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TOP > My page > Review List of 村井 翔
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1 people agree with this review 2014/12/07
カップリング曲がないために2006年録音の第14番の発売が延ばされていたようなのだが、「何て事だ」と叫ばずにはいられない。2013年録音の第6番も悪くはないが(ただし、第1楽章ラルゴの沈痛な悲しみは今一つ)、第14番が圧倒的な名演だからだ。最近出たワシリー・ペトレンコの録音も好演だったが、表出力の強さではそれをさらに凌ぐ。そもそもモノガローワ、レイフェルクスという独唱者二人は現在望みうるベストメンバーだろう。モノガローワは第2、第3、第5楽章いずれも素晴らしいが、第4楽章「自殺」の憑かれたような狂気の表情には怖気をふるう。レイフェルクスも第7楽章「監獄にて」の深みは最高。対照的な第8楽章も単に激烈なだけでなく、むしろ切れ味鋭い歌唱だ。ヴィシネフスカヤ、レシェチンら初演直後の世代の熱さも確かに貴重だが、この二人の歌からはショスタコーヴィチ受容の深まりを感ぜずにはいられない。ユロフスキーのシャープで目配りのきいた指揮も申し分なし。たとえば最終楽章はこれまでややアイロニカルな、軽みのある音楽として扱われてきたが、彼の指揮だと遅いテンポで、堂々たる終結楽章になっている。
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9 people agree with this review 2014/11/29
2013年12月、つまりワーグナー・イヤー最後の月の収録(HMVレビューの収録時期情報は誤り)。演出はとても良く考えられている。ジャケ写真の通り、舞台中央にアンフォルタスの病室が置かれているが、ここを一貫していわば副舞台として活用しようというアイデアだ。退屈になりがちな第1幕では、クリングゾールの自己去勢、アンフォルタスが傷を負う、パルジファルの両親など、過去の出来事をこの中で説明的に見せる。両端幕の終わりでは、この病室が聖杯を覆う箱にもなる。ただし、聖杯騎士団はここでもあまり好意的に描かれず、聖杯開帳の儀式はかなり怪しげ、かつ同性愛的な、カルトな儀礼になっている。これはなかなかの見もの。第1幕で白鳥の死体を埋めた場所から第3幕になると草が生えてくる、第2幕終わりのクンドリーの呪いでパルジファルが一時的に盲目になる、など細部へのこだわりも面白いし、あらゆる可能性が試された感があるエンディングも、そうかまだこの手があったかと思える斬新な幕切れ。ワーグナー自身の異性愛否定思想には反するが、とても秀逸だ。けれども、この演出で特に重要なパルジファルとアンフォルタスが主要キャストの中で最もメリ込んでしまったのは、演出家にとって手痛い計算違い。 オニールは立派な声の持ち主だが、すこぶる野性的で、全く知的に見えないのは何とも残念。オペラ後半の感銘を大きく減ずる結果になってしまった。フィンリーも熱演だがすべてが型通り、想定範囲内という感が否めない。デノケのクンドリーはさすが。マイアー以後では最も存在感あるクンドリーだ。ホワイトのクリングゾールも堂々たる歌唱(槍を持つ姿は、どうしてもヴォータンを思い出してしまうが)。パーペのグルネマンツは相変わらず完璧なハマリ役と、他のキャストはすべて良い。パッパーノの指揮は綿密かつ周到。一昔前までは、こういうオペラでは全くダメだったコヴェントガーデンのオケも非常に質が高い。
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1 people agree with this review 2014/11/22
目もくらむような輝かしい音楽が支離滅裂なストーリーに付けられているこの名作。現代の演出家ならば、このオペラのハチャメチャな物語に何とか筋を通すような演出をやってみたいという野心を抱くのも当然だろう。というわけで、注目はまずチェルニャコフの演出。HMVレビューの記述通りに始まるが、これはこのオペラ前半の歌詞がほとんどすべて過去の出来事の回想を語っているのを利用した読み替え。しかし、後半になると虚構と現実の区別がつかなくなったルーナ伯爵がアズチェーナから主導権を奪い取って・・・という趣向。結局、読み替えとして成功したかと問われると、やや微妙な出来。舞台は終始、同じ部屋の中だし、昨今流行のプロジェクション・マッピングも全く使わないので、禁欲的とも言えるが印象は地味ではある。現代人たちがなぜ中世スペインの物語を語り始めるのか、何の関連づけも示されないのは安易とのそしりを免れまい。 このディスク最大の聴きものはミンコフスキの素晴らしい指揮。オケはやや小さめの編成のようだが、テクスチュアは透明で見通しよく、細部まで非常に緻密。特にpからppppまでの弱音部のニュアンスが実に豊富だ。しかもこの作品に不可欠な劇的な迫力にも欠けていない(指揮者自身のコメントによれば、初演時のローマの劇場はコントラバスがチェロより多かったという史実を踏まえてオケの編成を考えたとのこと)。歌手陣はミンコフスキ流の総譜のリニューアルに対応できる知的な人たちばかり。最もめざましいのはポプラフスカヤで、ネトレプコほどの押し出しはないとしても、極めて細やかな歌唱で素晴らしい。南欧系の歌手たちに混ざると、また印象は変わるかもしれないが、この面子の中ではディディクも十分に輝かしい。ブリュネ=グルッポーソは従来のアズチェーナ像と正反対の清潔な歌。普通に考えれば迫力不足だが、「記憶回復セミナー」の主宰者たる精神科医といった風の演出の役作りにはぴったりだ。ヘンドリックスは激しやすく、幻想にのめり込みやすい、ほぼ従来のイメージ通りのルーナ伯爵。少なくとも演技はうまい。
4 people agree with this review 2014/11/16
インバル指揮の9番はフランクフルト放送響(CD)、都響(第1次マーラー・ツィクルス)、フィルハーモニア管(来日公演)の順で聴いてきたが、これまで本当に心動かされたことはなかった。だから、この曲はやはりインバルには合わないのだと思ってきたし、ベルティーニ/都響(幸いこのコンビによるライヴ録音もある)が聴かせてくれた、指揮者その人の全人格からにじみ出るようなスケールの大きさと呼吸の深さには決して到達できないだろうと思っていた。こういう曲では聴衆はやはり指揮者その人からのメッセージ、いわゆる「解釈」を受け取りたいと欲するが、インバルは基本的に「音楽とは解釈されるべきものじゃない」という立場だから、お互いの思惑はどうしてもすれ違ってしまわざるをえないのだ。しかしもちろん、解釈なしに演奏することなど実際にはできはしない。たとえば第3楽章終盤のエピソード、終楽章先取り部分。総譜には「幾らか控えめに Etwas gehalten」とあるから基本テンポ(アレグロ・アッサイ)より遅くすることを求めているのは明らかだが、「幾らか」とはどの位なのか。楽想としては終楽章の先取りだからアダージョにまでテンポを落とすべきなのか。指揮者の解釈なしにはどうにもならない部分だ。 さて、そこで今回の演奏。インバルがベルティーニに化けるはずもなく、彼としてはこれまでのポリシーを貫いただけだった。細かな緩急のアゴーギグ、対位声部の強調など、いつもながら巧緻に作られた演奏だが、終楽章最後のクライマックス、第1楽章序奏のリズム動機がヴァイオリンに戻ってくるところで、思いっきり粘っているのは、ちょっとインバルらしからぬ、はっきりとした「解釈」。けれども全体としては、すべてが完璧にツボにはまって作り物めいた感じを与えない。まるで楽譜をそのまま音にした「かのように」聴こえるところが現在のインバル/都響の至高の境地。正直言うと第1楽章だけは、まだほんの少し食い足りないが、第2楽章以下は全く文句の付けようがない。私にもベルティーニの亡霊を呼び出す余地を与えなかった。
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1 people agree with this review 2014/11/16
実に意外だが、にもかかわらずとてもいい演奏。このコンビ、ライヴでは大いにパワフルだが、かなり荒っぽいという印象があったのだが、見事にはずれた。この曲の基軸である暗と明のコントラストを細かく描くのは苦手だが、その代わり終楽章のどんちゃん騒ぎはさぞ盛大にやってくれるだろうと思ったのだが、これもはずれ。ここでのシモン・ボリバル響はいつのまにこんな洗練されたオケに変身したのかと思うほど、表情が細やかでしかも自然だ。終楽章もやや速めのテンポではあるが、対位旋律の表出が克明で、むしろ着実な演奏。ラテン・アメリカ風のところなど、どこにもない。もはやドゥダメルにとっては、マーラーの7番だって特に異化効果を意識すべき音楽ではなく、ごく自然に「美しい」作品なんだろうね。7番はやっぱり「変な曲」だと感じさせる演奏も依然として魅力的だけれども、その対極にこういうアプローチがあってもいい。技術的にも極めて高度な演奏だ。
2 people agree with this review 2014/10/18
シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウとの全集録音の最後、2004年に録音した第9番は、情動的なのめり込みを排してスコアを虫眼鏡で拡大したような克明、精細な演奏。全体としてはあまりブリリアントとは言い難い全集録音の中で断然光る一作だった。しかし、それから9年後のこの録画は全く別人のよう。映像から確認できる新機軸は第2ティンパニに硬いマレット(ばち)を使わせ、通常のマレットで叩く第1ティンパニと音色上の対比をつけていることだが、何よりもテンポの違いが大きい。全楽章とも前回録音に比べて遥かにテンポが速くなり、コンセルトヘボウ盤で89:46だった全4楽章の演奏時間は今回、77:35(拍手などを含まぬ実測時間)と相当に速い部類の演奏となった。そもそも入念なセッション・レコーディングと一発ライヴの今回録画を比べるべきではないのかもしれないが、基本的にクールなアプローチであることは変わらないものの、前回録音の精妙な細部拡大趣味は吹っ飛ばされてしまい、普通いや普通以下の演奏になってしまった。中間二楽章のダイナミズムにはそれなりに見るべきものがあるが、両端楽章はオケが速いテンポに乗り切れておらず、淡白どころかむしろ散漫。この演奏のテンポ設定のモデルかと思われるワルター/ウィーン・フィルの1938年録音、ノリントン/シュトゥットガルト放送響、シュテンツ/ケルン・ギュルツェニヒ管、そしてインバル/都響などは速いテンポによる録音だが、決して嫌いではない。しかし、この演奏からは音楽の自然な呼吸に逆らった「せっかちさ」しか感じられなかった。 シャイーとド・ラグランジュの対談、指揮者自身による曲についてのコメント、どちらにも今回から日本語字幕がついたが、悲しいほどに内容空疎。楽譜そのもののアナリーゼなら何とでもやりようがあるが、「第9交響曲を書くと死ぬという迷信にとらわれて・・・・」というアルマ作の嘘物語を語らぬとすれば、この曲には聴衆に分かりやすく言葉で語りうるような物語はもはや何もない、ということだろう。後者で現在のドッビアーコ(ドイツ読みトーブラッハ)村と作曲小屋の百年前とほとんど変わらぬ風景が見られるのが唯一の救い。かつてのバーンスタイン、現役世代ではティルソン=トーマスのように、こういう所で俳優顔負けの巧みな話術を見せる指揮者もいるが、(決して頭の悪い人ではないはずの)シャイーがこういう喋りに向いていないのも、今や明らかだ。
2 people agree with this review
4 people agree with this review 2014/10/12
ティーレマン指揮のオペラでは、久しぶりに演出がまとも。第2幕の一部で主役たちの分身(ダブル)を使うほかは、ほとんど新機軸らしきものがない舞台だが、なかなか良いと思う。このオペラには確かにフロイトとシュニッツラーの街、ウィーンらしいエロティシズムがあるが、そういう「きわどさ」はちゃんと表現しつつも、これ以上やったら下品になるというぎりぎりの線で踏みとどまっているところが見事だ。つまり、私が言っているのは第2幕幕切れの「女体型ケーキ」(?)や第3幕でズデンカをどういう格好で舞台に出すかということだ。後者の場合、全裸は論外としても、彼女は女物の下着など持っていないと考えるならば、ネグリジェというのも実は変だし、インパクトに欠けるのだ。 フレミングは歌、演技とも例のごとく作り物めいて見えるが、この役ならアリアドネほど声の衰えを感じずに済むし、相手役のハンプソン、指揮のティーレマンすべてが同じような人工的な様式で統一されているので、彼女の持ち役のなかではまだ見られる部類。マンドリーカは二枚目かつ三枚目というなかなか面白いキャラクターだが、ハンプソンが演じると「三」の側が何ともわざとらしい。これで、もともと人工的なキャラであるズデンカもまた人工的に演じられると、さすがに我慢の限界を超えるだろうが、新鋭ハンナ=エリーザベト・ミュラーの清新さがきわどいところで上演全体を救っている。
1 people agree with this review 2014/10/12
カーセン演出の『メフィストーフェレ』は彼が今日知られるような名声を築くに至るきっかけとなった出世作とのこと。1989年の録画も愛聴していたが、最新の再録画はありがたい。最初の「天上のプロローグ」を見ただけでも、この演出の優秀さははっきり分かる。演技の細部は1989年版と若干の違いがあるが、基本的なコンセプトはもちろん一緒。「ワルプルギスの夜」の場で男性たちが局部(実は作り物だと思う)を露出しているのが見えるのは、時代の推移と言うべきだろうが、そんなに「型崩れ」しているという印象は受けない。主役メフィストーフェレでは1989年版のレイミーが忘れがたいが、アブドラザコフもまあ悪くない。ラモン・ヴァルガスはいつもながら。彼もかなり年齢を重ねたはずだが、相変わらず童顔なので、老学者ファウストには見えない。ラセットもまあまあだが、彼女もマルゲリータよりはエレナ向きだ。ルイゾッティの指揮は手堅いが、もう一歩の踏み込みが欲しい。
3 people agree with this review 2014/10/05
オペラ全体は妻に家から叩き出された老人(オペラの中では「水の精」)が見た妄想というのが基本構想。ただし、HMVレビューの記述には若干、誤りがあって、最後に殺されてしまう老人の妻はオペラの中では「外国の皇女」、「魔法使い」は駅前の花売りおばさんだ。したがって、現実(現代のブリュッセルの街)の中に幻覚が侵入してくるというヘアハイム・マジックが随所で見られるわけだが、これが唖然とするほど良くできている。第2幕のポロネーズが崩れて水の精の嘆きの歌に移る場面(ジャケ写真)など、巨大な鏡を使った現実崩壊シーンが鮮烈だ。第3幕に10分ほどカットがある(森番と皿洗いが湖に来る場面がない)ほか、第2幕冒頭の森番と皿洗いの対話は肉屋、警官、司祭など別の人物に分割されている。当然ながら「水の精」こと老人は本来、出番のない所でもほとんど舞台上におり、第2幕終わりの「外国の皇女」と「王子」(老人の分身に過ぎない)の言葉は老人に向けて発せられる、など幾つかコンテクストの変更がある。しかし、これらの改変に腹を立てる気も起きぬほど、読み替えは見事に的中しており、特に音楽がこの演出での新しいアクションにぴったり一致している様は、驚異ですらある。 パパタナシウは声の力自体ではオポライスに一歩譲る感があるが、スリムな体型、細やかな歌いぶりで申し分ない題名役。それ以上に重要なのは事実上の男主役であるウィラード・ホワイトで、彼の存在感がこの上演を支えていると言っても過言ではない。アダム・フィッシャーもこんなに「デキる」指揮者だとは思わなかった。演出に触発されたのだろうか。ともあれ、両性(特に男)にとって愛の対象とは妄想でしかないという「イタい」真実をこれでもかと突きつけてくる痛烈なメルヒェンだ。
3 people agree with this review
8 people agree with this review 2014/10/04
演出は昨今流行のプロジェクション・マッピング(映像投影)を最大限に活用したもの。序曲が主部に入るとさっそく幕が上がって、無人の舞台にドン・ジョヴァンニがものにした女性たちの名が書かれ始める。以下、舞台には最後まで常に何らかの映像が映され続ける。騎士長を殺してしまうという予期せぬ展開によって、これが生涯最後の一日となった主役の死に対するオブセッションもはっきり描かれるし、3人の女性たちの性格描写も的確。アンナは婚約者を何とか言いくるめようとするが、ジョヴァンニとの間で味わった性的快感が忘れられない。エルヴィーラは早くも第1幕フィナーレからジョヴァンニを逃がそうとする。ツェルリーナはほんのいっとき、騎士夫人になる夢を見るが、真相を知るやマゼットとよりを戻す。歌のパートのない第4の女性、エルヴィーラのメイドもエルヴィーラ登場と同時に姿を見せていて、第2幕のカンツォネッタの場では全裸を見せる。最後も独特で地獄落ちの場以後はカットされ、舞台上にドン・ジョヴァンニだけが残った状況で、フィナーレのアンサンブル最後の部分だけが歌われて終わる(ウィーン版の上演はこれに近い形で行われたらしい)。なかなか見応えのある上演ではあるが、映像があまりに雄弁かつ説明的であり、ルイゾッティの指揮が弱腰であるために、音楽が映像の伴奏のように聞こえてしまうのはまずい。 オネーギン役でおなじみのクヴィエチェン(この発音が正しいようだ)以下、キャストはなかなか強力。ただし、前述の通り指揮は買えない。コヴェントガーデンでの一つ前のプロダクション(ザンペロ演出)で振っていた老匠マッケラスの方が遥かにアグレッシヴな指揮だった。演出家と装置家の対談で進められるオーディオ・コメンタリー、そんなにためになる話はなさげだが(それにしても良く喋る演出家だ)、むしろここにこそ日本語字幕が欲しい。
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1 people agree with this review 2014/09/24
演出が非常に面白い。『トロヴァトーレ』は設定から言ってもストーリーから言っても相当にビザール(奇矯)な作品だと思うが、そういったテイストを前面に出そうという舞台に、これまでお目にかからなかった。シュテルツルは舞台を壁で囲んで狭い閉鎖空間に閉じ込めた上に、コメディア・デラルテかサーカスを思わせる奇怪で非現実的、かつアンチリアルな様式で統一している。これが実に、まともに考えたら馬鹿らしいこの作品のストーリーにふさわしい。指揮は見事に演出に呼応。カヴァティーナではおおむね標準より遅いテンポをとるが、カバレッタは決して遅くないし、幕切れのたたみかけ方などは強烈だ。細かい音型まで克明に表情が付けられていて、バレンボイム流のいわばパラノイアックな表現主義が、オケの重心の低い響き、暗めの音色と相まって演出の陰惨な印象をさらに助長している。 さて、お待ちかねのネトレプコ。声自体やや肉厚になってドラマティックな力を増しているが、彼女の昔からの美質であった清潔な表情の美しさは変わらず。レオノーラへの挑戦は大成功と見た。ドミンゴのバリトン役、私はボッカネグラもリゴレットもさっぱり感心しなかったが、このルーナ伯爵だけは違和感がない。ドミンゴが演じると、終幕の二重唱以下、マンリーコよりもむしろ伯爵の方がいい音楽をもらっていることが分かってしまう。一方のリベロ、普通に考えれば線が細すぎだが、ドミンゴがルーナ伯爵を演じるという前提で考えれば、かつ彼をむしろ弱い人間として描く演出を踏まえるならば、悪くないバランスだ。ここにもう一人、「テノールの」ドミンゴが出てきては、やはりまずいだろう。プルデンスカヤもドスを効かせるというタイプではなく、むしろ清潔な歌なので、おどろおどろしい見た目に負けているが、演技を含めた神経症的な役作りという点では悪くない。
7 people agree with this review 2014/09/13
第8番はドヴォルザークの交響曲中、最も好きな曲。第9番「新世界より」より遥かに好き。それはこの曲が、伝統的な交響曲書法を大きく逸脱した、きわめて奔放な書かれ方をしているからだ。指揮者ホーネックは自ら執筆したライナーノートで、この曲がマーラーの1番と全く同じ頃に書かれたことに注意を促しているが、まさしくブラームスよりもマーラー寄りの交響曲。前のシュトラウス交響詩集を聴いて、ホーネックなら8番をこんな風にやるだろうと予想したけれど、予想以上の快演(怪演)だ。細かいアゴーギグを徹底的に駆使して、たっぷり歌う部分とリズミックに突進する部分に鋭いコントラストをつける。両端楽章の終わりは凄まじいアッチェレランド。歌の部分でも極端なピアニッシモでむしろ響きを殺す箇所もあって、何とも芸が細かい。第3楽章トリオでのヴァイオリンの上行ポルタメント、主部復帰冒頭でのテンポ・ルバートには惚れ惚れする。こういうアプローチだと、カップリングがヤナーチェクというのはごく自然だが、『イェヌーファ』組曲も繊細な細工物のような美しさ。これほど徹底したオーケストラ・ドライヴにちゃんと応えているピッツバーグ響との関係も、きわめて良好と感じられる。
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4 people agree with this review 2014/09/12
2013年夏、グラインドボーンでの上演だが、序幕の舞台はまさにグラインドボーンそのものを思わせる、室内オペラの上演もできそうな貴族の館(マナー・ハウス)。人々は20世紀半ばのファッションで戦時下(つまり第二次大戦中)であることは暗示されるが、終盤までは定型通り進行。ところが最後になって爆撃機の来襲が映像で投影され、屋敷の外では火が燃え上がる。オペラ本体も全く同じ場所で演じられるが、館は接収されて病院になっている。入院患者のアリアドネは精神を病んで(失恋も本当か?)、神話のヒロインだと思い込んでいる。慰問にやってきた(とも思えない?)ツェルビネッタ一座だが、例の大アリアを歌う彼女は、夜中に変な歌を歌う気の触れた女と解されて拘束衣を着せられてしまう。大アリアの後で拍手が起こらないのは珍しいが、そんな気にならぬほど「笑えない」シリアスな設定。つまり、ばらばらになりがちな序幕とオペラを緊密に結びつけようという演出だが、神話の物語を日常的な次元に引き降ろすことの難しさを感ぜずにはいられない。特に最後、いかに戦場の英雄とはいえ、バッカスが普通の男では、アリアドネが彼を死神ヘルメスと思い込む、さらには両者の相互変容といったストーリーに説得力が欠ける。残念ながらバッカス役、スコロホドフの歌も冴えない。しかし、リンゼイ(作曲家)はやや線が細いが、イソコスキ(アリアドネ)とクレイコム(ツェルビネッタ)は一級品。これでグラインドボーンの音楽監督退任となるユロフスキーの指揮は相変わらず切れ味鋭い。
1 people agree with this review 2014/09/11
拍手入りライヴだが、ベルリン・フィルハーモニーでの演奏会形式上演なのでオーケストラが良く聴こえる。さしものDGも『トリスタン』『パルジファル』『指環』と三回続いたウィーン国立歌劇場での収録失敗に懲りたということだろう。『エレクトラ』の場合、ティーレマンは『ばらの騎士』や『アラベラ』のようにタメを作ったり、急に音量を落としたりといった手練手管なしに(もちろんこれらも彼の芸風の一部だが)、比較的ストレートに振っていて、シュトラウスのオペラでは最も好ましいと思う。ショルティからビシュコフまで(あまり話題にならないが、個人的にはビシュコフ盤は大推薦)、これまでの録音者の誰と比べても遜色ないが、シェロー演出の映像ディスクでサロネンの非常に新鮮な指揮を聴いてしまったので、諸手を挙げて絶賛とまではいかない。ヘルリツィウスは最初ピンとこなかったが、シェロー版の舞台を見て納得。マルトン、ポラスキのように声の力で押しまくるタイプではなく、女性らしい弱さを含めた表現としてなかなか説得力がある。過去の歌手ではベーレンスに近いタイプか? マイアーは声だけだと、さすがに衰えが目につくようになってきた。クリソテミス役は、声の力ではシェロー版のピエツォンカが上だが、キャラクターの表現としてはシュヴァーネヴィルムスに軍配。パーペはこういう役はダメだろうと思っていたが、意外な拾い物。オレストは、これから実の母親を殺すわけだから、それなりに心の闇を抱えた人物のはずだが、ちゃんとそういう風に描けている。
4 people agree with this review 2014/09/11
シュトゥットガルト版初演百周年の記念上演。ただでさえ貴重なオリジナル版だが、現在望みうる最強の布陣を敷いた、きわめて充実した内容。1912年の初演では二時間超の演劇に一時間半以上(序幕はないが、オペラ本体は改訂版より少し長い)のオペラが続くという長丁場になり、演劇の客、オペラの客どちらからも不評を買ったのだが、今回はザルツブルク音楽祭演劇部門総監督(一般には音楽祭と呼ばれるが、このフェスティヴァルには演劇の公演もある)という要職にあるベヒトルフが、台本作者ホフマンスタール自身も登場するメタフィクション(一番外側の枠)を加え、しかも三十数分のシュトラウスの付随音楽(実はその大半、組曲になっている曲は1917年、オペラから切り離して『町人貴族』だけを上演した時に作曲されたもので、1912年の初演時にはなかった)を全部盛り込んだ上で、『町人貴族』を手際よく一時間半にまとめている。日本語字幕がないのは痛いが、これならオペラ・ファンも楽しめるだろう。楽屋の場でのホフマンスタールの台詞などは完全新作と思われるが、彼が未亡人になった伯爵夫人に「死を超える愛」を信じさせるために自作のオペラを見せるという枠部分の物語が、ちゃんとオペラのメインテーマと照応しているのも、気が利いている。 オペラ部分の演出は、かつての「とんがっていた」読み替え演出家ベヒトルフとは別人のような正攻法。ただ、演劇部分の登場人物がオペラにもからんでくるのが特徴で、退屈になりがちなアリアドネの嘆きの場も伯爵夫人が彼女の分身(ダブル)として動いたり、『町人貴族』の主役ジュールダン氏が茶々を入れたりすることで、飽きさせない工夫がある。これまた長大なツェルビネッタの大アリアも見せ方がうまい。題名役マギーは実に素晴らしい。2006年チューリッヒでの上演(改訂版)でもとても良かったが、今回はさらに堂々たる風格がある。同じくチューリッヒ版にも出ていたモシュクは、年をとればとるほど、むしろどんどんうまくなる不思議なコロラトゥーラ・ソプラノ。改訂版より格段に至難な大アリアを見事に歌いこなしている。ヘルデンテノールとしては異例な高音域が要求されるバッカスは、声楽的にはカウフマン向きではないかもしれないが、見た目は百点満点。やはりイケメンはお得だ。ハーディングの指揮も文句なし。伸び悩みと言われたこともある彼だが、少なくとも2012年夏は、サイトウ・キネン・オケとの『アルプス交響曲』と合わせてシュトラウスで二つ良い仕事をした。
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