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ビートルズを語る! ピーター・バラカン氏 特別インタビュー 【後編】

Wednesday, September 9th 2009

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interview

Peter Barakan

英国ロンドンに生まれ育ち、The Beatlesを62年のデビューからリアルタイムで体感しているピーター・バラカンさんにインタビュー!

バラカンさんが体験された The Beatles、また当時の音楽環境等の変化について、 たっぷりお聞きしました。後編をどうぞ!インタビュー前編へ)(ビートルズ特集トップへ


--- 後から振り返ると、『ラバー・ソウル』の辺りから少し「アート指向」、「トータル・アルバム」と言われるものになっていったりとか、少し難しくなっていくような感じっていうのはあったのでしょうか?

当時は子供だからあまりそういう風に「トータル・アルバム」という風には考えてないですね。音楽誌もそういうこと書いてないと思うな。音楽をジャーナリスティックに取り上げるってことは、ローリングストーン誌(※34)が出るまでなかったんですよ。レコード・レビューっていうのも、大体簡単な雑誌で2、3行ぐらいのものだったりしたものですから。

レコードを聴くときも、当時『ラバー・ソウル』の時、14歳になるかならないかの年齢だし大人のような考え方で聴いてないですからね。単純に「曲がいい」とか「あまり好みじゃない」とかその程度ですよね。特にビートルズの音楽が難しくなったっていう風には…「曲が面白くなった」とは感じましたけどね。彼らの作曲能力、というのかな、そういう風に考えていたかどうかは別として、それがかなり高度になったな、というのは感じていたと思いますね。

--- アレンジなども含めてですか?

編曲もそうだろうし、使っている楽器がシタール(※35)だったり、フレンチホルン(※36)が使われていたりとかチェンバロ(※37)が使われていたりとか。普通のポップ・レコードではあまり耳にしない音が出てくるっていうのは非常に新鮮じゃないですか。

--- ちなみに、バラカンさんのビートルズのライブ初体験はいつ頃なのでしょうか?

1回しか観てないですけど、63年・・・厳密に言えば64年の正月ですね。63年のクリスマス・ショーっていうのが2週間ぶっ続けでやってますから、僕が観たのは1月2日だったかな。

--- 『プリーズ・プリーズ・ミー』のアルバムが出た後ですね。

『ウィズ・ザ・ビートルズ』がもう出てるんじゃないのかな?「シー・ラヴズ・ユー」が出てるでしょうね。

--- 実際、ライヴはどんな感じだったのでしょうか?

まだ12歳の子供だからね…でも「映像」は鮮明に覚えてます。音的にはほとんど、というよりまるっきり聴こえなかった。なんとなく、どの曲をやってるか判別するぐらいのことは…手を耳の後ろにあてて、音が共鳴するようにすれば何とかかすかに「どの曲やってるかな」っていうぐらいのことがわかる程度。あとはもう周りの女の子たちの「キャーキャー」でね、もうそれだけで耳鳴するような(笑)。

だって当時PAは無い、ギター・アンプだけで。3000人の会場ですから。僕が2階席の一番前の列だったんだけど、母と弟と3人で。でも、よく見えたんですよ。遮るものが何も無いからよく見えましたけど、何も聴こえなかった(笑)。(ちょっといい話 9)

--- 『リヴォルヴァ』辺りからライヴで再現するのが難しくなったから、ということもあるのでしょうか?

まぁ、難しいでしょう。かなり高度なことをやってるからね。「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」なんか無理ですからね(笑)。そういう意味では物理的に再現するのも限界を超えていたのかもしれませんね。

--- 『サージェント・ペパーズ』の頃のメンバー間、特にジョンとポールのすれ違い、というのはどのように捉えていますか?オノ・ヨーコ(※38)の登場などがやり玉に挙げられることも多かったようですが。

当時のイギリスでは、ヨーコのことを悪く言うメディアばっかりですから、僕らも当然消極的なイメージを持っていたんですよ。「ジョンとポールの溝が彼女のせいだ」みたいに当時はみんな思っていましたね、多分。実際はもちろんそれが違っていた、ジョンとポール両方とも大人になっていたし、恋人が出来て変わっていく、というのは当たり前の話だからね。

僕は『サージェント・ペパーズ』はそれほど好きなアルバムじゃない。非常に音楽的に高度なことをやっているのはもちろん分かります。個別の曲もみんないい曲だけどアルバムの魅力と言えば僕は『リヴォルヴァ』のほうが遥かに魅力的なレコードです。

--- あの「実験精神」がK点に達したのが『サージェント・ペパーズ』と言われてますよね。

冒険的なレコードだと思いますよ。曲間の溝が無い。この間、誰かとその話が出たんだけど、例えば2曲目のリンゴが歌う「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」、僕はリンゴの声があまり好きじゃないから(笑)、いつも飛ばして次の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をかけたいところなんだけど、溝がどこで切れてるかわからない(笑)。

だから、「まぁ、いいや、面倒くさいから」って飛ばさず聴いてる。レコードに傷つけたくないし。あれこそ、ビートルズ自身が「トータル・アルバム」というのかな、意識的にそういう風に作ったんですよね。だから『フォー・セール』とか『ラバー・ソウル』の時点では、「トータル・アルバム」という話は全く出てないと思います。『サージェント・ペパーズ』の時に初めて出た。明らかに盤面を見てもそういう作りだし。組曲みたいなものですね。

--- で、ローリング・ストーンズの『サタニック・マジェスティーズ』(※39)も出るという・・・

ストーンズもやらなきゃいいのにね…あれは面白くない…(苦笑)。

--- 67年当時のカウンター・カルチャーというか、「フラワー・ムーブメント(※40)」の原体験はあったのですか?

ちょっと若かったんですよ。67年は、16歳でしょ。「フラワー・ムーブメント」というか何というか、当時アンダーグラウンドと呼ばれていたような深夜のクラブが幾つかあったんですね。初期のピンク・フロイド(※41)だとかそういう人たちがよく出ていた「UFO」、あと「ミドル・アース」というところがあってね。ヒップな人たちがみんなそこに集まるっていうのは話題として知ってる。

でも自分がまだ高校生になったばかりで深夜は出してもらえないから、参加できない。話題だけ。それも雑誌で読んで何となくそういうことがあるっていうことぐらいしか分からなかったですね。レコードでは聴いてましたけど。(ちょっといい話 10)

--- 所謂ちょっとモッズ(※43)っぽい格好をしてベスパを乗り回していたことも?

モッズっぽい格好をしてたのは…モッズっていうのは65、66年ぐらいで終わっちゃってるんですよね。あれはそんなに長く続いたものじゃないから。僕がスクーターを持ってたのは67年です。16歳にならなければ免許が持てないから。それで、スクーターには乗ってたんだけど、モッズの格好はしてないかな…何の格好っていうのかな…まぁ、格好はつけてた(笑)。16歳なりの。



注釈
(※34) (Rolling Stone Magazine)1967年に米国サンフランシスコで編集長ヤン・ウェナーによって創刊された雑誌(現在も続く)。音楽や映画、ファッション、カルチャーなどを扱い、各種評論でサブカルチャーに大きな影響力を誇った。(▲戻る)

(※35) 北インド発祥の弦楽器。主に伝統的なインドの民族音楽や現地のポップスに使用されるが、60年代の半ば頃から、ビートルズのジョージ・ハリスン、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズらが、自らの楽曲の演奏に取り入れるようになったため、欧米系のロック/ポップス・リスナーにも広く知られるようになった。(▲戻る)

(※36) クラシックのオーケストラ演奏や木管五重奏などに多用される金管楽器。巻貝のような形状が特徴的。(▲戻る)

(※37)バロック音楽において幅広く用いられる鍵盤楽器の一種。ハープシコードとも呼ばれる。(▲戻る)

(※38) (Yoko Ono Lennon 日本名:小野 洋子 / 1933年2月18日 〜)前衛芸術家、音楽家。レノンとの数々の共作でも知られる。1959年からNYを拠点とする芸術集団・フルクサスとともに活動を行い、前衛音楽のパフォーマンス、コンセプチュアル・アートなどで話題となる。66年にビートルズのジョン・レノンと出会い、69年に結婚。(▲戻る)

(※39) (Their Satanic Majesties Request)1967年発表のアルバム『ゼア・サタニック・マジェスティーズ・リクエスト』。ビートルズの『サージェント・ペパーズ〜』に影響を受けたローリング・ストーンズ初のセルフ・プロデュース作。一部でのマニアックな評価を除き、一般的には失敗作と見なされることが多い。「シーズ・ア・レインボー(She's A Rainbow)」「2000光年のかなたに(2000 Light Years From Home)」など収録。(▲戻る)

(※40) 狭義には、1960年代後半に米西海岸に生まれたヒッピー思想を土台にした運動・文化を指す。ベトナム戦争反対、自然を愛し「ラブ&ピース」を掲げる「ヒッピー」たちは、マリファナやLSDによるサイケデリックな高揚感・覚醒・悟りを思想に結びつけ、各地にコミューンと呼ばれる共同体を作り生活した。サンフランシスコに行くのなら髪に花飾りをつけていこう、と歌われるスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」はそのフラワー感覚を象徴した。(▲戻る)

(※41) (Pink Floyd)1965年ロンドンで結成。初期は鬼才シド・バレットの個性を色濃く反映したサイケデリック・ロック・バンドとして人気を博す。68年バレット脱退後は、ロジャー・ウォータースが主導となり、70年代前半からは英国プログレッシヴ・ロックの黄金期を築く存在となった。。(▲戻る)

(※42) (The Doors)ロサンゼルスのUCLA演劇学科で知り合ったジム・モリスンとレイ・マンザレクを中心に結成。1967年デビュー。ジム・モリスンの文学的・カリスマ的なヴォーカルやパフォーマンス、レイ・マンザレクによるオルガンの響きなどを軸とした斬新なロック・サウンドを聴かせた。(▲戻る)

(※43) 1960年代中頃、イギリスの若い労働者を中心にロンドン近辺で流行した、音楽やファッションをベースとしたライフスタイル/ムーヴメント。音楽ではスモール・フェイセズ、ザ・フーなどのバンドのほか、R&B/ソウルなどが好まれた。モッズファッションとして代表的なものは、細身の3つボタンのスーツ、軍用パーカー、数多くのミラーが施されたベスパのスクーターなど。(▲戻る)




profile

1951年ロンドン生まれ。
ロンドン大学日本語学科を卒業後、1974年に音楽出版社の著作権業務に就くため来日。
現在フリーのブロードキャスターとして活動、「CBSドキュメント」(TBSテレビ)、「ビギン・ジャパノロジー」(NHK総合テレビ)、「ウィークエンド・サンシャイン」(NHK-FM)、「バラカン・ビート」(OTONaMazuインターネットラジオ)などを担当。
著書に『魂(ソウル)のゆくえ』(アルテスパブリッシング)、『ロックの英詞を読む』(集英社インターナショナル)、『ぼくが愛するロック名盤240』(講談社+α文庫)などがある。

Peter Barakan ちょっといい話 9

本人たちも66年になぜツアーをやめたか、っていうと自分の演奏が自分で聴こえないから、っていうのが一番の理由なんですよね。果たして音程が合っているかどうか分からない。それに嫌気がさして、「だったらツアーやめよう」っていうことになった。

ちょっといい話 10

初めて夜遅くまで出たのは…最近、「わが青春のサウンドトラック」という本を出したんですけど、あの中でドアーズ(※42)のコンサートを観に行った時の話をしてるんですね。親に「友達の家に泊まる」って嘘をついて友達4人で深夜まで暇をつぶしてドアーズのコンサートに行ったのが初めてだったんだけれど、あれが68年だから、まだ16歳、17歳になってない頃だね、多分。