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ベルリン・フィル・ラウンジ特別号 マーラー交響曲全集LPボックス発売!

Monday, November 18th 2024



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ベルリン・フィル&HMV&BOOKS online提携ページ『ベルリン・フィル・ラウンジ』
 マーラーの交響曲全集がLPボックスでリリース


  ベルリン・フィル・レコーディングスより、「マーラー:交響曲全集」がLP17枚組からなる特大ボックスセットとしてリリースされました。
  当エディションには、首席指揮者キリル・ペトレンコや、前任者のサー・サイモン・ラトルやクラウディオ・アバド、そしてダニエル・ハーディング、アンドリス・ネルソンス、グスターボ・ドゥダメル、ヤニック・ネゼ=セガン、ベルナルド・ハイティンクという、現代を代表する8人のマーラー指揮者たちによる、交響曲第1番から未完の第10番「アダージョ」までのライブ録音が収録されています。
  世界1000セットの限定製造で、ハードカバーの豪華装丁によるこのボックスのカバーアートは、アメリカ人アーティスト、ロバート・ロンゴによるものです。彼は写真を精巧に模写した、木炭やグラファイトを用いたドローイングによる絵画で注目されており、ここでは天体の写真を木炭画で精巧に模写しています。LPスリーブをパズルのように組み合わせると一枚の大きな太陽が出来上がり、商品自体がひとつのアート作品にもなります。17枚目のLP(交響曲第10番)は青い盤にプレスされており、他の盤より一層際立っています。



商品ページ
 ベルリン・フィル・レコーディングス10周年

  「自分たちのレーベルを持つ」という夢をベルリン・フィルが実現したのは、2014年のことでした。それ以来、この自主レーベルの録音は、ベルリン・フィル独自のサウンド、技術的な完璧さ、そして多様性を記録してきました。最初のリリースであるサー・サイモン・ラトル指揮によるシューマンの交響曲全集から、キリル・ペトレンコ指揮によるショスタコーヴィチとラフマニノフ作品の最新盤まで、ベルリン・フィル・レコーディングスは妥協のない芸術的・審美的なクオリティの録音の代名詞となっています。また、フルトヴェングラーや今月リリースされる小澤征爾といった、歴史的録音のエディションも取り揃えています。さらに今年から、ベルリン・フィルのソロ奏者をフィーチャーしたデジタル・アルバムによる新シリーズも始まりました。今後も魅力的なラインナップを予定していますので、どうぞご期待ください。



ベルリン・フィル・ラウンジ一覧
 デジタル・コンサートホールの年末年始特別キャンペーン

  ベルリン・フィルの映像配信「デジタル・コンサートホール」では、今年も年末年始特別キャンペーンを実施します。2025年1月3日までに特設ページにて12ヶ月チケットをお求めになると、数量限定バレンボイム・エディションをプレゼントいたします。2枚組のDVDとBlu-rayから成るこのエディションは、今年ベルリン・フィルとの初共演から60年を迎えた指揮者&ピアニストのダニエル・バレンボイムにフィーチャー。1989年のベルリンの壁崩壊直後の歴史的なコンサートよりモーツァルトの《コシ・ファン・トゥッテ》序曲、2010年のコンサートよりブラームスの交響曲第1番、さらにキリル・ペトレンコとの共演によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の独奏など、バレンボイムの幅広い芸風をお楽しみいただけるラインナップになっています。この機会にぜひご利用ください。



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 マーラー情報


50歳で亡くなったマーラーの本業は、31年間携わっていた指揮者業(歌劇場組織約27年、楽団組織約2年、客演多数)。作曲については主に夏季休暇中におこなっており、ウィーン宮廷歌劇場(現・ウィーン国立歌劇場)時代の10年間に、交響曲第4番、第5番、第6番、第7番、第8番、リュッケルト歌曲集、亡き子をしのぶ歌が完成しているのは、安定した報酬と3か月間の夏季休暇のおかげでもありました。
生地(カリシュト)

1860年7月7日に誕生。両親はユダヤ人でドイツ語話者。当時のボヘミアはまだまだドイツ語話者が多く、たとえばスメタナがチェコ語を猛勉強してまともに喋れるようになったのは40歳になる1864年頃のことでした。
期間:1860〜1860(約3か月)

場所:カリシュト(現・カリシチェ)。オーストリア帝国領ボヘミア王国の村。モラヴィアに近く、ウィーンの北北東約170kmに位置。

誕生:1860年7月7日。1週間後に10kmほど北にあるレデチュの母の実家前にあるシナゴーグで割礼。
父親:ベルナルト(ベルンハルト・バルフ)・マーラー[1827-1889]。モラヴィアのライプニク(現・リプニーク)に生まれたユダヤ人。モラヴィアはワインの名産地。
母親:マリー・マーラー(旧姓:ヘルマン)[1837-1889]。レデチュ生まれのユダヤ人。石鹸製造を営む実家は裕福で、持参金は3,500グルデン(約875万円相当)。実家の前にあるシナゴーグで結婚。
備考:前年8月に第1子が1歳5か月で死去(イジドル[1858-1859])していたので、マーラーが長男。

幼年期(イグラウ)

父は1860年10月から食料品店を開業し、ほどなく地下で飲食店も開き、やがて、アルコール飲料醸造工房、酢製造工房、錠前工房などを市街地で経営。町は賑やかで、マーラーは3歳の頃には民謡・俗謡、兵舎の歌や軍楽などがお気に入りになり、4歳でアコーディオンを演奏。5歳のときに祖父母宅の屋根裏部屋で見つけたピアノに熱中するようになり、音楽教育が開始。

期間:1860〜1866(約6年間)。
場所:イグラウ(現・イフラヴァ)。オーストリア帝国領ボヘミア王国の商業都市。カリシュトの南東約30kmに位置。

教育(音楽):1865年からヤコプ・スラトキー(イグラウ市立劇場コントラバス奏者)がピアノを指導。
兄弟(誕生):エルンスト[1862-1875]、レオポルディーネ[1863-1889]、カール[1864-1865]、ルドルフ[1865-1866]。
兄弟(死去):カール[1864-1865](1歳4か月)、ルドルフ[1865-1866](6か月)。
備考:普墺戦争(1866年6月から8月)でオーストリア帝国がプロイセン王国に敗北。

聖イグナチオ男子教区学校(イグラウ)

イグラウにあるイエズス会の小学校。イグラウ市立劇場楽長のヴィクトリンからピアノのレッスンを受け、作曲も開始。
期間:1866〜1869(約3年間)

場所:イグラウ(現・イフラヴァ)。カリシュトの南東約30kmに位置。

教育(音楽):小学校で学びながら音楽教室にも通い、1866年からフランツ・ヴィクトリン(イグラウ市立劇場指揮者)とヨハネス・ブロシュ(イグラウ市立劇場ヴァイオリン奏者)が共同運営する音楽教室でピアノを指導。他に、ピアニストのフランツ・シュトゥルムとヴェンツェル・プレスブルク、ヴァイオリニストのヤン・ツィスカが教えたほか、イグラウ市立劇場音楽監督のハインリヒ・アウグスト・フィッシャーが和声学などを指導。フィッシャー[1827-1917]はマーラーに決定的な影響を与え、生涯を通じて交流することになります。
兄弟(誕生):アロイス=ルイス[1867-1931]、ユスティーネ[1868-1938]。
備考:オーストリア=ハンガリー帝国成立(1867年6月)。

ドイツ・ギムナジウム(イグラウ)

マーラーは通常科目の学習にはあまり熱意がなく、改善をめざして3年生の1学期にプラハのギムナジウムに転学させられたりしていますが効果なく2学期に復学。やがて6年生を終えるとウィーン楽友協会音楽院に入学したため、翌1876年にはギムナジウムでマーラーへの個人指導が開始。これにより、翌1877年にはマトゥーラ(=アビトゥーア)にも合格。

期間:1869〜1877(約8年間)

場所:オーストリア=ハンガリー帝国領ボヘミア王国イグラウ。

入学:1869年。

転学:1871年、プラハのノイシュタット・ギムナジウムに転学(1学期のみ。2学期から復学)。

卒業:1877年。マトゥーラ合格。マトゥーラはオーストリアの大学入学資格試験で、1874年にはドイツのアビトゥーアと相互承認を締結。
教育(音楽):ギムナジウムで学びながら、イグラウ市立劇場関係者の運営する音楽教室でも勉強。
公演:1870年、イグラウ市立劇場で開かれた演奏会にピアニストとして出演。音楽教室の教師たちも共演。1872年、校内のフェストザールで「フリードリヒ・シラー誕生日記念演奏会」にピアニストとして出演し、リストやタールベルクの作品を演奏。1873年、複数の演奏会にピアニストとして出演。

備考:1872年に中庭に工房と納屋のある広い住居を父が市内で購入。売却主はマーラーが音楽塾で和声を習っていたハインリヒ・アウグスト・フィッシャーの母。

兄弟(誕生):アルノルト[1869-1871]、フリードリヒ[1871-1871]、アルフレート[1872-1873]、オットー[1873-1895]。
兄弟(死去):フリードリヒ[1871-1871](8か月)、アルノルト[1869-1871](1歳11か月)、アルフレート[1872-1873](1歳)、エルンスト[1862-1875](13歳)。

ウィーン楽友協会音楽院


期間:1875〜1878(約3年間)

場所:ウィーンはイグラウの南南東約140kmに位置。

科目:1875年、ピアノをユリウス・エプシュタインに師事し、1876年にピアノ部門で一等賞。1877:和声をロベルト・フックスに、対位法と作曲をフランツ・クレンに師事するものの途中で終了。ピアノ部門で再び一等賞(作曲部門は辞退)。

卒業:1878年6月。

自作:ピアノ四重奏曲(1876)、ピアノ五重奏曲スケルツォ(1878)が作曲部門で一等賞。ムジークフェラインザールで演奏。

兄弟(誕生):エマ[1875-1933]、コンラート[1878-1881]

ウィーン大学

当時のウィーンはユダヤ人が大活躍で、医師の60%以上、弁護士の58%以上、広告宣伝業の96%以上、銀行の75%以上のほか、リベラル系の新聞や雑誌はほぼすべてユダヤ系で、ウィーン大学も学生の3分の1以上がユダヤ人でした。人口比では1割くらいなのでかなりの躍進ぶりです。
期間:1877〜1880(約3年間)

場所:ウィーン。

入学:1877年10月、ウィーン大学に登録。

科目:1877年:哲学、言語学、音楽史、視覚芸術、和声学(ブルックナー)、美術史(ハンスリック)等、1878年:古典彫刻、オランダ絵画史、哲学史、1879年:考古学、古代哲学史、ナポレオン時代のヨーロッパ史、ベートーヴェン死後の音楽史(ハンスリック)等、1880年:芸術と歴史について。

交流:1879年からピアノの生徒のヨゼフィーネ・ポイスルと交際し、歌曲も3曲作曲するものの1880年に彼女の父親の介入で終了。


バート・ハル・クアハウス

新興温泉保養地バート・ハルの保養所楽団を指揮する仕事。1880年5月に5年契約したウィーンの興行主グスタフ・レーヴィにより手配。マーラーは月に30グルデン(約75,000円相当)の出演料を得て、うち5%がレーヴィに支払われています。
期間:1880〜1880(約3か月)

場所:バート・ハル。オーストリア=ハンガリー帝国。ウィーンの西約170km、ミュンヘンの東約200kmに位置。

着任:1880年6月1日、指揮者として夏季3か月契約。

離任:1880年9月1日、契約終了。

演目:オペレッタ、コメディ、音楽劇など大小48曲を指揮。


ライバッハ地方劇場

興行主グスタフ・レーヴィの手配。
期間:1881〜1882(約6か月)

場所:ライバッハ(現・スロヴェニアのリュブリャナ)はオーストリア=ハンガリー帝国の都市。ウィーンの南西約280kmに位置。

着任:1881:首席指揮者に就任。1シーズンの契約。

離任:4月2日、シーズン終了により契約も終了。

演目:ヴェルディ:トロヴァトーレ、グノー:ファウスト、モーツァルト:魔笛など。オペラの指揮のほか、ライバッハ・フィルハーモニー協会の演奏会にピアニストとして出演。

兄弟(死去):コンラート[1878-1881](2歳8か月)。

オルミュッツ市立ドイツ劇場


期間:1883〜1883(約2か月)

場所:オーストリア=ハンガリー帝国領モラヴィア辺境伯領オルミュッツ(現・オロモウツ)はウィーンの北北東約170kmに位置。

着任:1883年1月。

離任:1883年3月17日。

演目:マイヤーベーア:ユグノー教徒。ピアノ・リサイタルなど。


カッセル王立劇場


期間:1883〜1885(約2年間)

場所:ドイツ帝国プロイセン王国カッセルはウィーンの北西約600kmに位置。

着任:1883:試用期間を経て3年契約で音楽監督兼合唱監督に就任。

離任:1885:マーラーが契約解除を要請。

自作:ソプラノ歌手ヨハンナ・リヒターと交際。

備考:1884:ハンス・フォン・ビューロー指揮マイニンゲン宮廷管弦楽団のカッセル公演を聴いて感激し、ビューローに協力したいと手紙を送付。


プラハ王立ドイツ劇場


期間:1885〜1886(約1年間)

場所:オーストリア=ハンガリー帝国領ボヘミア王国プラハのドイツ語劇場。

着任:1885:第1楽長に就任。

離任:1886年。

演目:1886:マイヤーベーア、ワーグナー、ベートーヴェン、モーツァルトなど。

交流:ソプラノ歌手ベッティー・フランクと交際。


ライプツィヒ市立劇場

1887:ニキシュが病に倒れ、翌年までにロッシーニ、ワーグナーなど54作品214公演を指揮。
期間:1886〜1888(約2年間)

場所:ドイツ帝国ザクセン王国ライプツィヒはウィーンの北西約450kmに位置。

着任:1886:第2楽長に就任。第1楽長はアルトゥール・ニキシュ。

離任:1888:上層部と対立して辞任。

演目:ワーグナー、マイヤーベーア、アレヴィ、モーツァルト、ウェーバー、グルックなど。

交流:1887R.シュトラウスと交流。ウェーバーの孫の妻マリオン・ウェーバーと交際。

自作:1888:交響曲第1番完成。「葬礼」に着手。ウェーバーの未完のオペラ「3人のピント」をウェーバーの孫の依頼で完成。「3人のピント」をプラハ新ドイツ劇場に客演して初演。


ハンガリー王立歌劇場

1888年、総監督のベニツキー男爵(政治家)により任命。当初ベニツキー男爵はフェリックス・モットル[1856-1911]を指名したものの、モットルがハンガリー語を学ぶことを拒否したためマーラーに決定。その後、1891年1月にマーラーがハンブルク市立劇場と第1楽長として契約した際、1週間後に着任した新総監督ジチ伯爵(音楽家)と衝突して辞任。

期間:1888〜1891(約3年間)

場所:ブダペストはウィーンの南東約200kmに位置。ユダヤ人の割合が2割を超える親ユダヤ都市で、オーストリア=ハンガリー帝国第2の都市。

着任:1888年10月、芸術監督に就任。年俸1万クローネ(約1,250万円相当)で10年契約。

離任:1891年3月、辞任。ハンガリー王立歌劇場側の契約不履行として、マーラーは違約金25,000フローリン(約6千万円相当)を受領。

演目:在任中、ワーグナー作品多数のほか、マルシュナー、モーツァルト、マスカーニ、ドニゼッティ、フランケッティ、ロッシーニ、ロルツィング、エルケル、クロイツァー、オベール、オッフェンバック、ビゼーなど幅広いレパートリーを上演。1890年12月のドン・ジョヴァンニを鑑賞したブラームスが感激し終演後にマーラーと交流。

交流:1890年10月には、以後、12年に渡って交流することになるナタリー・バウアー・レヒナーがマーラーのもとを訪れています。

自作:交響曲第1番、。

家族(死去):父ベルンハルト[1827-1889](1889年2月/61歳)、レオポルディーネ[1863-1889](1889年9月/26歳)、母マリー[1837-1889](1889年10月/52歳)。

ハンブルク市立劇場

現・ハンブルク州立歌劇場。1890年9月に、総監督のベルンハルト・ポリーニ[1838-1897]からハンス・フォン・ビューローの後任として第1楽長職の交渉が開始され、マーラーは14,000マルク以上の報酬を要求し、1891年1月15日に契約締結。3年契約でしたが業績好調を受け、1894年2月5日に契約延長に署名。なお、この契約をめぐってか、在職中だったハンガリー王立歌劇場の新総監督とトラブルになり、マーラーが辞職し、違約金として25,000フローリン(約6千万円相当)を受けとっていました。
期間:1891〜1897(約6年間)

場所:ハンブルク。

着任:1891年3月、第1楽長に就任。

離任:1897年4月。

演目:着任間もない3月31日のジークフリートにビューローが拍手喝采し、以後1891年から1892年のシーズン中にワーグナーを64回上演。レパートリーは多岐に渡り、フィデリオ、魔笛、ビゼー:ジャミレ、ボワエルデュー:白衣の貴婦人、カルメン、フィガロの結婚、ウィンザーの陽気な女房たち、プッチーニ:妖精ヴィッリ、イオランタ、マスカーニ:友人フリッツ、ノルマ、アスラエル、ドン・ジョヴァンニ、セビリアの理髪師、魔弾の射手、ファウスト、ファルスタッフ、売られた花嫁、こうもり、ミニョン、エフゲニー・オネーギン、ルービンシテイン:悪魔、ヘンゼルとグレーテル、オベロン、フランケッティ:クリストフォロ・コロンボ、スメタナ:接吻、マルシュナー:ハンス・ハイリングなど多数。
交流:アンナ・バール=フォン・ミルデンブルク[1872-1947]と1895年から1897年頃まで交際。

自作:交響曲第2番、交響曲第3番

兄弟(死去):オットー[1873-1895](21歳7か月)

ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団

ヴィルヘルム・ヤーンの視力が失われつつあったため、前年から根回ししていたマーラーが後任として1897年4月にウィーン宮廷歌劇場の第1楽長として契約に署名し、10月には芸術監督に就任。報酬は諸経費込みで年間16,000グルデン(約4,000万円相当)。ウィーンでは公的な仕事にはユダヤ教徒は就けないため、マーラーは2か月前にハンブルクの聖ミヒャエル教会でカトリックに改宗済み。しかし、当時のウィーンでは、1895年から熱烈な反ユダヤ主義者のカール・ルエーガーが大人気で市長選でも首位に立っており、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がその都度任命を拒否していたものの、民意には抗えず1897年4月8日に市長に就任していたのが不安要因ではありました。
期間:1897〜1907(約10年間)

場所:ウィーン。

着任:1897年5月。

離任:1907年12月31日付けで解任。

演目:多数。600回以上指揮。

交流:アルマ・マーラー(1901年12月に婚約、1902年3月結婚)。

自作:交響曲第4番、交響曲第5番、交響曲第6番、交響曲第7番、交響曲第8番、子どもの不思議な角笛、リュッケルト歌曲集、亡き子をしのぶ歌。


ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団員によるオーケストラ・コンサート。1899年9月、ハンス・リヒターの後任を選ぶ2度目の楽員投票で96票のうち90票を得て首席指揮者に任命。1900年にパリ万博でも5公演おこなうなど快調でしたが、1901年4月、楽員任命の際のトラブルにより辞任。しかしその後も少ないながら指揮はしており、1904年から1906年にかけては交響曲第5番と第6番の試演も実施(6番は無報酬)。
期間:1898〜1907(約9年間、うち首席指揮者は1年半)

場所:ウィーン。

最初:1898年11月。

最後:1907年11月。

公演:46回(1898年:5回、1899年:14回、1900年:15回、1901年:4回、1902年:2回、1903年:0回、1904年:2回、1905年:3回、1906年:1回、1907年:1回)。

演目:多数。


メトロポリタン歌劇場


期間:1908〜1910(約2年間)

場所:ニューヨーク。

着任:1908年3月、首席指揮者。

離任:1910年3月。

演目:トスカ、トリスタンとイゾルデ、ジークフリート、ワルキューレ、フィデリオ、ドン・ジョヴァンニ、フィガロの結婚、スペードの女王、売られた花嫁、ガラ・コンサートなど54公演指揮。

自作:大地の歌。


ニューヨーク・フィル

1908年の11月から12月にかけてウォルター・ダムロッシュからの要請で客演。当時の楽団名称は「ニューヨーク・シンフォニー・ソサエティ」で、3ヶ月後に客演した際には「ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ」と改名されていました。
期間:1909〜1911(約2年間)

場所:ニューヨーク。

着任:1909年11月。

離任:1911年7月。

演目:多数。

自作:交響曲第9番、交響曲第10番。

備考:1909年10月、パリのロダンのアトリエでブロンズ胸像を制作。


* Point ratios listed below are the case
for Bronze / Gold / Platinum Stage.  

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