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2006年9月20日 (水)
連載 許光俊の言いたい放題 第61回「秋は虫の音とピアノ」
ようやく少し涼しくなったが、私はへろへろのぐでぐで状態である。というのも、やっと先日、書き下ろしの原稿を完成させたからで、毎度のことながら、書き下ろしを1冊終えるとしばらくは燃え尽き状態になってしまう。逆にそれだけ仕事の充実感は大きく、「書きたいことはみんな書いたから、もう死んでも悔いはない!」という、アドレナリン出まくりのハイ状態になるのだ。もしかしたら、これがたまらない快感だから仕事をしているのかもしれない。しかし、反動はものすごく、完成させた翌日から廃人状態になってしまう。現在数日がたち、やっとのことで復活してきたところなのである。
今回の本は音楽ではなく、文学がテーマだ。日本文学の大作家の作品から、「これはすごいぞ」というのを12ほど選び出した。森鴎外とか、谷崎潤一郎とか、川端康成とか、みんな名前は知っているが、教科書ででもなければあまり読まない作家たち。だが、実は今読んでも実にすばらしいものを書き残しているのである。さらに、単にすばらしいだけでなく、ヘンタイっぽい、妖しい、不気味な作品もいくつも取り上げている。あなたの知らない作家も入っているかもしれない。嘉村礒多のジトジトした文学なんて、きっとチャイコやマーラーやショスタコが好きな人にはたまらないと思う。しかもいずれも読みやすい短めの作品ばかり。まだ書名は決まっていないけれど、光文社新書なので、お求めやすいです。文学に興味がない人も、これを読めば、俄然日本文学に興味が湧くはずだ。それが狙いなのである。
もっとも、書いた人の意見と読む人の意見はしばしば異なるものではある。この前の『オレのクラシック』(青弓社)は、愛読者に向かって酒でも飲みながら言いたい放題するというコンセプトだったのだが、予想を上回る好評で、あちこちでおもしろいと言われた。こんなにおもしろいと言われた本も初めてである。そのせいか、たちどころに増刷になっている。
それはさておき、仕事の合間に、気分転換のCDを聴いていたのだが、暑いせいもあって、オーケストラは敬遠することが多かった。で、あれこれピアノを聴いたのだが―
アレクサンダー・コブリンのショパン「24の前奏曲」+ピアノ・ソナタ第2番は、緩急を大きく取った昔風のアプローチ。最近のピアノの名手というと、アンスネスやプレトニョフのように、基本的にはイン・テンポに近く、音のひとつひとつを隙なくクリアに響かせる場合が多い。ポリーニあたりから後のピアノ演奏様式の典型である。が、コブリンは、ポゴレリチ風というか、さまざまな点で強いコントラストを付けた、言うならドロドロ様式寄りである。ソナタではゆっくりと弾き始め、加速していくが、そのあとも常に音楽は揺れ続ける。19世紀の人たちはこう弾いていたのかもしれない。ただ、もとからの資質なのか、年齢のせいなのか、時代のせいなのか、大きなルバートなどをしても、感情表現がこってりとはならない。
往年の名手ヨーゼフ・ホフマン("The complete Joseph Hofmann" 第8集)は、今聴くともうすっかり芸人である。楽譜にない音があれこれ聞こえるのでぎょっとさせられるが、それは作曲者の内面を強調するための操作とは言い難い。今日では、楽器を演奏する者は、原作の精神に忠実でなければならないというのが大原則のようだが、かつてはまったくそうではなかった。特にピアノやヴァイオリンでは、演奏家が自分の個性や音楽を表現するために、それどころか客を名技で喜ばせるために作品を利用することも多かった。それを一概におかしいと言ってはなるまい。ホフマンのピアノで聴くと、ショパンもラフマニノフもからりと明るい。触ると壊れそうな繊細さなど無用、音の直接的快感で客に濃厚サービスといった感じなのである。今ではこんなことをやる人はほとんどいないが、これもクラシック音楽のひとつの形だったのだ。音質は十分よい。
今日はアンスネスが独奏し、プレトニョフが指揮した東京フィルのコンサートに出かけてきたが、ちょうどアンスネスの新譜がEMIから出たばかりである。パッパーノ指揮ベルリン・フィルとのラフマニノフの第1,2協奏曲だ。当たり前と言えば当たり前であるべきだろうが、生とCDで印象は変わらない。きわめて安定しており、清潔であり、節度をもって美しく弾く。強烈な個性で圧倒するとか、ものすごく繊細だとか、そういう極端な面は全然ない。普通の人が普通に聴いて楽しめる演奏である。むろん、私がもっと好きなのは何か毒とか癖とか怪しさ・妖しさがある音楽ではあるが。
パッパーノ指揮のオーケストラはなかなかメリハリ、凹凸がある。でもやりすぎていない。平林直哉氏はラトルよりいいんじゃないかと言っていた。悪くないのは確かだが、これまた私の趣味としては、もっとロマンティックな味があるのがいいな。ピアノ、オーケストラともども、あまりにあっけらかんとしていて、これが時代の趨勢なのはよくわかるけれど。
忙しいさなかに聴いて一番ほっとさせられたのは、別に新譜でも何でもないが、ケンプが弾いたシューベルトの最後のソナタだった(DG)。この曲にはアファナシエフとかリヒテルみたいに超強力な演奏がいくつもあるけれど、今はこれが一番お気に入りかもしれない。歌い方が実にいいのだ。歌い過ぎもせず、上品で美しい。アファナシエフだとしっかり立ち止まって足下の深淵を、もしかして落ちてしまうのではないかというくらいじっと見つめてしまう印象だが、ケンプだと、深淵をかすめつつ、あえて視線をそらして通り過ぎる感じがする。でも、深淵が見えていないわけではない。そのあたりのあっさり加減が、とても快いのである。肩に力が入っていない流麗な第2楽章は特に美しい。今のピアニストより柔らかい響きもシューベルトにはいい。実は今も、窓を開けて、虫の音とともに、これを流しているのである。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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