クララ・ハスキル・ボックス(23CD)
没後59年を経ても人気の高いピアニスト、クララ・ハスキルのボックスがVENIASから登場。第1次世界大戦、世界大恐慌、第2次世界大戦、冷戦の時代を生き抜いたハスキルは、ルーマニア語、ドイツ語、フランス語を操り、激動のルーマニアのほか、オーストリア、フランス、スイスで暮らし、脊椎側弯症と脳腫瘍のほか、さまざまな病気や怪我にも悩まされる人生を送っています。
このセットでは、若い頃のSP盤録音から晩年のステレオ録音に至る大量の音源が、ほぼ年代別に収録されており、粒立ち良く端正に転がる高音からドスの効いた低音まで、豊かな表現力で複雑なニュアンスを醸し出すハスキルの演奏を、時系列的に楽しめるつくりになっています。
【収録曲一覧】
ハスキルの得意レパートリーは、実演でもセッション録音でも人気があったため、同じ作品に複数の録音が存在するケースも多いので、以下に収録音源を曲目別にまとめておきます。
協奏曲 曲名順
●シューマン:ピアノ協奏曲 オッテルロー(指揮)ハーグ・フィル 録音:1951年5月(CD4)
●シューマン:ピアノ協奏曲 シューリヒト(指揮)ストラスブール市立管 録音:1955年6月15日(CD12)
●シューマン:ピアノ協奏曲 アンセルメ(指揮)スイス・ロマンド管 録音:1956年(CD13)
●ショパン:ピアノ協奏曲第2番 マルケヴィチ(指揮)ラムルー管 録音:1960年10月(CD21)
●バッハ:2台のピアノのための協奏曲 BWV 1061 ガリエラ(指揮)フィルハーモニア管 録音:1956年(CD12)
●バッハ:チェンバロ協奏曲 第5番 カザルス(指揮)カザルス祝祭管 録音:1950年(CD2)
●ファリャ:スペインの庭の夜 マルケヴィチ(指揮)ラムルー管 録音:1960年10月(CD21)
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 スヴォボダ(指揮)ヴィンタートゥール響 録音:1950年10月(CD3)
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ミュンシュ(指揮)ボストン響 録音:1956年11月3日(CD16)
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 マルケヴィチ(指揮)ラムルー管 録音:1959年12月(CD19)
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 アンセルメ(指揮)スイス・ロマンド管 録音:1960年(CD23)
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 ゼッキ(指揮)ロンドン・フィル 録音:1947年6月(CD1)
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 ロッシ(指揮)RAI国立響 録音:1960年4月22日(CD23)
●モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲 K365 ガリエラ(指揮)フィルハーモニア管 録音:1956年4月(CD16)
●モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲 K365 パウムガルトナー(指揮)カメラータ・アカデミカ 録音:1957年8月4日(CD17)
●モーツァルト:ピアノと管弦楽のためのロンド K386 パウムガルトナー(指揮)ウィーン響 録音:1954年(CD10)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番『ジュノーム』 シューリヒト(指揮)南ドイツ放送響 録音:1952年5月23日(CD5)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番『ジュノーム』 カザルス(指揮)カザルス祝祭管 録音:1953年6月19日(CD6)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番『ジュノーム』 ザッハー(指揮)ウィーン響 録音:1954年10月(CD9)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番『ジュノーム』 アッカーマン(指揮)ケルン放送響 録音:1954年6月11日(CD11)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第13番 フリッチャイ(指揮)RIAS響 録音:1953年(CD6)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第13番 パウムガルトナー(指揮)ルツェルン祝祭弦楽合奏団 録音:1960年(CD18)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番 スヴォボダ(指揮)ヴィンタートゥール響 録音:1950年(CD2)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番 フリッチャイ(指揮)ベルリン・フィル 録音:1955年9月(CD20)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 スヴォボダ(指揮)ヴィンタートゥール響 録音:1950年9月(CD2)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 パウムガルトナー(指揮)ウィーン響 録音:1954年10月(CD11)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 カラヤン(指揮)フィルハーモニア管 録音:1956年1月28日(CD8)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 クレンペラー(指揮)フィルハーモニア管 録音:1959年9月8日(CD19)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 マルケヴィチ(指揮)ラムルー管 録音:1960年11月(CD22)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ミュンシュ(指揮)ボストン響 録音:1957年11月9日(CD14)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 ヌッシオ(指揮)スイス・イタリアーナ管 録音:1953年6月25日(CD8)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 ザッハー(指揮)ウィーン響 録音:1954年10月(CD9)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 マルケヴィチ(指揮)ラムルー管 録音:1960年11月(CD22)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 クレンペラー(指揮)ケルン・ギュルツェニヒ管 録音:1956年9月9日(CD14)
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 フリッチャイ(指揮)バイエル国立管 録音:1957年5月(CD17)
独奏曲 曲名順
●シューベルト:ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960 録音:1951年6月8日(CD3)
●シューベルト:ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960 録音:1957年8月23日(CD18)
●シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番 イ短調 Op.42 D.845 録音:1956年9月7日(CD15)
●シューマン:5つの音楽帳 録音:1954年(CD10)
●シューマン:アベッグ変奏曲 Op.1 録音:1938年3月29日(CD1)
●シューマン:アベッグ変奏曲 Op.1 録音:1951年10月(CD4)
●シューマン:アベッグ変奏曲 Op.1 録音:1953年4月11日(CD7)
●シューマン:子供の情景 Op.15 録音:1955年5月(CD12)
●シューマン:子供の情景 Op.15 録音:1956年9月7日(CD15)
●シューマン:色とりどりの小品 Op.99〜3つの小品 録音:1952年4月(CD4)
●シューマン:色とりどりの小品 Op.99〜5つの音楽帳 録音:1952年4月(CD4)
●シューマン:森の情景 Op.82 録音:1947年10月(CD1)
●シューマン:森の情景 Op.82 録音:1947年11月(CD4)
●シューマン:森の情景 Op.82 録音:1954年5月5-6日(CD10)
●スカルラッティ:ソナタ イ長調 Kk 322(L483/P360) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ト短調 Kk 35(L386/P20) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ト長調 Kk 2(L388/P58) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ハ長調 録音:1953年4月11日(CD7)
●スカルラッティ:ソナタ ハ長調 Kk 132(L457/P295) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ハ長調 Kk 515(L255/P417) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 Kk 193(L142/P254) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 Kk 386(L171/P137) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 Kk 386(L171/P137) 録音:1951年10月(CD6)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 Kk 519(L475/P445) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ長調 Kk 437(L278/P499) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ロ短調 録音:1953年4月11日(CD7)
●スカルラッティ:ソナタ ロ短調 Kk 87(L33/P43) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ ロ短調 Kk 87(L33/P43) 録音:1951年10月(CD6)
●スカルラッティ:ソナタ 嬰ハ短調 Kk 247(L256/P297) 録音:1950年(CD5)
●スカルラッティ:ソナタ 変ホ長調 録音:1953年4月11日(CD7)
●スカルラッティ:ソナタ 変ホ長調 Kk 193(L142/P254) 録音:1951年10月(CD6)
●ソレール:ソナタ ニ長調 録音:1934年1月(CD1)
●ドビュッシー:練習曲〜対比的な響きのために 録音:1953年4月11日(CD7)
●ドビュッシー:練習曲〜半音階のために 録音:1953年4月11日(CD7)
●ハイドン:変奏曲 ヘ短調 Hob.XVU:6 録音:1934年1月(CD1)
●バッハ:トッカータ ホ短調BWV 914 録音:1953年4月11日(CD7)
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31 no.2『テンペスト』 録音:1955年5月(CD13)
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31 no.2『テンペスト』 録音:1960年9月(CD20)
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 no.3『狩り』 録音:1955年5月(CD13)
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 no.3『狩り』 録音:1956年9月7日(CD15)
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 no.3『狩り』 録音:1957年8月23日(CD18)
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 no.3『狩り』 録音:1960年9月(CD20)
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111 録音:1953年4月11日(CD7)
●ペシェッティ:ソナタ ハ長調 録音:1934年1月(CD1)
●モーツァルト:きらきら星変奏曲 ハ長調 K265 録音:1960年5月(CD21)
●モーツァルト:デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調 K.573 録音:1954年5月5-6日(CD10)
●モーツァルト:デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調 K.573 録音:1956年9月7日(CD15)
●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 K330 録音:1954年5月5-6日(CD10)
●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 K330 録音:1957年8月23日(CD14)
●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 K330 録音:1957年8月8日(CD17)
●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ヘ長調 K280 録音:1960年5月(CD22)
●ラヴェル:ソナチネ 録音:1951年10月(CD4)
●ラヴェル:ソナチネ 録音:1953年4月11日(CD7)
【激動のルーマニア】
16世紀からオスマン帝国の支配下にあったルーマニアは、さまざまな宗教を容認したオスマン帝国の方針もあってユダヤ人への差別も無かったため、オスマンの支配地域には、スペイン王国やロシア帝国から迫害を逃れてきたユダヤ人たちが数多く居住、ルーマニア都市部人口の約7%ほどがユダヤ人となっていました。その後、18世紀にはオスマン帝国の弱体化もあってロシアとオーストリアの影響が強まり、さらに1829年にオスマン帝国の「貿易独占権」が失われると、西側資本主義との関わりがさらに強化。
ハスキルの父イサクの先祖は、ロシア帝国の領土だった地域の出身で、母ベルタの先祖はスペイン王国にルーツがあるということなので、「ロシア→オスマン(主にアシュケナジム)」、「スペイン→オスマン(主にセファルディム)」というユダヤ人移動の2大潮流の2人が結婚したということになります(ちなみにクレンペラーの場合も、父がアシュケナジム、母がセファルディムでした)。
しかしそうした親ユダヤの環境は、ルーマニアがオスマン帝国から独立したことによって次第に変質。人口の大半を占めるルーマニア人たちのあいだに、自分の立場を有利にするために宗教を盾にした民族主義が浸透し始め、反ユダヤ主義的な風潮が高まって行くこととなります。ユダヤ人たちにとっては、オスマン帝国からの独立は不穏な時代の幕開けでもありました。
ハスキルが生まれた1895年は、ルーマニアが王制に移行して14年目にあたる年で、前々年には、台頭する民族主義と対立する社会主義的な労働者政党である「ルーマニア社会民主労働党」が結成され、反宗教の立場で活動を展開。
1918年には、ルーマニア王国は、第1次大戦休戦協定により、戦勝国として、トランシルヴァニアやベッサラビアを領土として獲得、「大ルーマニア」へと急拡大。獲得地域にはユダヤ人の人口が多く、ルーマニア国内のユダヤ人人口が大幅に増加。そのため、ルーマニア政府はそれらの地域のユダヤ人にも市民権を与え、これが結果的に民族主義者の反感を買い、反ユダヤ主義の高まりを招くことにもなります。
1921年には「ルーマニア社会民主労働党」は「ルーマニア共産党」へと姿を変えるものの、1924年には政府の通告により公式な活動を停止。
ハスキルはコンサートや治療で時間がとれず、1922年にブカレストに帰郷したのが最後だったようですが、このあと、ルーマニアは大変なことになっていきます。
1927年には、ルーマニアの宗教系政党「国家キリスト教防衛協会」の幹部であるコドレアヌが離党して「大天使ミカエル軍団」を創設。ほどなく民兵政治集団「鉄衛団」を組織し、反ユダヤ主義運動を展開。
1933年には「鉄衛団」の活動を禁止したドゥカ首相を暗殺し、1938年には政府によってコドレアヌが処刑され、1939年には報復として「鉄衛団」がカリネスク首相を暗殺という具合に、その活動は宗教団体ながら残虐なものでした。
その後、コドレアヌの後継者ホリア・シマは、アントネスク将軍と組んで1940年には政権を奪取、首相となったアントネスク将軍のもとで副首相にまで就任。しかし「鉄衛団」による無秩序なユダヤ人大虐殺や政府関係者の処刑を制御できず、ドイツの支援を受けたアントネスク首相によって「鉄衛団」は鎮圧・排除。
そのアントネスク首相も、1944年8月23日には、22歳の国王ミハイ1世が国防大臣や各政党党首と組んでクーデターを起こしたため失脚。翌日ミハイ1世は連合国に降伏宣言し、その翌日にはドイツに対して宣戦布告。9月12日にはモスクワで、アメリカ・イギリス・ソ連との休戦協定調印に漕ぎつけています。
8か月後の1945年5月にはソ連に占領され、1947年12月30日にはルーマニア共産党政府により君主制が廃止、共産党独裁によるルーマニア人民共和国が成立し、多くの領土がソ連に割譲。
第2次大戦中にルーマニアが殺害に関わったユダヤ人の犠牲者数は28万人から38万人と言われていますが、姉のリリー・ハスキルは、戦時中もずっとルーマニアにいたものの無事でした。慎重な性格だったのでしょうか。しかしそれが災いしてか、1960年にはクララ・ハスキルの脳外科手術に反対して開始時刻を遅らせてしまい深刻な事態を招くことにもなってしまいます。
【年表】
●印はハスキル関連(太字)、◆は社会関連。
1861年
◆ルーマニア公国、オスマン帝国の支配から独立。さまざまな宗教を容認したオスマン帝国ではユダヤ人への差別も無かったため、オスマンの支配地域には、スペイン王国やロシア帝国から迫害を逃れてきたユダヤ人たちが数多く居住し、ルーマニアの都市部人口の約7%ほどがユダヤ人となっていました。しかし、ルーマニア公国がオスマン帝国から独立したことによって、ルーマニア人たちのあいだに民族主義が浸透し始め、反ユダヤ主義的な風潮が高まって行くこととなります。
1881年
◆ルーマニア公国、王制に移行しルーマニア王国に。
1889年
●イサク・ハスキルとベルタ・モスクーナ結婚。ハスキルの父となるイサクの先祖は、ロシア帝国の領土だった地域の出身で、母となるベルタの先祖はスペイン王国にルーツがあるということなので、「ロシアからオスマン(主にアシュケナジム)」、「スペインからオスマン(主にセファルディム)」というユダヤ人移動の2大潮流の2人が結婚したということになります。ちなみにオットー・クレンペラー[1885-1973]の場合も、父がアシュケナジム、母がセファルディムでした。
1891年
●1月、ハスキル家に長女リリー誕生。
1893年
◆ルーマニア社会民主労働党結成。労働者階級によるルーマニア初の政党。
1895年(0歳)
●1月7日、クララ・ハスキル、ルーマニア王国の首都ブカレストの中心部にハスキル家の次女として誕生。家にはベーゼンドルファーのグランド・ピアノがありました。クララという名前は、14歳でブカレスト音楽院に入学したものの20歳で亡くなってしまった母の姉クララからとられたものです。
1896年(1歳)
1897年(2歳)
1898年(3歳)
◆ルーマニア政府により、ユダヤ人を中等学校と大学から閉めだす法律が制定。反ユダヤ主義が広まり、ルーマニアを出国するユダヤ人が増えていきます。
●10月、ハスキル家に三女ジャンヌ(ジャンヌ)誕生。ヴァイオリンを学び、のちにフランス国立放送管弦楽団の第1ヴァイオリン奏者となります。
●12月、ハスキル家が入居している建物で火災が発生。家具や宝飾品が消失するもののピアノはなんとか無事で、転居先に搬送。しかし、家族を救出する際に父イサクが肺にダメージを受けて重篤な肺炎となってしまいます。また、このとき3歳のハスキルも肺炎になっていますがほどなく回復していました。
1899年(4歳)
●7月、父イサク、肺炎により死去。
●父イサクの死去により、生計を立てるために母ベルタが働くようになります。母はピアノと語学に秀でていたので、ピアノ、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語を教えたりしたほか、自宅での仕立て仕事にも従事。また、母の弟であるイサク・モスクーナも一家を支援してもいました。弟イサクは、のちにルーマニア初の保険会社の支配人になっています。
●ハスキル、母からピアノのレッスン。
●12月、母の弟アヴラムが友人の合唱指揮者キリアックを連れてハスキル家に来訪。キリアックは4歳のハスキルの弾くピアノのレベルに驚き、ブカレスト音楽院ステファネスク教授に紹介。教授もハスキルを高く評価。
1900年(5歳)
●ハスキル、母からのピアノのレッスン継続。
1901年(6歳)
●9月、ハスキル、ブカレスト音楽院に入学。ゼニデ夫人のクラスで勉強。
1902年(7歳)
●ハスキル、ルーマニア王妃の御前で演奏。奨学金授与。
●4月、ハスキル、叔父アヴラムとウィーンに転居。ヴァイオリンのレッスンも開始。叔父アヴラムは、語学教師をして生計をたてることにします。
●秋、ハスキル、ウィーンの小学校に入学。マルチリンガルの母や叔父の影響でドイツ語にも不自由していませんでした。
●10月、ハスキル、リヒャルト・ロベルト[1861-1924]教授に師事。ウィーン生まれのロベルト(本名ロベルト・シュピッツァー)はユダヤ系で、クラスにはハスキルより2歳若いユダヤ系のジョージ・セルもいました。また、のちには同じくユダヤ系のルドルフ・ゼルキンがロベルトの教えを受けています。
●11月、ハスキル、ウィーンで最初のリサイタル。
1903年(8歳)
1904年(9歳)
●夏、ハスキル、2年ぶりにブカレストに帰郷。自宅とブラショヴの別荘で家族と再会。
●11月、ハスキル、ウィーンのベーゼンドルファー・ホールで開催されたリスト・フェスティヴァルに参加。
1905年(10歳)
●4月、ハスキル、ウィーンのベーゼンドルファー・ホールで演奏。
●ハスキル、ブカレストに帰郷。家族と再会し、ブラショヴの別荘では小品を作曲して姉リリーと演奏。さらに、ルーマニア王妃からの奨学金支給期間が2年間延長されています。
●秋、ハスキル、叔父アヴラムとパリに転居。
●10月、ハスキル、パリでジョゼフ・モルパン[1973-1961]に師事。モルパンはフォーレの弟子でエコール・ノルマル音楽院で教えており、のちに院長に就任した人物。講義を休みがちなコルトーのフォローもしていました。
1906年(11歳)
●11月、ハスキル、パリ音楽院予科に入学。
●ハスキル、パリ音楽院予科同級生のローズ・ジョルジェット・ギュラー(のちのユーラ・ギュラー)[1895-1980]と友人に。ギュラーはユダヤ系ロシア人の父とルーマニア人の母との間にフランスに生まれたピアニスト。
●ハスキル、パリ音楽院本科編入試験で不合格。予科での勉強を継続。
1907年(12歳)
●1月、ハスキル、脊椎側弯症発症。コルセットを着用して生活。
◆2〜4月、ルーマニア農民蜂起勃発。農機具で支配層を襲う暴動で、陸軍によりほどなく鎮圧。農機具と銃火器では殺傷力が異なることから、陸軍側の死者は10人ほどで、農民側の死者は約1万1千人(公式には419人)と推測されています。
●ルーマニアの社会教育省の援助基金からハスキルに支援開始。これはエネスクの支援辞退によりもたらされたものです。
●11月、ハスキル、パリ音楽院本科編入試験に合格。同級生のギュラーは名教師イシドール・フィリップ[1863-1958]のクラスに入れたものの、ハスキルは教師経験の無かった新人教授コルトーのクラスに配属。
コルトーはソロ・デビュー後まもなく、ワーグナーの音楽や思想に熱烈に入れあげたワグネリアンとなってバイロイトで2年連続で助手まで務めて指揮者に転身、その後、人気のカザルスとティボーと組んだ「室内楽ピアニスト」として知名度が上がったことで、新人教授にも関わらずコンサートのための休講が続発。ラザール・レヴィが代理を務めることが多くなります。
1908年(13歳)
●6月、ハスキル、学年末試験でサン=サーンスのピアノ協奏曲第2番を演奏し次席。
●12月、ハスキル、ブカレストに3年ぶリに帰郷。姉リリーはブカレスト音楽院ピアノ科で首席となっていました。
1909年(14歳)
●1月、ハスキル、ブカレストでソロ・リサイタル開催のほか、ブカレスト交響楽団とベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏。
●ハスキル、ルーマニアの王妃に招待されて古都シナイアの宮殿で演奏。
●叔父アヴラムがブカレストに滞在中、肋膜炎になったため、ハスキルのパリ行きには母ベルタが同行。アヴラムはブカレストで1911年まで弟イサクの保険会社で働くことになります。
●6月、ハスキル、フランス青少年連合会主催コンクールのヴァイオリン部門で優勝。審査員はティボーほか。ハスキルにとっては余技で始めたヴァイオリンでしたが驚くべき上達ぶりでした。しかしこの後、脊椎側弯症の悪化により、ヴァイオリンの道は諦めています。
●7月、ハスキル、学年末試験で次席。1位はアリーヌ・ヴァン・バレンツェン[1897-1981]で、マルグリット・ロン[1874-1966]のクラスの生徒でした。
コルトーは休講多数というだけでなく、講義のある日もハスキルの指導を拒否することが多く、ときにはほかの学生の前でハスキルを侮辱したり、邪険に追い払ったりもしていました。
そうした悲惨な環境ではありましたが、代理のラザール・レヴィ[1882-1964]からは誠実で十分な指導を受けることができ、ハスキルはレヴィに生涯感謝することとなります。レヴィはユダヤ系の27歳の非常勤講師で、1923年には教授に就任しますが、第2次大戦中、ドイツ占領下で1940年に解雇され、息子も殺害されていました。同時期に大出世を果たしたコルトーとは対照的な境遇です。
ちなみにレヴィは、ソロモン、モニク・アース、ロリオ、ペルルミュテール、クリダ、原智恵子、アンドレ・チャイコフスキー、ウニンスキー、バルビエ、レヴィナスなど多くの有名ピアニストを育てており、1950年10月には日本を訪れてもいます。
1910年(15歳)
◆1月、パリ大洪水。長雨でセーヌ川の水位が8.6メートル上昇し、2か月に渡ってパリは洪水状態に。
●7月、ハスキル、パリ音楽院を卒業。卒業試験の賞金400フランと、賞品のプレイエルのグランド・ピアノを獲得。
●8月、ハスキル、ウィーンで演奏会開催。
●8月、ハスキル、ブカレストに帰郷。
1911年(16歳)
●2月、ハスキル、ブカレストでソロ・リサイタルを開いたほか、地元オーケストラとサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番を演奏。
●3〜4月、ハスキル、ミラノで演奏。
●7月、ハスキル、チューリヒで演奏。終演後、ピアノの名手で作曲家のブゾーニがハスキルに対して、自分が教えているプロイセン芸術アカデミーで学ぶよう誘われるものの、母ベルタが拒否。ハスキルはこの好機を逃したことを長く後悔していました。
1912年(17歳)
●ハスキル、叔父アヴラムと共にローザンヌに滞在。
◆10月、第1次バルカン戦争勃発。ルーマニアは中立。
1913年(18歳)
●4月、ハスキル、パリで演奏。
●ハスキル、脊椎側弯症が悪化。
◆6月、第2次バルカン戦争勃発。ルーマニアも参戦し、ブルガリア、オーストリアと交戦。
◆8月、ブカレスト条約により、ルーマニアはブルガリアより南ドブロジャを割譲され国土拡大。
●10月、ハスキル、ローザンヌで演奏。
●12月、ハスキル、ローザンヌでルー医師により治療。
●12月、ハスキル、ローザンヌで演奏。サン=サーンスのピアノ協奏曲第4番、パデレフスキのポーランド幻想曲。
1914年(19歳)
◆5月、ドイツがフランスとベルギーに対して宣戦布告。
◆8月、オーストリア=ハンガリーがセルビアとロシアに対して宣戦布告。
◆8月、ドイツがロシアに対して宣戦布告。
◆8月、イギリスがドイツとオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告。
◆8月、フランスがオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告。
◆8月、オーストリア=ハンガリーがロシアに対して宣戦布告。
●9月、ハスキル、脊椎側弯症の本格的な治療のため、骨に関連した疾患の治療で有名な病院があるノルマンディー地方のベルク=シュル=メールに、叔父アヴラムと共に長期滞在を開始。
◆11月、フランス、イギリス、ロシアがオスマン帝国に対して宣戦布告。
●ハスキルへの治療は、権威とされた病院の医師によるギプス装着によるもので、体の動きを封じ、傷つけるほど強力なものだったため、つらい日々が続きます。
1915年(20歳)
●治療の効果がまったく現れず、ハスキルへのダメージばかりが深刻化して行くので、みずからも医師免許を持つ叔父のアヴラムは、権威とされる医師の能力を疑問視し、別の医師を探すことにします。
●叔父アヴラムは、同地で開業していたカルヴェ医師のもとを訪れ、ハスキルの治療を新たに託すことを決定。能力・人格とも信頼できたカルヴェ医師のもとで、ハスキルは治療を受けるだけでなく、ピアノも弾かせてもらい、さらにカルヴェ家の娘や、治療に来ていた少女らと交流し、戦時中のほとんどを同地で過ごしています。
●叔父アヴラムが、最初の医師の恨みを買い、医療妨害をおこなったとして軍政本部に告訴されます。運の悪いことに、アヴラムは国籍をルーマニアからオーストリア=ハンガリー帝国に変更していたので、フランスの敵の同盟国側ということになり、敵性外国人として扱われ、ノルマンディー地方グランヴィルの収容所に移送されてしまいます。
●ハスキルはルーマニア国籍のままだったため、当時のルーマニアが中立国だったことからフランス政府の扱いに変化は無く、1人で暮らすことになります。ちなみに翌年のルーマニアの参戦も連合国側だったため、問題はありませんでした。
1916年(21歳)
◆8月27日、ルーマニア王国、第1次世界大戦に連合国側で参戦。1918年5月7日までの「ルーマニア戦線」で、ロシアと共に、ドイツ、オーストリア、ブルガリア、オスマンを相手に戦い、535,706人の死傷者を出す激戦を展開。ロシアの死傷者は約50,000、ドイツ約190,000、オーストリア約100,000、ブルガリア約30,000、オスマン約20,000という結果でした。
◆12月6日、首都ブカレスト陥落。ブカレストの戦いでは、150,000人を超えるルーマニア兵が俘虜となっています
●妹のジャンヌが。ベルク=シュル=メールを訪れ、姉クララのやせ衰えた姿に驚くものの、ヴァイオリンの上達ぶりを披露して姉クララを喜ばせています。
1917年(22歳)
◆9月、ルーマニア王国、トゥトラカンの戦いでブルガリアとドイツに惨敗。死傷者数約6,000人、俘虜約2万8000人という結果でした。
●9月、妹のジャンヌがパリ音楽院に入学。カペー教授に師事。
●12月31日、母ベルタ、癌のためパリで死去。
1918年(23歳)
●1月、ハスキル、母の葬儀を済ませてベルク=シュル=メールで治療を再開。
●9月、ハスキル、虫垂炎のため5週間入院。
●11月、ハスキル、パリに帰還。ベルク=シュル=メールでの治療は4年2か月に及びました。
◆12月1日、ルーマニア王国は、第1次大戦休戦協定により、戦勝国として、トランシルヴァニア、ブコヴィナ、ドブロジャ、ベッサラビアを領土として獲得、「大ルーマニア」となります。獲得地域にはユダヤ人の人口が多く、ルーマニア国内のユダヤ人人口が大幅に増加。そのため、ルーマニア政府はそれらの地域のユダヤ人にも市民権を与え、これが結果的に民族主義者の反感を買い、反ユダヤ主義の高まりを招くことにもなります。
1919年(24歳)
●ハスキル、パリとスイスで、デマレ夫人やロシェなど生涯の有力な支援者となる人たちと交流。
1920年(25歳)
◆2月、フランス、ドイツ領だったメーメル(現リトアニアのクライペダ)を占領。
◆3月、ルール蜂起。ドイツの工業地帯ルール地方で、左派の労働者兵士5万人ほどで組織された「ルール赤軍」が蜂起し、「ヴァイマル共和国軍」と戦闘状態になり、1か月ほどで鎮圧されます。ルール地方は3年後、フランス・ベルギー軍に占領されます。
1921年(26歳)
●1月、ハスキル、アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団のスイス国内ツアーに参加。
1922年(27歳)
●1月、ハスキル、叔父アヴラムと共にブカレストに帰郷。
◆2月、ワシントン海軍軍縮条約により、戦勝各国海軍の主力艦保有率を策定。米5、英5、日3、仏1.75、伊1.75という数字はフランスには不満の残る数字でした。
◆10月29日、イタリアでムッソリーニ政権が成立、ファシスト体制に移行。ムッソリーニは1930年代初頭までは反ドイツ的な姿勢でした。
●11月、ハスキル、ブカレストで演奏。
●12月、ハスキル、ブカレストで演奏。ジョルジェスク指揮ブカレスト・フィルと共演。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。
◆12月26日、ロンドンで、ドイツの戦時賠償支払い義務不履行が債権各国によって認定。
1923年(28歳)
●1月、ハスキル、ウィーンでロベルト教授と再会。
●1月、ハスキル、パリに行き、ポリニャック公妃の邸宅に滞在。
●1月、ハスキル、パリで演奏。ソロ・リサイタル。
●1月、ハスキル、パリで演奏。シャンゼリゼ劇場でゴルシュマンの指揮でシューマンのピアノ協奏曲。
◆1月11日、フランス・ベルギー軍が、ドイツの賠償不払いを理由に、ドイツのルール地方を占領。イタリアも技術者を派遣。
●2月、ハスキル、ブリュッセルで演奏。ソロ・リサイタル。大成功。
●2月、ハスキル、パリで演奏。ソロ・リサイタル。
●2〜3月、ハスキル、気管支炎になり公演も何度かキャンセル。体調悪化。
●4〜7月、ハスキル、南ドイツの山岳湯治場、ザンクト・ブラージエンに4カ月間滞在して療養。
◆ドイツでハイパーインフレ策実施。通貨供給量を戦前の2,000倍とすることで、戦費調達などで生じた膨大な国内債務を劇的に削減。国民生活は犠牲になるものの、レンテンマルク導入によりなんとか事態を収拾。
●11月、ハスキル、ウィーンで演奏。ソロ・リサイタル。ロベルト教授の企画。
●11月、ハスキル、ウィーンで演奏。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ロベルト教授の企画。
●12月、ハスキル、スイスに帰還。ルガノで演奏。
1924年(29歳)
●ハスキル、スイス国内で12公演。うち3公演は妹のジャンヌとの共演。
●ハスキル、ブリュッセルで演奏。
●ハスキル、パリで演奏。
◆5月、パリ・オリンピック開催。
◆イタリア政府、フランス国債の購入を禁止。フラン下落が原因。
◆フランス政府、フラン下落に歯止めをかけるため関税引き上げを開始し、1926年中に全品目について関税を30%引き上げ。
●7月27日、ブゾーニ死去。
●10月、ハスキル、北米ツアー。帰りの船ではピアノ4手版でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾いて乗客を沸かせます。
●12月、ハスキル、ローザンヌで演奏。アンセルメの指揮でラフマニノフピアノ協奏曲第2番。
1925年(30歳)
●ハスキル、スイス・ツアー。12公演のうち4公演は妹のジャンヌとの共演。
●9月、ハスキル、北米ツアー。
1926年(31歳)
●1月、ハスキル、マンチェスターで、ハーティ指揮ハレ管弦楽団と共演。バッハとショパンのピアノ協奏曲を演奏。
●3月、叔父イサク癌のため死去。ハスキル家の経済的支柱だったイサクの死は、ハスキルにもアヴラムにも衝撃でした。
●4月、ハスキル、支援者ロシェからカザルスを紹介され、スイス各地で共演。
●5月、ハスキル、パリでエネスクと共演。
●11月、ハスキル、北米ツアー。
1927年(32歳)
●ハスキル、パリで演奏会。イザイとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを全曲演奏。
1928年(33歳)
◆6月、フランス政府、フランを約5分の1に切り下げ。国内債務の大幅な削減と輸出条件の向上による経済再建策。
1929年(34歳)
●3月、ハスキル、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を初めて演奏。指揮はシェルヘン。
●11月、ハスキル、アムステルダムとベルリンで演奏。
1930年(35歳)
◆「世界大恐慌」の影響が顕在化。金本位制のアメリカとフランスでの失策や、関税施策、金利施策の失敗が原因ともいわれる「世界大恐慌」には、1930年時点でのアメリカの金準備の世界シェア約38%、フランスの約20%という、2国だけで世界の6割近いシェアのもたらした国際的な資金の極端な移動も背景にありました。といっても、その5年前の1925年時点ではアメリカの金準備シェアは約44%で、5年間で6%減少という流れなのに対し、フランスは1925年には約8%だったので、実に2.5倍に膨らんでいたことになります。これによりパリではいくつもの銀行が倒産し、投資家や資産家たち、さまざまな産業も影響を受けるようになります。
●ハスキルの妹ジャンヌ、フランス国籍を取得。新たに創設されるフランス国立放送管弦楽団のヴァイオリン奏者として契約。
●7月、ハスキル、チューリヒで交通事故。
1931年(36歳)
●3月、ハスキル、ベルリンで演奏会。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を演奏。
●3月、ハスキル、パリで演奏会。モントゥーの指揮で、モーツァルトのピアノ協奏曲第9番を演奏。
1932年(37歳)
●叔父アヴラム、パリで動脈硬化などにより健康状態悪化。ハスキルは公演依頼も断って看病に明け暮れ、自分の健康も悪化。
1933年(38歳)
◆1月30日、ナチ政権成立。ドイツのヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
●3月、姉リリーがハスキルの健康を心配してブカレスト音楽院を退職し、10か月間パリに滞在して叔父を看病。ハスキルはコンサートに一時的に復帰します。
1934年(39歳)
●ハスキルのこの年の演奏会は13回。
●1月、ハスキル、前年からの叔父アヴラムの看病で疲れ切っていること、病気で手が腫れたりもしたことなどを友人に手紙で報告。
●1月、ハスキル、POLYDORと契約。ハイドンなどレコーディング。
●2月、叔父アヴラム死去。67歳でした。
1935年(40歳)
●ハスキル、ラジオ・パリで9回放送。
●2月、ハスキル、ジュネーヴで演奏会。エネスクと共演。
◆3月、ドイツ、徴兵制復活(再軍備宣言)。
◆4月、ストレーザ戦線。フランス、イタリア、イギリスによりロカルノ条約再確認。
◆5月、仏ソ相互援助条約締結。ドイツ再軍備に対抗する軍事同盟。
◆6月、英独海軍協定締結。イギリスがドイツに接近、ストレーザ戦線の連携は崩壊。
●12月、ハスキル、ポリニャック公妃のサロンでリパッティと対面。
1936年(41歳)
●ハスキルのこの年の演奏会は6回。
●1月、ハスキル、ピエール・ベルナックの歌うシューベルト、ブラームスなどを伴奏。
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ、ロカルノ条約を破棄し、ラインラントへ進駐。
◆6月、フランス人民戦線内閣成立。ユダヤ系のブルム首相による反ファシズム政権(1937年6月まで)。
◆7月17日、スペイン内戦勃発(1939年4月まで)。
◆7月31日、ベルリン・オリンピック開催。
◆9月、フランス政府、フランを約28%切り下げ。金兌換停止、および金(ゴールド)の輸出も停止。
1937年(42歳)
●4月、ハスキル、アンゲルブレシュト指揮フランス国立放送管弦楽団とブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏。
◆5月、パリ万博。
●12月28日、ラヴェル、脳外科手術後に死去。執刀医のクロヴィース・ヴァンサン[1879-1947]は、精神科治療で「拷問」と言われた強烈な電気ショック療法をおこなっていた医師でした。
1938年(43歳)
●ハスキル、リパッティとモーツァルトの2台のピアノのためのピアノ協奏曲で共演。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。
●11月、ハスキル、ルクセンブルク放送管弦楽団とブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏。
1939年(44歳)
●3月、ハスキル、ミュンシュの指揮でリパッティと共演。
●7月、リパッティ一家、ブカレストに帰郷。
◆9月3日、フランスがドイツに対して宣戦布告。大規模な徴兵も実施。
1940年(45歳)
●1月、ハスキル、マガロフ夫妻と交流。
◆5月10日、ドイツ、フランス侵攻開始。前年9月にドイツに対して宣戦布告したフランスでしたが、実際にドイツ軍がフランスへの侵攻を始めたのは8か月も後のことで、油断したフランスはすぐに国防の要衝マジノ線を突破されてしまいます。慌てたフランス軍と政府は、パリ市民に対して、そのままパリに留まるよう要請したり、疎開を促したりと、混乱した通告をおこなう一方、6月上旬には、軍や政府機関と関係者については、巨大なカジノと数多くの宿泊施設を持つ温泉保養地ヴィシーにまるごと避難、自分たちの場所と安全を先に確保していました。
ほどなく政府の行状を知った市民たちもすぐに南下を始め、フランス国立放送管弦楽団などなど数多くの音楽家たちも南を目指すことになります。その数はごく短期間のうちに100万人を超えるという凄まじいもので、落ち着き先のフランス中部でも南部でも大きな混乱が生じることとなります。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。
◆6月16日、内閣総辞職、ペタン元帥が後を引き継ぎ、6月22日に休戦条約が調印。ドイツに降伏したフランスでは、国民は不自由な生活を強いられるようになりますが、当初は、湾岸部やパリなどの北部が「ドイツ軍占領地域」、南東部とコルシカ島が「イタリア軍占領地域」で、ほかはペタン元帥率いるヴィシー政府の管轄する「自由地域」となっていました。>
もっとも、「自由地域」とはいっても、検閲対象が膨大で、警察による監視体制も厳しく、ドイツとイタリアの「占領地」よりもかえって不自由だったとされるのがヴィシー政府管轄地域の都市部でもありました。
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
◆10月12日、ドイツ軍、ブカレスト進駐。ルーマニアは三国同盟に加入し、中立国から枢軸国に立場が変わります。これによりチェリの立場も同盟国人ということになります。
1941年(46歳)
●3月、ハスキル、フランス国立放送管弦楽団の楽員たちとパリを脱出して、自由な環境が維持されていたマルセイユへ。
●6月、ハスキル、マルセイユで旧友ギュラーと交流。
◆6月、独ソ戦開戦。ドイツ、ルーマニア、スロヴァキア、ハンガリーがソ連に宣戦布告。
●12月、ハスキル、パストレ侯爵夫人の別荘で演奏。モニク・アースも出演。
●12月、ハスキル、頭痛が悪化。
1942年(47歳)
●4月、ハスキル、マルセイユの医師ハンブルガーの診断。
●5月、ハスキル、マルセイユ市立病院で、ダヴィド博士の執刀で頭部手術。
●6月、ハスキル、マルセイユ市立病院を退院。
●9月、ハスキル、警察に連行されるもののすぐに釈放。
◆秋、イギリス空軍がフランスへの爆撃を開始。
●11月、ハスキル、ジュネーヴに転居。フランス全土がドイツ軍占領下に置かれることとなったため。
1943年(48歳)
●10月、ハスキル、リパッティ、マドレーヌとジュネーヴに到着。
1944年(49歳)
●ハスキルのこの年の演奏会は11回。
●2月、ハスキル、ヴヴェイでE・ロシェの息子ミシェル・ロシェと交流。
◆8月、パリ解放。
◆8月23日、ルーマニア国王ミハイ1世が、国家指導者アントネスクを解任・逮捕・拘束し、枢軸国側で第2次大戦に参戦していた政権が崩壊。王党派、自由主義者、共産主義者の連合による「ルーマニア国家民主連合」政権が誕生。
◆8月24日、ルーマニア新政権、連合国に対して降伏。
◆8月25日、ルーマニア新政権、枢軸国ドイツに対して宣戦布告。これにより、ハスキルの立場は「枢軸国側」から「連合国側」へと反転しています。
●9月、コルトー逮捕。レジスタンス組織「フランス国内軍」によるもので、ドイツ占領下のヴィシー政権で音楽関係の最高職につき、ナチに多大な協力をおこなったという容疑。裁判にかけられて1年間の演奏活動禁止処分となります。1946年4月には復帰し、海外ツアーをおこないますが、1947年1月のパリ公演では、クリュイタンスとパリ音楽院管弦楽団のボイコットに遭遇し、聴衆の暴動にも見舞われたりしていました。
◆9月12日、ルーマニア新政権、モスクワで、アメリカ・イギリス・ソ連間の休戦協定調印。
●12月、ハスキル、マガロフとモーツァルトの2台のピアノのためのピアノ協奏曲で共演。
1945年(50歳)
●ハスキルのこの年の演奏会は17回。
●3月、ハスキル、指の痛みがひどくなったため、バーデンに1か月以上滞在して22かに渡って治療を受けます。
◆5月8日、ルーマニア王国はソ連に占領されて王制廃止。
●11月、ハスキル、ヴヴェイで演奏会。マガロフとのバルトーク『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』。
1946年(51歳)
●4月、コルトー、演奏活動再開。フランスとスイスでのツアーのほか、イギリスとイタリアでも演奏。
●7月、ハスキル、バックハウスと交流。
●12月、ハスキル、ロンドンで演奏会。ウィグモア・ホールのリサイタル。BBCがスカルラッティのソナタを録音。
1947年(52歳)
●1月、コルトー、共演予定のクリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団からボイコット。戦時中のコルトーの行動への抗議でした。
●7月、ハスキル、デッカでベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を録音。
1948年(53歳)
●ハスキル、スイス各地で演奏会。
◆8月30日、共産主義国家となったルーマニアで、国家保安局(セクリターテ)が設立。秘密警察任務にあたります。
●10月、ハスキル、ヴヴェイで演奏会。エネスクとモーツァルトのヴァイオリン・ソナタなどで共演。
1949年(54歳)
●1〜2月、ハスキル、オランダ・ツアー。
●6月、ハスキル、スイス国籍取得。ミシェル・ロシェの尽力。
◆9月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約30%切り下げ。アメリカの原料輸入の大幅削減で生じた過度のポンド売りにより、外国為替市場が閉鎖に追い込まれたことが原因。これにより多くの国が自国通貨の切り下げに踏み切ります。
・約60%:アイスランド
・約53%:オーストリア
・約47%:アルゼンチン
・約36%:南アフリカ
・約30%:デンマーク、ノルウェー、アイルランド、オランダ、スウェーデン、フィンランド、イラク、エジプト、ヨルダン、ローデシア、インド、ビルマ、セイロン、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、
・約27%:香港
・約22%:フランス
・約21%:西ドイツ
・約20%:タイ
・約13%:ポルトガル、ルクセンブルク、ベルギー
・約9%:カナダ
・約8%:イタリア
・約7%:イスラエル
1950年(55歳)
●2月、ハスキル、オランダ・ツアー。22回の演奏会。
●6月、ハスキル、プラド音楽祭に出演、グリュミオーと交流。
●9月、ハスキル、ウェストミンスターでモーツァルトのピアノ協奏曲第19番、第20番、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を録音。
●10月、ハスキル、レコーディング(Westminster)。スカルラッティのソナタ集。
●12月2日、リパッティ死去。ジュネーヴで死去。
1951年(56歳)
●6月、ハスキル、レコーディング(PHILIPS)。シューベルトのピアノ・ソナタ第21番、シューマンの『アベッグ変奏曲』。
●12月、ハスキル、パリで演奏会。
1952年(57歳)
●ハスキルのこの年は演奏会は70回。
●3月、ハスキル、北アフリカを演奏旅行。
●5月、ハスキル、ドイツ・ツアー。戦後初のドイツ行きでした。
●7月、ハスキル、スイスのヴヴェイに転居。
●8月、ハスキル、エクサン・プロヴァンス音楽祭とルツェルン音楽祭で演奏。
●10月、ハスキル、ウィーンでピアノ協奏曲演奏会。カラヤンの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
1953年(58歳)
●ハスキルのこの年は演奏会は80回。
●1〜2月、ハスキル、オランダ・ツアーでの18回の演奏会に続き、スイス、ドイツ、オーストリア、イタリア、フランスで演奏。
●3月、ハスキル、パリで演奏会。シャンゼリゼ劇場に初出演。
●11月、ハスキル、ヴヴェイ在住のチャップリンと交流。
1954年(59歳)
●ハスキルのこの年は演奏会は80回。カラヤン、クーベリック、モントゥー、フリッチャイ、アンセルメ、オッテルローなどと共演。
●9月、ハスキル、ブザンソン音楽祭で演奏。
1955年(60歳)
●2月、ハスキル、イギリス・ツアー。
●4月、ハスキル、ミラノでグリュミオーとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会。
●5月4日、エネスク死去。
●8月、ハスキル、ルツェルン音楽祭とザルツブルク音楽祭で演奏。カラヤン、アンダと共演。
1956年(61歳)
●1月、ハスキル、ウィーンでのモーツァルト生誕200百年祭に参加、カラ ヤン、クレンペラーと協演。
●7月、ハスキル、プラド音楽祭で演奏。
●9月、ハスキル、ブザンソン音楽祭で演奏。
●ハスキル、ヴェネチア近郊でスターンと共演。
●10月、ハスキル、渡米。
●11月、ハスキル、ミュンシュ指揮でボストン交響楽団とベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏。カーネギーホールにも出演。
●12月、ハスキル、フランクフルトで演奏。ショルティ指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第27番。
1957年(62歳)
●1月、ハスキル、アムステルダムでグリュミオーとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを録音。
●5月、ハスキル、ドイツ・グラモフォンでフリッチャイの指揮によりモーツァルトのピアノ協奏曲第19番、第27番を録音。
●8月、ハスキル、エディンバラでバルビローリ、ヨッフムと共演。
●9月、ハスキル、モントルー音楽祭に参加。ヒンデミットの指揮で モーツァルトのピアノ協奏曲第二十 番とヒンデミットの作品を弾 く。
●10月、ハスキル、パリでコンセール・コロンヌ管とベートーヴェ ンのピアノ協奏曲第3番を演奏。
●11月、ハスキル、肺出血でパリ市立病院に入院。
●3月、ハスキル、パリで医学研究所のためのチャリティ・コンサート に出演。この後体調を崩し、 パリ市内の病院に数週間入院。
1958年(63歳)
●5月25日、ハスキル、病院を退院し、チャップリンの手配した車でパリからヴヴェイの自宅に帰宅。
●8月、ハスキル、ルツェルン音楽祭でカイルベルトの指揮によりアンダとモーツァルトの2台のピア ノのためのピアノ協奏曲を演奏。
●9月、ハスキル、レジョン・ドヌール5等勲章の授与式がローザンヌのフランス領事館で行われ、 チャップリン、ロシェ親子な どの友人も参加。
●11月、ハスキル、グリュミオーとモー ツァルトのヴァイオリン・ソナタを録音。
1959年(64歳)
●2月、ハスキル、カンヌ、モンテ・カル ロで演奏。その後パリで演奏。
●3月、ハスキル、ローマ、ミラノで演奏。
●4〜5月、ハスキル、ロンドン、ストラスブール、ハンブルクなどで演奏。
●6月、ハスキル、ロンドンでジュリーニ の指揮でショパンのピアノ協奏曲第2番を演奏。
●9月、ハスキル、パリでマルケヴィチとモーツァルトのピアノ協奏曲第27番を演奏。
●10月、ハスキル、ローザンヌ、モントルー の音楽祭に参加。
●11月、ハスキル、マルケヴィチ指揮 コンセール・ラムルー管とベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏、翌日録音。
1960年(65歳)
●1月4日、アルベール・カミュ死去。
●2月、ハスキル、ミュンヘンなどで演奏。 グリュミオーと共演。
●3月、ハスキル、ウィーンで演奏。ジュリーニと共演。
●4月、ハスキル、ブリュッセルに姉リリーと向かうものの、リリーはルーマニア国籍のままだったため別ルートでベルギー入り。
●6月、姉リリーが心臓病で診察。その後クララが呼吸困難に。
●9月、ハスキル、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番、第18番 をヴヴェイで録音。
●10月、ハスキル、レコーディング(PHILIPS)。マルケヴィチ指揮コンセール・ラムルー管と共演。モーツァルトのピアノ協奏曲第20番、ファリャの『スペインの庭の夜』、ショパンのピアノ協奏曲第2番。
●11月、ハスキル、パリで演奏。マルケヴィチ指揮コンセール・ラムルー管と共演。モーツァルトのピアノ協奏曲第20番、第24番、第27番。
●12月、ハスキル、パリのシャンゼリゼ劇場でグリュミオーと共演。
●12月6日朝、ハスキル、グリュミオーとのブリュッセル公演のため、姉リリーと共に鉄道でパリを出発して昼過ぎに「ブリュッセル南駅(下の画像)」に到着。グリュミオーが自動車事故で指を痛めていたため夫人がホームまで出迎え。ハスキルを先頭に3人で構内を歩き、1階ロビーに通じる大きな階段を降りようとしたところつまずいて転倒、ハスキルは頭を強打して左のこめかみから出血し、会話はできるものの起き上がれなくなります。
●12月6日昼過ぎ、ハスキルは到着した救急車でサン・ジル市民病院へ搬送され、傷を縫合、レントゲン撮影の結果は頭蓋骨骨折でした。2時間が経過しますが、空きが無かったため、別の病院を探すことになります。
●12月6日午後2時過ぎ、近くのロンシャン・クリニックがハスキルを受け入れることになったため、再び救急車で搬送。ハスキルの頭痛は悪化する一方だったので、駆け付けたグリュミオーが知人の高名な外科医エクトールを急遽呼び出し、ほかの医師もハスキルのベッドに集まります。しかしハスキルは間もなく意識を喪失。脳内出血が疑われたため、医師たちは緊急手術に同意するよう姉リリーに迫ります。
しかし69歳のリリーは見知らぬ医師による手術に反対し、知人のパリのダヴィド教授に電話して意見を求め、教授も手術しか手段が無いと伝えたため、ようやく手術に同意します。この同意に至るまでにかなりの時間が経過していました。
夜7時、ようやく手術が開始され、9時前には終わっていますが、ハスキルの意識は回復せず予断を許さない状態。深夜には妹のジャンヌもパリから到着し、経過を見守ります。
●12月7日、午前1時少し前、ハスキル65歳で死去。
●12月8日、ハスキル、パリのモンパルナス墓地に埋葬。墓石の名前は、当初はハスキルだけでしたが、18年後の1978年5月に姉リリー[1891-1978]、その6年後の1984年4月に妹ジャンヌ[1898-1984]が加わっています。なお、妹のルーマニア時代の名前はヤナで、フランスに移住してからはジャンヌで通していましたが、墓石にはジャーヌと刻まれています。
【収録情報】
CD1
●ソレール:ソナタ ニ長調
●ペシェッティ:ソナタ ハ長調
●ハイドン:変奏曲 ヘ短調 Hob.XVU:6
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1934年1月
●シューマン:アベッグ変奏曲 Op.1
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1938年3月29日
●シューマン:森の情景Op.82
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1947年10月
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58
クララ・ハスキル(ピアノ)
ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団
カルロ・ゼッキ(指揮)
録音:1947年6月
CD2
●バッハ:チェンバロ協奏曲 第5番 ヘ短調 BWV 1056
クララ・ハスキル(ピアノ)
カザルス祝祭管弦楽団
パブロ・カザルス(指揮)
録音:1950年
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番 ヘ長調 K459
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466
クララ・ハスキル(ピアノ)
ヴィンタートゥール交響楽団
ヘンリー・スヴォボダ(指揮)
録音:1950年9月
CD3
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 Op.37
クララ・ハスキル(ピアノ)
ヴィンタートゥール交響楽団
ヘンリー・スヴォボダ(指揮)
録音:1950年10月
●シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1951年6月8日
CD4
●シューマン:森の情景Op.82
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1947年11月
●シューマン:アベッグ変奏曲 Op.1
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1951年10月
●シューマン:色とりどりの小品 Op.99〜3つの小品
●シューマン:色とりどりの小品 Op.99〜5つの音楽帳
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1952年4月
●シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
クララ・ハスキル(ピアノ)
ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団
ウィレム・ファン・オッテルロー(指揮)
録音:1951年5月
●ラヴェル:ソナチネ 嬰へ短調
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1951年10月
CD5
●スカルラッティ:ソナタ 嬰ハ短調 Kk 247(L256/P297)
●スカルラッティ:ソナタ ト長調 Kk 2(L388/P58)
●スカルラッティ:ソナタ ハ長調 Kk 132(L457/P295)
●スカルラッティ:ソナタ ト短調 Kk 35(L386/P20)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 Kk 193(L142/P254)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 Kk 386(L171/P137)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 Kk 519(L475/P445)
●スカルラッティ:ソナタ イ長調 Kk 322(L483/P360)
●スカルラッティ:ソナタ ロ短調 Kk 87(L33/P43)
●スカルラッティ:ソナタ ハ長調 Kk 515(L255/P417)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ長調 Kk 437(L278/P499)
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1950年
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K271『ジュノーム』
クララ・ハスキル(ピアノ)
南ドイツ放送交響楽団
カール・シューリヒト(指揮)
録音:1952年5月23日
CD6
●スカルラッティ:ソナタ 変ホ長調 Kk 193(L142/P254)
●スカルラッティ:ソナタ ロ短調 Kk 87(L33/P43)
●スカルラッティ:ソナタ ヘ短調 Kk 386(L171/P137)
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1951年10月
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K271『ジュノーム』
クララ・ハスキル(ピアノ)
カザルス祝祭管弦楽団
パブロ・カザルス(指揮)
録音:1953年6月19日
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第13番 ハ長調 K415
クララ・ハスキル(ピアノ)
RIAS交響楽団
フェレンツ・フリッチャイ(指揮)
録音:1953年
CD7
●スカルラッティ:ソナタ ハ長調
●スカルラッティ:ソナタ 変ホ長調
●スカルラッティ:ソナタ ロ短調
●バッハ:トッカータ ホ短調BWV 914
●シューマン:アベッグ変奏曲 Op.1
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
●ドビュッシー:練習曲〜対比的な響きのために
●ドビュッシー:練習曲〜半音階のために
●ラヴェル:ソナチネ 嬰へ短調
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1953年4月11日
CD8
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K488
クララ・ハスキル(ピアノ)
スイス・イタリアーナ管弦楽団
オトマール・ヌッシオ(指揮)
録音:1953年6月25日
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466
クララ・ハスキル(ピアノ)
フィルハーモニア管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
録音:1956年1月28日
CD9
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K271『ジュノーム』
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K488
クララ・ハスキル(ピアノ)
ウィーン交響楽団
パウル・ザッハー(指揮)
録音:1954年10月
CD10
●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 K330
●モーツァルト:デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調 K.573
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1954年5月5-6日
●モーツァルト:ピアノと管弦楽のためのロンド イ長調 K386
クララ・ハスキル(ピアノ)
ウィーン交響楽団
ベルンハルト・パウムガルトナー(指揮)
録音:1954年
●シューマン:森の情景 Op.82
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1954年5月5-6日
●シューマン:5つの音楽帳
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1954年
CD11
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K271『ジュノーム』
クララ・ハスキル(ピアノ)
ケルン放送交響楽団
オットー・アッカーマン(指揮)
録音:1954年6月11日
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466
クララ・ハスキル(ピアノ)
ウィーン交響楽団
ベルンハルト・パウムガルトナー(指揮)
録音:1954年10月
CD12
●シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
クララ・ハスキル(ピアノ)
ストラスブール市立管弦楽団
カール・シューリヒト(指揮)
録音:1955年6月15日
●シューマン:子供の情景 Op.15
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1955年5月
●バッハ:2台のピアノのための協奏曲 ハ長調 BWV 1061
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:
フィルハーモニア管弦楽団
アルチェオ・ガリエラ(指揮)
録音:1956年
CD13
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31 no.2『テンペスト』
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 no.3『狩り』
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1955年5月
●シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
クララ・ハスキル(ピアノ)
スイス・ロマンド管弦楽団
エルネスト・アンセルメ(指揮)
録音:1956年
CD14
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466
クララ・ハスキル(ピアノ)
ボストン交響楽団
シャルル・ミュンシュ(指揮)
録音:1957年11月9日
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K595
クララ・ハスキル(ピアノ)
ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
オットー・クレンペラー(指揮)
録音:1956年9月9日
●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 K330
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1957年8月23日
CD15
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 no.3『狩り』
●モーツァルト:デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調 K.573
●シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番 イ短調 Op.42 D.845
●シューマン:子供の情景 Op.15
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1956年9月7日
CD16
●モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K365
クララ・ハスキル(ピアノ)
フィルハーモニア管弦楽団
アルチェオ・ガリエラ(指揮)
録音:1956年4月
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 Op.37
クララ・ハスキル(ピアノ)
ボストン交響楽団
シャルル・ミュンシュ(指揮)
録音:1956年11月3日
CD17
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K595
クララ・ハスキル(ピアノ)
バイエル国立歌劇場管弦楽団
フェレンツ・フリッチャイ(指揮)
録音:1957年5月
●モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K365
クララ・ハスキル(第1ピアノ)
ゲザ・アンダ(第2ピアノ)
カメラータ・アカデミカ・ザルツブルク
ベルンハルト・パウムガルトナー(指揮)
録音:1957年8月4日
●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ハ長調 K330
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1957年8月8日
CD18
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 no.3『狩り』
●シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1957年8月23日
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第13番 ハ長調 K415
クララ・ハスキル(ピアノ)
ルツェルン祝祭弦楽合奏団
ルドルフ・バウムガルトナー(指揮)
録音:1960年
CD19
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466
フィルハーモニア管弦楽団
オットー・クレンペラー(指揮)
録音:1959年9月8日
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 Op.37
クララ・ハスキル(ピアノ)
コンセール・ラムルー管弦楽団
イーゴリ・マルケヴィチ(指揮)
録音:1959年12月
CD20
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 Op.31 no.2『テンペスト』
●ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 変ホ長調 Op.31 no.3『狩り』
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1960年9月
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番 ヘ長調 K459
クララ・ハスキル(ピアノ)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
フェレンツ・フリッチャイ(指揮)
録音:1955年9月
CD21
●モーツァルト:きらきら星変奏曲 ハ長調 K265
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1960年5月
●ショパン:ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 Op.21
●ファリャ:スペインの庭の夜
クララ・ハスキル(ピアノ)
コンセール・ラムルー管弦楽団
イーゴリ・マルケヴィチ(指揮)
録音:1960年10月
CD22
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K491
クララ・ハスキル(ピアノ)
コンセール・ラムルー管弦楽団
イーゴリ・マルケヴィチ(指揮)
録音:1960年11月
●モーツァルト:ピアノ・ソナタ ヘ長調 K280
クララ・ハスキル(ピアノ)
録音:1960年5月
CD23
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 Op.37
クララ・ハスキル(ピアノ)
スイス・ロマンド管弦楽団
エルネスト・アンセルメ(指揮)
録音:1960年
●ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58
クララ・ハスキル(ピアノ)
RAI国立交響楽団
マリオ・ロッシ(指揮)
録音:1960年4月22日
【商品説明:年表シリーズ】
指揮
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アルヘンタ
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オッテルロー
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ガウク
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カラヤン
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クイケン
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シュナイダー四重奏団
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パスカル弦楽四重奏団
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ハリウッド弦楽四重奏団
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ブダペスト弦楽四重奏団
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ヤニグロ
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リッチ
作曲家
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アンダーソン
●
ヘンツェ