--- 同じく当時を振り返ってみて、その頃のニューエストとメスカリンをどう比較されますか?ニューエストにあって、メスカリンになかったもの。または、その逆であったりと。
中川 やっぱりある意味、男のバンドと女のバンドやなと思うけどね、まさしく。ニューエスト・モデルは、ある種、音楽に対して野心的やったしね。メスカリン・ドライヴの方は、右脳全開みたいな(笑)。ある種の目標設定なんかがはっきりとあったのは、ニューエスト・モデルの方やね。メスカリン・ドライヴは、バァーンとね、アホみたいに轟音を前に出すだけや(笑)。「コレがやりたいんやぁ!男なんてアホばっかりやぁ!」って(笑)。実際、それは正しかった(笑)。
まぁ、でも、すごい刺激し合った2つのバンドやね。それぞれが持ってないもんを、お互い持ってたから。
俺は実際、メスカリン・ドライヴのファンやったし。特に、コレ(『Early Soul Flower Singles』)よりももっと前の時期かな。この辺(89年以降)はもう一緒にやってるからね。85年かなぁ・・・ニューエスト・モデルを結成した時に、その頃、ロック喫茶っていうものがまだあった時代で、オレ、ロック喫茶の店員やってんね。大阪のミナミで。80年代後半に潰れた店なんやけど。
そこに客で、派手な女達がやってきたわけ。髪の毛、真っ赤なんが、5、6人ガァーッと入ってきて、「ビデオ、ハノイロックスにしてや、兄ちゃ〜ん」とか、「レコード、ニューヨーク・ドールズかけてやぁ〜」みたいな(笑)。派手すぎて10人ぐらいに見える(笑)。「自分ら、ニューヨーク・ドールズ好きなぁん?」、「ああ、ホンマに〜?」って、オレも軽い店員やってんけど(笑)。で、友達になったとゆう感じで。
ある時、「デモ・テープ録ってんけど、ちょっと聴いてやぁ」とか言われて、仕事中、ウォークマンで聴かせてもらって・・・初めっから「出来上がってた」ね、メスカリン・ドライヴは。シルヴァーヘッドの<Hello New York>がそこに入ってて(笑)、まぁ何て言うのか、いわばグラム・ロックやったね。テクニックも何もなくて。でも、ヒデ坊(伊丹英子)のアンペッグ・サウンドとヴォーカル内海洋子は、初めから「出来上がってた」。「何や、このパティ・スミスみたいなヴォーカルは!?」みたいな感じやね、まだ俺も20歳ぐらいで。「ヤバい!」みたいな。「俺らもちょっと気合入れてやらなあかんな」って。だから、いつも刺激与えてもらってたっていうかね、初期の頃。
--- そこから、色々と対バンなんかをするように?
中川 そやね。ニューエストはもっと、ジャムとか、フーとか、スモール・フェイセズとか、ちょっとモッズっぽい感じと、オレ以外のメンバーがパンク好きやったから、そういうのとの融合みたいなバンドやったから、音楽性は全然ちゃうかったんやけどね、メスカリンとは。ただ、俺が元々ローリング・ストーンズで始まった人やから、グッときたよ。それと、喋ってみて、すごく似た臭いを感じてね。特に、伊丹英子。なんかこう・・・上の世代に対する感じとか。それこそ、社会に蔓延するマッチョイズムに対する考え方とか。あと、ギャグのセンスとか(笑)。なんか、近いものを感じて。全然ちゃう音楽やってるのに、近いなぁとはお互いが感じててんね、ハナから。で、ニューエスト・モデルが初めてライヴをやる時の対バンは、メスカリン・ドライヴにやってもらったんよ。86年3月10日、大阪西成Egg plant。
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メスカリン・ドライヴ(88年リリースの1st LP『Deep Morning Glow』より):左から、井上実香(ds)、内海洋子(vo)、浅野フジコ(b)、伊丹英子(g)。
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--- 僕個人は、中学2年の時に、『Pretty Radiation』からニューエストに入りまして・・・
中川 古いやん(笑)。
--- 束の間、キング・レコードから『Soul Survivor』がリリースされて、メジャー・デビューとなったのですが、その当時、ニューエストは、すぐにはメジャーには行かないだろうなと僕個人は勝手に思っていたんですよ。当時、インディ・シーンが異様に盛り上がっていたということもありまして。だから、あのタイミングでのニューエスト、また、メスカリンのメジャー・デビューは、少し意外だなとも感じていました。
中川 まぁね。正直言って、俺とヒデ坊はあまり興味がなかったんよ、メジャーに。音楽業界自体も、あまりよく分かってなかったし。俺は22ぐらいやったかな。それに、周りから「1回メジャーでやってみたけど、あかんかった。業界のヤツらはアホばっかりや」みたいな話も聞くわけやん(笑)。「あぁ、そうかアホばっかりなんや」って(笑)。
初めは、あまり興味なかったんやけど・・・その頃、俺、大阪の老舗の中古レコード屋の店員で。で、その店にレコード会社の人間が、ポツポツ来る。全部で、5社か6社ぐらいは来たかな。「ニューエスト、ウチから出しませんか?」、あるいは、ヒデ坊の方に「メスカリン、ウチから出しませんか?」って。まぁ、よう分からへんし、興味もそんなになかったから、「いい、いい」って感じやったんやけど・・・でも、いい話なんであれば、それはやっぱりいいことなんちゃうか?と。音楽をやりながら、食えるんか、と。こんだけツアーやりながら、バイト、もうしんどいねん、みたいな(笑)。それは、勿論あるやん? 一個人として。だから、なんか分からへんから、とにかく何個か譲れない条件出しといたら、引くとこは引くやろなと思って。それがまぁ、大阪に住み続けるということと、ニューエストとメスカリンはセットやと。ソウル・フラワー・レーベルごと契約するっていうことやないとダメやと。あと、外部プロデューサーは一切つけないと。シングル、どれ切るかとかいつ出すかとか、そういうことを全部決めるのも俺らやと。すると、ほとんどの会社が引いてくんよ、ヒューッと(笑)。
そこで残ったのが、キング・レコードっていう、非常にマヌケなレコード会社やったわけやね(笑)。「2つとも貰えるんですか!?」みたいな(笑)。「1個だけやと思ったのに、2個も貰えるんですか?」みたいな(笑)。「プロデュースまでやって頂けるんですか?」って・・・そんなことはないけど(笑)。キング・レコードは、明らかに出遅れててさ、バンド・ブームに。88年末の段階で、まだアニメとプログレと演歌がほとんど。で、他社は当ててるわけ。どこどこはジュンスカ、どこどこはブルーハーツやとか。だから、キングは相当焦ってたらしくて、後で話を聞くと。ほんまに社を挙げてイチ押しという感じやったよ、ニューエストは特に。
--- たしかに、当時「キングの強力新人」という触れ込みで、「ソウル・サバイバーの逆襲」のサンプラーが、レコード屋の店頭で配られていたような記憶があります。
中川 うん。初めはすごい力入ってたよ、キング・・・初めだけやけど(笑)。
--- 逆に、シングルのジャケットで、フランク・ザッパ「Freak Out」、ビートルズ「Revolver」、ジェファーソン・エアプレイン「Crown of Creation」などのパロディを縛りなくできたのは、キングだったからこそと。
中川 俺、当時はすごいアナログ・フェチやったから、中古レコード屋でバイトしてるぐらいね。だから、その当時、CDっていうフォーマットで、デザインをどう展開するかってことに関して、悲観的やってんね。しかも、「何や!?この短冊型(8cmCDシングル)は!」みたいな。「どないせぇ言うねん、コレを!」みたいな(笑)。せっかく作った自分達のレコードやのに、こんなんやろ?・・・だからまぁ、ちょっと遊びたいなぁいうことやね、そういう中で。
--- さらに、折りたたみのインナースリーヴが差し込んであって、そこに手書きの歌詞とイラストが書かれていたりと。
中川 LPが作りたかったわけよ、LPが(笑)。だから、ここまで来たら、少し遊ばな、みたいな。
(つづきます)