名医、名指揮者、名ピアニスト

2024年05月10日 (金) 16:30 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第312回

 先月のある日、定期的に通院している下北沢の皮膚科に行ってみると、なんだか雰囲気がおかしい。尋ねると、名医と謳われたU院長が亡くなったとのことだった。まさに言葉を失った。
 U先生は、皮膚科の名医といったリストが本や雑誌に載ると、そこに名前が挙がる常連だった。私も、よいと言われる病院数か所に行ってみたあげく、結局は長いことU先生のお世話になってきた。確かに名医だった。
名医とは何か? 凡人が思いつかないような特別な治療法を用いる人なのか? そういう名医も存在するのかもしれない。が、U先生はそれとはまったく逆だった。
 「奇跡のような治療法なんて、ありません。身体がこうなるのは、結局はDNAのせいですから、どうしようもありません。病気とどうつきあっていくか、です」と言った。もし軽薄な医者がへらへらしながらこんなことを言ったら、「この野郎」と思うだろう。だが、U先生は厳粛で真摯だった。すなおに、その言葉を信じさせる力があった。今思い出すと、その声は名歌手のゲルハーヘルに似ていた。やわらかくて落ち着いた声質。それもまた説得力や安心感に結びついていた。
 今どき、治療法だの薬だのは、インターネットで検索してみれば、素人でも見つけることができる。だが、見つからないのは、経験によってのみ得られる判断だ。そして、その判断を信じさせる説得力だ。この症状ならこの薬を3日使ってみよう。これは強いから3日しか使いたくない。うまくいけば、こうなるはずだ。だからその段階でまた来なさい。そこで見てみて、また次の薬を決めよう。こう書いてしまえば、当たり前すぎるくらい当たり前のことのように思える。が、これができる医者はなかなかいない。しかも、その話し方に説得力があるから、患者もそうしなければならないという気になる。これを塗ってね、また3日後来てね、それぽっちを言われても、患者の心には響かない。なぜそうなのか、無駄かもしれないことまでも丁寧に説明する。愚直、この言葉を私は何度思い出したか。
 おそらく似たような症状の患者が1日に10人も20人も来たはずだ。そのひとりひとりに丁寧に説明を繰り返す。なんという我慢強さ。U先生は、ある医大の皮膚科部長をしていたそうだが、おそらくそこでもこうやって教えていたのであろう。私も教員をやっているが、とても同じことはできない。ものわかりが悪い学生が1人いると、それだけで嫌になってしまう。ところがU先生は、いよいよ死の床につくまで、午前と午後数時間ずつ、小さな病院の椅子に腰かけて、それを続けていたのだ。
 たまたまだが、そしてこんなことになろうとは思ってもいなかったが、U先生がもはや診察できなくなる数日前に見ていただいた。いつも混んでいる病院が、その日はなぜかすいていた。先生は、いつも紙のカルテに小さな字でびっしり、症状や薬を書き込んでいく。「先生はまだ紙のカルテをお使いなのですね」と言ったら、「役所は電子カルテを推奨しているけど、結局これが一番なんですよ、停電があっても大丈夫だしね」という返事が返ってきた。いつも忙しいので、関係ないことはできるだけ言わないようにしていたが、ごくたまに短い会話をした。いつか、「先生がほかの患者に説明しているのを聞くと、おもしろいし、ためになりますよ」と言ったら、相好を崩した。帯状疱疹ができたときには、「実は私はこれが専門でね、これから痛くなりますよ」とちょっとニヤニヤしながら脅された。結局、まったく苦しむことなくあっさり治った。
 いちいち言葉では言いませんでしたが、尊敬申し上げていました。もしかして癌なのだろうかとも思いましたが、遠慮して何も言いませんでした。心からの哀悼の意を表します。


 U先生が亡くなったと知った前後に、ムーティの「アイーダ」公演があった。毎春恒例の東京・春・音楽祭である。
まったく驚くしかないような「アイーダ」を聴かせてもらった。ひとことで言えば、宗教曲のような「アイーダ」だったのである。西洋音楽史がグレゴリオ聖歌、宗教音楽、オペラと続いてきたことを示す、そんな「アイーダ」、聴いたことがない。空前だろう。そして、私が生きている間に、これほどユニークで、これほどの高みに達した「アイーダ」を聴くことはないだろうから、私にとっては絶後になるだろう。圧倒的な透明感。
 オーケストラの編成は、通常のオペラハウスのピットより大きい。だが、いっさいがならせない。うるさくない。きれいな音しか出さない。超弱音も出さない。つまり、強弱の幅は案外狭い。その中に表現が詰まっている。大きな塊の肉の、一番おいしいところだけ切り取って食べるような贅沢、余裕。
 「アイーダ」には、ところどころ、正直言って、どうでもいいような踊りの音楽がはさまれている。そんな個所、家でCDを聴いていたら、飛ばしますよ。ところが、そんなところまで美しいのである。踊りの音楽だとか無関係に、純粋に音楽の美として成立している。
 あおりは一切ない。例のアイーダ・トランペットにしても、刺激的なところは皆無。歌手たちの演技が控えめだったのも、ムーティの指示によるのだろうか。それもまた宗教音楽のような趣を強めた。そして、このオペラは最後、アムネリスの「パーチェ」という歌詞に集約されていくのである。これはヴェルディが書いた「マタイ受難曲」あるいは「ロ短調ミサ」なのか。
 聴きながら、私はU先生を思い浮かべた。ムーティの指揮棒が上がったとたんに、歌手もオーケストラも合唱もすべてがこのように荘厳に鳴り出したわけがない。ムーティが自ら感じたこと、そして重ねてきた膨大な経験から得られたひとつひとつの具体的で小さなことの集積が、この頭を垂れるしかないような「アイーダ」に至ったのだろう。
 そして、名指揮者とは、天才的で斬新な解釈を思いつくだけでなく、演奏本番までの地道な一歩一歩を怠らずに続けていく持続力を持つ人に違いない。それは本番ステージの華やかなスポットライトに照らされれば見えなくなってしまうのだけれど。


 しかしあるいは、名ピアニストは名医、名指揮者といささか異なるかもしれない。特にもはや太古の名ピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプなどは。
 大ぶりのセットが出たので解説書を見たら、なんと共演はレーグナーではないか。ケンプも嫌いではないが、レーグナー伴奏とあれば、すぐにでも聴かなければならない。
 若い人がこのセットを聴いたら、ぶっ飛びますよ。だって、ケンプのたどたどしいこと。60代から70代にかけての記録。今より寿命が短い時代だったことは配慮しよう。
 現代の若い愛好家にはもはや理解できまいが、もしユジャ・ワンがフルトヴェングラーやワルターの前で弾いたら、あの指揮者たちは、これこそ現代ならではの悪しき機械的演奏と激怒したはず。19世紀生まれの演奏家は、譜面に記された音符をみんなはっきり音にすればいいだなんて微塵も思わなかった。そういう時代背景があったからこそのトスカニーニであり、クレンペラーであり、さらには後年のチェリビダッケなんですね。
 19世紀生まれの特にドイツの演奏家にとって、全体の雰囲気とか、作曲家・演奏家の個性、独自性のほうがはるかに大事だった。音はしょせん鳴ればすぐに消える儚いものである。その音でもって何を示そうとしているのか、それが重要だった。他人と話す時、相手の話の一語一句に過剰にこだわってもだめでしょう。全体の調子で内容を判断するでしょう。「それはぜひやらせていただきます」なんて言っているが、実はあまりやる気はないだろうと思ったりするでしょう。
 それに、即興性が大事にされた。即興性を重んじる演奏家は、練習しすぎないようにした。ケンプは特に即興性を特徴とするピアニストとされた。これに比べれば明らかに上手なルービンシュタインなどアメリカ人好みの芸人とまで言われたものである。


 モーツァルトのピアノ協奏曲第27番は、実にやわらかいオーケストラで始まる。少しばかりゆっくりめ。いいなあ、こういう響き。第2楽章ではピアノと木管楽器がすてきなやりとり。楽器たちが「それではさようなら」という感じの終わり方。この作品は、実は最晩年作ではないのだが、そう信じられてきた。確かにそう信じさせる何かがあるのである。
 フィナーレも軽快ぶらない。だから、主題を弾くピアノがしみじみ美しい。左手がしっかりしていて、これはモーツァルト時代の鍵盤楽器のイメージとは大いに異なるだろうが、これはこれでひとつの美として完成されている。
 30分の曲ではあるが、何か豊かなものを聴いたという後味が尾を引く。

 で、続いて入っているのが、ブラームスの協奏曲第1番。いきなりこれぞドイツという音がするのにガツーンとやられる。チェロはもとより、ヴァイオリンだって、腰で弾く楽器でしょ、と言わんばかり。ベロベロベロベロと迫力あるトリル。それがあるから、ロマンティックで味の濃い弦の歌がいっそう映えるわけだ。その歌い方も、彼方に目を向けるかのような雄大さ。深い呼吸で重なってくる。ふうっと息を吸い込んで、ガーンと音を出すような。今はベルリン・フィルでもこんなやり方はしなくなった。
 あ、そうだ、これは協奏曲だった、とピアノが弾きだして思い出す。ポリーニのあとで一気にピアニストに求められる技量のハードルが上がった。しかし、ケンプは、全体としてのイメージが伝わればいいというピアノである。ミスタッチがあっても、ここは音が重なっていて分厚いとか、ここはどんどん熱気が高まっていくとか、そういう大筋、おおまかなとらえ方が伝わればいいのだ(逆に、聴く者は、ミスタッチや不具合など気にせずに、本質を聴き取らなければならない)。言い換えるとまずは骨太の骨格。そこに瞬間的な即興の妙味が加わる。現代では死滅したスタイルだ。すべての音を間違いなく、はっきりと弾かないとコンクールに受からないのだから。
 ベートーヴェンの協奏曲はそれよりはもっと普通っぽく聞こえるかもしれない。第3番などピアノもオーケストラも実に堂々とした鳴りっぷり、弾きっぷりで、いかにもドイツ音楽という感じがする。もしかしたら古楽演奏に耳が慣れたせいで、かえってこういうものが貴重でありがたく感じられるのかもしれない。
 第2楽章は当たり前にインティメートであたたかな雰囲気が漂う。「あたたかな」なんて、現代の演奏については言わないでしょ? かつてはよく使われたものですよ、つまりこれもまた音楽の魅力のひとつなんですよ。そして気づくのである。あれ、昔の東ドイツのオケはこういう音楽をやっていた? 今はドイツのオーケストラのほとんどみんながはるかに冷たい。あたたかさというのは、楽員に自発性や余裕がないと生まれない。
 フィナーレが指の運動になっていないのもいい。現代の若手のようなむだのないスムーズさは望めないが、微妙なニュアンスに富んでいる点でははるかに上だ。特にしゃれた歌い回しがいい。オケがそれにちゃんと応えるのもいい。これが協奏曲ですよ。

 いちいち説明していくときりがないので、あとひとつだけ。ベートーヴェンの最後のソナタ。まったく枯れていない。リストのソナタみたいな妖気がする第1楽章。だからこその浄化のフィナーレと納得させる。
 いやもうひとつ、バガテルでは幻想性が際立つ。味がある。
 そして、ケンプを聴くと、ピリスや内田光子が、オーソドックスなベートーヴェンを努力の末に、つまり自明のものとしてではなく再構築としてやっているのだということがはっきり理解できる。
 昔の東ドイツの録音だから音質には期待していなかったが、いやいやどうして、特にレーグナーとの共演はいい音だ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)


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