これこそが「英雄の生涯」だった

2025年04月08日 (火) 19:00 - HMV&BOOKS online - Classical

連載 許光俊の言いたい放題 第315回


 歳を取ると、音楽に自由な感じが増す。細かいところに拘泥せず、雄大な流れを作る。よけいな力が抜ける。しみじみと情感が濃くなる。特に卓越した音楽家ほどそうだ。私はむやみといきっている若手の音楽より、こういう熟成した音楽のほうが好きである。残念ながら、いきっている若手はのほとんどはいきっているだけで、特別な才能があるわけではない。いきるのは若者の特権で、若者のくせにいきっていないのはもったいないことである。だから、どんどんいきりなさい。私は別に興味ないけど。
 で、いきっている演奏の反対の熟成した名演奏。たとえば、昨年来日したラトルとバイエルン放送交響楽団の演奏を聴いた人は、ラトルが難しいマーラーの交響曲第7番をいともやすやすと自由闊達に演奏したことに驚いたはずである。もはや昔日のように、このディテールはこう作ってやるぞという安っぽい欲は感じられない。オーケストラはうまいが、これみよがしの個所などひとつもない。それは、来日に先立って録音されたCDを聴いてもわかることである。
 そのラトルも今年に入って70歳になった。私などは、彼の音楽を35年くらい聴いているわけで、音楽はもちろんのこと、外見の変化にも感じるものがある。お互い年を取りましたねとついつい思う。
 ラトルだけではない。同世代のサロネンやナガノも、実に自然かつしみじみといい雰囲気を出すようになった。どちらもクリアで冷ための音楽美を求めていたはずなのに、である。ナガノは今シーズンでハンブルク・オペラを離れるが、彼らの演奏は、あまり放送もなく、録音もされず、まことにもったいなかった。ヴァントのような音がしてびっくりしたブルックナーの9番。清められるような「大地の歌」。それらは時間の向こう側へと消えて行ってしまった。


 さて、彼らの若干下の年齢層に属しているのが、大野和士である。ブリュッセル・フィルを指揮したCDがいくつか発売された。「英雄の生涯」を私が聴いたのは今年になってからだけど、近年もっとも驚いた録音のひとつだ。いや、近年どころか、「英雄の生涯」の録音で、これほどまでに突き詰めた演奏を聴いたのは初めてだ。本当にすごい演奏を聴いているときには、録音であれ、ナマであれ、その瞬間を堪能しつつ、この先いったいどうなってしまうのだろうとドキドキするものだが、これも例外ではなかった。
 ただし、である。シュトラウスのこの手の曲が好きな人の大半は、ガツーン、バリバリ、ドカーンと腕自慢のオケが繰り出す刺激の波状攻撃を受けて喜ぶ人たちだろう。あるいはギュンギュン煽り立てるスピード感に酔いしれて興奮する人たちだろう。そういう嗜好の人には、曲に内包されたものをじっくりと示していくこの演奏の意味や価値は理解しにくいだろう。フルトヴェングラーとかケンプとか、19世紀を根っこに持つ演奏家のような、いわゆる精神美に感応できる人でないとこの演奏のすごさは感じ取れまい。残念かつ残酷なことを言うようだが。つまり大野はこの作品を、ワーグナーからつながる大ロマン主義の真正な後継者として演奏しているのだ。
 まず最初からしばらくの「英雄」の部分では、勇ましいというより、思いのほかやわらかく色彩的でなめらかな音楽が聴かれる。あっと思う。カルロス・クライバーが珍しくこの曲を演奏したときが、やっぱりこういう感じだった。「英雄の生涯」が「ばらの騎士」のように色彩豊かに鳴った。ただし、大野はクライバーのように前に前に走って行こうという演奏ではない。次の「英雄の敵」で木管楽器どもがピーチクパーチクやり始める直前など実に堂々と威厳たっぷりである。
 となると、「英雄の伴侶」が俄然期待されるが、ここはみなさんが期待するような露骨な官能大作路線ではない。落ち着いた品位が美しいヴァイオリン・ソロ。それに応える英雄も実に余裕がある。だからこそ音楽が一気に色っぽく鳴り始めたとき、まるで異界の扉が開いたかのような衝撃がある。そしてこの官能美は、燃えたぎるというよりもやさしい愛情のような官能美なのである。単なる欲望ではない、「トリスタン」のように破滅的ではない、深くやさしい愛。そうなのである、この部分は英雄の「伴侶」であって、英雄の愛人とか恋人ではないのである。だから、静まっていく部分が実に美しい。それは単なる快楽や興奮の終わりを意味しているのではないからだ。再び遠くからピーチクパーチクが聞こえてからも、この穏やかな平安は揺らがない。ブルックナーのアダージョ楽章のようだ。実に深い表現である。
 そして、ここまで聴けば明らかなように、この演奏は決して慌てない。世によくあるてきぱき進む「英雄の生涯」「ツァラトゥストラ」の演奏は、時にまるで紙芝居のように感じられるものだけれど、そんなことはいっさいない。ひとつひとつの要素やイメージが実に明快で、的確で、入念に彫り込まれていて、移り変わりが「さてさて次なる場面は!」という単なる場面転換ではない。このように演奏されてみれば、なるほどそうだと思うことばかりである。もともと大野の演奏はどんな曲の場合でも、作品がどういうものか、何を言っているのかをよく考え抜いたものだった。きわめてまじめで、邪心がなかった。そのやり方ならではのすばらしい帰結。
 「英雄の戦場」が始まっても、英雄はじたばたしない。ここの開始部分、遠くからラッパが聞こえてきてからあとの悲劇的な響きには、おおっと思った。上手なオケだから出る轟音、そういう単純なものではない。もっと本質的な何かだ。だからあとで出て来る流麗な音楽がいっそう映える。
 しかしそれ以上に私が驚いたのは「英雄の業績」からあとのあまりの濃さである。それはまさにノスタルジーなのだ。記憶の底から、こういうことがあった、あんなこともあったと浮かんでくる過去。そのぼんやりとした幸せの記憶。その美しさを汚すものはもはや何もない。記憶の中で、過去はひたすら幸福で神々しいものとしてやわらかく光っている。ひとつひとつの思い出をいつくしむがごときの演奏が感動的だ。濃さと矛盾するようだが、色彩的なのに透明感がある。
 さらに最後の「英雄の遁世と知の完成」(ここの部分の呼び方はけっこう意味ありげなので、そのうち書きましょう)が衝撃的だ。この曲でこれほどまでに死を強く意識した演奏はこれまで一度もなかったのではないか。まるでマーラーの交響曲第9番? 「トラヴィアータ」? 「ボエーム」? たとえ英雄であっても、死ぬことは恐ろしく孤独で寂しいことなのだ。
 色彩的で、陶酔的で、愛情に満ちていて、しかし恐ろしく悲しくて儚い。これほどまでに真摯で感銘深い「英雄の生涯」はかつて聴いたことがない。往々にして雄弁すぎ、饒舌すぎてインチキくさくなるシュトラウスの交響詩がこうもシリアスに聞こえるのか。


 さて、私も還暦になったのとほぼ同時で新刊を出した。交響曲の歴史をたどりながら演奏について述べているのだが、自分でもこれまでよりしみじみ感があるなと思う。400ページも書いたのに、まだ書き足りないことがいっぱいある。本を出すたびにそうである。嫌になってしまうが、それが次作へのモチベーションにもなる。
 60歳というのはすごいものですよ。知っている人がどんどん引退していく。それどころか死んでいく。次々に訃報がやってくるので、悲しみは追いつけない。
 自分の人生の残りの時間がわかってくる。元気なのはあと何年くらいだろうから、その間にできる仕事はこれくらいかと計算できてしまう。本ならあと何冊書けるとか。動体視力もどんどん落ちるから、車はあと何年くらいしか運転できないだろう、何台しか買えないだろうとか。三十年前には、老人になるまでまだ途方もない時間があると感じられたのに。人生は思ったよりも長くない。
 あとがきの最後の1行は、これからますますAIに侵食されていくであろうこの時代へのささやかな挽歌です。たぶん、数年したら、こんなこと書くだけナンセンスになるというタイミングだと思う。
 ちなみに、常識がある人、いい人、礼儀正しい人、優等生っていうのは、要するにAIみたいな人ということなんですね。AIはそういう例を学習するので。いろいろな情報を集めて並べたあげく、「それはたいへんでしたね。明日は晴れるとよいですね。きっといいことがありますよ。がんばってください。」 で、性的な話はしない。いばらない。
 新学期、ますますAIのようになっているに違いない若者の相手をするのが嫌になってきた・・・。私がバンクシーなら、顔がスマホになっている人間たちが教室にすわっている絵を描くところだ。もちろん、教師もスマホですよ。みんなみんな、生きているスマホになれる時代がすぐそこまで来ているよ。
 え、オケの楽員も、指揮者の顔もスマホ? そんな時代になったら、コンサートには行きません。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)


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