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「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」

2007年11月6日 (火)

連載 許光俊の言いたい放題 第128回

「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」

 もっとも悲劇的な、苦渋に満ちた交響曲を書いた人は誰か? 耳が聞こえず孤独に悩んだベートーヴェンだろうか。ペシミストだったチャイコフスキーか。それとも、妻のことで悩んだマーラーか。死の不安に怯えていたショスタコーヴィチか。あるいは・・・。
 もちろん世界中に存在するすべての交響曲を聴いたわけではないが、知っている範囲でよいというなら、私の答は決まっている。佐村河内守(さむらごうち まもる)の交響曲第1番である。
 ブルックナーやマーラーにも負けない楽器編成と長さの大曲だが、その大部分は、終わりのない、出口の見えない苦しみのトンネルに投げ込まれたかのような気持にさせる音楽だ。聴く者を押しつぶすかのようなあまりにも暴力的な音楽が延々と続く。これに比べれば、ショスタコーヴィチですら軽く感じられるかもしれないというほどだ。
 ようやく最後のほうになって、苦しみからの解放という感じで、明るく転じる。が、その明るさは、勝利とか克服といったものではない。思いがけないことに、子供の微笑のような音楽なのだ。
 いったい、こんなにも深刻な曲を書いた佐村河内とはどういう作曲家か。彼は1963年広島に生まれている。早くから作曲家を志したが、楽壇のややこしい人間関係などに巻き込まれることをよしとせず、独学の道を選んだ。それゆえ、なかなか仕事に恵まれなかったが、ある時期から映画、テレビ、ゲームなどの音楽を書いて徐々に知られるようになってきた。なんと、一時はロックバンドで売り出されそうになったというから、一風変わった経歴と言えるだろう。
 妙な人間関係を嫌うことからもわかるように、佐村河内はまれに見る潔癖な人間のようだ。自分が本当に書きたい曲だけを書きたいと、あえて実入りのよい仕事を断り、厳しい日雇いの仕事をして生計を立てていたこともあるし、住む場所もなくホームレス状態になっていたときすらあるという。
 実は、彼は非常に大きな肉体的なハンディキャップを抱えている。なんと、あるときから完全に耳が聞こえないのだ。それどころか、ひどい耳鳴りで死ぬような思いをしているのだ。しかし、彼はそれを人に言わないようにしてきた。知られるのも嫌がった。障害者手帳の給付も拒んできた。自分の音楽を同情抜きで聴いてもらいたいと考えていたからだ。
 彼のところにはテレビ番組を作らないかという話が何度も舞い込んだという。確かに、耳が聞こえない障害者が音楽に打ち込むなんて、いかにもテレビが好みそうな話だ。だが、佐村河内は障害を利用して有名になることを拒んだ。テレビ局からは「せっかく有名になるチャンスなのに、バカじゃないか」と言われたという。
 有名になる、ならないは問題ではない。それより、自分は作曲に打ち込みたいだけだというのが彼が言い分だ。金があり余っているバブル時代じゃあるまいし、今どき誰が1時間以上かかる、しかもとてつもなく暗い大交響曲を演奏してくれるだろう。そんなことはわかっている。だが、彼は、演奏されやすい短い曲を書くつもりもないようだ。マーラーは「いつか自分の時代がやって来る」と言ったが、佐村河内も生きている間に成功しようなどとは考えていない。こんなにも潔癖で頑固な人間は、世の中にほとんどいないだろう。
 その佐村河内が、自分の半生を綴った本を講談社から出した。その内容は、恐るべきものだ。私は一気に読み終えたが、途中何度も暗然としてページを閉じたくなった。生きているだけでも不思議なくらいの悲惨な状況に彼はいる。なのに、ものすごい執念で作曲を続けているのだ。本に記されたその様子を読んで鳥肌が立たない者はいないだろう。そして、無理のあまり、彼の指は動かなくなり、ピアノは弾けなくなり・・・というぐあいに肉体はますます蝕まれていくのだ。ここで詳述はしないが、安易な同情など寄せ付けないほど厳しい人生である。
 確かに彼には、有名になってチャラチャラしている暇などない。生きているうちに、書けるうちに、書くべきものを書くしかないのだ。実は佐村河内の両親は広島で被爆している。それが彼の健康にも影響しているのか。明言はされていないが、可能性は高いだろう。
 彼は言う、音楽以外はどうでもいい、すべていらない、と。これはきれいごとでも、格好をつけて言う台詞でもない。本当にそうなのだ。旅行したり、おいしい食べ物を食べたり等々といったことをする肉体的な余裕は彼にはない。毎日が、それどころか一瞬一瞬が、死や発狂との戦いなのだ。これは人生というより地獄と呼ぶべきではないのか。
 現代が、ベートーヴェンやブルックナーのような交響曲を書けない時代であることは間違いない。人々はあまりにも物質的に豊かになり、刹那的な快楽で満足している。日本の若者を見てみればわかる。夢も希望もないのだ。いや、必要ないのだ。救いを探し求める気持などないのだ。日々を適当におもしろおかしく生きて行ければいいだけだ。だが、佐村河内は違う。彼は地獄の中にいる。だから、交響曲が必要なのだ。クラシックが必要なのだ。
 演奏が困難な交響曲第1番。それが書名になっていることからも、この曲が作曲者にとってどれほど大事かがよくわかる。まさに命がけで書かれたのである。この大曲は、まだどこでも演奏されていない。演奏される見込みもない。だが、私はいつか実際にホールで聴いてみたい。まことに痛ましいことに、たとえ作曲者の生前にそれが実現したとしても、彼は自分の耳で聴くことができないのだが・・・。
 佐村河内の曲は、いくつかCDで聴くこともできる。しかし、交響曲第1番は、それらとはとても比較にならない密度と規模の作品なので、あまり参考にはならない。
 もしあなたがこの本を読んでこの曲が聴いてみたいと思うなら、そしてそういう人が増えれば、もしかしたら演奏が実現するのかもしれない。私としてはただそれを願うのみである。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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