TOP > My page > Review List of 村井 翔

Review List of 村井 翔 

Showing 256 - 270 of 574 items

%%header%%

%%message%%

  • 8 people agree with this review
     2014/10/04

    演出は昨今流行のプロジェクション・マッピング(映像投影)を最大限に活用したもの。序曲が主部に入るとさっそく幕が上がって、無人の舞台にドン・ジョヴァンニがものにした女性たちの名が書かれ始める。以下、舞台には最後まで常に何らかの映像が映され続ける。騎士長を殺してしまうという予期せぬ展開によって、これが生涯最後の一日となった主役の死に対するオブセッションもはっきり描かれるし、3人の女性たちの性格描写も的確。アンナは婚約者を何とか言いくるめようとするが、ジョヴァンニとの間で味わった性的快感が忘れられない。エルヴィーラは早くも第1幕フィナーレからジョヴァンニを逃がそうとする。ツェルリーナはほんのいっとき、騎士夫人になる夢を見るが、真相を知るやマゼットとよりを戻す。歌のパートのない第4の女性、エルヴィーラのメイドもエルヴィーラ登場と同時に姿を見せていて、第2幕のカンツォネッタの場では全裸を見せる。最後も独特で地獄落ちの場以後はカットされ、舞台上にドン・ジョヴァンニだけが残った状況で、フィナーレのアンサンブル最後の部分だけが歌われて終わる(ウィーン版の上演はこれに近い形で行われたらしい)。なかなか見応えのある上演ではあるが、映像があまりに雄弁かつ説明的であり、ルイゾッティの指揮が弱腰であるために、音楽が映像の伴奏のように聞こえてしまうのはまずい。
    オネーギン役でおなじみのクヴィエチェン(この発音が正しいようだ)以下、キャストはなかなか強力。ただし、前述の通り指揮は買えない。コヴェントガーデンでの一つ前のプロダクション(ザンペロ演出)で振っていた老匠マッケラスの方が遥かにアグレッシヴな指揮だった。演出家と装置家の対談で進められるオーディオ・コメンタリー、そんなにためになる話はなさげだが(それにしても良く喋る演出家だ)、むしろここにこそ日本語字幕が欲しい。

    8 people agree with this review

    Agree with this review

  • 1 people agree with this review
     2014/09/24

    演出が非常に面白い。『トロヴァトーレ』は設定から言ってもストーリーから言っても相当にビザール(奇矯)な作品だと思うが、そういったテイストを前面に出そうという舞台に、これまでお目にかからなかった。シュテルツルは舞台を壁で囲んで狭い閉鎖空間に閉じ込めた上に、コメディア・デラルテかサーカスを思わせる奇怪で非現実的、かつアンチリアルな様式で統一している。これが実に、まともに考えたら馬鹿らしいこの作品のストーリーにふさわしい。指揮は見事に演出に呼応。カヴァティーナではおおむね標準より遅いテンポをとるが、カバレッタは決して遅くないし、幕切れのたたみかけ方などは強烈だ。細かい音型まで克明に表情が付けられていて、バレンボイム流のいわばパラノイアックな表現主義が、オケの重心の低い響き、暗めの音色と相まって演出の陰惨な印象をさらに助長している。
    さて、お待ちかねのネトレプコ。声自体やや肉厚になってドラマティックな力を増しているが、彼女の昔からの美質であった清潔な表情の美しさは変わらず。レオノーラへの挑戦は大成功と見た。ドミンゴのバリトン役、私はボッカネグラもリゴレットもさっぱり感心しなかったが、このルーナ伯爵だけは違和感がない。ドミンゴが演じると、終幕の二重唱以下、マンリーコよりもむしろ伯爵の方がいい音楽をもらっていることが分かってしまう。一方のリベロ、普通に考えれば線が細すぎだが、ドミンゴがルーナ伯爵を演じるという前提で考えれば、かつ彼をむしろ弱い人間として描く演出を踏まえるならば、悪くないバランスだ。ここにもう一人、「テノールの」ドミンゴが出てきては、やはりまずいだろう。プルデンスカヤもドスを効かせるというタイプではなく、むしろ清潔な歌なので、おどろおどろしい見た目に負けているが、演技を含めた神経症的な役作りという点では悪くない。

    1 people agree with this review

    Agree with this review

  • 7 people agree with this review
     2014/09/13

    第8番はドヴォルザークの交響曲中、最も好きな曲。第9番「新世界より」より遥かに好き。それはこの曲が、伝統的な交響曲書法を大きく逸脱した、きわめて奔放な書かれ方をしているからだ。指揮者ホーネックは自ら執筆したライナーノートで、この曲がマーラーの1番と全く同じ頃に書かれたことに注意を促しているが、まさしくブラームスよりもマーラー寄りの交響曲。前のシュトラウス交響詩集を聴いて、ホーネックなら8番をこんな風にやるだろうと予想したけれど、予想以上の快演(怪演)だ。細かいアゴーギグを徹底的に駆使して、たっぷり歌う部分とリズミックに突進する部分に鋭いコントラストをつける。両端楽章の終わりは凄まじいアッチェレランド。歌の部分でも極端なピアニッシモでむしろ響きを殺す箇所もあって、何とも芸が細かい。第3楽章トリオでのヴァイオリンの上行ポルタメント、主部復帰冒頭でのテンポ・ルバートには惚れ惚れする。こういうアプローチだと、カップリングがヤナーチェクというのはごく自然だが、『イェヌーファ』組曲も繊細な細工物のような美しさ。これほど徹底したオーケストラ・ドライヴにちゃんと応えているピッツバーグ響との関係も、きわめて良好と感じられる。

    7 people agree with this review

    Agree with this review

  • 4 people agree with this review
     2014/09/12

    2013年夏、グラインドボーンでの上演だが、序幕の舞台はまさにグラインドボーンそのものを思わせる、室内オペラの上演もできそうな貴族の館(マナー・ハウス)。人々は20世紀半ばのファッションで戦時下(つまり第二次大戦中)であることは暗示されるが、終盤までは定型通り進行。ところが最後になって爆撃機の来襲が映像で投影され、屋敷の外では火が燃え上がる。オペラ本体も全く同じ場所で演じられるが、館は接収されて病院になっている。入院患者のアリアドネは精神を病んで(失恋も本当か?)、神話のヒロインだと思い込んでいる。慰問にやってきた(とも思えない?)ツェルビネッタ一座だが、例の大アリアを歌う彼女は、夜中に変な歌を歌う気の触れた女と解されて拘束衣を着せられてしまう。大アリアの後で拍手が起こらないのは珍しいが、そんな気にならぬほど「笑えない」シリアスな設定。つまり、ばらばらになりがちな序幕とオペラを緊密に結びつけようという演出だが、神話の物語を日常的な次元に引き降ろすことの難しさを感ぜずにはいられない。特に最後、いかに戦場の英雄とはいえ、バッカスが普通の男では、アリアドネが彼を死神ヘルメスと思い込む、さらには両者の相互変容といったストーリーに説得力が欠ける。残念ながらバッカス役、スコロホドフの歌も冴えない。しかし、リンゼイ(作曲家)はやや線が細いが、イソコスキ(アリアドネ)とクレイコム(ツェルビネッタ)は一級品。これでグラインドボーンの音楽監督退任となるユロフスキーの指揮は相変わらず切れ味鋭い。

    4 people agree with this review

    Agree with this review

  • 1 people agree with this review
     2014/09/11

    拍手入りライヴだが、ベルリン・フィルハーモニーでの演奏会形式上演なのでオーケストラが良く聴こえる。さしものDGも『トリスタン』『パルジファル』『指環』と三回続いたウィーン国立歌劇場での収録失敗に懲りたということだろう。『エレクトラ』の場合、ティーレマンは『ばらの騎士』や『アラベラ』のようにタメを作ったり、急に音量を落としたりといった手練手管なしに(もちろんこれらも彼の芸風の一部だが)、比較的ストレートに振っていて、シュトラウスのオペラでは最も好ましいと思う。ショルティからビシュコフまで(あまり話題にならないが、個人的にはビシュコフ盤は大推薦)、これまでの録音者の誰と比べても遜色ないが、シェロー演出の映像ディスクでサロネンの非常に新鮮な指揮を聴いてしまったので、諸手を挙げて絶賛とまではいかない。ヘルリツィウスは最初ピンとこなかったが、シェロー版の舞台を見て納得。マルトン、ポラスキのように声の力で押しまくるタイプではなく、女性らしい弱さを含めた表現としてなかなか説得力がある。過去の歌手ではベーレンスに近いタイプか? マイアーは声だけだと、さすがに衰えが目につくようになってきた。クリソテミス役は、声の力ではシェロー版のピエツォンカが上だが、キャラクターの表現としてはシュヴァーネヴィルムスに軍配。パーペはこういう役はダメだろうと思っていたが、意外な拾い物。オレストは、これから実の母親を殺すわけだから、それなりに心の闇を抱えた人物のはずだが、ちゃんとそういう風に描けている。

    1 people agree with this review

    Agree with this review

  • 4 people agree with this review
     2014/09/11

    シュトゥットガルト版初演百周年の記念上演。ただでさえ貴重なオリジナル版だが、現在望みうる最強の布陣を敷いた、きわめて充実した内容。1912年の初演では二時間超の演劇に一時間半以上(序幕はないが、オペラ本体は改訂版より少し長い)のオペラが続くという長丁場になり、演劇の客、オペラの客どちらからも不評を買ったのだが、今回はザルツブルク音楽祭演劇部門総監督(一般には音楽祭と呼ばれるが、このフェスティヴァルには演劇の公演もある)という要職にあるベヒトルフが、台本作者ホフマンスタール自身も登場するメタフィクション(一番外側の枠)を加え、しかも三十数分のシュトラウスの付随音楽(実はその大半、組曲になっている曲は1917年、オペラから切り離して『町人貴族』だけを上演した時に作曲されたもので、1912年の初演時にはなかった)を全部盛り込んだ上で、『町人貴族』を手際よく一時間半にまとめている。日本語字幕がないのは痛いが、これならオペラ・ファンも楽しめるだろう。楽屋の場でのホフマンスタールの台詞などは完全新作と思われるが、彼が未亡人になった伯爵夫人に「死を超える愛」を信じさせるために自作のオペラを見せるという枠部分の物語が、ちゃんとオペラのメインテーマと照応しているのも、気が利いている。
    オペラ部分の演出は、かつての「とんがっていた」読み替え演出家ベヒトルフとは別人のような正攻法。ただ、演劇部分の登場人物がオペラにもからんでくるのが特徴で、退屈になりがちなアリアドネの嘆きの場も伯爵夫人が彼女の分身(ダブル)として動いたり、『町人貴族』の主役ジュールダン氏が茶々を入れたりすることで、飽きさせない工夫がある。これまた長大なツェルビネッタの大アリアも見せ方がうまい。題名役マギーは実に素晴らしい。2006年チューリッヒでの上演(改訂版)でもとても良かったが、今回はさらに堂々たる風格がある。同じくチューリッヒ版にも出ていたモシュクは、年をとればとるほど、むしろどんどんうまくなる不思議なコロラトゥーラ・ソプラノ。改訂版より格段に至難な大アリアを見事に歌いこなしている。ヘルデンテノールとしては異例な高音域が要求されるバッカスは、声楽的にはカウフマン向きではないかもしれないが、見た目は百点満点。やはりイケメンはお得だ。ハーディングの指揮も文句なし。伸び悩みと言われたこともある彼だが、少なくとも2012年夏は、サイトウ・キネン・オケとの『アルプス交響曲』と合わせてシュトラウスで二つ良い仕事をした。

    4 people agree with this review

    Agree with this review

  • 1 people agree with this review
     2014/08/30

    シンプルな舞台装置、人物はみな現代の服装(エレクトラはぼろぼろのタンクトップにジーンズ)だが、天才シェローの死を悼むにふさわしい鮮やかな舞台。まず冒頭の侍女たちによるプロローグ、台本ではエレクトラはここにいない設定だが、この演出では音楽が始まってすぐ、彼女が舞台に駆け込んでくる。したがって、彼女らの噂話は本人に聞こえよがしに語られるわけだが、付録のインタヴューでも述べられる通り、侍女、召使いたちを物語に巻き込むというのが、今回の演出の一つの狙い。彼らは譜面上、出番のないところでも出てきて、クリテムネストラの前に赤い絨毯を敷くところから始まり、オレスト死亡の誤報に一緒に悲しむ、彼との再会を共に喜ぶなど、いわばコロスのように動く。オレストとその扶養者(かつてのシェーン博士、フランツ・マツーラ!)も本来の出番のずっと前から舞台上にいて、エレクトラとクリソテミスのやり取りを一部始終、見ている。これも出のタイミングを変えることによって、コンテクストを動かそうという工夫だ。最終場では悲鳴だけじゃなく、クリソテミス殺害の瞬間を舞台上で見せるほか(『ルル』の最終景と同じ)、エギストに至っては舞台の真ん中で殺される。一番最後、復讐成就後の虚脱感もシェローらしいリアリズム。
    サロネンとパリ管が素晴らしい。この曲では定番の居丈高なコワモテを排して、非常にしなやか。しかも総譜をレントゲンにかけたように、隅々までクリアに聴こえる。ヘルリツィウスはティーレマンのCDで声だけ聴いた時には、イマイチ感が拭えなかったが、演技を見てみて納得。弱さを含めた一人の女性の表現として、それなりに説得力がある。クリテムネストラはこの役につきもののおどろおどろしさとは正反対の聡明で魅力的な女性に作られている。彼女も運命にもてあそばれた被害者という解釈(これもインタヴューで語られる通り。台本では表立って語られないが、彼女の夫殺しはアガメムノンが長女を生贄にしたことへの復讐という解釈もある)。前のレーンホフ演出とは逆の、こういう抑えた演唱でも、マイアーはさすがの貫祿だ。

    1 people agree with this review

    Agree with this review

  • 9 people agree with this review
     2014/08/29

    聞き終わって「うーん」と頭を抱えてしまった。少なくともブラームス全集よりは前向きな姿勢が感じられるけど、それが成功したかどうかは微妙。常に新しいことが求められる反面、あまり無茶なこともできないポストにいる指揮者に同情したくなった。今回、ラトルが試みたのは現代楽器を持ち(フルートのみ一部、木製楽器を使用)、弦はヴィブラートたっぷりというベルリン・フィルで疑似ピリオド・スタイルをやってみようということ。もともとゴツゴツ感のあるシューマンのオーケストレーションだから、結果は興味津々。いわば、このスーパーカーでゴツゴツした未舗装道路を走ってみようという企画だったのだが・・・ 結果、このスーパーオケはあまりにもあっさりと悪路を征服してしまった。もう少しピリオド色が前面に出て欲しかった。複雑な味わいではあるけれど、どっちつかず、折衷的であることは確かだ。
    曲ごとに言うと、特に残念なのは1番と4番。4番の初稿版は大好きで、改訂版よりベターだと思うが、この版らしさが感じられない。指揮者にとってもオケにとっても難所の終楽章へのなだれ込みなど、鮮やかの一語だが、いささかスムーズに流れすぎている。それにこの2曲では響きがダブつき気味だ。弦の編成は12/10/8/7/5で普通のオケなら適正人数のはずだが、弓をいっぱいに使って力奏するベルリン・フィルの面々にとっては10人ぐらい多すぎた。もともと大交響曲の趣きのある2番、3番は普通にサマになっているが、そうなると今度はあっさりしすぎという不満が出てくる。マーラー、シベリウス以降はおおむね良いし、ハイドンなども素敵なラトルだが、やはり19世紀独墺の音楽とは相性が悪い。なお、かなり高価なセットだが、192kHz/24bit音源がダウンロードできることを考えれば、お買い得とも言える。USB接続できるDAコンバーターにもっと投資しておくべきだったと後悔したが、わが家のかなり貧弱な装置でも確かに凄い音がする。

    9 people agree with this review

    Agree with this review

  • 5 people agree with this review
     2014/08/29

    未完成作を除く全ソナタをそれぞれ数日ずつの二度のセッションで一気に録音。最近、ヨーロッパ各地で盛んにシューベルト・リサイタルをやっていたのは、これの布石だったのかと合点がいった。バッハからブーレーズまで何でも弾けてしまうためにかえって軽く見られがちなピアニスト・バレンボイムだが、改めてその能力の高さに驚嘆させられる一組。70歳を超えたが、少なくともこのセッション録音で聴く限り、技術的には全く危なげないし、テンポも遅くなってはいない。もちろんシューベルトらしい歌の美しさも損なってはいないのだが、和声の変転を敏感に反映する音色、タッチの多彩さとリズミックな弾みで勝負する演奏。シューベルトはむしろ音色とリズムの作曲家であることを強く主張している。おそらく前世代の巨匠たちから学んだのであろう絶妙なテンポ・ルバートとリズムの駆動力、さらにもっと大きな範囲でのテンポの操作が絶大な威力を発揮しているが、たとえばその典型は第19番ハ短調の終楽章。タランテラのリズムを持つこの楽章、物理的にはかなり時間がかかっている(10:01)、つまり一貫して快速テンポで飛ばしているわけではないのだが、リズミックな駆り立ての効果により実際より速く感じられるというマジック。しかも、緊張の緩む楽想では、はっきりとテンポを落として対位旋律を克明に聴かせる。お見事な手腕だ。第20番イ長調第2楽章でも両端部のリズムが良いため、中間部の壮絶な表現主義が一層、引き立って聴こえる。

    5 people agree with this review

    Agree with this review

  • 7 people agree with this review
     2014/08/17

    2009年、このオーケストラが初演した5番の録音から始まった、このコンビによるマーラー全集の完結編。6年で9つの交響曲+『角笛』歌曲集を録音したわけだが、そのすべてを高水準に仕上げて、しかも自らの個性を刻印するというのは指揮者にとって難事業。たとえば、この一つ前の録音である6番など、きっちり演奏され、オケも決して下手ではないのだが、数十種に及ぶ同曲異盤の中で独自性を主張するのは、ちょっと難しい出来ばえであった。
    しかし、最後の9番にはまぎれもなく、このコンビの個性がしるされている。LPから配信まで諸メディア取り混ぜて、私が所有することになるこの曲の55番目の音源だが、喜んでコレクションに加えたい。
    現代のマーラー演奏の常として、きわめて緻密に演奏されていることは、もはや言うまでもないが、このコンビの持ち味はやや速めのテンポと克明なポリフォニー処理の両面にわたるアグレッシヴさ。両端の緩徐楽章もたっぷり歌うというよりは、むしろ音楽の流動性を重んじている。でも、その速めのテンポのせいで、9番がCD一枚に収まってしまい、2枚目のCDが第10番のアダージョだけになったのは皮肉な結果。私はもはやこのアダージョだけを単独の楽章として楽しむことができなくなってしまっている。アダージョが終わるやいなや、私の頭の中では第1スケルツォの音楽が響き始めるのだから。アダージョだけでは「蛇の生殺し」状態だ。

    7 people agree with this review

    Agree with this review

  • 2 people agree with this review
     2014/08/13

    場面転換のできない野外での上演ではあるが、演出は昨年の来日公演で観られたステージ用のものと基本的には一緒。大々的に映像の投影を使うほか、基本的にはリアルに作っているが、最後にはなかなか大胆な読み替えもある。イタリア・オペラ界でもこういう演出が受け入れられているというのは興味深い。最後については、露骨なネタバレは避けたいが、簡単に言えばコンヴィチュニー演出『トリスタンとイゾルデ』と同じ。これでは悲劇にならないし、そういうつもりで作曲しているヴェルディの音楽と合わないけど、個人的には大いに面白い。
    クンデの題名役は、不器用な猪突猛進型のデル・モナコとも、手練手管でキャラクターを作ってゆくドミンゴとも違う、魅力的なオテロ。まさしくベル・カント、声の美しさそのものでストレートに勝負するが、それがこの役に合っている。ただし、響きが拡散してしまいがちな野外なので、心持ち彼の良さが殺されてしまっている感もある。レミージョも軽めの声のソプラノなので、もし相手役がアントネンコだったら全く合わないが、うまく全体のコンセプトにはまっている。それに、こういう映像作品ではやはり美人は得だ。ヤーゴは現在のオペラ界ではやはりガッロにならざるをえないのだろうけど、「小物」感は払拭しがたい。少なくとも舞台全体を彼が支配しているという感じではないが、この人物のバランスはこのぐらいで丁度いいという人もいるだろう。バスティーユ歌劇場時代の鮮烈な録音が忘れがたいチョン・ミョンフンの指揮、今回はあまりマッシヴな力で押すことは避けて、むしろ繊細さ、緻密さを重視している。歌手陣やオーケストラの質を考慮した結果のアプローチだろう。

    2 people agree with this review

    Agree with this review

  • 4 people agree with this review
     2014/08/12

    このSACDにも同内容の音源を入手できるダウンロード・コードが付属している。「今後、音楽を円盤の形で所有しようとするのは一部好事家だけになるだろう」と予言されて久しいが、クラシック音楽業界でもこの予言が現実のものになり始めたということか。192KHz/24bitという凄いデータを入手できるラトル/ベルリン・フィルの盤ではCDは完全にオマケだしね。
    さて、肝心の演奏について。以前に比べれば遥かに色々なレパートリーが見聞きできるようになったティチアーティだが(個人的にはコヴェントガーデンでの『エウゲニ・オネーギン』録画が鮮烈だった)、私には「彼はこういう指揮者」と言い切ってしまえるようなキャッチフレーズがまだ見つからない。なかなか複雑な性格を持った人、あるいはまだ発展途上の指揮者ということだろうか。でも、このシューマン全集もとても興味深い特徴を持っているので、言葉の及ぶ限りレポートしよう。スタイルは完全にピリオドだが、かつてのピリオド派のような「俺たちがやってることは最前衛なんだぜ」といった気負いは、もはや全くない。アレグロ系の楽章もアダージョ系の楽章もテンポは中庸で、ネゼ=セガンなどに比べるとかなり遅い。けれども、ラトルが「それだけはやるものか」と厳しく自らに禁じているクライマックスでのテンポ操作をティチアーティはあっけらかんとやってしまうところが、何とも面白い。第2番の最後ではあっと驚くリタルダンド、第3番の最後では予想通りのアッチェレランド。響きのバランスに関しても、かつてはフローリアン・メルツの盤のように「全曲がティンパニ協奏曲になってしまった」今となっては微笑ましい録音があったけど、ティチアーティはいたって穏当。けれども、ここぞという所ではティンパニの強打をアクセントとして使うし、非常にクリアなセッション録音を利して、埋もれた声部を掘り起こすことに関しては、これまでのどんな指揮者よりも熱心だ。さらに第1番第2楽章、第3番第3楽章のような比較的シンプルな緩徐楽章では、歌心の美しさが印象に残る。こうした部分でのティチアーティは全く邪念のないロマンティストだ。こうした多面的な特徴が、まだ一つの「個性」へと収斂していかないのが、今の彼の面白さなのだろう。

    4 people agree with this review

    Agree with this review

  • 14 people agree with this review
     2014/08/07

    『ドン・カルロ』と並ぶ昨夏ザルツブルクの目玉公演。演出、演奏ともに超高水準で日本語字幕付きディスクの発売は嬉しい。ヘアハイム演出、今回の仕掛けは第一にザックス/エーファの関係をワーグナー自身/マティルデ・ヴェーゼンドンク夫人のそれと重ねる伝記的枠組み。第二に『少年の魔法の角笛』『グリム童話集』など同時代の文化的枠組みの参照。第2幕終わりの乱闘に白雪姫以下、グリム童話のキャラクター達が大挙加わるのは楽しいが、これによって観客は本作で強調される「ドイツ」が、まだそういう名前の国が存在しない時代の言語=文化的共同体であることが実感できる。そしてワーグナーの夢の中ではザックスと・・・・・・・は一人二役であったという最後のサプライズ(良く考えてみれば当たり前で、驚きでもないのだが)に至るまで、きわめて知的に組み上げられた演出。しかもこの演出チームの凄いところはアイデアをちゃんと実際の舞台に載せる技を持っていることだ。ワーグナーの書き物机の上がそのまま第1幕の舞台になるセットなど秀逸。カタリーナ・ワーグナーのようなイデオロギー批判も一度はやっておくべきだが、あの演出は一度観れば十分。こちらの舞台は何度観ても飽きない。
    そのカタリーナ版ではベックメッサーだったミヒャエル・フォレがザックスにまわっているが、シリアスかつ滑稽、人情味あふれるキャラクターで、これほど魅力的なザックスが過去にいただろうかと思うほど。若くてイケメン、かつ演技達者ののベックメッサー、ヴェルバもまさしく演出コンセプトにふさわしい。サッカの明るい声もアウトサイダー、よそ者であるこの人物に最適。ガッティの指揮は、各楽器を柔らかく溶け合わせるドイツ系指揮者のアプローチと正反対。線的なポリフォニーのからみがしっかり聴こえて、色彩豊かな指揮はとても新鮮だ。

    14 people agree with this review

    Agree with this review

  • 2 people agree with this review
     2014/08/03

    第1幕では電脳空間の中で迷子になったダーラント達がIT企業の社長然としたオランダ人に出会う。これ自体、今やとっくに陳腐な設定で、笑うしかない箇所が多いが、第2幕の扇風機工場になると、段ポール製のオランダ人像、これまた段ポール製の天使の羽根など、キッチュでチープな場面が続出する。最後にはオランダ人とゼンタが抱き合う「バイロイト土産」を工場で作っている様を見せて、ストーリー全体を相対化してしまう。つまり、演出家がやりたかったのは、すべてはゼンタの妄想というクプファー流読み替えに対するアンチテーゼだが、いまどき「愛は資本主義に勝つ」なんて話を大真面目にやったら噴飯ものだから、もう一回りひねってみました、というわけ。大方のワグネリアンは意図的なキッチュさに拒否反応を起こしそうだが、なかなか面白い舞台だ。
    ティーレマンの指揮は相変わらず雄弁。もう少し粗削りに、ストレートに振ることもできる曲だが、カラヤン風に(?)後期の作品のような豊麗な響きを聴かせる。ただし、演出と演奏が「てんでばらばら」でお互いに寄り添う気配がないのは惜しい。韓国人ユン・サミュエルはなかなかの美声かつ達者な表現力の持ち主。見た目が東洋人であることも、この演出なら何らマイナスにならない。メルベートも悪くはないが、なぜもっと若くて生きのいい歌手を起用しないのか・・・という疑問は残る。ゼーリヒはこの役には勿体ないほどの立派な歌。

    2 people agree with this review

    Agree with this review

  • 1 people agree with this review
     2014/08/01

    演出はあっと驚くようなシーンは何もないが、それなりに現代化しつつ、このオペラが演出家に突きつける様々な課題に真面目に取り組んだ手堅いもの。チューリッヒ歌劇場でのクーシェイ演出は特殊な読み替え仕様だったので、これを喜ぶ人も多いだろう。この演出、いかにもいま風なのは夜の女王(闇=無意識)、ザラストロ(光=啓蒙)両陣営とも完全に相対化していること。ザラストロ教団の信徒たちは怪しげな科学者集団で、『アイアンマン』風の反応炉(これが「太陽の環」らしい)を脳に接続したザラストロ自身は、絵に描いたようなマッド・サイエンティスト。ちゃんと黒人として表象されたマノスタトス(「一人で立つ者」という意味のモノスタトスの方が筋が通っていると思うが、モーツァルトの自筆譜はこの表記だという)に対する人種差別発言も元の台詞通りだ。エンディングでは相変わらず争いを続ける両陣営に呆れ果てた若者たちは、新しい道を探すことにする。つまり、結末だけ見ればシュトゥットガルト歌劇場来日公演で観られたコンヴィチュニー演出と同じだが、コンヴィチュニーのような突飛さやパロディのないこの舞台は少々、理が勝ちすぎている。少なくとも私はカーセン演出(2013年、バーデンバーデン)の方が遥かに好きだ。
    さて、アーノンクールの『魔笛』は最初のCD録音の時からかなり特異だった。手兵コンツェントゥス・ムジクスをピットに入れた今回は彼としても最も「好きなようにやった」演奏だろう。夜の女王の復讐アリア、パミーナのアリアなど一部ナンバーを除けば、テンポはむしろ遅めで、緩急、強弱の落差も大きい濃厚な味付け。このコテコテのアーノンクール節を受け入れるか否かで、賛否は分かれよう。3大交響曲なら断固支持の私も、このオペラに限っては「もってまわりすぎ」だと思う。極端な「緩」と「弱」のせいで音楽の自然な流れが随所で断ち切られてしまっている。歌手陣は小粒だが、適材適所。ツェッペンフェルトは『ローエングリン』のハインリヒ王(2011年、バイロイト)に続いて、役の標準イメージから相当かけ離れた「変なおじさん」を今回も好演。最も良いと思ったのはヴェルバのパパゲーノ。伝統的な三枚目でもモンスターのような鳥人間でもなく、普通の現代の若者としてこの役を演じおおせている。

    1 people agree with this review

    Agree with this review

Showing 256 - 270 of 574 items