜられ、さらには「SACD! SACD!さっさとSACD!」と見知らぬおばさんが耳元で怒鳴っているような幻聴さえ覚え始め、「てやんでい、意地でもSACDなんて購入してやるもんか」と気丈に振る舞ってはみたけれど、時代の流れに沿うて生きてみるのもむべなるかなと、一陣の風が吹くのに任せてしまったわけ。ふう。ささやかなる敗北感。

 最初に聴いてみたのが、SACDシングルレイヤー盤の「パニアグアの芸術」。なんと懐かしいアルバム。「タランテュア」とか「古代ギリシアの音楽」、「ラ・フォリア」なんてよくLPで聴いたものだ。いわゆるヘンタイ古楽。王道のクラシック作品と比べ、よりイマジネーションの発露が要求される中世音楽。そのイマジネーションが枠を超え、ときには独り歩きしちゃっているのが、このパニアグアとアトリウム・ムジケーの作品集なのだ。中世音楽ブームの端緒に、このようなヘンタイをもった我々はまこと幸いなり。
 もともと優秀録音で知られているように、SACDで聴くと、一つひとつの楽器の輪郭がクッキリと浮かび上がって、まこと贅沢な気分。なんとなく昭和のコント番組をハイビジョンで見ているような妙な心地もすれど、ヨーロッパの起源はヨーロッパに非ずといった、地域性やジャンルを超えた音楽のヨロコビがギッシリと詰っている。それにしても、なんとクリアな音場感なんだこと。
 多少値が張る買い物ではあるけれど、一家に一セットの古楽のメルクマール。他家に嫁ぐ娘にも是非持たせてやりたい。
 
 シングルレイヤー盤では、日本コロムビアが出しているFM東京が録音した来日演奏家シリーズもいくつか聴いてみた。
 会場の音響にあまり影響されないようなマイク・セッティングがなされているのだろうけど、SACD効果なのであろう、東京文化会館と厚生年金会館で収録されたものは、明らかに音場感が異なる。わたしは、東京文化会館で録音されたザンデルリンク指揮ドレスデン・シュターツカペレのチャイコフスキーの交響曲第4番を興味深く聴いた。派手な素振りはまったくないザンデルリンク。ときおりギラリと見せるシャープな響き。ドイツ的に構築されていく、地味なチャイコフスキーなのだけど、最終楽章で高揚していく様子が自然な流れで収録されているのに感じ入った。実に幸せなチャイコフスキー。
 フィッシャー=ディースカウと小林道夫のシューマン・リサイタルも良かった。フィッシャー=ディースカウの若々しく変化に富んだ歌唱もさることながら、会場(東京文化会館)での聴衆の細やかな反応が伝わってくるようなリアリティがたまらない。
 SACDで聴いていると、楽音が出てない静寂な部分を聴くだけで、その演奏会場がどのような広さで、客がどのくらい入っているのか、などといったことがわかることもある。さらには、客席が音楽にどのように引き込まれて行くのか、といった熱気まで(と、だんだん話はオカルトの方角へ)。

 エド・デ・ワールトという指揮者の音楽には、それほど関心は無かったのだけど、SACDならではの豊饒な音場感に引き込まれて、最後まで堪能してしまったのが、ロイヤル・フランダース・フィルとの《アルプス交響曲》だった。その恰幅のいい、柔らかなサウンド。弦楽器の情感豊かなニュアンスもいい。この曲のウリでもある描写的な表現を強調するのではなく、もっと骨太に音楽の流れを重視しちゃいましたという解釈だ。普通のCDで聴いていたら、「なんでい、この大根演奏」と思ってしまったかもしれないが。

 そうなのだ。SACDハイブリッド盤が出始めたとき、そのCD層の音質がCDシングルレイヤーと比べると、あまりいい状態で再生されてないのではという危惧を長らく感じていた。新譜がSACDハイブリッド盤のみでしかリリースされないというケースは多く、CDで聴く者にとっては選択の余地もない。これは、いわゆる旧規格の切り捨てなのかしらんと思ったものだ(そのことはタブーであったのだろうか、オーディオ雑誌でもそういう話が出回った記憶がない)。
 これまでSACDプレーヤーを買わねば、と思ったのはそういう動機が強かった。ただ、なんだか業界の尻拭いをさせられているようで、ずっと気が重かったのだ。どちらかというと、守りじゃなく攻めの場面で投資したくなるのが、人間の感情だし。

 でも、買ってしまったものは仕方がない。負けて勝ちを取れ、っていうわけで、調子こいて往年の名盤モノにまで手を出した。EMIクラシックスがリリースし始めたシグネチャー・コレクションである。最初に迷うことなく選んだのは、クレンペラー指揮フィルハーモニア管のメンデルスゾーンとシューマンの交響曲集だ。
 これがまったくアナログな音がすんのよねえ。SAX規格の初期盤LP聴いたような感じ。おかげで、クレンペラーのヘンタイぶりがよくわかる。バッハに入れ込んでいたメンデルスゾーンはフーガ好きな作曲家だけど、ほかの演奏家が振れば、交響曲第4番第1楽章展開部でのフーガなんてあまり強調しないでしょ。しかし、クレンペラーはやってくれてる。作品のフォルムを危うくするまでにゴリゴリにフーガのセンター出し。

 でも、もっともSACDというフォーマットが生かされているのは、古楽の分野なんじゃなかろうか。楽器の歴史というのは、誰が弾いてもそれなりの音がするように、という均質化の歴史でもあるわけで(それが近代化ってことだし)、その洗礼を存分に受ける前の古楽では、演奏者の技量や音楽性、いや人間性まで露骨なカタチで出てしまうことがままある。それを自宅で味わうには、SACDは大きな武器だ。
 サバール一族の録音をリリースしているALIA VOXは、古い録音を含めSACDハイブリッド盤に熱心なレーベルだ。それもそう。ヴィオラ・ダ・ガンバをSACDで聴くとたまらんのですよねえ。一台の楽器から溢れ出る、細やかな多層の響きに恍惚としちゃうのだもの。
 そんな楽器が束になって襲いかかる、ヴィオール・コンソート。サバールとヴィーラント・クイケンが中心となって演奏したパーセルの作品集を聴いたのだけど、その響きの絡み合いは、まさにエロティックの極み。完全に18禁。
 ガンバだけでなく、フォルテ・ピアノなんかにも、SACDは有効だろう。と思って、シュタイアーのモーツァルトでも聴いてみようかと思ったら、なんたるシンクロニシティか、当のシュタイアーの新譜が到着した。ベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》。ちょっと聴いてみたのだけど、かなり凄すぎる演奏。次回は、この盤をじっくり取り上げたいな。残念ながらSACDではないのだけれど。

(すずき あつふみ 売文業) 


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