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1 people agree with this review 2011/07/09
本盤は、全盛時代のライナー&シカゴ交響楽団がいかに凄い演奏を繰り広げていたのかを伺い知ることができるCDであると言える。それは何よりも、XRCDによる鮮明な高音質によるところが大きい。本演奏は1957年のスタジオ録音であるが、今から50年以上も前の録音とは到底思えないような鮮度の高い音質に生まれ変わったのは殆ど驚異的であり、あらためてXRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。これを聴くと、当時のライナー&シカゴ交響楽団は、卓越した技量もさることながら、とりわけ弦楽合奏の音色に独特の艶やかさがあることがよくわかるところであり、単なる技量一辺倒の演奏を行っていたのではないことが理解できるところだ。もちろん、技量には卓越したものがあり、鉄壁のアンサンブル、ブラスセクションのブリリアントな響き、唖然とするようなテクニックを有した木管楽器群など、当時のシカゴ交響楽団の演奏の凄さを味わうことが可能である。演奏内容も、素晴らしい名演と高く評価したい。本演奏でのライナーは、チャイコフスキー特有のメランコリックな抒情にいささかも耽溺することなく、終始早めのテンポで引き締まった演奏を心掛けているように思われる。この演奏を聴いて真っ先に念頭に浮かんだのが、トスカニーニ&NBC交響楽団による演奏(1947年)だ。本演奏では、さすがにトスカニーニの演奏のような即物的な表現に徹し切れているとは言い難いが、それでも純音楽的に徹したストレートな表現は、正にトスカニーニの演奏の系列に連なる演奏と言っても過言ではあるまい。そして、とりわけ金管楽器やティンパニなどによる最強奏は、壮絶ささえ感じさせるほどの圧巻の迫力を誇っていると言える。もっとも、こうした壮絶な演奏に適度の潤いと温もりを与えているのが、前述のような当時のシカゴ交響楽団が有していた弦楽合奏の艶やかな音色であり、その意味では、本演奏は、ライナーとシカゴ交響楽団の黄金コンビだけに可能な名演とも言えるだろう。いずれにしても本盤は、指揮者、オーケストラ、演奏内容そして録音の4拍子が高水準で揃った名CDと高く評価したい。
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2 people agree with this review 2011/07/09
本盤におさめられたシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」とR・シュトラウスのメタモルフォーゼンは、ケンペによる最晩年の演奏である。ケンペの演奏の特徴を一言で言えば、質実剛健ということになるのではないだろうか。ケンペの演奏には楽曲を華麗に描き出したり、はたまた艶やかに磨き抜いたりするということはいささかもなく、全体の造型をいささかも弛緩させることなく、楽想を剛毅かつ重厚に描き出して行くというものであると言える。したがって、演奏にはおよそエンターテインメント的な要素など薬にもしたくもなく、華やかさなどとも無縁であるが、一聴すると武骨にさえ感じさせる各フレーズには奥深い情感が込められており、ある意味では噛めば噛むほどに味が出てくるような含蓄のある演奏とも言えるのではないかと考えられる。とりわけ、晩年にミュンヘン・フィルとともに行った演奏において、かかる奥行きの深さが顕著にあらわれているところである。そのようなケンペも、まだまだこれからという1970年に鬼籍に入ってしまったというのは極めて残念ではあるが、それだけに本盤の演奏を含め、ミュンヘン・フィルと行った数々の晩年の演奏は、今後とも決してその存在価値を失うことがない素晴らしい名演揃いであると言っても過言ではあるまい。シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の演奏はきわめて難しいと言えるが、ケンペは造型の堅固さと、彫の深さによって、ベートーヴェンの偉大な交響曲にも比肩し得るような立派な大交響曲に仕立て上げていると言える。それでいて、テンポは若干早めであるとともに、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫、そしてトゥッティにおける豪快さなど、強靱な迫力においてもいささかも不足はないと言えるところだ。正に本演奏は、ケンペの質実剛健とも言うべき芸風が最大限に発揮された素晴らしい名演と高く評価したい。他方、R・シュトラウスのメタモルフォーゼンは、シューベルトとは異なり、豊かな歌心に満ち溢れた美しい響きが支配しており、ケンペとしては珍しいタイプの演奏とも言えるだろう。しかしながら、豊穣な弦楽合奏の端々から漂ってくる奥深い情感には人生の諦観を感じさせるような枯れた味わいがあると言えるところであり、これは、ケンペとしても最晩年になって漸く到達し得た清澄な境地と言えるのではないだろうか。いずれにしても、本演奏は最晩年のケンペだけが描出し得た至高・至純の高みに聳え立つ超名演と評価したいと考える。音質は従来盤でも十分に満足し得る高音質であったが、数年前に発売されたBlu-spec-CD盤がよりベターな音質であったと言える。しかしながら、先日、本盤におさめられた両曲のうち、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」について、ESOTERICがSACD化を行ったところであり、これによって見違えるような鮮明な高音質に生まれ変わったところである。今後は、メタモルフォーゼンについても、ESOTERICでもソニークラシカルでもいいので、是非ともSACD化をしていただくことを大いに要望しておきたいと考える。
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7 people agree with this review 2011/07/09
いかにもフルトヴェングラーならではの彫の深い素晴らしい名演だ。本演奏はスタジオ録音であり、セリフのみの箇所を大幅にカットしていることもあって、ライヴ録音における極めて燃焼度の高いドラマティックな演奏を成し遂げる常々のフルトヴェングラーとはいささか異なった演奏と言えるが、悠揚迫らぬインテンポによって濃密に曲想を進めていくなど深沈とした奥深さを湛えているのが素晴らしい。なお、フルトヴェングラーには、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」については、本演奏のほかにも1950年のザルツブルク音楽祭でのライヴ録音盤(数年前にオーパスが見事な復刻を行った。)があり、それは本演奏とは異なって極めてドラマティックな演奏であるとともに、歌手陣がきわめて豪華であることからそちらの方を上位に置く聴き手も多いとは思うが、本演奏にも優れた箇所も多く存在するところであり、容易には優劣はつけられないのではないだろうか。また、本演奏においては各登場人物の深層心理に鋭く切り込んでいく彫の深さが際立っており、とりわけ第2幕冒頭の序奏などにおいては、1950年盤以上に奥行きのある表現を展開しているなど、その筆舌には尽くし難いような深沈たる荘重さは、フルトヴェングラーとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのではないだろうか。また、フルトヴェングラーは、1950年盤と同様に、レオノーレ序曲第3番を、マーラーが慣習づけた流儀にしたがって終結部(第2幕第2場)の直前に配置しているが、これが冒頭の序曲ともども凄い演奏だ。両曲ともに冒頭からしていわゆるフルトヴェングラー節全開。あたかも交響曲に接するのと同様のアプローチで、劇的でなおかつ重厚な演奏を繰り広げており、スケールは雄渾の極み。とりわけレオノーレ序曲第3番においては、終結部のトゥッティに向けて畳み掛けていくような緊迫感と力強さは圧巻の迫力を誇っていると言える。このように、序曲及びレオノーレ序曲第3番だけでも腹がいっぱいになるほどの密度の濃い演奏を成し遂げていると言えるだろう。歌手陣はさすがに1950年盤の豪華さには劣っているが、それでもマルタ・メードルやヴォルフガング・ヴィントガッセン、オットー・エーデルマンなどの一流歌手陣が最高の歌唱を繰り広げていると言える。フルトヴェングラーの統率の下、最高のパフォーマンスを示したウィーン・フィルやウィーン国立歌劇場合唱団にも大きな拍手を送りたい。録音は1953年のスタジオ録音であり、従来盤でもフルトヴェングラーのCDとしては比較的満足できる音質であったが、今般のSACD化によって見違えるような鮮度の高い音質に生まれ変わった。とりわけ、第1幕の終結部の囚人の合唱や第2幕第2場の囚人と民衆の合唱、各歌手陣の息遣い、そして第2幕冒頭の低弦の細やかな動きまでが鮮明に再現されるのは、殆ど驚異的ですらあると言える。いずれにしても、フルトヴェングラーによる歴史的な名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2 people agree with this review 2011/07/08
交響曲第1番は素晴らしい名演だ。同曲には、ワルター&コロンビア響(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム(1987年)と言った至高の超名演があるが、本演奏はこれら両横綱に次ぐ大関クラスの名演と言えるのではないだろうか。マーラーの交響曲第1番はマーラーの青雲の志を描いた作品であり、円熟がそのまま名演に繋がるとは必ずしも言えないという難しさがあると言える。実際に、アバドは後年、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後まもなく同曲をベルリン・フィルとともにライヴ録音(1989年)しており、それも当時低迷期にあったアバドとしては名演であると言えなくもないが、本演奏の持つ独特の魅力には到底敵わないと言えるのではないだろうか。これは、小澤が同曲を3度にわたって録音しているにもかかわらず、最初の録音(1977年)を凌駕する演奏が出来ていないこととも通暁するのではないかと考えられる。いずれにしても、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでのアバドの演奏は素晴らしい。本演奏でも、随所に漲っている圧倒的な生命力とエネルギッシュな力感は健在だ。それでいて、アバドならではの歌謡性豊かな歌心が全曲を支配しており、とりわけ第2楽章や第3楽章の美しさには出色のものがあると言える。終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さには圧巻の凄みがあると言えるところであり、壮麗な圧倒的迫力のうちに全曲を締めくくっている。いずれにしても、本演奏は、強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれたアバドならではの名演に仕上がっていると高く評価したい。また、シカゴ交響楽団の超絶的な技量にも一言触れておかなければならない。当時のシカゴ交響楽団は、ショルティの統率の下、スーパー軍団の異名をとるほどのオーケストラであったが、本演奏でも若きアバドの指揮の下、これ以上は求め得ないような最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。他方、交響曲第10番は、この後の録音がなされていないことから本演奏が現時点でのアバドによる最新の演奏ということになるが、その演奏内容の評価については美しくはあるが、かと言って他の演奏を圧するような絶対美の世界を構築し得ているわけではない。楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みはないが、他方、歌謡性豊かな情感には満ち溢れるなど魅力的な箇所も多々存在しており、ウィーン・フィルによる美演も併せて考慮すれば、佳演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。以上を踏まえると、本盤全体の評価としては、若干甘い気もするが第1番の名演を踏まえ★5つとしたい。
1 people agree with this review 2011/07/08
ショスタコーヴィチは、弦楽四重奏曲を交響曲と同様に15曲も作曲したが、これはバルトークによる6曲の弦楽四重奏曲と並んで、20世紀における弦楽四重奏曲の最高傑作との評価がなされている。確かに、作曲書法の充実度や、内容の奥深さなどに鑑みれば、かかる評価は至当であると考えられる。ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、現在で言えば北朝鮮のような非民主的な独裁国家で、粛清の恐怖を耐え忍びながらしたたかに生き抜いた作曲家であった。かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、ショスタコーヴィチに関して記したその他の様々な文献を紐解いてもみても、その交響曲や弦楽四重奏曲などには、かかる粛清の恐怖や、スターリンをはじめとする独裁者への批判や憤り、独裁者によって粛清された犠牲者への鎮魂などが色濃く反映されていると言える。したがって、旧ソヴィエト連邦の時代を共に生き、粛清への恐怖に実際に身を置いた者こそが、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲に込められたこのような深遠な世界をよりうまく音化することができると言えるのではないだろうか。ボロディン弦楽四重奏団は、旧ソヴィエト連邦下において1945年に結成され、それ以降も旧ソヴィエト連邦において活動を行ってきた団体である。したがって、その演奏は、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の心眼に鋭く切り込んでいくという鋭さ、そして凄みにおいては、他のいかなる弦楽四重奏団が束になってもかなわないレベルに達していると言えるところであり、その演奏の彫の深さは、尋常ならざる深遠さを湛えていると言える。とりわけ、最晩年の弦楽四重奏曲の凄みのある演奏には戦慄を覚えるほどであり、これは音楽という次元を通り越して、あたかもショスタコーヴィチの遺言のように聴こえるのは私だけではあるまい。リヒテルが加わったピアノ五重奏曲も、弦楽四重奏曲と同様の彫の深い圧倒的な超名演だ。なお、ボロディン弦楽四重奏団は、1960年代から1970年代の初頭にかけて、当時作曲されていなかった第14番及び第15番を除くすべての弦楽四重奏曲の録音を行っており、それも優れた名演であったが、各楽曲の本質への追及度という意味においては本演奏の方が数段上であると考えている(その分、演奏自体はかなり冷徹なものとなっていると言えなくもない。)。本演奏で唯一の難点は録音が今一つ冴えないということであり、これは旧ソヴィエト連邦下のメロディア録音であり致し方がない面もあると言える。もっとも、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の演奏史上最高の超名演でもあり、今後はXRCD化やSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
4 people agree with this review 2011/07/08
ショスタコーヴィチは、弦楽四重奏曲を交響曲と同様に15曲も作曲したが、これはバルトークによる6曲の弦楽四重奏曲と並んで、20世紀における弦楽四重奏曲の最高傑作との評価がなされている。確かに、作曲書法の充実度や、内容の奥深さなどに鑑みれば、かかる評価は至当であると考えられる。ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、現在で言えば北朝鮮のような非民主的な独裁国家で、粛清の恐怖を耐え忍びながらしたたかに生き抜いた作曲家であった。かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、ショスタコーヴィチに関して記したその他の様々な文献を紐解いてもみても、その交響曲や弦楽四重奏曲などには、かかる粛清の恐怖や、スターリンをはじめとする独裁者への批判や憤り、独裁者によって粛清された犠牲者への鎮魂などが色濃く反映されていると言える。したがって、旧ソヴィエト連邦の時代を共に生き、粛清への恐怖に実際に身を置いた者こそが、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲に込められたこのような深遠な世界をよりうまく音化することができると言えるのではないだろうか。ボロディン弦楽四重奏団は、旧ソヴィエト連邦下において1945年に結成され、それ以降も旧ソヴィエト連邦において活動を行ってきた団体である。したがって、その演奏は、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の心眼に鋭く切り込んでいくという鋭さ、そして凄みにおいては、他のいかなる弦楽四重奏団が束になってもかなわないレベルに達していると言えるところであり、その演奏の彫の深さは、尋常ならざる深遠さを湛えていると言える。とりわけ、最晩年の弦楽四重奏曲の凄みのある演奏には戦慄を覚えるほどであり、これは音楽という次元を通り越して、あたかもショスタコーヴィチの遺言のように聴こえるのは私だけではあるまい。なお、ボロディン弦楽四重奏団は、1960年代から1970年代の初頭にかけて、当時作曲されていなかった第14番及び第15番を除くすべての弦楽四重奏曲の録音を行っており、それも優れた名演であったが、各楽曲の本質への追及度という意味においては本演奏の方が数段上であると考えている(その分、演奏自体はかなり冷徹なものとなっていると言えなくもない。)。本演奏で唯一の難点は録音が今一つ冴えないということであり、これは旧ソヴィエト連邦下のメロディア録音であり致し方がない面もあると言える。もっとも、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の演奏史上最高の超名演でもあり、今後はXRCD化やSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
4 people agree with this review
本盤におさめられたサン・サーンスの交響曲第3番は、カラヤンによる唯一のスタジオ録音である。カラヤンは、同曲をコンサートで採り上げたことも皆無であることから、レコーディングのためにのみ演奏したということにもなる。この当時のカラヤンは70代の半ばに達していたが、同曲のほか、ニールセンの交響曲第4番やR・シュトラウスのアルプス交響曲など初録音が目白押しであり、カラヤンの老いても衰えない音楽に取り組む前向きな姿勢に心から頭が下がる思いがする。同曲の独墺系指揮者による演奏は、カラヤンによる本演奏以外には現在でも皆無であるところだ。その意味でも、本演奏は極めて希少価値のある存在なのであるが、音楽評論家の評価は押しなべて低いと言わざるを得ない。本盤のLP発売時のレコード芸術誌の月評担当者は故大木正興氏であったが、徹底して酷評していたことを今でも鮮明に記憶している。確かに、同曲の数々の名演は、フランス系の指揮者によるものが多く、そうしたフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいのある演奏からすれば、本演奏は極めて異質な演奏ということになるだろう。加えて、本演奏の当時は、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金コンビがその最後の輝きを放った時期でもある。分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていたと言える。カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。本演奏など、かかる圧倒的な音のドラマの最たるものであり、オルガンの壮麗な迫力も相まって、故大木正興氏がよく使っておられた表現を借りて言えば、サン・サーンスの交響曲第3番という大運動場で、ベルリン・フィルが大運動場全体を使って運動しているようなイメージの演奏と言えるのかもしれない。重厚で華麗なカラヤンサウンドも、同曲においてはいささか場違いな印象を与えると言えるのかもしれない。しかしながら、これだけの圧倒的な音のドラマを構築することによって、同曲演奏史上空前のスケールと壮麗な迫力を有する演奏を成し遂げたと言うことも可能であり、聴き終えた後の充足感においては、他のフランス系の指揮者による名演と比較しても何ら遜色はないと言える。いずれにしても、私としては、本演奏はカラヤン&ベルリン・フィルによる異色の名演として高く評価したいと考える。録音は、リマスタリングがなされたこともあって従来盤でも十分に満足できる音質であると言えるが、カラヤンによる名演でもあり、今後はSHM−CD化、そして可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
0 people agree with this review 2011/07/08
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これは素晴らしい名演だ。マーラーの交響曲第1番には、ワルター&コロンビア響(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム(1987年)と言った至高の超名演があるが、本演奏はこれら両横綱に次ぐ大関クラスの名演と言えるのではないだろうか。マーラーの交響曲第1番はマーラーの青雲の志を描いた作品であり、円熟がそのまま名演に繋がるとは必ずしも言えないという難しさがあると言える。実際に、アバドは後年、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後まもなく同曲をベルリン・フィルとともにライヴ録音(1989年)しており、それも当時低迷期にあったアバドとしては名演であると言えなくもないが、本演奏の持つ独特の魅力には到底敵わないと言えるのではないだろうか。これは、小澤が同曲を3度にわたって録音しているにもかかわらず、最初の録音(1977年)を凌駕する演奏が出来ていないこととも通暁するのではないかと考えられる。いずれにしても、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでのアバドの演奏は素晴らしい。本演奏でも、随所に漲っている圧倒的な生命力とエネルギッシュな力感は健在だ。それでいて、アバドならではの歌謡性豊かな歌心が全曲を支配しており、とりわけ第2楽章や第3楽章の美しさには出色のものがあると言える。終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さには圧巻の凄みがあると言えるところであり、壮麗な圧倒的迫力のうちに全曲を締めくくっている。いずれにしても、本演奏は、強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれたアバドならではの名演に仕上がっていると高く評価したい。また、シカゴ交響楽団の超絶的な技量にも一言触れておかなければならない。当時のシカゴ交響楽団は、ショルティの統率の下、スーパー軍団の異名をとるほどのオーケストラであったが、本演奏でも若きアバドの指揮の下、これ以上は求め得ないような最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。録音は、従来盤でも比較的満足できる音質ではあったものの、前述のベルリン・フィル盤がSHM−CD化されていることもあって、その陰に隠れた存在に甘んじていたと言えるが、今般、同じくSHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の素晴らしさに鑑みても大いに歓迎したいと考える。
7 people agree with this review 2011/07/07
本盤におさめられたブラームスの交響曲全集はジュリーニによる2度目の全集に相当する。最初の全集が、フィルハーモニア管弦楽団との1960年代の録音(1960、1962、1968年)であったことから、本演奏はそれから約30年後の録音であると言える。もっとも、ジュリーニは、その間にもロサンゼルス・フィルとともに第1番(1981年)及び第2番(1980年)をスタジオ録音するとともに、バイエルン放送交響楽団とともに第1番をライヴ録音(1979年)していることから、ジュリーニはブラームスを得意中の得意としていたと言っても過言ではあるまい。また、本盤の演奏は、今後ライヴ録音などが発売されれば事情が変わる可能性もあるが、現時点ではジュリーニによる最後のブラームスの交響曲の演奏ということでもあり、ある意味ではブラームスを得意としたジュリーニによる最終的な解釈が刻印されていると言えるのではないだろうか。本演奏は、これまでの演奏と異なって、実にゆったりとしたテンポをとっていると言える。また、反復も原則として全て行っており、演奏時間もこれらの楽曲の演奏の中ではきわめて長い部類に入るものと考えられる。テンポもあまり動かさずに悠揚迫らぬインテンポで曲想が進んでいくが、これだけの遅いテンポだと、場合によっては冗長さを感じさせたり、全体の造型が弛緩する危険性も孕んでいると言える。しかしながら、ジュリーニの場合は、全体の造型が弛緩することはいささかもなく、各フレーズには独特のニュアンスや豊かな歌心が込められるなど、常にコクのある情感豊かな充実した音楽が構築されているのが素晴らしい。ここぞという時の強靭な迫力や重厚さにおいてもいささかも欠けることがなく、例えば第1番や第2番の終楽章における圧倒的な高揚感には我々聴き手の度肝を抜くのに十分な迫力を誇っていると言える。また、第1番の第2楽章、第2番の第2楽章、第3番の第2楽章及び第3楽章、そして第4番の第1楽章及び第2楽章の濃厚で心を込めた情感豊かな歌い方には抗し難い魅力に満ち溢れていると言える。第4番の終楽章においても、パッサカリアによる表情が目まぐるしく各変奏を巧みに描き分け、巨匠ならではの老獪な至芸を感じさせるのが見事である。そして、何よりもジュリーニが素晴らしいのは、いかなるトゥッティに差し掛かろうと、はたまた緩徐楽章などにおいて心を込めて歌い上げていようと、格調の高さをいささかも失っていない点であると考えられる。とかく重厚で仰々しいブラームスの演奏が数多く行われている中で、ジュリーニによる本演奏が含有する気品と風格は際立っている言えるところであり、ゆったりとしたテンポによるスケール雄大な演奏であることも相まって、本演奏は正に巨匠ならではの大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。また、ジュリーニの統率の下、これ以上は求め得ないような美しい演奏を展開したウィーン・フィルによる好パフォーマンスも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。併録のハイドンの主題による変奏曲や悲劇的序曲も、晩年のジュリーニならではのスケール雄大で、重厚さと優美さを兼ね備えた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。とりわけ、ハイドンの主題による変奏曲における第7変奏の筆舌には尽くし難い美しさは、ジュリーニとしても空前にして絶後の名演奏と言えるのではないだろうか。録音は、従来盤でもムジークフェラインザールの豊かな残響を活かした十分に満足できる音質であったが、数年前に第1番及び第4番のみSHM−CD盤で発売され、現在では当該SHM−CD盤がベストの音質であると言える。もっとも、ジュリーニによる遺産とも言うべき至高の名演でもあり、今後は第2番及び第3番のSHM−CD化、そして可能であれば本全集全体についてシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
0 people agree with this review 2011/07/07
バーンスタインは、マーラー演奏史上最高の指揮者であったと考えるが、生涯に、ビデオ作品も含め、三度にわたって、主要な歌曲集を含めた交響曲全集を完成させた。もちろん、それには一部語弊があり、三度目の全集については、ついに交響曲第8番、第10番、「大地の歌」を録音することができずに世を去ってしまい、過去の録音で補填せざるを得ない事態に陥ったのは、実に残念なことであったと言える。いずれの全集も、バーンスタイン=マーラー指揮者という名に恥じない素晴らしい名演であると言えるが、やはり、最も優れているのは、最後の全集と言えるのではなかろうか。当該全集の諸曲の録音時には、併行して、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、シベリウスの交響曲などで、大仰なテンポ設定を駆使した駄演を悉く行っていたにもかかわらず、マーラーでは、同様に大仰とも言えるゆったりとしたテンポをとっているにもかかわらず、いささかもそのような演奏には陥らず、むしろ、そうした大仰なテンポが真実のように聴こえるのが素晴らしい。これは、バーンスタインがマーラーの本質を鷲掴みにしていることの証左であり、バーンスタインが正にマーラーの化身となっているとも言える。本盤の3つの歌曲集は、当該全集の中でも、最も後年の録音、特に、さすらう若人の歌とリュッケルトの詩による5つの歌曲は、バーンスタインの死の年の録音であり、健康を害している中での思い入れたっぷりの、そして命がけの演奏は、我々聞き手の肺腑を打つのに十分な深い感動を与えてくれる。ハンプソンも、そうしたマーラーの化身と化したバーンスタインの下、最高のパフォーマンスを示していると言える。
3 people agree with this review 2011/07/07
これはどうしようもない演奏だ。一時はカラヤンと覇を争うほどの大指揮者であったバーンスタインが、何故にこのような駄演を行ったのか理解に苦しむところだ。第1楽章はそれでもまだましと言える。大仰で濃厚の極みとも言うべき音楽は、シベリウスの音楽というよりはマーラーの音楽を鑑賞しているような錯覚を起こさせるが、テンポなども含めとりあえずは常識の範囲内におさまっており、少なくとも凡演のレベルには達していると言える。ところが第2楽章。バーンスタインは何を勘違いしたのであろうか。にわかには信じ難いような超スローテンポで曲想を進めていくが、ここまでいくともはや音楽ではなく単なる音の羅列ではあるまいか。バーンスタインが、このような音の羅列で何を表現したかったのかは不明であるが、少なくともこの楽章に関しては、よほどのバーンスタインの熱狂的なファンでないと、全体を聴き通すことすら苦痛であると言えるだろう。第3楽章は、本演奏の中ではもっともまともな演奏と言える。中間部の粘ったような音楽はいかにも晩年のバーンスタインであり、その濃厚な体臭に辟易としないでもないが、少なくとも第2楽章の音の羅列を聴いた後では一服の清涼剤のように感じる聴き手は私だけではあるまい。そして終楽章であるが、思わず耳を覆いたくなる。シベリウスが作曲した旋律の中でも特に勇壮で美しい名旋律を、バーンスタインはチューバを最強奏させることによって品の悪い騒音に変容させてしまった。このような演奏を聴いていると、聴いていて恥じらいさえ覚えるほどであり、晩年のバーンスタインはあらゆる楽曲をマーラーの音楽であると思っていたのではないかと勘繰りたくもなる。いずれにしても、本演奏は同曲演奏史上でも最悪の駄演であり、熱狂的なバーンスタインのファンだけに存在意義がある演奏と言えるだろう。バーンスタインは、1960年代にもニューヨーク・フィルを指揮して同曲を録音しており、それはヤンキー気質丸出しの外面的な演奏とは言えるが、本演奏よりはよほど優れているのではないかと考えられるところだ。
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2 people agree with this review 2011/07/07
4 people agree with this review 2011/07/07
これはどうしようもない演奏だ。一時はカラヤンと覇を争うほどの大指揮者であったバーンスタインが、何故にこのような駄演を行ったのか理解に苦しむところだ。第1楽章はそれでもまだましと言える。大仰で濃厚の極みとも言うべき音楽は、シベリウスの音楽というよりはマーラーの音楽を鑑賞しているような錯覚を起こさせるが、テンポなども含めとりあえずは常識の範囲内におさまっており、少なくとも凡演のレベルには達していると言える。ところが第2楽章。バーンスタインは何を勘違いしたのであろうか。にわかには信じ難いような超スローテンポで曲想を進めていくが、ここまでいくともはや音楽ではなく単なる音の羅列ではあるまいか。バーンスタインが、このような音の羅列で何を表現したかったのかは不明であるが、少なくともこの楽章に関しては、よほどのバーンスタインの熱狂的なファンでないと、全体を聴き通すことすら苦痛であると言えるだろう。第3楽章は、本演奏の中ではもっともまともな演奏と言える。中間部の粘ったような音楽はいかにも晩年のバーンスタインであり、その濃厚な体臭に辟易としないでもないが、少なくとも第2楽章の音の羅列を聴いた後では一服の清涼剤のように感じる聴き手は私だけではあるまい。そして終楽章であるが、思わず耳を覆いたくなる。シベリウスが作曲した旋律の中でも特に勇壮で美しい名旋律を、バーンスタインはチューバを最強奏させることによって品の悪い騒音に変容させてしまった。このような演奏を聴いていると、聴いていて恥じらいさえ覚えるほどであり、晩年のバーンスタインはあらゆる楽曲をマーラーの音楽であると思っていたのではないかと勘繰りたくもなる。いずれにしても、本演奏は同曲演奏史上でも最悪の駄演であり、熱狂的なバーンスタインのファンだけに存在意義がある演奏と言えるだろう。バーンスタインは、1960年代にもニューヨーク・フィルを指揮して同曲を録音しており、それはヤンキー気質丸出しの外面的な演奏とは言えるが、本演奏よりはよほど優れているのではないかと考えられるところだ。併録の第7番も、晩年のバーンスタインならではの大仰にして濃厚な演奏であり、私としても到底容認し難い凡演であると言えるが、第2番ほどのデフォルメはなされておらず、駄演とまでは言えないのではないかと考える。もっとも、ユニバーサルはベスト100のCDを選定するに際して、何故に本盤を選定したのであろうか。シベリウスの管弦楽曲集においてヤルヴィ盤(オーケストラはエーテボリ交響楽団)を選んだのであれば、交響曲第2番&第7番においても同様にヤルヴィ盤を選定すべきである。このような駄演をベスト100に選定したユニバーサルに対して、この場を借りて猛省を促しておきたい。
0 people agree with this review 2011/07/06
ブリテンは、パーセルの主題による変奏曲とフーガ(青少年のための管弦楽入門と称されているが、作品の質の高さからしてもこの呼称は全く気に入らない。)だけがやたら有名であり、他は、近年小澤による渾身の名演によって知られるようになった戦争レクイエムを除けば、殆どの作品はあまり知られているとは言い難い。ブリテンは、交響曲や管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、そして声楽曲など多岐に渡る分野の作品を数多く遺しているが、その真価は何と言ってもオペラにあると言えるのではないか。これは、ブリテンと同じ英国出身の大指揮者であるラトルなども同様の見解を表明しており、20世紀を代表するオペラとしてもっと広く知られてもいいのではないかとも考えられるところである。ブリテンは、10作を超えるオペラを作曲しているが、その中でも名実ともに傑作であるのは本盤におさめられた「ピーター・クライムズ」であるというのは論を待たないところだ。ピーター・クライムズという問題児に冤罪の濡れ衣を着せて、多数の人々によって自殺を強要されるという、いかにも20世紀的なテーマを扱っているが、ブリテンはこうしたストーリーに組曲「4つの海の間奏曲」や「パッサカリア」などに編曲されるほどに魅力的で親しみやすい管弦楽を付加して、実に奥深い内容を有した作品に仕立て上げていると言える。同曲の名演としては、ブリテンによる自作自演である本演奏とデイヴィス盤(1978年)が双璧にある名演として掲げられる。オーケストラや合唱団は同じくコヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団と同合唱団だ。ブリテンは、作曲者であるとともに指揮者としても相当な実力を有しており、同曲の演奏においても作曲者としての権威はいささかも揺るぎがないと言えるが、デイヴィスの指揮もその統率力といい、彫の深さといい、ブリテンに決して引けを取っているとは言い難い。両演奏の大きな違いは、主人公であるピーター・クライムズ役であり、骨太なジョン・ヴィッカーズに対して、抒情的なピーター・ピアーズと言ったところではないだろうか。したがって、後は聴き手の好みの問題であると言えるが、ブリテンと長年に渡って親交のあったピーター・ピアーズによる名唱は、同曲の静謐な悲劇を見事に音化していると言えるところであり、私としては本演奏の方をわずかではあるが上位に置きたいと考えている。その他の歌手陣も最高の歌唱を披露しているのも素晴らしい。英デッカによる超優秀録音による極上の高音質も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献していると評価したい。
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