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Review List of 村井 翔 

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  • 3 people agree with this review
     2018/03/06

    オペラの上演史には、たとえばクプファー演出『さまよえるオランダ人』のように、そのオペラに対する考え方を百八十度変えてしまうような画期的なプロダクションが存在しうる。『ルチア』においてこれは50年代のカラス主演の舞台(残念ながら映像として見ることはできない)と並ぶ革命的、歴史的な上演と言えるだろう。そもそもこのオペラには舞台上で描かれない出来事が多い。ルチアはアルトゥーロをどうやって殺したのか(武装していない寝室内の出来事とはいえ、女一人では難しかろう)。ルチアはどのようにして死んだのか(発狂が直ちに死に結びつくわけではない)。これらは『トロヴァトーレ』のように台本自体が破綻しているわけではなく、すべてを見せてしまうのははしたないという19世紀的な慎みの産物なのだろうが、現代の観客はもうそれでは満足するまい。というわけで、あまりに露骨すぎて正視できないという批判もあろうが、分割舞台を用いてすべてをありのままに見せてしまおうというのがこの演出。ルチアとエドガルドのセックス・シーン(二重唱の場面)、それに続く妊娠の示唆だけでも相当に衝撃的だが、男たちの決闘の二重唱の間に隣の舞台ではルチアとアリーサがアルトゥーロを殺す様子を克明に見せる。ルチアは夫を殺しても平然としており、むしろ誇らしげだが(フェミニストの女性演出家ならでは)、その直後に流産に襲われ、エドガルドとの絆を失って、かの「狂乱の場」(グラスハーモニカ使用)につながる。ルチアは最終場面にも登場しており、浴室で自死した彼女の後を追って、エドガルドも息絶える。
    オーレンの練達の指揮に乗って展開する主役三人、ダムラウ、カストロノーヴォ、テジエの演唱は圧倒的。特にダムラウは歌だけでも驚異的な高水準だが、演技の迫真力たるや凄まじい。いつも通りふっくらめの見た目だが、かなり年齢も高め、かつ妊娠中という演出の設定にぴったり。ちなみに、時代自体も19世紀、ヴィクトリア朝に移されている。

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  • 4 people agree with this review
     2018/03/06

    ヒンメルマン演出の『トスカ』と言えば、『007/慰めの報酬』の一場面にも使われた、ちょうど10年前、2007年のブレゲンツ湖上ステージにおける「目玉のトスカ」が印象深いが、今回の演出は前回と同じネタが半分、新ネタが半分といったところ。前回が、監視カメラが至る所にある「監視社会時代のトスカ」だったとすれば、今回はいわば「you tube時代のトスカ」。「歌に生き、愛に生き」が終わった直後からスカルピアはトスカの姿をテレビカメラで撮り始め、撮られた映像は全面スクリーンになっている後ろの壁に投影される。第2幕の終わり、ト書き通りならトスカは倒れたスカルピアの頭上に燭台を置いて部屋を出て行くのだが、この演出では例のテレビカメラを鏡代わりに使って、自分の姿を確認してから退場。第3幕のカヴァラドッシ処刑シーン(この演出では銃殺ではない)も撮影されて、背後の壁に映される。頭に袋をかぶせられて殺される彼はISの人質殺害映像そのまんま。最後のヒロインの自殺も飛び降りではなく、インパクト満点。『トスカ』の現代化演出も色々あったが、最も成功した舞台と言えるだろう。
    ラトルのアプローチはコブシ山盛りの演歌として歌われてきた『トスカ』をもう少し格調高く、かつシンフォニックな音楽に戻そうというもの。何と言ってもピットにいるのがベルリン・フィルだから威力満点だ。この演出では第3幕でトスカとカヴァラドッシは一瞬だけしか身体的接触をしない。二人の間に亀裂が入ったのはこの間のカヴァラドッシの振る舞いのせいでもあるが、スカルピアの存在も大きいはず。トスカが彼を刺殺したのも、自分を惹きつけるこの男が許せなかったからとも解釈できる。オポライスはこういう複雑な、演技性人格の女性を演じさせたら圧巻。一方のM・アルバレスは能天気なイタリア・オペラ的ヒーローで、それなりに役にはまっている。スカルピアはヴラトーニャも悪くはないが、この映像収録回以外はニキーチンが演じていて(私は2回、ナマで観た)こちらの方がさらに凄味があった。ヴラトーニャを売り出したい事務所の意向が働いただけで、かつてのバイロイト事件の後遺症はもうないと信じたいが、個人的にはちょっと残念。

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  • 6 people agree with this review
     2018/01/27

    あらゆる読み替えが試みられた感のある『フィガロ』だが、そうかまだこんなことができるんだと感心させられる粋な新演出。序曲が始まると裸の舞台にフィガロ一人が出てきて、困惑の表情。でも、彼がストレーラー演出版のアームチェアを運んでくると、美女揃いの裏方さん達が現われて第1幕の書き割りを組み立ててゆく。この美女軍団・黙役たちは伯爵の秘書という役回りでオペラ本編にも登場してくるが、バルトロ、バジーリオなどはかなり戯画化されているとはいえ、人物達はおおむね18世紀の服装で、その意味では読み替えではない。しかし、舞台装置はベニヤ板に色を塗っただけのペラペラの書き割りであることが故意に分かるように作られているし、舞台袖に控えるプロンプターが台詞を忘れた伯爵に教えるなど、これはお芝居ですよというメタ・メッセージを観客に発し続ける一方、舞台上では笑いのツボを逃さぬ細やかな演技が展開。とても清新な舞台だ。
    主役級五人の歌手はすべて一級品だが、特に目覚ましいのはまずマルクス・ヴェルバのフィガロ。元気溌剌の演唱で見事に主役を張っている。ついでディアナ・ダムラウの伯爵夫人(ひと頃よりもスリムになった)。近年流行の若作りな伯爵夫人で、彼女にかなり三の線の演技を要求しているのは演出の仕様だが、細かい演技指導に嬉々として応えているし、歌ももちろん万全。相当ヌケたところのある伯爵のカルロス・アルバレスもなかなかいい味だ。白塗りに髭が書かれたクレバッサも愛嬌あるケルビーノだし、シュルツはもう少し弾けても良かったかもしれないが、十分に水準以上のスザンナと言える。チューリッヒでの録画に比べてややおとなしい感はあるが、端正ながら生きの良いヴェルザー=メストの指揮の素晴らしさは相変わらず。こんなに有能なオペラ指揮者を世界の歌劇場がほっておくわけがない。レチタティーヴォを伴奏するフォルテピアノもかなり奔放に動く。第4幕はマルツェリーナのアリアのみ省略。日本語字幕が間違いだらけのベヒトルフ演出、ザルツブルク版のまんまなのが唯一の欠点。

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  • 5 people agree with this review
     2018/01/26

    昨年9月のマーラー5番の超絶的名演(直後に同じ曲をやったキリル・ペトレンコ/バイエルン国立管が完全に霞んでしまった)以下、音楽監督二期目に入ってプログラミング、演奏ともますます面白くトリフォニーホール通いがやめられない上岡/新日フィルだが、これは一期目最後のリクエスト・コンサートのライヴ。一聴して上岡と分かる個性的な演奏だ。まず第1楽章序奏の繊細な弦の響きからして典型的な上岡トーン。ハーディング/スウェーデン放送響のようにモダン・オケでピリオド・スタイルを実現した演奏とは違うが、やはりHIPの影響を受けていると思う。主部はクレッシェンドとアッチェレランドが連動しがちなこの指揮者らしく盛大に盛り上がるが、音楽が減衰してゆく部分も弾き飛ばさず、丁寧に作られている(なお第1、第4楽章ともにリピートなし)。第2楽章は故意に引っかかるようなフレージングとリアルなポルタメントでこの舞踏会の非現実性を演出。最後の部分でのフルートの強調も面白い。第3楽章は例のコーラングレと舞台外のオーボエの呼び交わし以外にも、随所で遠近感の強調があるのが印象的。第4楽章ではトランペットの行進曲主題をテヌートで吹かせ、裏のトロンボーンを強奏させるので、すこぶるグロテスク。最後のファンファーレも遠くから聞こえてくるように(いわば、夢の中に現実の音が侵入してくるように)演出されている。終楽章でも奔放な魔女のロンドとテヌート気味のディエス・イレ主題のコントラストが鮮烈。両者の同時奏楽に向けて盛り上がってゆく部分の極端なピアニッシモ(とスル・ポンティチェロ)にホルンのゲシュトップト奏法を加えたケレン味も上岡らしい。首都圏4強(N響/読響/都響/東響)に比べるとマッスとしての威力ではイマイチの新日フィルだが、最後の猛烈な加速にトロンボーンがついてゆけないのを除けば、大健闘。

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  • 16 people agree with this review
     2018/01/26

    誰にでも分かるような大芝居を仕掛けてくる演奏ではないので、地味に聞こえるかもしれないが、この指揮者の楽譜読解能力の高さ(業界用語では「耳の良さ」と言うようだが)と堅固な形式と耽美な耽溺の間に最適値を見つけるバランス感覚の良さを見せつける快演。第1、第2楽章では過度に深刻ぶって大立ち回りを演ずるのを避けているが、構造的にも複雑な第2楽章をすっきりと、しかし極めてポリフォニックに分からせてくれるのはなかなかの手腕。でも、ここまでで終わってしまったら、ちょっと物足りないかもしれない。この演奏の見せ場は、むしろこの先。長大なスケルツォではテンポの伸縮と「しなをつくる」ような優雅さが堂に入っている。ヴィブラート控えめ、対向配置の弦楽群によって奏でられるアダージェットの美しさはこの盤の白眉だが、意外にもテンポは速くなく(10:46)、作曲者の書き込んだ細かいテンポ変化の指示に忠実に従っている。終楽章では前楽章中間部の旋律が三回にわたって引用されるのだが、三回ともオーケストレーションが違っている。その違いをこんなに面白く聴かせてくれた演奏は、かつてなかったのではないか。この演奏では終楽章全体が(その中にさらにテンポの伸縮を含みつつも)ひとつながりの大きなアッチェレランドとして構想されており、最後は見事なプレストに達する。

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     2017/12/26

    CDの時代になってから、歌手たちはいわゆる『白鳥の歌』14曲に何を加えて一枚のCDを作るかに頭を悩ませてきた。通常、行われてきたのは、ザイドルとレルシュタープの詩による歌曲を増補することだったが、この盤はユニークな方法をとっている。もはや定番とも言えるレルシュタープ歌曲「秋」D.945は入れているが、それ以外の増補はなし。ただ一つのザイドル歌曲である「鳩の便り」は「別れ」で終わるレルシュタープ歌曲群の後ろに、いわばアンコールのように置かれ、その代わりゼンの詩による「白鳥の歌」D.744以下、『白鳥の歌』冒頭に置かれたハイネ歌曲群につながるような水と死に関わる歌曲5曲を冒頭にセレクトしている。「海の静寂」D.216からハイネ歌曲の一曲目「漁師の娘」へのつながりはお見事。その後のハイネ歌曲の並びは「海辺にて/都会/影法師/彼女の肖像/アトラス」だが、これも実に良くできた配列で、もちろんそれぞれは別個の詩だが、ひとつながりのストーリーになっている。「苦痛の全世界を背負わねばならない」とアトラスの歌う「苦痛」には失恋の痛みも含まれているわけだ。特に「影法師(ドッペルゲンガー)」において、従来の恐怖・戦慄よりは自嘲のニュアンスをはっきりと打ち出しているのは、詩の解釈としてはまさしく正解。レルシュタープ歌曲の冒頭にある「愛の便り」をやや遅いテンポで、すこぶるソフトに歌っているのも、「アトラス」の次という曲順を考えた結果だろう。ほんの少し前に出たスコウフスの再録音では、声も重くなって、やりすぎと言えるほど(F=ディースカウ以上)朗誦に近づいているのが衝撃的だったが、トレーケルも歳をとって枯れてはきたが、まだ端正な柔らかい歌い口を保っている。ピアノ伴奏はスコウフス盤でのヴラダーの積極的な切り込みが忘れがたいが。

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  • 9 people agree with this review
     2017/12/26

    修正版CDが届きました。なるほどコントラバス伴奏の入りが0.5秒ほど欠けていましたね。しかし、ファゴットの主旋律が欠けているわけではないので、このミスに気づくのはなかなか至難かと。さて、肝心の演奏だが、やはり大した業師との印象を再確認した。HIP(ピリオド)様式による『悲愴』の録音は既にあったが、これはもはやHIPでは全くないでしょう。弦はノン・ヴィブラートからヴィブラートたっぷりまで自由自在、編成も16/14/12/14/9と非常に大きい(低弦が厚いのはロシアの伝統でもあるようだ)。対向配置も、終楽章第1楽章など両ヴァイオリンが合わさって一つの旋律を作るという作曲者の凝った書法を生かすために(常にではないが)既に行われてきている。管楽器も「増管」して3管編成。第1楽章展開部直前のppppppもバス・クラリネットだし、モーツァルトでも必要とあらば譜面に手を入れていたクルレンツィス、オーセンティックでなければならぬというこだわりは皆無だ。
    しかし極端な強弱の対比を軸にした細部への徹底的なこだわり、第1楽章展開部などでのめざましい弦楽器群の表出力は、いつもながらお見事。オケをベルリンまで連れてきて、この一曲のために一週間、スタジオに缶詰めにするなんて、毎週の定期演奏会演目を2〜3日のリハーサルで仕上げねばならぬメジャー・オーケストラには出来るはずもない芸当だ。第3楽章では金管を抑え、すなわち華やかさを抑えて(録音の方でもそのようにバランス調整しているようだが)、終楽章とのコントラストよりは同質性を狙うなど、方法論が徹底している。終楽章最後の第2主題再現、普通は「鎮静・浄化」を感じさせるところで、こんなに痛烈な表現を持ち込むなんて、やはり聴かせどころを外さないな。

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  • 2 people agree with this review
     2017/12/17

    実はエラス=カサドの指揮に最も期待していたのだが、『椿姫』のようにピリオド楽器オケではなく、一般の歌劇場オケだったのが災いしたか。悪くはないが、ごく普通の『オランダ人』だった。ゲルネとの『ワーグナー・プロジェクト』でスウェーデン放送響を振っているハーディングの方が遥かにピリオド・スタイルらしさを出している(序曲とオランダ人のアリアだけだけど)。ティーレマン指揮のバイロイト版に続いて主役を張るサミュエル・ユンは堂々たる演唱。ドイツ語も彼が一番しっかりしている。クワンチュル・ユンのダーラントは小物、好々爺というイメージだが、役作りとしてはこれも悪くない。ヒロインのブリンベルイは歌はちゃんと歌えているが、映像ソフトでこの老け顔はつらい。
    演出は残念ながら凡庸。三幕とも海辺の砂地が舞台になっていて、第2幕冒頭の娘たちは糸紡ぎではなく修理中の船の部品磨きをしている。演出家はチッタゴン港(バングラデシュ)のイメージだと語っているが、舞台機構の制約からそうなっただけで、積極的に読み替えをやろうという意図も意欲もなさそうに見える。序曲や幽霊船の船員たちの合唱、第3幕終盤では盛大にプロジェクション・マッピングを投入するが、こういう舞台はもう見慣れてしまったので、さほどの驚きもない。それどころか、海や水のイメージは映像でしか表現されないので、『スターウォーズ』でおなじみの砂漠の惑星みたいに見えてくる。特にエンディングが意味不明なのには参った。ゼンタの献身によってオランダ人は呪われた運命から解き放たれたようだが、彼女の方はどうなったのか? 死んだわけでもなく、昇天もしない。ひょっとして彼女の方がゾンビ化して死ねない体になったのか? 何度見てもよく分からない。

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     2017/11/18

    今のラトルに最もふさわしいオペラとして、『ペレアスとメリザンド』を挙げる人は少なくないだろう。もっともラトルのドビュッシー演奏のスタンスは昔から変わっておらず、印象派風の曖昧な雰囲気を排して、響きそのものをきっちりと磨き上げて行こうというやり方だ。ただ、その精緻な音の積み重ねが官能的な湿りけを帯び、雄弁にドラマを語り始めるあたりが(『トリスタンとイゾルデ』でも大いに驚かされたが)近年のラトルの素晴らしさ。基本テンポはやや遅めだが、緩急の起伏は大きく、弱音の扱いはすこぶるデリケートだ。ラトルは全く同じ歌手陣でこの録音の直前、2015年暮れにベルリンでセミ・ステージ形式の演奏をやっている。ソリストのうまさと自発性、尖鋭さではBPOの方が上だが、シンフォニックで腰の重いBPOの響きに対して、LSOの「軽み」もまた悪くない。
    フランス人の誰もいない歌手陣もなかなか強力。コジェナーのメリザンドはやや作り物めいた印象だが、人工的であることが特にマイナスになっていない。彼女の歌で聴くと、メリザンドは無垢な少女ではなく、最初から悪意をもって男をたらしこみ、破滅させる魔女のようにも聴こえるが、それも悪くない解釈。ともかく、これで彼女はカルメンとメリザンドを両方録音するという珍しい記録を作ったわけだ(ユーイングやフォン・オッターも両方をレパートリーにしていたけれど)。ゲルハーエルのペレアスはフランス語もうまく、模範的な出来。ただ一人、疑問を感じるのはフィンリーのゴローの役作り。熱演ではあるし、ラトルの音作りの方向とも一致しているのではあるが、いささか生々し過ぎ、いわばヴェリズモであり過ぎるように感じられる。特に第5幕での過剰な「泣き落とし」は終幕の静謐な雰囲気を損なっているように思うのだが。

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     2017/11/15

    オペラとバレエの融合はヨーロッパの歌劇場で今や一つの流行だが、パリ・オペラ座はケースマイケルに振付&演出を依頼。六人の登場人物のそれぞれにダンサーの「分身」がつくことになった。このオペラ、二人の士官たちが出征することになったと言って嘘の芝居を始めるあたりから、「理性をもって対すれば・・・」という最後のドン・アルフォンソの啓蒙主義的教説に至るまで、本音と建前の乖離が至る所で顕著だが、歌手が建前の歌詞を歌うのに対し、ダンサーは常に本音を表現するので、「愛の親和力」を表象する床の幾何学模様以外、具象物のほとんど何もない舞台上では、実に面白い重層的パフォーマンスが展開。たとえば、婚約者との別れを悲しむドラベッラの建前の背後で、彼女の本音は早くも少しウキウキといった具合。欲を言えばこの演出、仕掛けが遅く、途中まではやや退屈だが、第1幕フィナーレ、少なくとも第2幕から先は文句なしに面白い。特に新しいカップルによる二つの二重唱がダンサー達のパフォーマンスを伴うと、幸せそうな歌詞とは裏腹に恐るべき空虚さをあらわにするのは衝撃的。このオペラ、二組の恋人たちが試練の末に「真実の愛」を見出すなどという、おめでたい話ではないことを改めて思い知らせてくれる。
    突出したスーパースターはいないが歌手陣は適材適所。プリマドンナらしい大柄な歌を歌うフィオルディリージ、いかにも利発そうなデスピーナ、危険な恋愛実験の仕掛け人たるドン・アルフォンソ、いずれも見事だ。ピリオド・スタイルを十分に踏まえつつ、演出の求める細やかなニュアンスを実現したフィリップ・ジョルダンの指揮も素晴らしい。近年の『コジ』ではヴェルザー=メスト指揮(チューリッヒ)と双璧と言ってよい。余談ながら、指揮者がリーフレットに寄せた「空虚を受け入れること」という文章が大変見事なのに感心(正確にはインタビューを基にインタビュアーが構成したものらしいが)。インテリのケースマイケルがこれぐらいのことを喋れるのは当然だが、演奏は素晴らしくても喋らせるとまるでダメな音楽家が少なくないなかで、これは秀逸。彼なら低迷の極みにあるウィーン国立歌劇場を建て直してくれるかもしれない。

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     2017/11/13

    この「ピッツバーグ・ライヴ」シリーズは毎シーズンの演奏の中から、最も自信のあるものをCD化するというのが趣旨だったはず。前作の『エレクトラ』『ばらの騎士』組曲は2016年5月の録音だった。それが2013年の録音に戻ってしまったのは、なぜだろうか。ひょっとしてグラミー賞連続受賞の某オケに対する対抗心かとも思うが、出てきた演奏は大変素晴らしいので(5番だけなら間違いなくこちらが上)、理由の詮索などはやめておこう。指揮者自身によるライナーノートは今回も詳細だが、音楽内部の解釈の話にとどめていて、「これは強制された歓喜の表現」とか「これはスターリンくたばれ!の意味なのだ」といった音楽が表現しようとするものについて一切語らないのは興味深い。第4交響曲については盛んに言われるが、この曲についてはやや珍しいマーラーからの影響をあれこれ指摘しているのは、オーストリア人のホーネックらしいが、ともかく聴衆には音楽そのものから感じてほしいということだろう。
    さて、そこで肝心の演奏。第1楽章はまず気合十分の開始、中間部分はそれなりに盛り上がるが(ただし対位声部をよく響かせて抑制気味)、両端部分はすこぶる静謐な、デリカシーを重んじた演奏。第2楽章は存分にテンポ・ルバートを効かせた遅めのテンポ。アイロニカルかつ確かにマーラー的だ。指揮者自身「この曲の白眉」と言っている第3楽章は緻密かつ痛切。特に盛り上がる所は「慟哭」より「憤怒」を感じさせるほど激烈な表情で、もともと感動的な音楽だが、近年にないほど心打たれた。終楽章前半は残念ながら常識的(冒頭を四分音符=88という譜面通りのテンポでやろうという指揮者はなかなか現れないな)、しかし後半は終わりに近づくほどテンポが遅くなり、執拗に続く弦楽器の「ラ」音(ロシア語では私、俺の意味になるという話は既にご存じだろう)を強調。これなら指揮者が言葉で語らなくても、音楽の意味するところは明らかだろう。拍手はカット。その後にバーバーの「アダージョ」が続くというカップリングも絶妙だ。もともと録音優秀なこのシリーズだが、今作はとりわけめざましい解像度。

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     2017/11/13

    ワシリー・ペトレンコとオスロ・フィルによるスクリャービン録音の第二弾。最初の交響曲第3番/第4番はこの指揮者としては普通の出来だと思ったが、今回の第2番は特筆すべき名演。第2番はけっこう稚拙なところもある若書きの曲だけど、作曲家生誕百周年の1972年に最初のLPが入手可能になった時から、不思議に気に入っている。その時聴いたスヴェトラーノフの旧録音は終楽章で鳴り渡る金管のファンファーレ音型があまりにド派手かつ下品で、いま聴くと笑ってしまうけど。マーラーの5番と同じく5楽章だが3部から成る曲で、第1楽章冒頭の主題(ハ短調)がそのまま「変容」して終楽章第1主題(ハ長調)になるという、ロマン派音楽を席巻した主題変容技法の見本のような作品。さて、ペトレンコのこの演奏、直近の競合盤であるゲルギエフ/LSOと比べると全体で10分も演奏時間が違うのに驚くが、これはゲルギエフの方がやりすぎ。退屈なところもある曲だから、速いテンポで締めようと思ったのだろうが、事務的で無味乾燥な演奏になってしまった。演奏時間の大きな違いをもたらしているのは真ん中の楽章(マーラーと違って緩徐楽章)であるアンダンテだが(ゲルギエフ11:55/ペトレンコ18:01)、メシアンを先取りするように鳥の声も響くこの美しい楽章はペトレンコのこの演奏がこれまでで最美と断言してはばからない。「光が欲しいと思ったのだが、軍隊行進になってしまった」と作曲家自身もボヤいている終楽章も、この楽章の陳腐さをうまく抑えたセンシティヴな演奏。全くヴィルトゥオーゾ的でなく、ショパン以上に「触ると壊れてしまいそうな」ピアノ協奏曲も非常にデリケートな出来ばえ。

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     2017/11/06

    2013年12月30日のライヴ、最後は拍手入りで会場ノイズもそれなりにある。物理特性自体はそんなに悪くないが、マルチマイク的な録音でもない。推測するに、放送録音として一発ライヴで録ったものだが、演奏がとても良かったのでCD発売の運びになったのではないか。実際、ユロフスキーのチャイコフスキーとしてはLPOとの最初の録音だった『マンフレッド交響曲』と双璧をなす出来ばえだ。
    チャイコフスキーのバレエ音楽はいずれも劇的あるいは抒情的な、交響曲のような音楽と踊りのためのいわば実用的な音楽のハイブリッドで出来ているが、付属のリーフレット所収のインタビューで指揮者自身が述べている通り、『眠りの森の美女』はその二つがはっきり分かれているのが特色。おとぎ話としてのストーリーは第2幕までで完結しており、第3幕はディヴェルティスマンだけだから。ユロフスキーの演奏はこの二種類の音楽をはっきり描き分けようとするもの。まず前半のシンフォニックな音楽では、序奏冒頭や第1幕終盤など、カラボスの主題が出てくる部分の迫力が半端じゃない。フレーズの終わりを畳みかけるように鋭角的に切り上げるユロフスキー・スタイルが絶大な威力を発揮している。一方、指揮者自身の言う「ドライ」な踊りのための舞曲は、ちょうどストラヴィンスキーがチャイコフスキーの主題に基づいて作った『妖精の口づけ』のような感覚。リズムの切れと、響きをまろやかに溶け合わせるよりはむしろ異質な声部の衝突を面白がるような響きのバランスがとても斬新だ。主旋律をしっかり確保して、しっとり描き上げようという演奏(たとえばプレヴィン)とは対極的なアプローチ。今では「エフゲニー・スヴェトラーノフ記念」と名乗っているロシア国立交響楽団は相変わらずパワフルだ。

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     2017/11/06

    近年の読み替え演出の様々な問題点を集約したような舞台。まず第一に舞台を現代の中東(第1幕間奏曲の間に投影されるグーグルアース風映像によれば、シリアとイラクの国境あたり、当時のIS支配地域とのこと)に移したこと。これについて私は、説得力があれば何でも認めようという立場。キリストに擬せられたアムフォルタスを使って血糊たっぷりの血なまぐさい聖餐式が演じられる第1幕終わりまでは、おおむね肯定的に見た。しかし第2幕、クリングゾールのアラブ風の館になると、そこには(本来いないはずの)アムフォルタスが囚われている。歌のパートがない人物を登場させるのも昨今の演出ではおなじみの手法だが、このアムフォルタス、「アムフォルタス!」と自分の名前が絶叫されているにも関わらず、ただ見ているだけで何も反応しないのだ。この黙役の扱いがいかにもまずい。第3幕、聖金曜日の奇蹟の場面では舞台奥にオアシスが出現し、そこで女性の全裸を見せたりするが、ここで最も肝心なパルジファルとクンドリーの心の交流についてはさっぱり描かれない。最大の問題はエンディング。この演出では第2幕終わりでパルジファルが聖槍を折ってしまっているのだが、彼がその折れた槍(ドイツの批評家の解説によれば、槍にはイスラエルとシリアの国旗をはじめ、様々なものが巻き付けられているとのこと)をティトゥレルの棺桶に投げ入れると、まわりの人々も七枝の燭台(ユダヤ教のシンポル)や十字架、数珠(仏教?)などの宗教的象徴をそこに投げ入れてしまう。素直に理解すれば、宗教を捨てよということらしいが、そんなことで二千年来のパレスチナ問題が解決するわけないでしょうが。最終場面にクンドリーは現れないので、ワーグナーのト書き通り、彼女が死んだのかどうかも分からない。オペラ演出に政治的メッセージを持ち込むなとは言わない。しかし一番いけないのは、作品そのものの解釈とちゃんと向き合わずに(シリア難民の大量流入に苦悩していた2016年のドイツでは特に受けたであろう)口当たりのいい政治的メッセージにオペラの結末を丸投げしてしまったことだ。
    ヘンヒェンの指揮は中庸かやや速めのテンポで手堅いが、ただそれだけ。近年、バイロイトで『パルジファル』を振ったガッティやフィリップ・ジョルダンですら聴かせてくれた「形而上的な」次元に欠ける。歌手陣の中で文句なしなのはツェッペンフェルトのグルネマンツだけ。フォークトはいつも通りの輝かしい声だが、全曲の真ん中での主役の「覚醒」が的確に描かれないので(もちろん演出の責任だが)説得力に乏しい。パンクラトーヴァも声は立派だが、演技の方は全く生彩なく(これも演出の責任)、存在感が薄い。マッキニーは(この演出ではキリストそっくりに見える必要があるので)見た目重視の起用と言えるが、歌の方はイマイチ。

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     2017/11/02

    2016年9月18日、つまり一連の首席指揮者就任披露演奏会のライヴ。近年のガッティは遅いテンポによる細部拡大趣味という「巨匠的」なスタイルを見せることがある。それはこの半年ほど前、すなわち首席指揮者就任前に収録された『幻想交響曲』のように「面白いけど、こねくり回しすぎ」という印象を招くこともあったが、ここでは彼の解釈が見事にツボにはまっている。終楽章の行進曲風な展開部における、まるでクレンペラーのような遅いテンポ、明確なフレージングはガッティの面目躍如。ただし、続く第2主題の展開において、(先のヤンソンス指揮の録画ほど露骨ではないが)舞台裏で演奏するバンダの姿を見せてしまうのは映像演出として好みを分けるかもしれない。また特筆すべきはオランダ放送合唱団の好演。この曲の合唱パートに数百名の大合唱は不要。それよりもピアニッシモかつ正しい音程で歌える確かな技術が必要だが、至難な無伴奏・最弱音による歌い出し部分は「まさにこうでなくては」という理想的な出来。この演奏では合唱は座ったまま歌い始める。それ自体は決して珍しいことではないが、立ち上がるタイミングが実に心憎い。これまた極度に遅いテンポをとった曲尾の極大スケールも圧巻だ。

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