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ピーター・バラカン インタビュー

ROLLING STONES STORE

Sunday, May 9th 2010

interview
ピーター・バラカン インタビュー


 ローリング・ストーンズ『メインストリートのならず者』デラックス・エディションの発売を記念しておくる、HMVスペシャル・インタビュー企画。題して「メインストリートのならず者、もしくは、ローリング・ストーンズをはてしなく語る夕べ」

 第2回目のゲストは、テレビ、ラジオをはじめとする様々なメディアを通じて、博識ある独自の音楽紹介を展開されているブロードキャスターのピーター・バラカンさん。2009年9月の「ビートルズ・リマスター盤発売企画」に続きましてのご登場です。

 1962年、ビートルズのセンセーショナルなデビューを体感したことにより本格的に音楽の世界に開眼。学生時代にはすでに、ブルーズ、リズム・アンド・ブルーズ、ニューオーリンズといったアメリカのルーツ・ミュージックに魅せられていたというバラカンさんに、この『メインストリートのならず者』はどのように響いていたのでしょうか? 60年代末から70年代初頭のイギリスの社会背景などを交えながら、当時のローリング・ストーンズ、さらにはバラカンさんご自身と、魅惑のアメリカン・ルーツ・ミュージックとの”蜜月”をお話いただきました。


インタビュー/構成: 小浜文晶  



--- ピーター・バラカンさんは、昨年の「ビートルズ・リマスター盤発売企画」に引き続きましてのご登場となります。まずは、全11曲の未発表サイド(Disc-2)をお聴きになったご感想からお伺いしたいのですが、率直にいかがでしたか?

 うん、すごくいいですね。完全な初登場と言えるようなものは5、6曲ぐらいになるのかな? 残りはすでに本編にある曲の別テイクだったり、「Tumbling Dice」に関しては、まだ制作過程の段階の “アーリー・ヴァージョン” だったりと。これはほとんど別曲みたいな感じですが。シングルになっている「Plundered My Soul」や「Pass The Wine」もいい。この辺りは、元々のアルバムに入っていてもおかしくないぐらい完成度の高い曲だと思います。「タイトル 5」というインスト曲なんかにしても、これまでのストーンズにないタイプの曲だから、とても興味深いですね。

--- 現時点で詳細なクレジットなどは判らないのですが、「タイトル 5」に関しては、ブルース・ブレイカーズっぽい感じも少しあるので、ひょっとしたらミック・テイラーが大きく関わっているのかなと。

 ミック・テイラー色が少し出ている感じはあるかもしれませんね。この時期のストーンズのメンバーにミック・テイラーがいたってことは、あまり重要視されていない気もするんですが・・・『メインストリートのならず者』では、かなりいい味わいを出していますよね。 結局は、『Let It Bleed』から『It's Only Rock n' Roll』までの5年ぐらいの期間しか在籍していなかったわけだけど。

--- ミック・テイラーは昨年来日公演も行っていましたよね。

 今は南米あたりをツアーで回っているみたいですけどね。

--- さて、そのミック・テイラーは本編の「Ventilator Blues」で、ストーンズ在籍時唯一となる“作曲クレジット”を勝ち取ってもいます。ですが、この時期のストーンズのレコーディングやツアーのスケジュールは相当にタイトでハードだったらしく、バンドにのめり込んでいた代償としてミック・テイラーの家庭は崩壊寸前だったという記述録もあるんですよね・・・

 まぁ、このアルバムに限っては、録音のやり方が極めて異例だったということもありますからね。

 まず背景としては、当時のイギリスが労働党政権で、所得税がものすごく上がっていた時代だったんですよ。ストーンズのような稼ぎをしていると、たしか収入の90%以上を税金で持っていかれてしまう。ストーンズは自分たちの確定申告を自らでやっているわけがないから。マネジメント・サイドにそういったことを全て任せているんだけれど、ある時気が付いたらきちんと税金の処理がされていなくて、払わなければいけない税金が「もうない」と(笑)。それで、イギリス国内にはいられず、このアルバムのタイトルにもなっているとおり、「Exile」、つまり”亡命”しなくてはならない状況になって、仕方なくフランスに渡ったんです。

 フランスに移住することに対しては、ミックやキースはまだわりと積極的だったらしいんですが、チャーリー・ワッツなんかは根っからのロンドンっ子だしフランス語も全くできないということもあって、かなり渋々だったところもあったそうなんです。でもまぁ、結局はメンバーみんなで南フランスに行って、(註)ネルコットというキースのでかい家をレコーディング・スタジオに使うわけなんですよね。


  (註)ヴィルフランシュ=シュル=メールのヴィッラ・ネルコット・・・当時からクルージングなどでも有名であった、南フランスの海岸地域コート・ダジュールにある小さな港町ヴィルフランシュ=シュル=メール。ニース、モナコ、カンヌといった主要都市に隣接する、いわゆる”セレブ層”に愛され続けている高級リゾート地(保養地)でもあり、作家のジャン・コクトー、キャサリン・マンスフィールド、R&B歌手のティナ・ターナーらが豪邸を構えていた。キース一家の住むヴィッラ・ネルコット邸も例に違わぬ大豪邸で、ピーター・バラカンさん曰く元々はイギリス海軍の提督が所有していたものだという。また、ドキュメンタリー映画『Stones In Exile』では、ミックとチャーリーが当時のことを回想するために現在のネルコットを訪れているシーンもあるので、”詳しい地下室の間取り”などはそちらでご確認していただければと思う。ちなみにミックは、画家のパブロ・ピカソが晩年を過ごしたことでも知られる同じくコート・ダジュールのムージン、ビル・ワイマンは、ラ・パスティデ・サン・アントワーヌ、チャーリ・ワッツは栗の特産地としても有名な中央部セヴェンヌの農場、ミック・テイラーは南東部の都市グラースにそれぞれ住居を構えていた。


--- キースのネルコット邸があった地域というのは、いわゆる富裕層の避暑地みたいなところだったのでしょうか?

 南フランスのあの海岸周辺には大邸宅がいっぱいあって、昔からイギリス人が好んで別荘を構えていたりしてたんです。キースの借りた家は、元々海軍の提督かなんかが持っていた家らしいですし。それで、他のメンバーも各々に家を借りたんだけれど、いちばん遠くてキースの家から車で4、5時間かかるところに家を借りた人もいたから、毎日毎日決まった時間にレコーディングしていたわけじゃない。本当はちゃんとしたレコーディング・スタジオでやろうとしていたらしいんですが、当時南フランスにこれといったスタジオがなかったから。でも、ちょうどストーンズは(註)モーバイル・レコーディング・ユニットを所有していたので、じゃあそれをキースの家に持ち込んでレコーディングしようと。


  (註)モーバイル・レコーディング・ユニット・・・メンバーたちが録音場所を自由に選べ新鮮な気持ちでレコーディングできるように、大型トレーラーに録音機材を装備し改造した移動式の録音スタジオ。スタジオ内部には、16チャンネル・マルチトラック・レコーダー、録音現場の様子を映すビデオ・モニターなどが装備されている。ストーンズは『Sticky Fingers』、『メインストリートのならず者』の制作時にこのユニットを使用している。また、レッド・ツェッペリン『V』、『W』、ディープ・パープル『Machine Head』、『紫の肖像』、『Burn』などの録音にも貸し出され使用されている。


 キースの家の地下はすごく広かったんですが、必ずしも録音に適していたというわけではなく、いくつかある部屋を、ミックの録音ブース、キースのブース、ボビーとジムのホーン隊のブースだとかに振り分けて録音していたらしいんです。ビル・ワイマンがベースを実際に弾いている部屋とベース・アンプが置いてある部屋が別だったりとか(笑)、エンジニアのアンディ・ジョンズの顔が見られないとか、相当厳しい環境の中で録音していたようなんですけどね(笑)。

 またキース自身が住んでいる家でもあるから、キースが煮詰まったり気が向かなかったりしたら、自分のベッド・ルームから出てこないこともたまにあって。他のメンバーが数時間かけてキースの家に集まってくるのに、キース本人の姿はないという(笑)。 


--- (笑)。キースは息子のマーロンくんの子守などもあって、レコーディングの席を外すこともしばしばだったそうですね。その間他のメンバーは夜のニースの街に繰り出したりとか、だいぶ羽を伸ばしていたらしいですけど。

 そうそう。だから仕事にならないこともかなりあったらしいから、結局半年ぐらいネルコットで ”やったり” ”やらなかったり”を繰り返していたらしいんですね。


--- 地下室は、クーラーもなく相当蒸し暑かったという・・・

 窓もないしね。録音しているとどんどん室温が上昇して、結露が壁を流れることもあって(笑)、かなりキツかったらしいです。

--- その暑さもあって、このアルバムではギターのチューニングが甘いという一説もあるのですが。

 でも、彼らにとってはそんなにめずらしいことじゃないですよ(笑)。僕が中学生のときに初めてストーンズのライヴを観て思ったのが、「ギターのチューニングがなってない」ってことだったから(笑)。64、5年の話ですね。


--- たしかバラカンさんは、69年の(註)ハイドパーク・フリーコンサートもご覧になられているんですよね?

 そう。ミック・テイラーの初登場。ホントに豆粒ぐらいの大きさで(笑)。あれはコンサートを観たっていうよりは、お祭りに参加したっていう感じですね。


  (註)ハイドパーク・フリーコンサート・・・もとはブライアン・ジョーンズ脱退後の後釜としてストーンズに入ったギタリスト、ミック・テイラーのお披露目コンサートとして、1969年7月5日にロンドンのハイドパークで予定されていたフリーコンサート。開催の2日前となる7月3日にブライアンが自宅のプールで死亡しているのが発見され、急遽追悼コンサートという銘を打ち、25万人以上の観客が押し寄せた。冒頭、ミック・ジャガーはイギリスの詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの「Adonais」を朗読。また、ブライアンが好きだったというジョニー・ウィンターの「I'm Yours And I'm Hers」を演奏して彼の魂に捧げた。後に『メインストリートのならず者』に収録されることとなる「Loving Cup」もここで初披露されている。ちなみに前座はデビュー直前のキング・クリムゾン。


--- 初めてご覧になったストーンズのライヴは64、5年とおっしゃっていましたが、やはりビートルズ同様 “黄色い声援” に演奏をかき消されてしまう感じだったのでしょうか?

 まぁ・・・そうですね。でも、1階の前の方の席でステージからかなり近かったので、演奏自体はよく聴こえたんですよ。当時PA設備はないですから、生音がアンプから聴こえるぐらいの距離でしたね。

--- ライヴに関するところでは、昨年リリースされた『Get Yer Ya-Ya’s Out』デラックス・エディションのDVDはいかがでしたか? 「Prodigal Son」、「You Gotta Move」をミックとキースで演奏するというライヴ映像も収録されていますが。

 やっぱりギターのチューニングがちょっとね(笑)。でも、『Get Yer Ya-Ya’s Out』自体は素晴らしいアルバムだと思います。69年当時としては、ここまでのライヴ・アルバムはそうめったにはなかった。まだライヴ・アルバムがそんなに作られていなかった時代でもあるから。ストーンズはもっと前に『Got Live If You Want It!』というアルバムを出してはいますけど、あれは擬似ライヴみたいなものですからね。

--- 69年辺りは、ロック・コンサートの規模自体がエンターテインメントとしてどんどん肥大化していった時期ですよね。

 コンサートの形態が多様になった時代かな。最初は2000人、3000人を収容する劇場型のコンサートが主流だったんだけど、60年代の後半から大学の講堂みたいなところで開催するようにもなったんですよ。ロンドンの(註)ラウンドハウスなんかも有名。小さいところでは、パブの2階にあるちょっとしたホールでやったりとか。あとは、フェスティバルも68、9年頃から始まりますよね。ストーンズで言えば、ハイドパークもそうだし、ウッドストックの4ヵ月後に行ったオルタモントもそう。そういう意味ではすごく自由になった時代ですよね。


  (註)ロンドン・ラウンドハウス・・・元々は鉄道車両の向きを変える転車台を備えた建物として1846年にロンドンに建設され、第2次大戦前までは倉庫などとしても使われていたが、60年代以降、アート、音楽、演劇をはじめとした様々な用途で使われる多目的ホールとして改築された。ロック・アーティストの公演としては、古くはドアーズ、ジミ・ヘンドリックス、ローリング・ストーンズ、ジェフ・ベック、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイドなどのパフォーマンスが有名。最近ではボブ・ディラン(2009年)の公演も行われた。 


--- では、『メインストリートのならず者』本編を72年の発売当時に聴いた最初の印象というのはいかがだったのでしょうか?

 僕は最初から大好きだったんですよ。聴いた瞬間、ストーンズの中でもいちばん好きなレコードになりましたね。

 今回この再発盤のCDに併せて、ドキュメンタリー映画『Stones In Exile』のDVDも制作されていまして、それを観せていただいたんです。ストーンズ本人たちのインタヴューに加えて、ジャック・ワイト(ワイト・ストライプス)やシェリル・クロウ、それから、CDの未発表サイドの共同プロデューサーを務めた(註)ドン・ウォズといった人たちのインタヴューも入っているんですが、色んな人たちの証言を聞いてると、 『メインストリートのならず者』の発売当初は、みんな「判らない」とか「暗い」とか、音楽雑誌のレコード評もあまりよくなかったとか、そういう話がどんどん出てくるから、僕は「え!? そうだったっけ?」って、ちょっと不思議な感じがしたんですが・・・とにかく僕は大好きだったんですよ。


Don Was   (註)ドン・ウォズ・・・本名ドナルド・フェイグソン。80年代には、いとこのデヴィッド・ウェイスと結成したデトロイトのファンキー・バンド、ウォズ・ノット・ウォズで斬新でカラフルなダンス・サウンドを生み出し一世を風靡した。そのカラフルぶりは、ウェイン・クレーマー(MC5)、メル・トーメ、レナード・コーエン、ミッチ・ライダー、オジー・オズボーン、ハービー・ハンコック、マール・ハガード、シーラ・E らとの共演歴にも顕著。「12インチ・リミックス」の制作に積極的だったダンス・パイオニア的な側面の一方で、プロデュース作では、主役のカラーを重んじるかなり職人気質な役回りに徹する。ボニー・レイット『Nick of Time』にしろ、ボブ・ディラン『Under The Red Sky』にしろ、ストーンズ『Voodoo Lounge』にしろ、主役たちのコンセプトを十分理解しながらシンプルで理にかなった方法論でサポートし、全体を巧くまとめ上げている。


 「判らない」という人がいたとすれば、アメリカの色んなルーツ・ミュージックの要素が入っているからなのかもしれない。というのは、ストーンズには元々ブルーズやリズム・アンド・ブルーズの要素はあるんだけれど、このアルバムではわりとバック・ヴォーカルの使い方などにゴスペル色が強く出ていたり、あとは「Sweet Virginia」、「Torn And Frayed」などでカントリーの要素を含んでいたり、そしてそれらが全部混ざっている感じになっていて、しかも72年というのは、いわゆるアメリカの「ルーツ・ミュージック」という呼び方はまだなかった時代だったから。ブラック・ミュージックが好きな人はカントリーをあまり聴かない、とか。その逆も然りで。どちらかといえば僕も、ブルーズやソウルが好きでもカントリーはまだあまり好きじゃなかったかな。でも、ストーンズのやり方だと、全く抵抗はなかったし、彼らはわりと初期から”カントリーっぽい"曲を取り上げることもあったから。(註)レイ・チャールズのヴァージョンを下敷きにしてはいるんだけど、「I'm Moving On」とかね。原曲は(註)ハンク・スノウのカントリー。

 あと、(註)ソロモン・バークの曲なんかも初期に取り上げているんですが、ソロモン・バークもけっこうカントリーの影響も受けているR&B歌手なんですよね。ストーンズはそういったところをずっと聴いているわけだから、このアルバムが出てもそんなにびっくりするということは僕の中にはなかったんですよね。

 映画の中でドン・ウォズは、このアルバムが持っている”危険な雰囲気”を語っているんですよ。たしかにそうした不穏な空気も所々で感じられるんですが・・・ただ、『Beggars Banquet』、『Let It Bleed』、『Sticky Fingers』と聴いてくると、いきなりその辺とは全く別の世界ということではないから。


(註) 文中に登場するリズム・アンド・ブルーズ、カントリーのアルバム

Best Of All American Country Very Best Of Nothing's Impossible
Ray Charles
『Best Of』
Hank Snow
『All American Country』
Solomon Burke
『Very Best Of』
Solomon Burke
『Nothing's Impossible』

--- その3枚と較べても、ドン・ウォズが言うように『メインストリートのならず者』からはどこか危ない香りが匂い立っていると、僕も個人的には感じています。

 まぁ、その中でも『メインストリートのならず者』が独特の雰囲気を持っているのはたしかですね。録音の仕方にももちろん関係しているでしょうし、あと何と言ってもいちばんびっくりしたのは、アートワークですよ。

--- (註)ロバート・フランクによる写真をコラージュしたジャケットですね。

 当時はロバート・フランクを知らなかったんだけど、たまたま去年、『The Americans』という彼の写真集が久々に再出版されて、それを見ていたときに、例えばこの(註)ジュークボックスを聴いている人の写真(イナースリーヴ)なんかが載ってて、「あぁ、これだったのか」って。あとは、こういったフリークの写真もすごく奇妙でおもしろい。『Stones In Exile』では、リズ・フェアが「ストーンズは自分たちのことをフリークと感じていたんじゃないか?」って言ってましたよ。彼女の生涯最も好きなレコードが『メインストリートのならず者』らしいんですよね。


ロバート・フランク「The Americans」   (註)ロバート・フランク「The Americans」・・・現代写真のルーツとして高く評価されているロバート・フランクの写真集。1955年から1956年にかけてグッゲンハイム財団の奨学金を得てアメリカ各地約30州を旅行。そのときフィルム767本を使用し撮影された市民の現実の生活が収録されている。撮影イメージは約27,000点、ワークプリントは約1000枚プリントされ、フランクはその編集、セレクション、配列に約1年をかけ、その中の83作品がまとめられ、「Les Americans」として1958年パリのデルピル社から刊行された(アメリカは翌年)。スイス・チューリッヒからの移民者の目線で、ありのままの現実のアメリカを撮影した一連のイメージは、「黄金の50年代」を自負していたアメリカ人が抱く母国のイメージとかけ離れており、発表時は“反アメリカ的”と酷評された。当時フォト・ジャーナリスト的写真が主流だった中で、個人の主観的な視点で表現したフランクの写真は画期的でもあり、その後多くの写真家に大きな影響を与えることになった。98年に初めて再出版されたものは、見開きに1枚づつ配置された写真が約80枚、読者の見方が撮影地で影響されないようにキャプションが巻末にまとめられている。序文はビートニク作家ジャック・ケルアックによるもの。


--- 中心から少し離れたところで、やや自嘲気味に自分たちを“フリーク”として客観視していた感じも・・・

 逆に僕は、このジャケットのフリークたちとタイトルとを直接的には結び付けていなかった。もちろん、税金が払えなくてフランスに渡るということは、音楽誌のトップに載っていたので知っていましたが、それ以上のことでストーンズが当時どういう状況に置かれていたのかは知らなかったですから。

--- DECCA後期、『Beggars Banquet』あたりから、ストーンズはジャケットのアートワークにも強い主張を込め始めていきますよね。

 『Beggars Banquet』は、当時このジャケットでリリースできなかったですからね。この時代、トイレを写すことは社会的にタブーだったから。結局(註)真っ白なジャケットに差し替えられて。『Let It Bleed』は、僕は今もあまり好きではないんですが(笑)、かなり変わったアートワークではある。で、その次の『Sticky Fingers』は(註)アンディ・ウォーホルですからね。


  (註)真っ白なジャケット・・・当初、『Beggars Banquet』のジャケットはおなじみの「トイレの落書き」のアートワークが採用されるはずだったが、DECCA、LONDONが共に1968年8月の発売直前にこれを拒否。バンドとレコード会社とのジャケット・アートワークをめぐる対立は続くも、結局バンド側は招待状を真似たシンプルなデザインによるもので12月のリリースを決めた。金色で縁取られたアイボリー・ホワイトのカンバスに「Rolling Stones Begger's Banquet」と、左下隅に「R.S.V.P.」('Réponse s'il vous plait=ご返事願います)と記入されただけのデザインは、不本意ながらビートルズのワイト・アルバムとの酷似性を評論家たちにつつかれた。1986年のリマスター化の際にオリジナル・ジャケットが初めて採用されることとなり、以降現在に至るほとんどの本作再発盤で「トイレ・ジャケ」が採用されている。


(註) アンディ・ウォーホルが手掛けたその他のジャケット・アートワーク

Velvet Underground & Nico Love You Live Congregation Kenny Burrell Vol.2
Velvet Underground & Nico 『Velvet Underground & Nico』
Rolling Stones
『Love You Live』
Johnny Griffin
『Congregation』
Kenny Burrell
『Kenny Burrell Vol.2』


--- 『メインストリートのならず者』のジャケット・アートワークの魅力に関して言えば、想像力をどこまでも膨らませる力を持っているという点においても、ドン・ウォズの感じた “危険な雰囲気”は的を得ているような気もします。

 ドン・ウォズといえば、これも『Stones In Exile』の中で彼が未発表部分の制作経緯として語っていたことなんですが、「今度<Exile On Main St.>を再発する際に、もう1枚未発表を集めたCDをくっ付けようと思っているんだけど、プロデュースをしてもらえないかい?」って突然ミックから連絡が来たそうなんですね。ドン・ウォズはドキドキしながら引き受けたらしいんですが(笑)、後日ものすごい量のマスター・テープが届いたそうです。

 そこには色んな時期のマスターがあって、いちばん古いもので「Honky Tonk Women」。それが9つぐらいのヴァージョンがあったようで、最初期のヴァージョンは「Country Honk」。そこからだんだんとテイクを重ねて最終的に今世に出ているものになるんですが、当初イントロには、イアン・スチュワートの弾くホンキートンク・ピアノが入っていたそうです。で、そのピアノのフレーズの合間にキースがギターのフレーズを入れていると。そのヴァージョンがいくつかあるんだけれど、どれも決定打に欠いて最終的にはピアノを落としちゃったんですね。

 だから、「Honky Tonk Women」でのキースのあのギターのイントロっていうのは、独特の間で弾かれているんですよね。元々ピアノのすき間に入れたフレーズだから、ピアノを抜くとああいった変わったリズムのフレーズが残って、すごく印象的なイントロになるという。これは初めて知ったことで驚きました。こういったエピソードはなかなか出てこないものですからね。

---  ああっ!なるほど、そうだったんですね。そのピアノ入りのテイクもいつかは聴いてみたいですね(笑)。

 あと、ドン・ウォズが仕事を引き受けた直後に、キースから1枚のFAXが届いて、そこには「この未発表素材を “Exileらしく” まとめようとしないでくれ。すでに“Exile”になっているから」って書いてあったそうです。つまり、無理にまとめようとしなくてもいいし、変にがんばるな、という意味だと思うんですが、ドン・ウォズもそれを読んで「なるほど」と思ったんですって。

--- 元々の本編も、変にまとめて作り込んだ感じはないような気もします。

 全然ない。その『Stones In Exile』でインタヴューを受けていたミュージシャンたちも共通して、「自然体なアルバム」と答えていましたからね。そこがみんな好きだって。

 僕は学生時代にこのアルバムを聴いてたときには、特別そういったことを考えたわけではないけれど、言われてみると、「たしかに自然体だな」って思う。それと、“ユルい”っていえば、“ユルい”んだけれど、いい加減なユルさではなくて、とてもいい塩梅のユルさ。

--- 曲の並びも偶然か必然か、これ以上なく完璧といいますか・・・

 でも、これは偶然ではないらしいんですよ。そのことをキースが語っていたんだけれど、楽曲がけっこうな数出来上がってきた時点で、まず2枚組で発売しようと決める。 で、当時このアルバムを捉えられなかった人たちにとっては、まずそのことが困惑だったらしいんです。2枚組であったことが。(註)ビートルズの“ワイト・アルバム”(註)クリーム『Wheels Of Fire』(註)ジミ・ヘンドリックス『Electric Ladyland』(註)ボブ・ディラン『Blonde On Blonde』(註)グレイトフル・デッド(註)フランク・ザッパなんかはあったけど、ダブル・アルバムっていうのは、当時ホントに数えるぐらいでしたから。 さらに、キースは曲の並べ方にもすごく時間をかけたみたいなんですよね。

 録音が終わった後というのは、ミックもチャーリーも「よし、もういい」って、最終のミックスなんかをほぼプロデューサー任せにしてしまう場合が多いようです。レコードが出た後も、ミックにしろチャーリーにしろあらためて聴き返すってことはないらしいし。すでに次のことに目を向けている。でもキースは、録音した後もそのテープを家で繰り返し聴いて、オーヴァーダブやミックスをどうするかあれこれと考えるタイプ。さらに、完成したアルバムもずーっと聴いているんだって。以前耳にした話では、キースはストーンズのブートレグで持っていないものはないぐらい、自分のバンドの音を集めて聴き返しているらしいんですよ。だから、その辺の姿勢については、他のメンバーとは違うみたいなんですね。


(註) 文中に登場するダブル・アルバム+@ 

Beatles (White Album) Wheels Of Fire Electric Ladyland Blonde On Blonde
Beatles
『Beatles
(White Album)』
Cream
『Wheels Of Fire』
Jimi Hendrix
『Electric Ladyland』
Bob Dylan
『Blonde On Blonde』
Live Dead Freak Out! Tommy 4 Way Street
Grateful Dead
『Live Dead』
Frank Zappa
『Freak Out!』
The Who
『Tommy』
C, S, N & Y
『4 Way Street』


--- ミックとキースとでは、実際には一般的なパブリック・イメージと逆ですよね。

 キースはすごくいい加減そうに見えますけど、音楽に関してはそうじゃないみたいね。



(次の頁へつづきます)






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ピーター・バラカン イベント&トークライヴ・スケジュール


Afro Blue Vol.2@Soul Bar Stone (新宿・大久保) *DJ 出演

会場:Soul Bar Stone(新宿・大久保)
日時:2010年5月22日(土)17:00-19:00(16:30開場)
料金:2500円(1ドリンク付き)
お問合せ:ウィンド



ピーター・バラカン×長田弘×野村恵子 トーク・ライヴ

[第一部] 〜魂のうた〜響きあう音楽と言葉とアート
  パート1 写真スライドショー「Red Water」by 野村恵子
  パート2 お話と詩の朗読「どんなものもみな言葉」by 長田弘
  パート3 DJライヴ「Song for Tomorrow」by ピーター・バラカン

[第二部] ジョイント・トーク
  生き難さを感じる日々に 〜with a little help〜

会場:武蔵野スイングホール(150名)JR中央線武蔵境駅北口から徒歩2分
日時:2010年6月13日(日)13時開場 13時30分開演
会費:2000円(自由席)
お問合せ・お申し込みはこちら


profile

Peter Barakan (ピーター バラカン)

 1951年ロンドン生まれ。ロンドン大学日本語学科を卒業後、1974年に音楽出版社の著作権業務に就くため来日。

現在フリーのブロードキャスターとして活動、「Barakan Morning」(インターFM)、「ウィークエンド・サンシャイン」(NHK-FM)、「CBS60ミニッツ」(CS ニュースバード)、「ビギン・ジャパノロジー」(NHK BS1)、「バラカン・ビート」(OTONaMazuインターネットラジオ)などを担当。

著書に『200CD ブラック・ミュージック』(学研)、『わが青春のサウンドトラック』(ミュージック・マガジン)、『猿はマンキ、お金はマニ』(NHK出版)、『魂(ソウル)のゆくえ』(アルテスパブリッシング)、『ロックの英詞を読む』(集英社インターナショナル)、『ぼくが愛するロック名盤240』(講談社+α文庫)などがある。





インタビュー中に登場する主要人物について


アンディ・ジョンズ Andy Johns
(アンディ・ジョンズ)


ロンドンのオリンピック・スタジオを拠点に仕事をしていたイギリスの名エンジニア/プロデューサー、グリン・ジョンズを兄に持つアンディ・ジョンズ。60年代末から70年代初頭にかけては兄の関わる作品で共同エンジニアを務め、レッド・ツェッペリンブラインド・フェイスのアルバムに携わり、また、70年代初期のフリーの作品をプロデュースしていることでも知られている。ストーンズ作品では、『Sticky Fingers』から『It's Only Rock'n'Roll』までの4作品でエンジニアを務め、70年代黄金期のストーンズ・サウンドの確立に貢献している。70年代末にアメリカに移り、テレヴィジョンジョニ・ミッチェルロン・ウッドの作品に参加。80年代以降はヴァン・ヘイレンなどハード・ロックの名プロデューサーとして名を馳せている。


ビリー・プレストン
Billy Preston
(ビリー・プレストン)


カリフォルニアの出身と思われがちだが、実は生まれ故郷はテキサス州ヒューストン。10歳の頃から教会でゴスペルのオルガン奏者としてキャリアをスタートさせ、16歳の頃にはすでにリトル・リチャードレイ・チャールズサム・クックキング・カーティスといった大スターのバック・バンドの一員として活躍。ゴスペルを下地にした泥くさいサザンソウル・スピリッツ溢れる楽曲においてこそ真価が発揮されるビリーの黒くアーシーなタッチ。ビートルズの「ゲット・バック・セッション」に参加し、「Get Back」、「Let It Be」、「Something」でエレクトリック・ピアノを弾いたことを機に、ロック界隈でもその名が広く知られていくようになる。アップル・レコード移籍第1弾のソロ・アルバム『That's the Way God Planned It』には、プロデューサーを務めたジョージ・ハリスンをはじめ、キース・リチャーズエリック・クラプトンらも参加している。70年代に入り米南部指向を強めたストーンズのアルバムには、『Sticky Fingers』以降『Black And Blue』までの期間レコーディングに参加。1973年のストーンズのツアーには前座+サポート・メンバーとして、1975年〜76年のツアーではサポート・メンバーとして参加し、主役をバックに自身の曲「Nothing From Nothing」、「That's Life」を堂々披露している。   


ボビー・キーズ Bobby Keys
(ボビー・キーズ)


60年代末、レオン・ラセルを中心とする米南部スワンプ・ロック・サークルで活動していたボビー・キーズは、ジミー・ミラーを介してストーンズと出会うことになる、テキサス出身のサックス奏者。10代でバディ・ホリーのバック・バンドでの演奏を経験し、その後も様々なバンドでの演奏を経たのちにレオンの紹介でディレイニー&ボニーのツアー・バンドに参加。この大編成バンドには、エリック・クラプトンデイヴ・メイソンらも参加していたということもあり、彼らからストーンズ作品参加へのアドバイスなどもされていたのだろう。『Let It Bleed』所収の「Live With Me」を皮切りに、『Sticky Fingers』「Brown Sugar」など数々のストーンズ楽曲でブルース・フィーリング溢れるサックス・ソロを披露し、1970年以降はツアーのレギュラー・メンバーに着任(1975〜78年はゲスト扱い)している。ボビーに「キースのような人間に一生で5人会えればラッキーだよな」と言わしめたそのキースとは同じ生年月日(1943年12月18日)ということもあり、ソロやニュー・バーバリアンズなどストーンズ以外の活動でも度々共演しながら、現在もソウルメイトのような理想的な信頼関係を保ち続けている。


Dr. ジョン Dr. John
(ドクター・ジョン)


おなじみニューオリンズ・スワンプの生き字引、Dr. ジョンことマック・レベナック。ニューオリンズ・ミュージックとスワンプ・ロックの素晴らしい交叉盤『Gumbo』をすぐ近くのサウンド・シティ・スタジオでレコーディングしていた時期でもあり、そちらのレコーディング・メンバーであったタミ・リン、シャーリー・グッドマンを引き連れ、ハリウッド・スタジオでの「Let It Loose」のコーラス録音に参加したというのがおおよその経緯。また、1970年に録音されたDr. ジョンのアルバム『The Sun、Moon & Herbs』には、ミック・ジャガーが6曲もバック・コーラスで参加しており、そのお礼に、といったところも多分に含んでいるのだろう。


グラム・パーソンズ Gram Parsons
(グラム・パーソンズ)


インターナショナル・サブマリン・バンドバーズ(『ロデオの恋人』時代)、フライング・ブリートー・ブラザーズを渡り歩き、カントリー、またはカントリー・ロックを追求し続けた男、グラム・パーソンズ『Let It Bleed』の制作にとりかかった頃から、キースとグラムとの親交は始まったと言われている。「Love In Vain」「Country Honk」「Wild Horses」「Dead Flowers」、また、キースとグラムが南カリフォルニアの公園にUFOを見に行った時にアイデアが浮かんだとも言われている「Moonlight Mile」など、グラムがストーンズ・サウンドに与えた影響というものは計り知れない。もちろん『Exile On Main Street』のレコーディングにおいても、仏ネルコート、最終ミックスが行われたLAハリウッド・スタジオにグラムは訪れていて、「Sweet Virginia」「Torn & Frayed」といった楽曲でその親睦がのぞかれる。グラムは、1973年、2枚目のソロ・アルバム『Grievous Angel』を完成させた直後にアルコールとドラッグの過剰摂取により26歳という若さでこの世を去ったが、その後もストーンズは、「Far Away Eyes」「Indian Girl」「The Worst」「Sweethearts Together」といった曲にカントリー・フレイヴァを吹き込むことによって、その友情を永遠のものとしている。




グリン・ジョンズ Glyn Johns
(グリン・ジョンズ)


上掲アンディ・ジョンズの実兄でもあるエンジニア/プロデューサー、グリン・ジョンズは、ザ・フーフェイセズハンブル・パイなどの所謂ブリティッシュ・ロックの名盤と呼ばれる作品を数多く手掛けていた名伯楽。ストーンズとは彼らのデビュー以前から交流があったそうだが、60年代後半(『Their Satanic Majesties Request』以降)から70年代初頭にかけてのストーンズのスタジオ・レコーディングのサウンド面において全面的なイニシアチヴをとっていた。ディレイニー&ボニーレオン・ラセルジェシ・デイヴィスリタ・クーリッジイーグルズジョー・コッカーといったLA〜イギリス・スワンプの主流アーティストたちがこぞって惚れ込んだグリン特有の洗練されていないむきだしのサウンド・プロダクションは、当時ルーツ指向にあったストーンズにとってもベストのものであった。


イアン・スチュワート Ian Stewart
(イアン・スチュワート)


”第6のストーンズ”の大本命というよりは、結成時からの正式メンバーとして活動していたものの当時のプロデューサー、アンドリュー・ルーグ・オールダムによる「やぼったいルックスがバンドに相応しくない」という理由だけでメンバーを外されたというイアン・スチュワート。その後もストーンズのローディーを任される一方で、セッション・ピアニストとしても活動し、スタジオ、ライヴを含むDECCA初期・中期ストーンズのピアノ・サウンドを一手に引き受けた。また、レッド・ツェッペリン「Rock And Roll」「Boogie With Stu」などでの名演も語り草となっており、「ブルーズやブギウギ・ピアノを弾かせたらスチュの右に出る者はいない」とはニキ・ホプキンズの弁。60年代末以降様々な音楽スタイルを取り入れたストーンズには、そのニキやビリー・プレストン、イアン・マクレガンらが主にサポート・ピアニストとして同行していたが、ストーンズがいつでもブルース(=原点)に立ち返れるのは、やはりスチュの存在があったからと言われている。『Dirty Work』を最後の仕事に、85年心臓麻痺でこの世を去った。


ジミー・ミラー Jimmy Miller
(ジミー・ミラー)


1968年、春の訪れとともに「ブルース」、「米国南部」というルーツ・ミュージックへの指針をしっかりと捉えたストーンズは、アイランド・レコーズ創設者クリス・ブラックウェルの肝煎りとしてスペンサー・デイヴィス・グループトラフィックなどを手掛け注目を集めていた新進気鋭のジミー・ミラーをプロデューサーに抜擢。ちょうどその頃完成したばかりだったトラフィックの2ndアルバム『Traffic』のサウンドをミックがいたく気に入ってスカウトしたそう。ブルースを機軸とした手堅くアーシーなサウンド作りの中にも実験的な試みを次々と取り入れた『Beggars Banquet』でそれは吉と出て、以降『Goat's Head Soup』までにおいてジミー・ミラーはストーンズから全幅の信頼を得て、揺るぎない黄金期のサウンドを作り上げている。


ジム・プライス Jim Price
(ジム・プライス)


ボビー・キーズと同じくLAスワンプ・サークル諸作品やビートルズ作品などに参加していたテキサス出身のセッション系トランペット奏者ジム・プライス。ボビ・キーズの紹介によりストーンズ作品へ参加となったその初登場曲は、『Sticky Fingers』所収となる「Bitch」で1970年のオリンピック・スタジオにて。Stax系ジャンプ・ナンバーをストーンズ流に昇華したこの曲では、ジムとボビーによるパンチの効いたホーン・セクションが明らかにドライヴ感を与えている。この後1973年のウインター・ツアーまでバンドに同行し、70年代ストーンズの黄金期を支えた。


レオン・ラセル Leon Russell
(レオン・ラセル)


グリン・ジョンズの紹介でストーンズと出会うこととなるレオン・ラセルは、まずは『Let It Bleed』「Live With Me」にピアノで参加し持ち前のLA流スワンプ・サウンドの一片を名刺代わりに差し出す。しかし、レオンのストーンズへの最大の貢献は、その広い人脈を生かし米南部のミュージシャンズ・サークルを彼らストーンズと共有したという点にある。自身のシェルター・ピープル、ディレイニー&ボニー&フレンズジョー・コッカーのマッド・ドッグス&イングリッシュメンといった共同体が誇る腕利きの人海を、当時南部ルーツ・サウンドに飢えていたストーンズの助力のために惜しげもなく送り込み、ブルース、ソウル、カントリー、ゴスペルの持つ泥くさく豊かなニュアンスを分かち合ったその功績は称えられてしかるべき。また、1969年初のソロ・アルバム『Leon Russell』の録音には、ビル・ワイマンチャーリー・ワッツが参加している。


ニキ・ホプキンズ Nicky Hopkins
(ニキ・ホプキンズ)


ジャック・ニッチェ、イアン・スチュワートに次いで登場し、”第6のストーンズ”となるレギュラー・ピアニストの座を1967年『Between The Button』録音時に射止めたニキ・ホプキンズは、『Tattoo You』までの間実に70曲以上の楽曲に参加。現在に至るまでの歴代全サポート・メンバーの中でも群を抜いて高い人気を誇っている。『Exile On Main Street』においても感性豊かなピアノ・ワークは冴えわたり、「Loving Cup」の流麗なタッチから「Turd On The Run」「Rip This Joint」でのワイルドに転がるブギまで緩急自在。パーマネントな鍵盤奏者を置かないバンドにとって各時期の”6番目のストーンズ”というのは、まさにバンドが目指す方向性を左右する重要な存在であるということは疑いもないだろう。とりわけ、『Thier Satanic Majesties Request』から『It's Only Rock'n'Roll』まで、さらには1971〜73年絶頂期(&乱痴気)と評されるライヴを一任されていた。彼なくしては、ホンモノのストーンズ・サウンドを語ることはできない。ちなみに、1969年『Let It Bleed』録音時のアウトテイク・ジャム『Jamming With Edward』(CD廃盤)は、ニキにライ・クーダー、そして、キース抜きのストーンズがスタジオ・セッションした時の記録で、72年に正式リリースされている。


ロバート・フランク Robert Frank
(ロバート・フランク)


大方のロック・ファンにとっては『Exile On Main Street』のジャケット・アートワーク、そして、ドキュメンタリー・フィルム『Cocksucker Blues』という、ストーンズ史上屈指のいかがわしい芸術性を匂い立たせる2大プロダクツを手掛けた人物としてよく知られるロバート・フランク。1924年、スイスのチューリッヒで生まれ育ったフランクは、47年に移民としてニューヨークに出てきた後、50年代半ばには全米を放浪しながら、実にフィルム767本を使用しながら市民の現実の生活を写真に収め続けた。撮影イメージ約27、000点、ワークプリント約1000枚の中から83作品が写真集にまとめられ、58年5月に「Les Americains(アメリカ人)」として刊行されている。アレン・ギンズバーグジャック・ケルアックといったビート詩人らと共鳴し合うことで「視覚的詩人」とも呼ばれていたフランク。「Les Americains(アメリカ人)」にも掲載されていた写真をコラージュしたアートワークは、ストーンズの楽曲イメージを肥大化させる一種の魔法や麻薬めいたパワーに満ちている気がしてならない。


ライ・クーダー Ry Cooder
(ライ・クーダー)


『Exile On Main Street』の録音に直接関わってはいないが、『Let It Bleed』以降のストーンズ、特にキースのギター・プレイに与えた影響を考えるとこのライ・クーダーを外すわけにはいかない。ジャック・ニッチェがオリンピック・スタジオに連れてきた当時まだ無名に等しいギタリストであったライは、表向きは「Love in Vain」にマンドリンでクレジットされるだけにとどまったが、「Honky Tonk Women」の有名なオープンGフレーズの発案者、ひいてはキースにオープンGチューニングのスタイルを取り入れさせることになった家元であると古くから言われている。そのあたりの真意を明かす手がかりとしては、この時のセッションを収録し公式音源化した『Jamming With Edward』(CD廃盤)が最も有効だろう。キース抜きによるストーンズとのジャム・セッションにも関わらず、フレーズ、リフのカッティングの端々にキースのそれとの類似性が聴いてとれ、まるでストーンズ本隊によるセッションと何ら遜色がない。さらに、唯一この時期に至るまでのストーンズらしくない点として、ライの米南部色豊かなサウンド・デザインが挙げられる、とまでくれば、後の『Sticky Fingers』(ライは「Sister Morphine」の再録に参加)、『Exile On Main Street』でキースがひたむきに追い求めるようになる米南部サウンドの旨味、その最も身近で良質なお手本がライのギター・プレイだったのかもしれないと言えるはずだ。