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【解剖】 『メインストリートのならず者』

ROLLING STONES STORE

2010年4月10日 (土)



 栄光と波乱の60年代を乗り切ったローリング・ストーンズ。新時代の幕開けに向けて大きくカジをきるシーズンに直面したのもちょうどこの時期で、1970年7月には、デッカ・レコーズとの契約およびロンドン・レコーズのアメリカにおけるライセンス契約が切れた。前年から続くニュー・アルバム(『Sticky Fingers』)用のスタジオ・セッションにも参加していたボビー・キーズ、ジム・プライス、2人のホーン陣営と、この時期のレギュラー・ピアニスト、ニッキー・ホプキンスを連れ立った夏のヨーロッパ・ツアー終了後には、引き続きイギリスのオリンピック・スタジオ、イギリスのバークシャーにあるミックの別荘スターグローヴスで録音が行われた。ライ・クーダー、ジャック・ニッチェらも遊撃的にバックアップしているこのレコーディングでは、『Exile On Main Street』に収録されることとなる半数近くの楽曲の骨格はすでにでき上がっていたという。1971年4月、おなじみの“ベロ・マーク”をロゴとした自らのレコード・レーベル、ローリング・ストーンズ・レーベルの設立を発表し、キニー・グループ(傘下のアトランティック・レコード配給)とのディストリビュート契約を交わしたことも全世界にアナウンスされた。翌週、移籍第1弾アルバムとなる『Sticky Fingers』は、アンディ・ウォーホールが手掛けたジャケット・デザインとともに姿を現した。

 時を同じくして、2週間のイギリス・ツアーを大盛況に終えたバンドは、イギリスの税金が高いということを理由に、フランス移住を計画。『Sticky Fingers』発表直後には、メンバー全員が南フランスに住居を構える手筈を終えていた。次なるアルバム『Exile On Main Street』用の残りのマテリアルの録音セッションは、“タックス・エグザイル”として選んだ南フランス、ニースとモンテカルロの中間部に位置するヴィルフランシュ・シュル・メールにキースが借りた邸宅ヴィッラ・ネルコート、その地下室で行われることとなった。

ネルコートで
 夜になっても平均気温が25℃を観測する日もあるという初夏の南フランス、しかもその地下室でのスター・バンドの奮闘となれば、はからずも酒池肉林、日々是謝肉祭の様相を呈して・・・と予想するのがセオリーなのだが、どうも勝手は違っていたよう。60年代末からLAのスワンプ〜カントリー・ロック界隈の人脈に音楽的な刺激を強く受けていたバンド。その中でも特にキースは、ボビー・キーズ、グラム・パーソンズ、あるいはライ・クーダーとの交流の中でこれまでになかった自らの方向性や曲作りにおけるヒントなど多くの発奮材料を得て、さらにそれを効果的にバンドに取り入れようと考えていた。60年代ストーンズの核であったブライアン・ジョーンズを失い、後釜のブルース・ギター小僧は腕は確かだがまだまだ存在的には心許ない。そうした状況をふまえ、あらためてバンドでの立ち位置を見直した結果、よく知らぬ片田舎の地下という閉鎖された環境で再度バンドとしての集中力やつながりを高めようと、録音場所の提供をはじめとするタクト役を買って出たのではないだろうか?

 地下にあったキッチンは常に多くの機材で埋め尽くされ、その中で妊娠中であったキースの妻アニタが時を問わずに20人分もの食事を作ったり、メンバーが空けたワイン・ボトルを片づけたり、幼い息子マーロンを寝かしつけたりと、いくら夫が天下のローリング・ストーンズのギタリストであっても、セッションに費やされた三ヶ月間毎日こんなプレッシャーと衣食住を共にしていたと思うと、他人事ながらゾッとしてしまう。また、蒸し暑さも常軌を逸していたようで、アルバムにおけるギターのチューニングが若干甘いのはそのせいだという指摘もある。それでもキースは「しょうがねぇ、ウチでやるか。カミさんにはうまく言っとくよ」とオーケーを出したのだから、よほどこの作品に、これからのストーンズに懸ける思いは強かったのだろう。そんな奉仕精神(?)もあって、ボブ・ディランとザ・バンド「ベースメント・テープス」のストーンズ版とも呼ばれる突出した1枚が生まれることと相成ったのは事実だ。また実際には、ヴィルフランシュ・シュル・メールが地中海を見下ろす丘の上にあるということで、メンバーは息抜きにしばしば水遊びに興じていたり、キースが息子マーロンを寝かしつけるために席をはずした数時間を利用して近郊のニースやモンテカルロで夜の街を楽しんだということだから、イギリス在住時とは比べものにならないぐらいリラックスした雰囲気の生活は送れていたようだ。

ネルコートで
 キース邸がパーティーとはまた異なるてんやわんやの一方で、1971年5月にフランス人モデル、ビアンカ・ペレス・モレノ・デ・マシアスを人生の伴侶に迎え入れたミック・ジャガーは、完全に新婚ボケともいえる行動に出て、キースをはじめレコーディング・メンバーたちをしばしば失意させていたようだ。曲作りも大詰めとなったところで、やおらレコーディングを抜け出し、パリにいるビアンカのもとに鼻の下を伸ばしてすっ飛んでいく・・・キースとミックの軋轢は当然ながら表面化してゆく。「キースはミックを単純にバンドの一員としてしか見なくなったんだ。2人の衝突はこの頃から始まったんじゃないかな」とは、当時を知るイアン・スチュワート。前作『Sticky Fingers』でオープンGチューニングを完全に体得したキースが、さらに発展的にそのスタイルを投じることができると考えれば、おのずと新曲作りに力も入り、イニシアチヴを握ろうとするのはごく自然なこと。「Rocks Off」、「Rip This Joint」、「Tumbling Dice」、さらには自身がリード・ヴォーカルをとる「Happy」といった “必殺のリフ”が駆け巡るその後のバンドの代表曲となるものは、完全にキースの主導でイチから作られていると捉えることができる。「このアルバムは完全にキースのものといえるだろうね」とは、プロデューサー、ジミー・ミラーの弁。さらには、リードをとった「Happy」はもちろん、「Rocks Off」、「Casino Boogie」、「Sweet Black Angel」、「Loving Cup」など多くの曲でハーモニー・ヴォーカルを付けている、歌うことへの積極性も見逃せない点のひとつだ。

 ミックも新婚おのろけ気分が一息着いたと思われる同年11月、LAはハリウッド・スタジオでの最終ミックス時には冴えたアイデアをバンバン投入し、ある種のコンセプトを持たせた作品に仕立て上げることに貢献している。アルバムを全18曲の2枚組として発売することはもちろん、「Rocks Off」中間部のサイケな展開や「Ventilator Blues」から「彼に会いたい」にいたるつなぎの仕掛け、細部のエフェクト処理など、「バンド内での冷静な状況判断やマーケティング・センスはやっぱりオレにしかできない」といった具合の緻密に練られたシュアな最終アレンジを加えている。ここに、骨組みをキース、最終仕上げをミックというセルフ・プロデュース・チーム=グリマー・ツインズの方法論の輪郭がおぼろげながらに浮かび上がってきている。

ハリウッド・スタジオで
 ハリウッド・スタジオでのミックス作業には、ご当地ウエスト・コースト系のミュージシャンたちも多勢駆けつけ、ビリー・プレストン、アル・パーキンス、ビル・プラマー、グラム・パーソンズ(ネルコートにも訪れている)、Dr. ジョン、タミ・リン、クライディ・キング、ヴェネッタ・フィールズ、キャシー・マクドナルドらが、ブルース、ゴスペル、カントリー、ニューオリンズ・ミュージックにどっぷり漬かったストーンズのアメリカン・ルーツ・ミュージック探求旅行のゴールを見事にサポートしている。同時に、「ストーンズは周りにいる人間の使い方がうまい」という声も多くあるが、それも彼らの才能のひとつだということは間違いない。アルバム・ジャケットには、スイス・チューリッヒ出身の写真家で、自らも放浪の旅をしながらアメリカの日常を撮り続けていたロバート・フランクによる”フリークス”写真を全面にコラージュしたものを採用。フランクは、翌72年からの北米ツアーを記録し、「Cocksucker Blues」というドキュメンタリー映画としてまとめ上げてもいる(未公開)。また、ミュージック・フォトグラフの巨匠ノーマン・シーフが撮り下ろし、ディレクションをも務めた12枚綴りのポスト・カードの封入も、視覚的な仕掛けに抜群の効果をもたらした。

 こうして1972年5月12日に発表された『Exile On Main Street』は、当時のバンドの勢いからすれば当然のごとく英米で1位を獲得するも、シングル・カットされた「Tumbling Dice」やキースの「Happy」、当初第1弾シングル候補にあった「All Down The Line」を除けば、チャートに常駐するようなキャッチーな楽曲は見当たらない。むしろ初心に帰ったかのように、大好きなブルース、カントリーなどと好きな時に好きなだけ戯れている、かなりメンバー個々の嗜好に実直でナード感たっぷりの出来ばえという印象さえもある。

 しかし、「ストーンズ版ベースメント・テープス」とも呼ばれるその”南仏密室芸”こそがこの作品の特徴であり本領でもある。蒸し風呂のような地下室での仕込みで発酵に発酵を重ねたベーシックなトラックは、時に地中海の潮風にさらされながら、大らかな時の流れを経てじっくりと熟成されたものばかり。ほどほどの雑味の中にある吟醸香がたまらない。LAで何人もの匠の技によりトータル的にコクのあるものに整えられた『Exile On Main Street』は、ならず者(≠国外追放者)たちが夢見る豊穣な音楽畑への憧憬が、豊潤な地において一大叙事詩のようなものとして形成されていくという、商業主義もへったくれもないひとつの人間くさいストーリーとして見事に結実。少なくとも僕は、そんな過程の一部始終を想像しただけでただただうっとりさせられてしまう。『Beggars Banquet』と同じくバンドにとって一番大事な時期のアルバムを、家族との時間を犠牲にしてまで精根込めて作り上げたキースが後に語っている。「これでやっとガキ相手のバンドから脱皮することができたぜ」。  







 キースのリフによって導かれる、期待どおりのオープニング。中盤にかけての盛り上がりをバックアップするのは、生粋の南部男ふたり、ボビー・キーズ(ts)とジム・プライス(tp)によるテキサスの荒馬ホーンズ。「Brown Sugar」、「Bitch」でのグルーヴがストレートに受け継がれている曲で、序盤から中盤にかけて徐々にアクセルをふかしはじめる ”のらりくらり感” がストーンズならでは。ミックとキースによるけだるいヴォーカル・ハーモニーも扇情感たっぷり。幻の来日記念盤として1973年に日本のみでシングル・カットされている。

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Live Licks
 
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What If It Works



 間髪入れずに畳み掛けられるハイスピードなブギ。キースのたくましいカッティング・ギターとニッキー・ホプキンスの激しいブギ・ピアノが2分間絡み合い転がり続け、ビル・プラマーが弾き出すアップライト・ベースの太い低音もグルーヴを性急なものにさせている。「アメリカ全土を大騒ぎして踊りながら回ろうぜい」と青スジを立てながら怒鳴り散らすミックに呼応するかのように、ボビー・キーズも向こう見ずなブロウを炸裂させる。

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Mick Jagger / In New York
 
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Chuck Leavell / Live In Germany: Green Leaves & Blue Notes Tour
Billy Squier / In Concert



スリム・ハーポ
 原題「Shake Your Hips」。オリジナルは、ルイジアナのブルース・マン、スリム・ハーポの1966年のナンバー。デビュー・アルバムで「I'm A King Bee」を取り上げて以来2度目となるハーポ曲へのチャレンジ。チャーリーのリム・ショット、ミックのマウスハープ、キースのカッティングなど原曲に忠実なラインをなぞっているものの、仕上がり的には50sやロカビリーのスタイルに程なく近いものとなっている。全体を泥くさくシェイクさせているミックのヴォーカルが頭から離れない。ピアノはイアン・スチュワートで、この時期ニッキー・ホプキンスに”6番目のストーンズ”の座を奪われかけていただけに、面目躍如のファイン・プレイで存在を大いにアピールしている。

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Lou Ann Barton / Read My Lips
101ers / Elgin Avenue Breakdown Revisited
Robert Randolph / Live At The Wetlands



 よく聴き込んでいる人でなければ忘れ去られてしまいそうな曲だが、伝統的なブルースの手法に則りながらもストーンズならではのパンチを十分に効かせている。「不眠」、「スカイ・ダイバー」、「カンの切り口にキス」、「100万ドルの悲しみ」、「もう時間がない」・・・と短いフレーズのみを羅列させたミックの秘密めいた詞が、キースの超高音コーラスと重なって妖気を生み出す。ロバート・フランクによって撮影されたフリークス・カットをコラージュした本作のアルバム・ジャケットを眺めながら聴いていると、ある種のシンクロニシティが作用し、ぐいぐいとこの曲の世界に引き込まれてしまう。ベースをキース、ピアノをニッキー・ホプキンスが担当している。



「ダイスをころがせ」日本盤シングル
 アルバム発売に先がけた1972年4月に第1弾シングルとしてリリース。オリンピック・スタジオあるいはネルコートにおけるワーキング・タイトルは「Good Time Women」。「All Down The Line」と最後まで第1弾シングルの座を争ったようだが、最終的なミックスでクライディ・キング、ヴェネッタ・フィールズ、さらに一部諸説ではグラム・パーソンズらによる最高にアーシーなバック・コーラスが加わったことで、こちらに軍配が上がった。また、キースの5弦ギターによるフレーズも当然後押しとなっている。ベース、スティール・ギターはミック・テイラーで、もう1本のギターはミック・ジャガーによるもの。

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Love You Live
Let's Spend The Night Together
At The Max
Biggest Bang
Shine A Light
 
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Linda Ronstadt / Simple Dreams
Owen Gray / Shook Shimmy & Shake -The Anthology



キースとグラム
 グラム・パーソンズとの交流によりカントリー&ウエスタンにどっぷりと浸かっていたネルコート・セッションでのキース。合間の食事休憩中においてもジョージ・ジョーンズやマール・ハガードらのカウボーイ・ソングを夢中になって弾いていたというのだから、その傾倒ぶりはよほどのものだったことが窺え、また、曲のエンディングでかすかに聴こえる拍手や笑い声がネルコート・セッションの充実ぶりをよく表している。ピアノはイアン・スチュワートで、目立たないながらも安定したプレイで好サポートしているのは見逃せない。ミックのマウスハープもいつも以上に郷愁的に鳴り響いてゆく。

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Voodoo Lounge DVDは廃盤です
≫廃盤
Stripped
 
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Ronnie Lane / How Come
Donavon Frankenreiter / Recycled Recipes 2



 アコースティックな純正カントリー・ソングに続くのは、スワンプ・テイストを少量盛り込んだカントリー・ロック調のロード・ソング。フライング・ブリトー・ブラザーズのアル・パーキンスによるペダル・スティールのメロディが一気に曲の輪郭を浮き立たせている。オルガンをジム・プライス、ベースをミック・テイラーという変則的な布陣。1972年の北米ツアーでは、カナダはバンクーバー、パシフィック・コロシアムのステージで唯一ライヴ演奏されている。

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Black Crowes / Warpaint Live
 



アンジェラ・デイヴィス
 原題「Sweet Black Angel」。アメリカの黒人解放運動の女性活動家アンジェラ・デイヴィスに捧げ作られた。アコースティック・ギターのシンプルなコード・ストロークに、グィロ、カウベル、マウスハープ、マリンバの音色が次々と重ねられ、カリビアン・ミュージック的な色彩をも放つ。「Tumbling Dice」のシングルB面に収められたということで、この一種独特のサウンドがいち早くファンの耳に届いたというのも面白い。1972年のツアーでは、6月3日シアトルのステージでこの日釈放されたアンジェラに捧ぐライヴ演奏が行われた。


 「Give Me A Drink」というワーキング・タイトルとしてすでに1969年のオリンピック・スタジオでベーシックな録音がされており、ブライアン・ジョーンズ追悼コンサートとなった同年7月5日のハイド・パーク・フリー・コンサートでも(とてもラフなヴァージョンだが)披露されている。最終的にネルコートで肉付けが行われた最終形のオリジナル・ヴァージョンは、ニッキー・ホプキンスのマジック・タッチによって紡がれたピアノが、ストーンズのイントロ史上トップクラスの美しさを誇るものと語られるようになり、厳かで牧歌的なゴスペル・トラディショナル、サイケなニュアンス、ブラス・ロックの迫力といった様々な要素の隠し味を取り入れ、母体を膨張させながらゴールにたどり着く、「無情の世界」にも似たスケールの大きい1曲となった。   

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Shine A Light
Shine A Light
 
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Phish / Live Phish 03 / 06 / 09: Hampton Collseum, Hampton
Phish / At The Roxy: Atlanta 93
Peter Frampton  Pacific Freight


ミカウバー
 ”キース・リチャーズ見参” を意気揚々と宣言。「座って半畳 寝て1畳」。キーフらしさ全開のシンプルで間違いのない幸福論。愛器”ミカウバー”(53年製テレキャスター)を颯爽と構えマイクの前でがなり倒し、ブリッジ〜サビで1本のマイク・スタンドをミックと分け合うというシーンがあまりにも有名な72年北米ツアーのライヴ映像は、是非オフィシャルでリリースされてほしいもの(翌73年のヨーロッパ・ツアーにおける「Happy」は、ミック・テイラーのスライド・ギターが凄まじい!)。スタジオ盤は変則的なパーソナルで録音され、ベースもキース、ドラムをジミ・ミラー、パーカッションをボビー・キーズが担当している。アメリカでは第2弾シングルとして発売され、最高22位を記録した。

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Love You Live
At The Max
Live Licks
Keith Richards / Live At Hollywood Palladium
 
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Pointer Sisters / Priority
Sheryl Crow / Live From Central Park
ドン・マツオ / オレハシナイヨ


 勢いよく飛び出すマウスハープに急き立てられるかのように、チャーリーのブラシ、ビル・プラマーのアップライト・ベースがぐんぐんと速度を上げる。ニッキー・ホプキンスのブギ・ピアノの転がり方もかなりごきげん。後半のミックのシャウトまで息つくヒマもなし。毎秒ごとに放射される熱量の多さは収録曲の中でダントツ。


 ストーンズ楽曲の中にミック・テイラーの名前が共作者としてクレジットされた唯一の作品として知られる粘っこいブルース・ナンバー。「Ventilator」とは「送風装置」のことで、殺伐とした世の中に対し「もっと風通しをよくする必要がある」とミック・ジャガーがドスの利いたブルース・シャウトを繰り返す。主なメロディ・ラインを作り上げたというミック・テイラーのスライド・ギター、ニッキー・ホプキンスのピアノ、ボビー・キーズ&ジム・プライスのホーン・セクションが三位一体となってネルコート地下室のうだる様な蒸し暑さに拍車をかける。

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Richard Hell / Time
Barry Goldberg / Stoned Again
V.A. / Amos House Collection Vol.3


 原題「I Just Want To See His Face」。前曲のフェイド・アウトに交差しながらフェイド・インしてくる呪術的な1曲で、どこか隣の部屋あたりから漏れてきているようなくぐもった音質がネルコートの地下室を連想させる。LAの最終ミックスで、クライディ・キング、ヴァネッタ・フィールズ、ジェリー・カークランドのクワイアが「Relax Your Mind」とブ厚いコーラスを乗せて不気味な高揚感を演出している。レイドバックしたエレクトリック・ピアノをキース、アップライト・ベースをミック・テイラーとビル・プラマー、パーカッションをジミー・ミラーが担当している。ちなみに、言わずと知れたアメリカのジャム・バンド、フィッシュが昨年のハロウィン週に開催した「Festival 8」という3日間のイベントの中日で、「Exile On Main Street」を丸ごと演奏(曲順もそのまま)するというセットを敢行し、ストーンズ・ファンのド肝を抜いたのは記憶に新しいところだろう。このセットの中で、特に再現が難しいと言われる(本家も1度もライヴ演奏はなし)この「彼に会いたい」を、バックアップ・シンガーを交えた10分近い長尺ジャム・アレンジでキメてくれた。


 『Exile On Main Street』がセッション陣営の強力バックアップによって成り立っていることが最もよく判るゴスペル・バラード。ヴェネッタ・フィールズ、タミ・リン、シャーリー・グッドマン(シャーリー&リー)、さらには、Dr. ジョンことマック・レベナックのコーラスが、本隊だけでは決して出すことのできないエモーショナルでふくよかなフィーリングを作り出し、曲全体を温かく包み上げている。カーティス・メイフィールドからの影響がモロに出ているキースのフェイザーをかけたギターも美しい。

「Exile On Main Street Blues」ソノシート
  アルバムからの第1弾シングルとして「Tumbling Dice」と最後まで争ったストーンズらしいアップ・ビート・ナンバー。1969年の時点でアコースティック・ヴァージョンとしてその骨組みはすでに出来ていたが、キースのキャッチーでしぶといリフの応酬にミック・テイラーのシャープなスライド・ギターによる合いの手という、「Brown Sugar」で確立された新たなギター・コンビネーションを前面に出すことによってドライヴ感が増し、ネルコートにおいて完成に漕ぎ着けられた。アメリカでのシングル「Happy」のB面に収められたテイクは、アルバム・ヴァージョンとは若干異なり、ピアノが全面的にフィーチャーされ、キャシー・マクドナルド(『Insane Asylum』でおなじみの)のコーラスがより前面に出たミックスを施したものを採用している。また、アルバム発売を2週間後に控えた1972年4月の最終週には、イギリスの音楽新聞ミュージカル・エクスプレスに、ピアノの伴奏をバックにミックがアルバムに収められる曲名を組み合わせて歌ったダイジェスト・ソノシート「Exile On Main Street Blues」が付録として付き、「All Down The Line」、「Tumbling Dice」、「Shine A Light」、「Happy」の5曲もダイジェストで併録されている。

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Let's Spend The Night Together
Shine A Light
Shine A Light
 
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Simply Red / Stay
Hydromatics / Earth Is Shaking



ロバート・ジョンソン
 原曲は、「Love In Vain(むなしき愛)」と同じく1937年6月に吹き込まれた伝説のブルース・マン、ロバート・ジョンソンのオリジナル・ブルース。ややヘヴィなブルース・ロック〜R&B解釈のアレンジが施されているが、イアン・スチュワートのピアノとミックのマウスハープのスウィング感が絶品のうまみダシとなり得ている。70年代に入るとロバート・ジョンスン再評価の動きと共に多くの退屈なブルース・ロック・カヴァー(ロバート・ジョンソンに限らず)が氾濫することにもなるが、やはりストーンズのロバート・ジョンソンに捧げる愛は格別。初めてロバート・ジョンソンのレコードをブライアン・ジョーンズのアパートで聴いた日から当時で10年。キースはその時のことを鮮明に憶えていた。「ただのブルースとは違う。上の方からモーツァルトが、下の方からバッハが聴こえてきた」と19歳のキースは震え上がり、と同時にバンドを結成してロンドン中にブルースを広める理想に燃えた。

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UFO / Visitor
Jeff Healey / Songs From The Road
White Stripes / White Stripes
Eddie Taylor / I Feel So Bad
Junior Wells / South Side Blues Jam
 


   
  
   



 一昨年日本でも公開されたマーティン・スコセッシ監督の同名タイトル映画により、ストーンズの有名曲リストで赤丸急上昇と相成った名バラード。ピアノとオルガンの両刀プレイは、前作の「I Got The Blues」で見事な”メンフィス・ロングトーン”でソウル・オヤジを号泣させてくれたビリー・プレストン。ビートルズの「Get Back」セッションでロック界隈でも有名になったが、ビリー本来の持ち味を引き出したのはやはりストーンズだろう。ファンキーなソウル系オルガン・プレイヤーというよりは、ゴスペル・フィーリングをたっぷりしみ込ませたピアニストとしての役回りの方がビリーの重厚なタッチにぴったりだと思うのだが、どうだろう? ミックのふりしぼるような熱いヴォーカルとクライディ、ヴェネッタ、ジェリーらによるクワイア・コーラスとの掛け合いがとてつもなくダイナミック。この曲の雛形にミック、レオン・ラッセル、リンゴ・スターらによる1969年のリハーサル・テイク「(Can't Seem To) Get A Line On You」というものがあり、そちらをボーナス収録したレオン・ラッセル『Leon Russell』のGold CD 24 Karat盤は、1996年に突如リリースされストーンズ・ファンをアッと言わせたが、現在は廃盤で中古市場でも高値を付けている。乞・再プレス!  

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Biggest Bang
Shine A Light
Stripped
Shine A Light
 
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Jennifer Warnes / Love Lifts Us Up -Collection1969-83


 「Shine A Light」の感動的な余韻を残しつつ、いよいよアルバムのラストへ。キースは職人気質なギター・リフと手数の多いベース・ラインで骨格を作ることに専念し、ミック・テイラーに主役の座を譲る。意気に感じたミック・テイラーも「うん、わかったよ」とばかりにボトルネックを軽快に滑らせる。「Gonna Be The Death Of Me (あんたはオレを死ぬほど苦しめる) 」という思わせぶりなパンチラインをシャウトするミック・ジャガーは、退廃的なロック・スターと明日を夢見るソウル・シンガーの狭間をバー毎にあくせく行き来する芸達者ぶりで、この時代の王道ともいえるストーンズ・サウンドを盛り上げている。

 




アル・パーキンス Al Perkins
(アル・パーキンス)


テキサス出身のペダル・スティール奏者アル・パーキンスは、ドン・ヘンリーらと結成したシャイローを経て、1970年にフライング・ブリトー・ブラザーズに加入。ライヴ盤『Last Of The Red Hot Burritos』では伸びやかで艶のある音色のスティール・ギターを聴くことができる。ブリトーズの解散後は、スティーヴン・スティルスのマナサスに入団する一方で、様々なセッションの現場に呼ばれることが多くなり、その中でもグラム・パーソンズのソロ作品に参加したことが縁で、『Exile On Main Street』所収「Torn & Frayed」のLA録音に呼ばれたという。また、ドブロ・ギターの名手としても知られている。

アンディ・ジョンズ Andy Johns
(アンディ・ジョンズ)


ロンドンのオリンピック・スタジオを拠点に仕事をしていたイギリスの名エンジニア/プロデューサー、グリン・ジョンズを兄に持つアンディ・ジョンズ。60年代末から70年代初頭にかけては兄の関わる作品で共同エンジニアを務め、レッド・ツェッペリンブラインド・フェイスのアルバムに携わり、また、70年代初期のフリーの作品をプロデュースしていることでも知られている。ストーンズ作品では、『Sticky Fingers』から『It's Only Rock'n'Roll』までの4作品でエンジニアを務め、70年代黄金期のストーンズ・サウンドの確立に貢献している。70年代末にアメリカに移り、テレヴィジョンジョニ・ミッチェルロン・ウッドの作品に参加。80年代以降はヴァン・ヘイレンなどハード・ロックの名プロデューサーとして名を馳せている。

ビル・プラマー
Bill Plummer
(ビル・プラマー)


米西海岸出身で元々ジャズ畑を中心に活動をしていたマルチで異色なベース・プレイヤー/シタール奏者、ビル・プラマーは、「The Basses International Project」というプロジェクトで共に活動していた、ジョン・レノンエリック・クラプトンライ・クーダー作品への参加でおなじみの名セッション・ドラマーのジム・ケルトナーを介してストーンズのプロデューサー、ジミー・ミラーと知り合い、そこで『Exile On Main Street』の数曲でアップライト・ベースを弾くよう依頼されたという。

ビリー・プレストン

That's The Way God Planned It

Live European Tour
Billy Preston
(ビリー・プレストン)


カリフォルニアの出身と思われがちだが、実は生まれ故郷はテキサス州ヒューストン。10歳の頃から教会でゴスペルのオルガン奏者としてキャリアをスタートさせ、16歳の頃にはすでにリトル・リチャードレイ・チャールズサム・クックキング・カーティスといった大スターのバック・バンドの一員として活躍。ゴスペルを下地にした泥くさいサザンソウル・スピリッツ溢れる楽曲においてこそ真価が発揮されるビリーの黒くアーシーなタッチ。ビートルズの「ゲット・バック・セッション」に参加し、「Get Back」、「Let It Be」、「Something」でエレクトリック・ピアノを弾いたことを機に、ロック界隈でもその名が広く知られていくようになる。アップル・レコード移籍第1弾のソロ・アルバム『That's the Way God Planned It』には、プロデューサーを務めたジョージ・ハリスンをはじめ、キース・リチャーズエリック・クラプトンらも参加している。70年代に入り米南部指向を強めたストーンズのアルバムには、『Sticky Fingers』以降『Black And Blue』までの期間レコーディングに参加。1973年のストーンズのツアーには前座+サポート・メンバーとして、1975年〜76年のツアーではサポート・メンバーとして参加し、主役をバックに自身の曲「Nothing From Nothing」、「That's Life」を堂々披露している。   

ボビー・キーズ

On Tour With Eric Clapton

Bobby Keysソロ・アルバムは未CD化
Bobby Keys
(ボビー・キーズ)


60年代末、レオン・ラッセルを中心とする米南部スワンプ・ロック・サークルで活動していたボビー・キーズは、ジミー・ミラーを介してストーンズと出会うことになる、テキサス出身のサックス奏者。10代でバディ・ホリーのバック・バンドでの演奏を経験し、その後も様々なバンドでの演奏を経たのちにレオンの紹介でデラニー&ボニーのツアー・バンドに参加。この大編成バンドには、エリック・クラプトンデイヴ・メイソンらも参加していたということもあり、彼らからストーンズ作品参加へのアドバイスなどもされていたのだろう。『Let It Bleed』所収の「Live With Me」を皮切りに、『Sticky Fingers』「Brown Sugar」など数々のストーンズ楽曲でブルース・フィーリング溢れるサックス・ソロを披露し、1970年以降はツアーのレギュラー・メンバーに着任(1975〜78年はゲスト扱い)している。ボビーに「キースのような人間に一生で5人会えればラッキーだよな」と言わしめたそのキースとは同じ生年月日(1943年12月18日)ということもあり、ソロやニュー・バーバリアンズなどストーンズ以外の活動でも度々共演しながら、現在もソウルメイトのような理想的な信頼関係を保ち続けている。

クライディ・キング

Mad Dogs And Englishmen
Clydie King
(クライディ・キング)


テキサス州ダラス出身のR&B/ソウル・シンガー、クライディ・キングは、60年代にはレイ・チャールズのコーラスを担当していた3人組レイレッツの一員として活動していた。ソロとしてもSpecialty、KENTといった名門にシングルをコンスタントに吹き込んでいたが、彼女の知名度を飛躍的に伸ばしたのは、やはり様々なセッションへのコーラス参加だろう。ジョー・コッカー『Mad Dogs And Englishmen』のツアー一行として、ヴェネッタ・フィールズ、シャーリー・マシューズらと結成したブラックベリーズは、そのまま『Exile On Main Street』のLA録音の現場になだれ込むかたちとなった。そのほか、ハンブル・パイボブ・ディランスティーリー・ダンなどの名アルバムの中に彼女のクレジットを見かけるはずだ。

Dr. ジョン Dr. John
(ドクター・ジョン)


おなじみニューオリンズ・スワンプの生き字引、Dr. ジョンことマック・レベナック。ニューオリンズ・ミュージックとスワンプ・ロックの素晴らしい交叉盤『Gumbo』をすぐ近くのサウンド・シティ・スタジオでレコーディングしていた時期でもあり、そちらのレコーディング・メンバーであったタミ・リン、シャーリー・グッドマンを引き連れ、ハリウッド・スタジオでの「Let It Loose」のコーラス録音に参加したというのがおおよその経緯。また、1970年に録音されたDr. ジョンのアルバム『The Sun、Moon & Herbs』には、ミック・ジャガーが6曲もバック・コーラスで参加しており、そのお礼に、といったところも多分に含んでいるのだろう。

グラム・パーソンズ

Buririto Deluxe

Sleeples Nights
Gram Parsons
(グラム・パーソンズ)


インターナショナル・サブマリン・バンドバーズ(『ロデオの恋人』時代)、フライング・ブリトー・ブラザーズを渡り歩き、カントリー、またはカントリー・ロックを追求し続けた男、グラム・パーソンズ『Let It Bleed』の制作にとりかかった頃から、キースとグラムとの親交は始まったと言われている。「Love In Vain」「Country Honk」「Wild Horses」「Dead Flowers」、また、キースとグラムが南カリフォルニアの公園にUFOを見に行った時にアイデアが浮かんだとも言われている「Moonlight Mile」など、グラムがストーンズ・サウンドに与えた影響というものは計り知れない。もちろん『Exile On Main Street』のレコーディングにおいても、仏ネルコート、最終ミックスが行われたLAハリウッド・スタジオにグラムは訪れていて、「Sweet Virginia」「Torn & Frayed」といった楽曲でその親睦がのぞかれる。グラムは、1973年、2枚目のソロ・アルバム『Grievous Angel』を完成させた直後にアルコールとドラッグの過剰摂取により26歳という若さでこの世を去ったが、その後もストーンズは、「Far Away Eyes」「Indian Girl」「The Worst」「Sweethearts Together」といった曲にカントリー・フレイヴァを吹き込むことによって、その友情を永遠のものとしている。




グリン・ジョンズ Glyn Johns
(グリン・ジョンズ)


上掲アンディ・ジョンズの実兄でもあるエンジニア/プロデューサー、グリン・ジョンズは、ザ・フーフェイセズハンブル・パイなどの所謂ブリティッシュ・ロックの名盤と呼ばれる作品を数多く手掛けていた名伯楽。ストーンズとは彼らのデビュー以前から交流があったそうだが、60年代後半(『Their Satanic Majesties Request』以降)から70年代初頭にかけてのストーンズのスタジオ・レコーディングのサウンド面において全面的なイニシアチヴをとっていた。デラニー&ボニーレオン・ラッセルジェシ・デイヴィスリタ・クーリッジイーグルスジョー・コッカーといったLA〜イギリス・スワンプの主流アーティストたちがこぞって惚れ込んだグリン特有の洗練されていないむきだしのサウンド・プロダクションは、当時ルーツ指向にあったストーンズにとってもベストのものであった。

ジミー・ミラー Jimmy Miller
(ジミー・ミラー)


1968年、春の訪れとともに「ブルース」、「米国南部」というルーツ・ミュージックへの指針をしっかりと捉えたストーンズは、アイランド・レコーズ創設者クリス・ブラックウェルの肝煎りとしてスペンサー・デイヴィス・グループトラフィックなどを手掛け注目を集めていた新進気鋭のジミー・ミラーをプロデューサーに抜擢。ちょうどその頃完成したばかりだったトラフィックの2ndアルバム『Traffic』のサウンドをミックがいたく気に入ってスカウトしたそう。ブルースを機軸とした手堅くアーシーなサウンド作りの中にも実験的な試みを次々と取り入れた『Beggars Banquet』でそれは吉と出て、以降『Goat's Head Soup』までにおいてジミー・ミラーはストーンズから全幅の信頼を得て、揺るぎない黄金期のサウンドを作り上げている。

ジム・プライス Jim Price
(ジム・プライス)


ボビー・キーズと同じくLAスワンプ・サークル諸作品やビートルズ作品などに参加していたテキサス出身のセッション系トランペット奏者ジム・プライス。ボビ・キーズの紹介によりストーンズ作品へ参加となったその初登場曲は、『Sticky Fingers』所収となる「Bitch」で1970年のオリンピック・スタジオにて。Stax系ジャンプ・ナンバーをストーンズ流に昇華したこの曲では、ジムとボビーによるパンチの効いたホーン・セクションが明らかにドライヴ感を与えている。この後1973年のウインター・ツアーまでバンドに同行し、70年代ストーンズの黄金期を支えた。

キャシー・マクドナルド Kathi McDonald
キャシー・マクドナルド


ジャニス・ジョプリン亡き後のビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーの2代目ヴォーカリストとして、さらには、ジョー・コッカー『Mad Dogs And Englishmen』レオン・ラッセル率いるシェルター・ピープルへの参加など、地味ながらもブルース・ロック、スワンプ・ロックの最重要作品にこれでもかと名を連ねているブルース・ロック女裏番長シンガー、キャシー・マクドナルド。白人でありながらディープなソウル/ブルース歌唱で魅せるという点でジャニスやボニー・ブラムレットらとしばしば比較されるキャシーだが、ミュージシャンズ・サークルにおける彼女の評価というものは2人を遥かに凌ぐ高いものがあった。1974年のソロ1stアルバム『Insane Asylum』(邦題:精神病棟!)には、スライ・ストーンニール・ショーンロニー・モントローズニルス・ロフグレン・・・といった大物たちが参加。彼女の歌声がいかに魅力的かを間接的に証明している。ストーンズとは『Exile On Main Street』「All Down The Line」での共演となり、疾走感のあるキャッチーなフックを華やかにバックアップ。

レオン・ラッセル

Leon Russell
Leon Russell
レオン・ラッセル


グリン・ジョンズの紹介でストーンズと出会うこととなるレオン・ラッセルは、まずは『Let It Bleed』「Live With Me」にピアノで参加し持ち前のLA流スワンプ・サウンドの一片を名刺代わりに差し出す。しかし、レオンのストーンズへの最大の貢献は、その広い人脈を生かし米南部のミュージシャンズ・サークルを彼らストーンズと共有したという点にある。自身のシェルター・ピープル、デラニー&ボニー&フレンズジョー・コッカーのマッド・ドッグス&イングリッシュメンといった共同体が誇る腕利きの人海を、当時南部ルーツ・サウンドに飢えていたストーンズの助力のために惜しげもなく送り込み、ブルース、ソウル、カントリー、ゴスペルの持つ泥くさく豊かなニュアンスを分かち合ったその功績は称えられてしかるべき。また、1969年初のソロ・アルバム『Leon Russell』の録音には、ビル・ワイマンチャーリー・ワッツが参加している。

ニッキー・ホプキンス

『Jamming With Edward』は廃盤です

ソロ・アルバム『Tim Man Was A Dreamer -夢みる人』は廃盤です
Nicky Hopkins
ニッキー・ホプキンス


当然 ”交遊録”というコトバでは片付けられないところもあるが・・・ジャック・ニッチェ、イアン・スチュワートに次いで登場し、”第6のストーンズ”となるレギュラー・ピアニストの座を1967年『Between The Button』録音時に射止めたニッキー・ホプキンスは、『Tattoo You』までの間実に70曲以上の楽曲に参加。現在に至るまでの歴代全サポート・メンバーの中でも群を抜いて高い人気を誇っている。『Exile On Main Street』においても感性豊かなピアノ・ワークは冴えわたり、「Loving Cup」の流麗なタッチから「Turd On The Run」「Rip This Joint」でのワイルドに転がるブギまで緩急自在。パーマネントな鍵盤奏者を置かないバンドにとって各時期の”6番目のストーンズ”というのは、まさにバンドが目指す方向性を左右する重要な存在であるということは疑いもないだろう。とりわけ、『Thier Satanic Majesties Request』から『It's Only Rock'n'Roll』まで、さらには1971〜73年絶頂期(&乱痴気)と評されるライヴを一任されていたニッキー・ホプキンス、彼なくしては、ホンモノのストーンズ・サウンドを語ることはできない。ちなみに、1969年『Let It Bleed』録音時のアウトテイク・ジャム『Jamming With Edward』(CD廃盤)は、ニッキーにライ・クーダー、そして、キース抜きのストーンズがスタジオ・セッションした時の記録で、72年に正式リリースされている。

ノーマン・シーフ Norman Seeff
ノーマン・シーフ


南アフリカ、ヨハネスブルグ出身のフォトグラファー、CM/ドキュメンタリー監督。ロック・ミュージシャンに限らずあらゆるジャンルの著名人を写真とフィルムで撮り続け、ジャケット制作において時にはアート・ディレクションやデザインまでをひとりでこなす。『Exile On Main Street』では、ジャケットのレイアウトとデザインを手掛け、また封入されている12枚綴りのポストカードのフォトとディレクションも担当している。このほか、ノーマンが手掛けた有名なアルバム・ジャケット・デザインとしては、リッキー・リー・ジョーンズジョニ・ミッチェルキッスなどがある。

ロバート・フランク Robert Frank
ロバート・フランク


大方のロック・ファンにとっては『Exile On Main Street』のジャケット・アートワーク、そして、ドキュメンタリー・フィルム『Cocksucker Blues』という、ストーンズ史上屈指のいかがわしい芸術性を匂い立たせる2大プロダクツを手掛けた人物としてよく知られるロバート・フランク。1924年、スイスのチューリッヒで生まれ育ったフランクは、47年に移民としてニューヨークに出てきた後、50年代半ばには全米を放浪しながら、実にフィルム767本を使用しながら市民の現実の生活を写真に収め続けた。撮影イメージ約27、000点、ワークプリント約1000枚の中から83作品が写真集にまとめられ、58年5月に「Les Americains(アメリカ人)」として刊行されている。アレン・ギンズバーグジャック・ケルアックといったビート詩人らと共鳴し合うことで「視覚的詩人」とも呼ばれていたフランク。「Les Americains(アメリカ人)」にも掲載されていた写真をコラージュしたアートワークは、ストーンズの楽曲イメージを肥大化させる一種の魔法(麻薬?)めいたパワーに満ちている気がしてならない。

ライ・クーダー

ミック・ジャガー主演『Performance』サントラ
Ry Cooder
ライ・クーダー


『Exile On Main Street』の録音に直接関わってはいないが、『Let It Bleed』以降のストーンズ、特にキースのギター・プレイに与えた影響を考えるとこのライ・クーダーを外すわけにはいかない。ジャック・ニッチェがオリンピック・スタジオに連れてきた当時まだ無名に等しいギタリストであったライは、表向きは「Love in Vain」にマンドリンでクレジットされるだけにとどまったが、「Honky Tonk Women」の有名なオープンGフレーズの発案者、ひいてはキースにオープンGチューニングのスタイルを取り入れさせることになった家元であると古くから言われている。そのあたりの真意を明かす手がかりとしては、この時のセッションを収録し公式音源化した『Jamming With Edward』(CD廃盤)が最も有効だろう。キース抜きによるストーンズとのジャム・セッションにも関わらず、フレーズ、リフのカッティングの端々にキースのそれとの類似性が聴いてとれ、まるでストーンズ本隊によるセッションと何ら遜色がない。さらに、唯一この時期に至るまでのストーンズらしくない点として、ライの米南部色豊かなサウンド・デザインが挙げられる、とまでくれば、後の『Sticky Fingers』(ライは「Sister Morphine」の再録に参加)、『Exile On Main Street』でキースがひたむきに追い求めるようになる米南部サウンドの旨味、その最も身近で良質なお手本がライのギター・プレイだったのかもしれないと言えるはずだ。

シャーリー・グッドマン Shirley Goodman
(シャーリー・グッドマン)


ルイジアナ州ニューオリンズ出身のR&B/ソウル・シンガー、シャーリー・グッドマンは、50年代から60年代初頭にかけてはレオナルド・リーとのデュオ、シャーリー&リーとして地元ニューオリンズを拠点に活躍。1952年に初シングル「I'm Gone」、56年に「Let The Good Times Roll」の大ヒットをを記録。63年のデュオ解消後は、ジェシー・ヒルソニー&シェールDr. ジョンの作品のバック・コーラスなど主にセッション・シンガーとしての仕事をこなした。『Exile On Main Street』「Let It Loose」には、ちょうど同時期に『Gumbo』のバック・コーラスに参加していたという経緯でDr. ジョンからの誘いを受けたのだろう。その後75年には、シャーリー&カンパニーとして、シルヴィア・ロビンソン制作の「Shame Shame Shame」をディスコ・ヒットさせている。

タミー・リン Tami Lynn
(タミ・リン)


シャーリー・グッドマンと同じくニューオリンズ出身でDr. ジョン作品への参加をきっかけに『Exile On Main Street』「Let It Loose」にコーラス客演と相成ったタミ・リン。ソロとしては、この時期のストーンズと同じくAtlantic傘下Mojo/Atcoから「I'm Gonna Run Away From You」のシングル・ヒットを1971年に放っており、イギリスのノーザン・ソウル・シーン・チャートの上位を席巻していた。

ヴェネッタ・フィールズ Venetta Fields
(ヴェネッタ・フィールズ)


ニューヨークはバッファロー出身のR&B/ソウル/ゴスペル・シンガー、ヴェネッタ・フィールズは、アイク&ティナ・ターナーのバック・コーラス・グループ、アイケッツに在籍していたことでも知られている。アイケッツがレビューを離れた後は、据え置きメンバーでミレッツとしての活動に移行。その後はクライディ・キング、シャーリー・マシューズらとのブラックベリーズとして様々なミュージシャンのバック・コーラスに参加。中でもピンク・フロイド『Dark Side Of The Moon』のツアー、そして、『Exile On Main Street』といったロック畑でのビッグネームとの仕事が特に目を引く。



 「Exile On Main Street」のプロモーションをかねた北米ツアーは、1972年6月3日のカナダはヴァンクーバーを皮切りに、全29都市51公演というかなり大規模なものとなった。「レディース・アンド・ジェントルメン」は、6月24日のフォートワース公演と25日のヒューストン公演両日の昼夜のステージをを捉えた記録映画だ。記録映画といってもドキュメンタリー的な性格や演出などはほぼ皆無となる純粋なライヴ・フィルムなのだが、ストーンズの絶頂期とも言われるこの時期のライヴ映像は、公式なものとしてはこれでしか目にすることができないというのだから資料的にも価値は高い。しかも1974年にアメリカで劇場公開され、80年代にはオーストラリア盤でビデオ化されたにも関わらず、日本では今だ陽の目を見ずにいるのは残念にほかならない。

Ladies And Gentlemen


 グラム度の高い毒々しいメイクとラメラメの衣装に身を包んだミック。苦心の末に作り上げた大作を世に放ち解放感に満ちた面持ちで「Happy」をがなるキースは、ミック・テイラーとのギター・コンビネーションもいよいよ軌道に乗る。サポート・メンバー、ボビー・キーズ、ジム・プライス、ニッキー・ホプキンスを有機的に交えた絶好調のバンド・アンサンブルに体をくねらすこと必至の最上のパフォーマンス。現在のストーンズにはない異様な妖気と背徳感がステージの中央で塊となってこちらを睨んでいるかのようだ。また、このツアーではスティーヴィー・ワンダーのレビューが前座を務めていたが、スティーヴィーの「Uptight」と「(I Can't Get No)Satisfaction」をメドレー形式の共演でアンコール披露する公演もいくつかあった。この模様は、ロバート・フランクが撮影した未公開フィルム「コックサッカー・ブルース」に収められている。

 ストーンズ絶頂期のライヴ映像が今の今まで公式に世に出ることがなかったのはかなり不本意だが、この度リリースされる『Exile On Main Street』のデラックス・スーパー・エディションには、この2本のフィルムからの抜粋映像を収録したDVDが付属される。完全版ではない(いずれ?)にしろ、やはりこのディレクションには素直に拍手を送りたい。 (字が小さくてごめんなさい・・・)