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6人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/02/25
フォレの音楽は、あまりにもフランス的なので他国ではあまり受け入れられない、という説がある。 フォレの音楽における『フランス的美質』については彼の室内楽全集のレビューで触れたのでここでは割愛するが、さもありなんと思う。 特に彼の3本の大きな柱 ―ピアノ曲と歌曲、室内楽― の中でも、ピアノ曲と歌曲はフランス的どころかフランス『語』的とさえ言えるということは、フランス語を操れるものであれば容易に気付かされることである。 単語やフレーズの末尾に控えめにアクセントをつけること、リエゾンの仕方、フレーズの切り方等フォレのピアノ曲は、最も美しくフランス語の美感を表出していると言える。 フォレのピアノ曲は、形式的にはショパンに多くを拠っている。 ノクチュルヌ、バルカロール、ヴァルス・カプリス、アンプロンプチュ…ソナタ以外のショパンのピアノ曲の形式は、ほぼ網羅されている。 しかし、形式的には準拠していても、曲そのものの構成原理はかなり異なる。 例えば、このCDに全曲収められているフォレのノクチュルヌのほとんどはA−B−A’という形式で書かれているが、A’はAだけではなくBをも受けてそれらを包含するような形式で書かれている。 その結果、ショパンのノクチュルヌよりもパートごとの区切りが曖昧となり、全曲を通してエーテルのような浮遊感を表出することに成功している。 また、フォレの活躍した時代は、作曲を始めた当初はワグナーの音楽が世の中を席巻していた時代であり、長寿を得た最晩年はシェーンベルクやウェーベルンが活躍を始めた時代でもある。 従って、長年にわたって書き進められたノクチュルヌの中には、リストの所謂『三本の手』のような効果を持つような楽曲が見受けられることも興味深いし、また当時一流の演奏家 ―アルフレッド・コルトーやマルグリット・ロンら― が作曲家と善い意味での相乗効果を生んだことで楽曲そのものの完成度が高くなっていることを見逃してはならないであろう。 この曲の理想的な録音は、僅か17歳でパリ音楽院のピアノ科をプルミエ・プリ(1等賞)を得て卒業し、25歳でヴェルサイユ音楽院の院長となったユボーの独壇場であろう。 同じく世評の高いドワイヤンの演奏に比べても、リズムやアクセントをわざとぼかして(押さえるべきところはもちろん押さえているが)おり、そのことがノクチュルヌやアンプロンプチュにおいて『フランス語』の語感を表出させることに成功している。 また、録音も最優秀である。 ユボーがスタンウェイのピアノを駆使して繊細かつ大胆に表現した音楽を、まるで真珠を転がしたかのような見事な音響として捉えている。
6人の方が、このレビューに「共感」しています。
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5人の方が、このレビューに「共感」しています。 2012/02/02
このアルバムは『The “RING’ Without Words』と云うタイトルからも分かるように、この壮大なドラマから『歌』の部分を一切取り除き、15時間の楽劇を80分弱にまとめたというかなり挑戦的なものである。 しかし、マゼールの方針により、楽劇で使われているほとんど全てのライトモティーフが収録され、それらが切れ目無く、しかも一曲の交響詩のように無理なく聴こえるように構成されているために、音楽的にも大変満足がいく造りになっている。 しかも、ワーグナーが作曲しなかった音楽は一切入れずに、どうしても歌が必要とされる場面(ブリュンヒルデの自己犠牲など)ではメロディをフルートが奏でているので、聴く者は『指輪』の音楽世界を堪能することができる。 演奏はベルリン・フィルなのでもちろん云うことが無く、録音もテラーク独自のワンポイントマイク録音が超絶な音を約束してくれる。 『指輪』の世界に足を踏み入れたい人、身内を『指輪』で洗脳させたい人、そして何よりもワーグナーの豊かな音楽に浸かりたい人には必携の一枚である。 ライン川の底のハ長調の和音から始まり、神々が滅んだ後、再びラインの黄金のハ長調の和音で終わるこの演奏は、『指輪』のエッセンスを凝縮した素晴らしい一枚である。
5人の方が、このレビューに「共感」しています。
0人の方が、このレビューに「共感」しています。 2011/06/28
現代を代表する若手ジャズ・マンたちが結集したこのユニット。 4人の個性がそれぞれ溢れた楽曲集なのだが、特に素晴しいのはピアノのアーロン・パークス。 曲によってピアノだけではなく、ハモンド・オルガン、パンプ・オルガン、チェレスタにプロフェット5を駆使して、極めて独創的で現代的なジャズを聞かせてくれる。 ジョシュアのサックス、マットのベース、エリックのドラムも彼らの個性を存分に発揮し、且つこの4人でしか出来ない化学反応を堪能することが出来る。 ここのところ知的で独創的、実験的ではあるが晦渋な印象もあるプレイを展開していたジョシュアが、楽しくのびのびとグルーヴを楽しんでいる感があるのも、特筆するべき。 去年リリースされたBrad Mehldau『Highway Rider』を聴いた際にも現代のJazzの、音楽の一つの到達点がそこにはあると感じたが、ジョシュアたちJames Farmは、Bradとは全く異なった方法論で、現代Jazzの最先端を聴かせてくれる。
0人の方が、このレビューに「共感」しています。
8人の方が、このレビューに「共感」しています。 2010/12/23
この演奏会は1952年9月29日と10月1日の2日間に亘って行われたが、初日の一番初めに演奏された『英国国歌』、そして『悲劇的序曲』の第一音を聴くだけで、トスカニーニの、そしてフィルハーモニア管や聴衆の熱狂が伝わってくる。 各楽曲についてどこがどうだと言うことはスペースの関係もあるので避けるが、全体的な特徴としては裂帛の気合とそれを完全にコントロールしきった意志の力、そして力強いカンタービレというマエストロ本来の魅力に加え、NBCよりも自発性のあるオーケストラ独特の伸びやかさが演奏全体を支配している。 もちろんマエストロはオーケストラに全権委任するはずも無く自らの美学を余すことなく披瀝しているのだが、ロイヤル・アルバート・ホールの残響やレッグの録音の良さも相俟って、RCAに遺されている録音よりもより自由な印象を受けるのである。 録音は50年代初期のモノーラル録音であり、いくら同時代の録音の中ではマシな部類だと言っても、音質的には当然に限界が有る。 よい『音』を聴きたい方、ブラームスはドイツ風のウジウジぼんやりした演奏で無ければならないと言う固定観念に捉われている方には、この演奏は全く勧められない。 しかし、最も強靭で、最も浪漫的で、最も歌心に溢れており、最も男性的なブラームス演奏を求める方、そして虚心坦懐に音楽と向き合うことが出来る方にとっては、この録音は必携である。 ここには、人類が到達してしまったブラームスの交響曲演奏の一つの極北が、間違い無く遺されているからである。 この演奏を聴かずしてブラームスの交響曲演奏を語ることは出来ないであろうし、この録音を聴かずして死ぬと言うことはブラームスの交響曲の最も極限の姿を知らずして死ぬと言うことに他ならないのである。
8人の方が、このレビューに「共感」しています。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。 2010/12/15
ブラームスの交響曲演奏というと、和音重視の『縦型』の演奏とメロディ重視の『横型』の演奏に大別できるが、前者の『縦型』の演奏だと過度に音楽が重厚になり過ぎブラームスの音楽が持つ特有の素朴さが欠如してしまい、後者の『横型』の演奏だとブラームスが楽譜に仕掛けた独特の和声の妙をあまり味わうことが出来ないというジレンマに陥る。 しかし、この演奏はそれらの両方を味わうことの出来る、極めて希有なものに仕上がっている。 各楽曲とも素晴らしいのだが、特に印象に残ったのが第2交響曲の第4楽章。 以前、バーミンガム市立管弦楽団をを率いて来日した際に同曲を聴いたのだが、その時と同様、曲に内在するエネルギーと指揮者のある種の狂気が化学反応を起こして、極めて熱狂的な音楽になっている。 ラトルの最大の魅力は、彼特有のコントロールされた狂気にあると考えるが、録音には入りにくいその魅力を、少なくとも現役盤では最大限に収録したものと思われる。
7人の方が、このレビューに「共感」しています。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。 2010/11/21
バッハ畢生の傑作『ロ短調ミサ曲』といえば、古くよりカール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団による録音が名盤中の名盤とされてきた。 曰く、この録音は人類の最も偉大な音楽遺産であるとか、曰く、この演奏を聴いて感動できない者はそもそもバッハを聞く資格が無いだとか、最大限の賛辞(というよりも強迫的な文言)を以ってリヒターの演奏は迎えられてきた。 何もこう書いているからといって、私はリヒター盤を否定しているわけではない。 高校時代、始めてこの曲を聴いたのはリヒター盤であったし、最初の第一音、『キリエ・エレイソン』の凄絶なコラールを聴いた瞬間の心臓を鷲掴みされたような感動は、昨日のことのように覚えている。 しかし、では私はリヒター盤の良い聴き手であったかという問いには、自分でも首肯することが出来ない。 高校時代から今に至るまで、通しでリヒター盤を聴いたのは両の指で余るほどの回数でしかないからだ。 換言すれば、私はリヒター盤を心の底から敬してはいるが、遠ざけてきた。 人間は、少なくとも私といういい加減でだらしの無い人間は、極めて弱い存在なのだ。 そのいい加減でだらしの無い私という人間がリヒター盤のような神々しいバッハ演奏の前に立たされると、己の無力さや醜さを眼前に突きつけられるような気がして、結果、そのような演奏に立ち向かうにはよほど精神が充実しているときでないと音楽に負けてしまうことになる。 まして、曲がバッハのロ短調である。 バッハの作品にも『ブランデンブルク協奏曲』や『管弦楽組曲』、一連の協奏曲のように娯楽的な感覚で接することの出来る作品があるが、無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータや無伴奏チェロ組曲、そして2曲の受難曲にこのロ短調のような音楽は、そうはいかない。 これらの曲を聴くと、少なくとも私は、音楽を聴きながら自分自身と対峙する様な感慨を覚える。 生半可な覚悟で聴くことの出来ない、音楽を聴きそれに身を委ねながらも、自分自身の最も深い部分、あまりにも深すぎて普段は自分でも感じることの出来ない形而上学的な領域にすら意識が及んでいくような感慨をすら覚えるのが、これらの楽曲なのである。 言い換えれば、リヒターの『ロ短調』とは、軟弱で不甲斐無い自分というものに対して渇を入れるための象徴として、卑小で矮小な自分を自身の中に現前させ、それを乗り越えるための切欠として存在するものなのである。 しかし、このコルボ盤は違う。 合唱音楽の大家であるスイス生まれのこの老人のバッハ演奏は、彼のフォレ『レクイエム』の一連の名盤と同じように、私たちの心に優しく、言葉の最も根源的な意味において優しく語り掛けてくるのだ。 リヒターの『ロ短調』が裁きを与えるための存在なのだとしたら、コルボのこの演奏は絶対的な『赦し』を与えてくれる存在なのだ。 『癒し』だとか『安らぎ』だとかいう、中途半端な言葉ではない。 この演奏が与えてくれるのは、絶対的な自己肯定という意味合いにおける『赦し』なのだ。 第一曲第一音の『キリエ・エレイソン』の合唱からしてそうである。 確かに、曲自体がとてつもないエネルギーを内在しているのは間違いない。 しかし、そこに威圧感は一切無い。 『主よ哀れみたまえ』という人類の祈りの言葉の中に、悲壮さではなく『主』に対する絶対的な信頼感とそれに基づく安心感をこそ、コルボは強調しているのである。 原罪を背負い、命として不完全である人間という存在そのものをそのまま受け入れ、そのまま肯定し、そのうえで神に縋る。 そこに見られるのは、罪を裁く強きものとしての神ではなく、人の弱さを全肯定し弱きものを弱いまま導いていこうとする、良き羊飼いとしての神なのだ。 他のコラールやアリアでも一貫してそのようなスタンスが取られ、録音の良さも相俟って、女声合唱においては天使たちが喜びながら乱舞するような、不思議な、ただただひたすら美しい音楽世界が展開されていく。 そう、この演奏はただただ美しい。 人によってはこんなにも美しいバッハはバッハではないというかもしれないが、言いたければ言わせておけば良い。 ここまで美しければ、バッハらしくないなどと訳の分らない難癖しか付けようがないのだから。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。
2人の方が、このレビューに「共感」しています。 2010/08/01
若いミュージシャンのジャズ・アルバムを聴く楽しみの一つに、過去のジャズ・ジャイアントたちが遺した名曲群、いわゆるスタンダードをどう料理するかという点がある。 過去の偉人たちの作風や芸風の演奏を強く受けすぎてしまうと、ミュージシャンの個性が出ていないと評されることになり、かと言ってあまりに奇を衒い過ぎると、もはや原曲すら分らなくなってしまい、いったい何のためにカバーをしたのかが分からなくなってしまう。 しかし、録音当時27歳の若者は、そのようなジレンマをいとも容易く飛び越えてしまった。 バド・パウエル、デクスター・ゴードン、キャノンボール・アダレイにベニー・ゴルソンといったビバップ/ファンキー系のジャズ・ジャイアントたちの名曲を、この若者は何の衒いもなく、まるで自らの楽曲のように演奏する。 そこには、何らの恣意性も無ければ、楽曲を材料にして自分を売り込もうなどという浅ましさも無い。 ダン・ニマーは、ただただひたすら、楽しんで楽しんでピアノを演奏する。 そして、そんな彼のピアノを聴いている我々も、自然に身体がスイングしてくる。 そのようなジャズ本来の楽しみ、否、音楽の持つ最も本質的な楽しみを味合わせてくれる1枚である。 ダン・ニマーは、ウィントン・ケリーに私淑しているという。 そんな彼の弾くピアノも、やはりウィントン同様、ファンキーでスインギーだ。 そして、ダン・ニマーは、現代という時代が求める洗練さをも身につけている。 ファンキーという一種の泥臭さと現代風の洗練さが高い次元で止揚している、それこそがダン・ニマーというピアニストを他のピアニストと隔絶させているものだと考える。 ともあれ、一度、試聴で聴いて欲しい。 ジャズの初心者の方々にとってのピアノ・トリオ入門盤としても推薦できるし、ジャズを聴き込んできたすれっからしのジャズ・ファンの方々に対しても、スタンダードを当たり前のように演奏しているのに、尚、改めて曲の素晴しさを感じさせてくれる1枚になっているのだから。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。 2009/06/28
ガット弦仕様のチェロを用いて、イッサーリスが現存するフォレの全てのチェロ用の楽曲を録音したお買い得な一枚。 2曲のチェロ・ソナタや有名な『エレジー』や『シシリエンヌ』はもちろん、『ロマンス』や『セレナード』、『蝶々』のような小品にいたるまで、考え抜かれそして慈しむように演奏されている。 録音も、英国ウィンザーのイートン校教会の残響が程よく残されており、聴いている者を至福の時に誘ってくれる。 良い録音でフォレのチェロ楽曲を聴きたい方にとっては、必携の一枚である。
1人の方が、このレビューに「共感」しています。
元イ・ムジチのコンサート・ミストレスだったピーナ・カルミレッリ率いるローマ・フォーレ四重奏団の演奏。 フランス的というよりはイタリア的な開放的な弦が、第1番の曲想に上手くマッチしている。 私個人としては、第3楽章冒頭のピアノがほんの僅かだけポルタメントヲかけるのが若干気になるが、初めて聴く方にとっては全く気にならないだろう。 第2番の演奏では、とかく渋くなりがちなこの曲を、深刻ではあるが渋くなることはなく演奏している。 ことに、第3楽章の静謐さと優美さは、この曲の演奏のある種の極北を示しているといっても過言ではない。 フォレのピアノ五重奏曲をデジタル録音で聴きたいのなら、この一枚は必聴盤であるといえる。
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