カラヤン、ヘルベルト・フォン(1908-1989)
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カラヤン、ヘルベルト・フォン(1908-1989) プロフィール

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カラヤンは1908年4月5日、外科医の父エルンストと母マルタの次男として、モーツァルトの故郷オーストリアのザルツブルクに生まれました。生年時の本名はヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン。3歳のときにピアノを習い始め、4歳半で公開演奏をおこなうなど、当時はピアノの神童として騒がれていました。
 7歳でモーツァルテウム音楽院に入学、18歳のときにウィーン工科大学に進みますが、すぐに退学してウィーン音楽アカデミーに移り、本格的にピアノを学び始めますが、指導教授だったホフマンから指揮者への転向を示唆され、指揮科にてアレクサンダー・ヴンデラー教授の指導を受けることになります。
 1929年1月22日、モーツァルテウム管弦楽団を指揮して公式デビュー。この演奏会を聴いたウルム市立劇場の支配人から第一指揮者として迎えられ、3月2日に『フィガロの結婚』でオペラ・デビューを飾り、1935年までオペラ指揮者として契約します。指揮はもちろん、演出や大道具作りにまで参画せざるを得なかったという田舎町ウルムでの経験は、カラヤンの指揮者としての基礎作りに決定的な役割をはたしたと伝えられています。
 1933年、ザルツブルク音楽祭に初出演。パウムガルトナーの助手として、グノー『ファウスト』のバレエ・シーンの音楽を指揮しています。
 1934年、ウルムでの契約を満了、アーヘン市立歌劇場の指揮者募集に応募し、1年間の試験採用となります。
 同年8月、ザルツブルク音楽祭にてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。
 同年9月、『フィデリオ』でアーヘンにデビュー。10月に『ワルキューレ』、12月に『ばらの騎士』とオーケストラ演奏会を成功させ、急速に頭角を現します。
 1935年、27歳でアーヘン市の音楽総監督に就任。ドイツでもっとも若い音楽総監督として注目を集めます。
 1936年、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でベルリン国立歌劇場にデビュー。
 1937年、ブルーノ・ワルターの招きでウィーン国立歌劇場に客演、『トリスタンとイゾルデ』を指揮。
 1938年4月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮。
 同年7月、ソプラノ歌手エルミー・ホルガーレフと結婚。3年で破局。
 同年10月、ベルリン国立歌劇場にて『トリスタンとイゾルデ』を指揮、「奇跡の人カラヤン」と評される空前の成功を収め、ヨーロッパ楽壇の寵児となります。
 同年12月9日、ベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して初めてのレコーディングをおこないます。曲目は『魔笛』序曲
 1939年、ベルリン国立歌劇場から国家指揮者の称号を受け、国立歌劇場管弦楽団によるオーケストラ演奏会を復活させて活躍、レコーディングもさかんになります。不在がちとなったアーヘンでは不満の声が高まり、2年後に音楽総監督の地位を更迭されます。
 同年4月、ベルリン・フィルと『悲愴』をレコーディング。ベルリン・フィルとの初めての録音でした。
 1940年、アニータ・ギューターマンと再婚。ギューターマンがユダヤ系であったことから物議をかもします。
 1941年、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベルリン国立歌劇場に復帰、以後カラヤンはオーケストラ演奏会のみを指揮するようになり、翌年にはその回数も年間6回に制限されます。
 1942年、RAIトリノ交響楽団とモーツァルトの交響曲第35,40,41番そのほかをレコーディング
 1943年、コンセルトヘボウ管弦楽団とブラームスの交響曲第1番そのほかをレコーディング、以降、カラヤンは戦後も同オケとのレコーディングはもちろん、客演もおこないませんでした。
 イタリア楽旅中に終戦を迎えたカラヤンは、連合軍当局によりドイツ・オーストリアでの活動を一時禁止されます。

1946年
1月12、13日 ウィーンで戦後初の演奏会(ウィーン・フィル、ブラームス:交響曲第1番、他)。ウィーン・フィル理事長セドラック教授の要請によるこの演奏会は19日にも予定されていましたが、当時ウィーンを分割管理していたソ連当局より当日の正午に禁止令が出され、駐留ソ連軍が会場のムジークフェラインザールを封鎖。
1月19日、ウィーン訪問中のEMIプロデューサー、ウォルター・レッグの訪問を受け、レコーディングの計画を打診されます。
3月、予定されていたウィーン・フィルとの演奏会がアメリカ軍当局の命令によって中止。
5月、EMIとの3年間の暫定的なレコーディング契約を締結。
8月、予定されていたザルツブルク音楽祭での『ばらの騎士』と『フィガロの結婚』の指揮が連合軍委員会の命令によって禁止。代役指揮者が立てられますが、カラヤンは連合軍委員会の通達を無視してプロンプター係として公演に関わったとされています。
9月13日、ムジークフェラインザールにおいて、ウィーン・フィルを指揮したEMIへのレコーディング・セッションを開始。戦後初録音はベートーヴェンの交響曲第8番でした。公的活動の禁止が解けない中でのセッションにソ連、アメリカ当局は激怒したと伝えられていますが、イギリス外務省への根回しを背景に「レコーディングは非公開であり、一企業の私的な企画にすぎない」という理屈をレッグは押し通したといいます。
EMI
ウィンナ・ワルツ集
カラヤン/コンプリートEMIレコーディングス第1集

1947年
EMIとの録音計画に正式契約。ウィーンでのレコーディングに続いて、イギリスでのフィルハーモニア管弦楽団とのセッションを含む長期契約でした。
10月、公的活動の許可を得てウィーン・フィルの演奏会に復帰、最初の演奏会は25、26日のブルックナー:交響曲第8番で、以降16回のコンサートを指揮。
10月20日、ウィーン・フィルを指揮して『ドイツ・レクイエム』のレコーディングを開始。
12月、ウィーン・フィルの『第9』演奏会を指揮、直前にレコーディングもおこなわれます。
EMI
ブラームス:ドイツ・レクイエム
ベートーヴェン:交響曲第9番

1948年
2月、ウィーン交響楽団を初めて指揮。
4月、ロイヤル・アルバート・ホールにおいてフィルハーモニア管弦楽団を指揮、イギリスでのデビュー・コンサートを成功させます。
 演奏会に先立ってフィルハーモニア管弦楽団と初レコーディング。曲目はリパッティ独奏によるシューマンのピアノ協奏曲でした。
8月、ザルツブルク音楽祭に復帰、『オルフェオとエウリディーチェ』、『フィガロの結婚』のほか、オーケストラ・コンサートを指揮。
12月、ミラノ・スカラ座で『フィガロの結婚』を指揮。同歌劇場のドイツ・オペラ部門総監督に任命されます。
EMI
シューマン:ピアノ協奏曲

1949年
3月、南米へ客演旅行。4月にかけてハバナ・フィル、コロン劇場管弦楽団を指揮した記録が残されています。
8月、ザルツブルク音楽祭でヴェルディ:レクイエム、ベートーヴェン:交響曲第9番を指揮。
10月、ウィーン・フィルを指揮してブラームスの交響曲第2番、モーツァルトの交響曲第39番ほかをレコーディング。
EMI
ブラームス:交響曲第2番
モーツァルト:交響曲第39番

1950年
1月、ウィーン交響楽団、ウィーン楽友協会合唱団を率いて戦後初のドイツ・ツアーをおこないます。
6月、国際バッハ音楽祭における『マタイ受難曲』上演をめぐるトラブルからフルトヴェングラーとの対立が表面化、ウィーン・フィルの演奏会、ザルツブルク音楽祭から閉め出され、ウィーンでの活動はウィーン交響楽団の演奏会とレコーディングに限定されます。
9月、ウィーン・フィルを指揮して『フィガロの結婚』をレコーディング。初のオペラ全曲録音。
11月、ウィーン・フィルを指揮して『魔笛』をレコーディング。
EMI
モーツァルト:『フィガロの結婚』
モーツァルト:『魔笛』
アンダンテ
バッハ:マタイ受難曲(国際バッハ音楽祭ライヴ)
ギルド
バッハ:ミサ曲ロ短調(国際バッハ音楽祭ライヴ)

1951年
6月、ヴァルター・ギーゼキングを独奏とする協奏曲録音をロンドンで集中的におこないます。
8月、バイロイト音楽祭に初出演、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、『ニーベルンクの指輪』を指揮。バイロイトでの伝統的なオーケストラ配置を変更、第1ヴァイオリンを左に配して話題となります。
11月、フィルハーモニア管弦楽団とベートーヴェンの交響曲第7番をレコーディング。同オケとの交響曲全集の第1弾となります。
12月、リヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』、『ティル・オイレンシュピーゲル』をフィルハーモニア管弦楽団と録音。
EMI
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、第5番
『ドン・ファン』、『ティル・オイレンシュピーゲル』
『ワルキューレ』第3幕(バイロイト・ライヴ)
ナクソス・ヒストリカル
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(バイロイト・ライヴ)

1952年
フィルハーモニア管弦楽団を率いてヨーロッパ・ツアー。
5月、フィルハーモニア管弦楽団とチャイコフスキーの交響曲第5番をレコーディング。十八番レパートリーである同曲の初録音。
8月、バイロイトで『トリスタンとイゾルデ』を指揮。ヴィーラント・ワーグナーの演出に異を唱え、以降の出演を拒否。
11月、バッハ:ミサ曲ロ短調をレコーディング。カラヤンは70回以上ものリハーサルを重ねて録音に臨みますが、録音当日に敗血症で倒れ、スケジュールの延期が出来なかったため、簡易ベッドに横たわったまま指揮したとされています。
EMI
バッハ:ミサ曲ロ短調
オーパス蔵
チャイコフスキー:交響曲第5番
オルフェオ・ドール
ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』(バイロイト・ライヴ)

1953年
フィルハーモニア管弦楽団とのレコーディングが活発化。ベートーヴェンの交響曲のほか、ブレインとのモーツァルト:ホルン協奏曲、歌劇『ヘンゼルとグレーテル』、ヴォーン・ウィリアムス:タリス幻想曲など次々と録音。
9月、戦後初めてベルリン・フィルを指揮(ベートーヴェン:『英雄』、他)。
EMI
モーツァルト:ホルン協奏曲集
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番
ヴォーン・ウィリアムス:タリス幻想曲
フンパーディンク:『ヘンゼルとグレーテル』
メモリーズ
ベートーヴェン:交響曲第3番『英雄』(ベルリン・フィル、ライヴ)

1954年
1月、マリア・カラスを主役とする『ランメルモールのルチア』をスカラ座で上演、大成功を収める。
4月、単身で来日。NHK交響楽団に客演して5月まで滞在。
6月、ロンドンで『ナクソス島のアリアドネ』、『コシ・ファン・トゥッテ』をレコーディング。両オペラともこれが唯一の録音。
9月、ベルリン・フィル演奏会にふたたび登場。
11月、フルトヴェングラー死去。当日、カラヤンは「王様は死んだ。帝王万歳」という謎の電話を受けた、という伝説が残されています。
EMI
リヒャルト・シュトラウス:『ナクソス島のアリアドネ』
モーツァルト:『コシ・ファン・トゥッテ』
ユニバーサル・ミュージック
チャイコフスキー:『悲愴』(来日公演ライヴ)
オルフェオ・ドール
ブルックナー:交響曲第5番(ウィーン交響楽団ライヴ)
アンダンテ
ビゼー:『カルメン』(ウィーン演奏会形式上演ライヴ)
ターラ
ベートーヴェン:交響曲第9番(イタリア・ライヴ)、他
椅子ティトゥート・ディスコグラフィコ
ドニゼッティ:『ランメルモールのルチア』(スカラ座ライヴ)
モーツァルト:『フィガロの結婚』(スカラ座ライヴ)

1955年
2月、フルトヴェングラーに代わってベルリン・フィルのアメリカ・ツアーに同行、ツアー終盤の4月5日、第4代芸術監督および常任指揮者に任命されます。
5月、シューベルト:交響曲第8番をレコーディング。初のステレオ録音。続いてブラームス:交響曲第2番、『悲愴』などがステレオ録音されます。
7月、フィルハーモニア管弦楽団を指揮してベートーヴェン:交響曲第9番をウィーンで録音。初のベートーヴェン交響曲全集が完成。
8月、スカラ座でマリア・カラス主演による『蝶々夫人』をレコーディング。9月、ベルリン市立歌劇場にて『ランメルモールのルチア』をスカラ座との提携で上演、記録的な成功を収めます。
10月、フィルハーモニア管弦楽団を率いて北米ツアー
EMI
ベートーヴェン:交響曲全集
シューベルト:交響曲第8番『未完成』
チャイコフスキー:交響曲第6番『悲愴』
プッチーニ:『蝶々夫人』
ドニゼッティ:『ランメルモールのルチア』(ベルリン・ライヴ)
メモリーズ
ブラームス:交響曲第1番(ワシントン・ライヴ)

1956年
1月、フィルハーモニア管弦楽団を率いてヨーロッパ・ツアー。
5月、ベルリン・フィルを率いてヨーロッパ・ツアー
6月、ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任。
10月、ザルツブルク音楽祭の芸術総監督に就任。
11月、ベルリン・フィルと二度目のアメリカ・ツアー。アメリカでの人気を決定的にします。
12月、レコード史上屈指の名盤と誉れ高い『ばらの騎士』をロンドンでレコーディング。
EMI
リヒャルト・シュトラウス:『ばらの騎士』
ヴェルディ:『トロヴァトーレ』
ヴェルディ:『ファルスタッフ』
ヴァルハラ
ヴェルディ:『ファルスタッフ』(ザルツブルク・ライヴ)

1957年
1月、ベルリン・フィルとの音楽監督就任後初のレコーディング・シリーズを開始。
4月、7年振りにウィーン・フィルに復帰、ブルックナーの交響曲第8番を指揮。
4月、ベルリン・フィル創立75周年記念演奏会で『第9』を指揮。
5月、ベルリン・フィルとブルックナーの交響曲第8番をレコーディング。ベルリン・フィルとの初ステレオ録音。
5月、ベルリン・フィル定期演奏会でグレン・グールドと共演。
11月、ベルリン・フィルを率いて来日。
EMI
ブルックナー:交響曲第8番
アンダンテ
ブルックナー:交響曲第8番(ウィーン・フィルとのライヴ)
オルフェオ・ドール
ベートーヴェン:交響曲第7番(ウィーン交響楽団とのライヴ)
メモリーズ
ベートーヴェン:交響曲第9番(ベルリン・フィル創立75周年記念ライヴ)
ウラニア
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番(グールドとのライヴ)
NHKエンタープライズ(映像)
カラヤン&ベルリン・フィル来日公演

1958年
ウィーン国立歌劇場での精力的な指揮活動をおこなう。
8月、ザルツブルク音楽祭で『ドン・カルロ』を上演。
10月、エリエッテ・ムレーと3度目の結婚。
DG
ヴェルディ:『ドン・カルロ』(ザルツブルク・ライヴ)
テスタメント
ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス

1959年
3月、EMIからDGへ移籍。初レコーディングはベルリン・フィルとの『英雄の生涯』(3月2〜4日)。
3月、デッカへのウィーン・フィルを指揮したレコーディングを開始。最初のレコーディングは、DGへの初セッション終了から5日後に始まったベートーヴェンの交響曲第7番。
9月、デッカに『アイーダ』を録音。ジョン・カルショウのプロデュースにより、当時画期的だったサーキット・テレビを利用した他所同時録音をおこなうなどオーディオ面でも注目を集めました。
10月、ウィーン・フィルとの世界ツアーの一環で来日。新妻エリエッテを伴ったカラヤンの姿はマスコミに大きく取り上げられます。
DG
リヒャルト・シュトラウス:『英雄の生涯』
ブラームス:ハンガリー舞曲集
デッカ
ベートーヴェン:交響曲第7番
『ツァラトゥストラはかく語りき』
ブラームス:交響曲第1番
モーツァルト:交響曲第40番
ヴェルディ:『アイーダ』
ゴールデン・メロドラム
ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』(スカラ座ライヴ)
NHKエンタープライズ(映像)
カラヤン&ウィーン・フィル来日公演

1960年
4月、フィルハーモニア管弦楽団との最後の演奏会。
7月、ザルツブルク祝祭大劇場こけら落としで『ばらの騎士』を指揮。上演に基づくオペラ映画も製作されます。
9月、フィルハーモニア管弦楽団とシベリウスの交響曲第5番を録音。EMIとの録音契約を終了。
12月、スカラ座で『フィデリオ』を指揮。この公演によりイタリア政府から授勲。
12月31日、ウィーン国立歌劇場大晦日公演で『こうもり』を指揮。
EMI
シベリウス:交響曲第5番
デッカ
ヨハン・シュトラウスU世:『こうもり』
BMG
ヨハン・シュトラウスU世:『こうもり』(ウィーン・ライヴ)
ゴールデン・メロドラム
ベートーヴェン:『フィデリオ』(スカラ座ライヴ)
ガラ
リヒャルト・シュトラウス:『ばらの騎士』(ザルツブルク・ライヴ)
ドリームライフ(映像)
リヒャルト・シュトラウス:『ばらの騎士』

1961年
4月、ウィーン国立歌劇場で『パルジファル』を指揮・演出。
5月、デッカに『オテロ』をレコーディング。
9月、労働争議に端を発したトラブルに巻き込まれ、ウィーン国立歌劇場芸術監督の辞任を示唆。
11月、国立歌劇場バレエ公演の拡充を目的としてホルストの『惑星』バレエ化を企画、上演を指揮。カラヤンが実際のバレエ上演を指揮した記録はこれが唯一。
12月、ベルリン・フィルとのベートーヴェン交響曲全集録音を開始。第1弾は交響曲第1番(12月27、28日)。
デッカ
ヴェルディ:『オテロ』
ホルスト:『惑星』
ドヴォルザーク:交響曲第8番
DG
モーツァルト:レクイエム

1962年
2月、ウィーン国立歌劇場芸術監督を辞任。
3月、ウィーン国立歌劇場芸術監督に復帰。
7月、ザルツブルク音楽祭で『トロヴァトーレ』を指揮。
9月、スヴャトスラフ・リヒテルを迎えてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をレコーディング。当初ベルリンでおこなわれる予定だったこの録音は、1961年にベルリンの壁が築かれたことでリヒテルの西ベルリン入りが不可能となり、ウィーンのムジークフェラインザールでウィーン交響楽団を起用しておこなわれました。
10月、交響曲録音の一環として『第9』をレコーディング。
11月、『英雄』のレコーディングを15日に完了。2度目となるベートーヴェン:交響曲全集が完成。
DG
ベートーヴェン:交響曲全集
ベートーヴェン:交響曲全集(SACD盤)
ベートーヴェン:交響曲第9番
ベートーヴェン:交響曲第9番(SACD盤)
ベートーヴェン:交響曲第9番(SHM−CD盤)
ベートーヴェン:交響曲第9番(ガラスCD盤)
ベートーヴェン:交響曲第3番『英雄』
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ヴェルディ:『トロヴァトーレ』(ザルツブルク・ライヴ)
デッカ
プッチーニ:『トスカ』

1963年
1月、ウィーン国立歌劇場で『タンホイザー』を指揮・演出。
1月31日、ミレッラ・フレーニを主役とする『ボエーム』をスカラ座で上演、大成功を収めます。
3月、ベルリン・フィル演奏会で『春の祭典』を初めて指揮。
10月、ブラームス:交響曲全集録音に着手。第1弾は交響曲第2番。
10月15日、新造されたベルリンのフィルハーモニー落成記念公演で『第9』を指揮。
11月、ウィーンで『カルメン』をレコーディング。カルショウ以下デッカのスタッフによる録音ですが、当時デッカと提携関係にあったRCAの「ソリア・シリーズ」に組み込まれ、現在もBMGから発売。
11月9日、ウィーン国立歌劇場での『ボエーム』公演が中止。1月のスカラ座公演でのスタッフ、キャストを招聘しての公演でしたが、イタリア人スタッフに対して国立歌劇場労働組合からクレームが付き、初日の幕が上がらずスキャンダルとなります。
DG
ワーグナー:『タンホイザー』(ウィーン・ライヴ)
ブラームス:交響曲第2番
ストラヴィンスキー:『春の祭典』
BMG
ビゼー:『カルメン』
プッチーニ:『ボエーム』(ウィーン・ライヴ)
BPO
ベートーヴェン:交響曲第9番(フィルハーモニー落成記念ライヴ)

1964年
3月、DGとの専属録音契約を発表。「カラヤンのウィーン離れ」を象徴する出来事として非難の声が上がります。
5月、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任。
5月16日から、DGへの『ドイツ・レクイエム』録音をウィーンでおこない、国立歌劇場の音楽監督辞任の直後とあって耳目を集めます。
6月、ウィーン国立歌劇場で『影のない女』を指揮・演出。8年間にわたる同歌劇場での活動を終了。
8月、ザルツブルク音楽祭で『エレクトラ』を指揮。音楽祭の合間にスイス、サンモリッツでベルリン・フィルと演奏会、併せてレコーディングもおこないます。
DG
チャイコフスキー:『悲愴』
ブラームス:ドイツ・レクイエム
シューベルト:『未完成』
ドヴォルザーク:『新世界より』
バッハ:管弦楽組曲第2番、第3番
オルフェオ・ドール
リヒャルト・シュトラウス:『エレクトラ』(ザルツブルク・ライヴ)
ガラ
リヒャルト・シュトラウス:『影のない女』(ウィーン・ライヴ)

1965年
3月、音楽映画フィルム・プロダクション「コスモテル」を設立。制作第1弾はフランコ・ゼッフィレッリ演出によるオペラ映画『ボエーム』。
3月19日、ウィーン・フィルと『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』組曲をレコーディング。6年に及んだデッカとの録音契約を終了。
5月、ベルリンでシベリウス・アーベントを開催。続いてベルリン・フィルと北欧ツアー、フィンランド滞在中にシベリウスの墓を訪ねています。
7月、ザルツブルク音楽祭で『ボリス・ゴドゥノフ』、ハイドンの『天地創造』を指揮。会期中にワーグナーの『リング』全曲上演をザルツブルクでおこなう旨を発表。
12月、ピエール・フルニエと『ドン・キホーテ』をレコーディング。
DG
シベリウス:交響曲第4番、第5番
ムソルグスキー:『展覧会の絵』
マスカーニ:『カヴァレリア・ルスティカーナ』
レオンカヴァッロ:『道化師』
リヒャルト・シュトラウス:『ドン・キホーテ』
ハイドン:『天地創造』(ザルツブルク・ライヴ)
デッカ
チャイコフスキー:組曲『白鳥の湖』
DG(映像)
プッチーニ:『ボエーム』
紀伊国屋書店(映像)
シューマン:交響曲第4番(リハーサル風景付)

1966年
4月、ベルリン・フィルを率いての2度目の来日。東京、大阪はもちろん、愛知、広島、高松、福岡、金沢、仙台、札幌で公演。日本での人気を確定します。
8月、ワーグナー『リング』全曲録音の第1弾となる『ワルキューレ』をレコーディング。
12月、チャイコフスキー:『1812年』をレコーディング。冒頭の合唱パートにドン・コサック合唱団を起用して話題に。
DG
ワーグナー:『ワルキューレ』
ブルックナー:交響曲第9番
チャイコフスキー:『1812年』
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
紀伊国屋書店(映像)
ベートーヴェン:『運命』
ドヴォルザーク:『新世界より』
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番(メニューインとの共演)

1967年
1月、トスカニーニ没後10周年記念行事の一環として、ヴェルディのレクイエムをスカラ座で指揮。同時期に映像収録もおこなわれます。
3月、ザルツブルク・イースター音楽祭を創設。ワーグナー:『ワルキューレ』で開幕。
4月、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番を映像収録。ピアノはアレクシス・ワイセンベルク。
11月、ザルツブルクの『ワルキューレ』でメトロポリタン歌劇場に引っ越し公演(オケはメトロポリタン歌劇場管弦楽団)。
この年、映像版ベートーヴェン:交響曲全集に着手。第1弾は第6番『田園』。映像プロダクション「コスモテル」が経営破綻(制作は1971年まで継続)、制作された映像の権利はユニテル社が継承。
DG
リムスキー=コルサコフ:『シェエラザード』
ワーグナー:『ラインの黄金』
オペラ間奏曲集
DG(映像)
ビゼー:『カルメン』
ベートーヴェン:『田園』
紀伊国屋書店(映像)
ヴェルディ:レクイエム
ドリームライフ(映像)
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番

1968年
4月、ザルツブルク市名誉市民に。ザルツブルク大学名誉理事に任命。
4月7日、ザルツブルク・イースター音楽祭をワーグナー:『ラインの黄金』で開幕。
9月、ドヴォルザークのチェロ協奏曲をムスティスラフ・ロストロポーヴィチ独奏でレコーディング。
11月、前年の『ワルキューレ』に続いて『ラインの黄金』をメトロポリタン歌劇場で上演。
12月、ワーグナー:『ジークフリート』をレコーディング。
DG
ワーグナー:『ジークフリート』
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
プロコフィエフ:交響曲第5番
DG(映像)
『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『道化師』

1969年
2月、パリ管弦楽団の芸術監督に就任。
5月、ベルリン・フィルを率いて東欧・ロシア・ツアー。モスクワでショスタコーヴィチ隣席のもと、かねて用意の交響曲第10番を演奏。
9月、ベートーヴェンの三重協奏曲をEMIにレコーディング。EMIへの録音は9年ぶり。
10月、ワーグナー:『神々の黄昏』をレコーディング開始。翌年に完成し、『リング』全曲レコーディングを完結させます。
11月、パリ管弦楽団とフランクの交響曲をレコーディング。パリ管との初録音。
DG
ワーグナー:『ニーベルングの指環』全曲
ワーグナー:『神々の黄昏』
オネゲル:交響曲第2番
EMI
ベートーヴェン:三重協奏曲
フランク:交響曲

1970年
3月、ザルツブルク・イースター音楽祭がワーグナー:『神々の黄昏』で開幕。『リング』全曲上演を完結。
7月、ザルツブルク音楽祭で『ドン・ジョヴァンニ』を指揮。
9月、DGとの録音契約を一部修正(専属契約の条項)して更新、併せてEMIとの新たな契約を発表し、
11月、デッカに『ボリス・ゴドゥノフ』をレコーディング。デッカへの録音は5年ぶり。
11月後半から、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して『ニュンベルクのマイスタージンガー』をレコーディング。
EMI
ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
ブルックナー:交響曲第4番
モーツァルト:後期交響曲集
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
デッカ
ムソルグスキー:『ボリス・ゴドゥノフ』
オルフェオ・ドール
モーツァルト:『ドン・ジョヴァンニ』(ザルツブルク・ライヴ)

1971年
1月、それまでまったく手掛けていなかったメンデルスゾーンの交響曲全集レコーディングに着手。
6月、パリ管弦楽団とラヴェルの管弦楽曲集をレコーディング。
8月、ザルツブルク音楽祭で『オテロ』を指揮。
9月、チャイコフスキーの後期交響曲をEMIでレコーディング。
12月、EMIに『トリスタンとイゾルデ』を、DGに『マタイ受難曲』をレコーディング。
この年、パリ管弦楽団と幻想交響曲を映像収録。コスモテル社の最終プロダクション。
DG
メンデルスゾーン:交響曲第4番、第5番
バッハ:マタイ受難曲
EMI
ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』
チャイコフスキー:後期交響曲集
ラヴェル:管弦楽曲集
オペラ・ドーロ
ヴェルディ:『オテロ』(ザルツブルク・ライヴ)
EMI(映像)
ベルリオーズ:幻想交響曲

1972年
1月、ヴェルディ:レクイエムを初レコーディング。
3月、ザルツブルク・イースター音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』を指揮・演出。
10月、プッチーニ:『ボエーム』をデッカにレコーディング。ベルリン・フィル初のイタリア・オペラ録音。
DG
ヴェルディ:レクイエム
ヨーロッパ国家集
デッカ
プッチーニ:『ボエーム』

1973年
1月、『ツァラトゥストラはかく語りき』を再録音。
2月、マーラー:交響曲第5番を初レコーディング
3月、『オテロ』を再録音。この頃から録音会場をイエス・キリスト教会からフィルハーモニーへ移します。
6月、パリ・ツアー中にリヒャルト・シュトラウスの家庭交響曲をサル・ワグラムでレコーディング。
11月、ベルリン市の名誉市民に。
この年、ベートーヴェン:交響曲第4番、第5番を収録して、映像版ベートーヴェン全集が完成。続いてブラームス交響曲全集、チャイコフスキー後期交響曲集を相次いで映像収録。
DG
『ツァラトゥストラはかく語りき』
マーラー:交響曲第5番
シェーンベルク:『浄夜』
リヒャルト・シュトラウス:4つの最後の歌
EMI
ヴェルディ:『オテロ』
リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲
DG(映像)
ベートーヴェン:交響曲全集
ブラームス:交響曲全集
チャイコフスキー:後期交響曲集
ヴェルディ:『オテロ』

1974年
1月、『蝶々夫人』をデッカにレコーディング。
5月、十八番の『英雄の生涯』を再録音。
12月、体調の不良を訴え、スイスで静養。
EMI
リヒャルト・シュトラウス:『英雄の生涯』
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番『皇帝』
バルトーク:管弦楽のための協奏曲
ワーグナー:管弦楽曲集
DG
ベルリオーズ:幻想交響曲
デッカ
プッチーニ:『蝶々夫人』
DG(映像)
プッチーニ:『蝶々夫人』

1975年
1月、ロストロポーヴィチと『ドン・キホーテ』をレコーディング。同時に映像制作もおこなわれます。
1月23日より、3度目となるベートーヴェン交響曲全集に着手。
4月、DG(ポリドール・インターナショナル)との録音契約を更新。チャイコフスキーの交響曲第5番、モーツァルトのレクイエム、ラザール・ベルマン独奏によるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番などを次々と録音。
12月、椎間板手術のためチューリヒ州立病院に入院。
DG
チャイコフスキー:交響曲第5番
ブルックナー:交響曲第4番
モーツァルト:レクイエム
モーツァルト:レクイエム(SACD盤)
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
EMI
リヒャルト・シュトラウス:『ドン・キホーテ』
DG(映像)
リヒャルト・シュトラウス:『ドン・キホーテ』

1976年
3月、闘病を経て演奏会に復帰、ギドン・クレーメルを迎えてブラームス:ヴァイオリン協奏曲ほかを指揮。
4月、イースター音楽祭での『ローエングリン』上演で主役のルネ・コロと対立、ほぼ終了していたEMIへのレコーディング・セッションが凍結。
DG
チャイコフスキー:『悲愴』
EMI
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
シベリウス:交響詩集
シベリウス:交響曲第4番、第5番

1977年
3月、3度目のベートーヴェン交響曲全集が完成。
5月、13年ぶりにウィーン国立歌劇場に復帰。『フィガロの結婚』、『トロヴァトーレ』、『ボエーム』を指揮、1981年まで続けられた同公演は「カラヤン・フェスティヴァル」と呼ばれ大盛況となります。
7月、ザルツブルク音楽祭で『サロメ』を指揮・演出。ヒルデガルト・ベーレンスの主役ともども大センセーションを巻き起こします。
DG
ベートーヴェン:交響曲全集
ベートーヴェン:交響曲全集(AMSIリマスター盤)
ベートーヴェン:交響曲第9番(OIBPリマスター盤)
ベートーヴェン:交響曲第9番(SACD盤)
EMI
リヒャルト・シュトラウス:『サロメ』
ドヴォルザーク:『新世界より』

1978年
2月、ベルリン・フィル演奏会で、アンネ=ゾフィー・ムターを迎えてモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を演奏。並行してレコーディングもおこなわれます。
2度目のブラームス交響曲全集が完成。
4月、『フィガロの結婚』をデッカにレコーディング。
5月、ウィーン国立歌劇場『トロヴァトーレ』公演がテレビ中継され話題に。
5月、ムジークフェラインザールでウィーン・フィルを指揮(ブルックナー:交響曲第9番、他)。
9月、『ドン・カルロ』をレコーディング。1975以来ザルツブルク公演で練り上げた末の録音でした。
『ドン・カルロ』のセッション終了直後、演奏会のリハーサル中に落とした指揮棒を拾おうとして指揮台から転落、2日間の入院ののち、12月まで自宅で静養。
12月、ドビュッシー:『ペレアスとメリザンド』をレコーディング。
DG
ブラームス:交響曲全集
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番、第5番
EMI
ヴェルディ:『ドン・カルロ』
・・ドビュッシー:『ペレアスとメリザンド』
『カラヤン・イン・パリ』
デッカ
モーツァルト:『フィガロの結婚』
BMG
・・ヴェルディ:『トロヴァトーレ』(ウィーン・ライヴ)
アンダンテ
ブルックナー:交響曲第9番(ウィーン・ライヴ)
TDKコア(映像)
ヴェルディ:『トロヴァトーレ』(ウィーン・ライヴ)

1979年
8月、ザルツブルク音楽祭で『アイーダ』を指揮・演出。ヤマハに特注したアイーダ・トランペットの使用も話題に。
10月、ベルリン・フィル、ウィーン楽友協会合唱団と豪華ソリスト陣を率いて来日。ベートーヴェンの交響曲第9番そのほかを演奏。
11月、マーラーの交響曲第9番を初録音
12月、ワーグナーの『パルジファル』初レコーディングに着手。以降のレコーディングはすべてデジタル録音。
DG
プッチーニ:『トスカ』
マーラー:交響曲第9番
EMI
ヴェルディ:『アイーダ』
ユニバーサル・ミュージック
ベートーヴェン:交響曲第9番(来日公演ライヴ)

1980年
3月、ザルツブルク・イースター音楽祭で『パルジファル』上演。
4月、30年振りの『魔笛』録音が、先行の『パルジファル』より先に完成。「カラヤン初のデジタル録音」として発売。
5月、24年振りの『ファルスタッフ』をレコーディング。当初はフィリップス・レーベルから発売されて話題に。
7月、『パルジファル』が録音完成。
11月、シベリウスの交響曲第2番の20年振りに再録音。
12月、アルプス交響曲を初録音。
DG
ワーグナー:『パルジファル』
モーツァルト:『魔笛』
ヴェルディ:『ファルスタッフ』
リヒャルト・シュトラウス:アルプス交響曲
リヒャルト・シュトラウス:メタモルフォーゼン
EMI
シベリウス:交響曲第2番

1981年
1月、ホルスト:『惑星』を再録音。
5月、『トゥーランドット』を初録音。この音源をサウンドトラックとしたオペラ映画制作を計画、大政殿での撮影を中国政府に打診。
DG
プッチーニ:『トゥーランドット』
ホルスト:『惑星』
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
サン=サーンス:『オルガン付き』

1982年
4月30日、ベルリン・フィル創立100周年記念演奏会で『英雄』その他を指揮。
7月、ザルツブルク音楽祭で『ファルスタッフ』を指揮。
9月、ベルリン芸術週間にでマーラーの交響曲第9番を指揮、ライヴ・レコーディングされます。
11月、音楽映像プロダクション「テレモンディアル」を設立。2度目となる映像版ベートーヴェン交響曲全集に着手、平行して4度目のベートーヴェン全集をレコーディング開始。
12月、女性クラリネット奏者のベルリン・フィル入団をカラヤンが強行したとされる「ザビーネ・マイヤー事件」をきっかけに、ベルリン・フィルとの軋轢が表面化。カラヤン側は以降の録音、映像収録計画からベルリン・フィルを閉め出すと発言、これに対してベルリン・フィル側は、カラヤンを介さない独自のレコーディング契約を各レコード・メーカーに打診するなど対立が深刻化。和解したものの、以降の録音、映像収録の主軸がウィーン・フィルに移行します。
DG
ビゼー:『カルメン』
マーラー:交響曲第9番
SONY(映像)
ベートーヴェン:『英雄』(ベルリン・フィル創立100周年ライヴ)
ヴェルディ:『ファルスタッフ』(ザルツブルク・ライヴ)

1983年
4月、ウィーン・フィル名誉指揮者に楽員全員一致の意思によって推挙(公表されたのは1988年4月)。
6月6日、ハノーファーで脊髄の手術。3時間半に及ぶ大手術でしたが、回復。
8月、ザルツブルク音楽祭で『ばらの騎士』を指揮・演出。
DG
ブラームス:ドイツ・レクイエム
『ツァラトゥストラはかく語りき』

1984年
1月、ウィーン・フィルを起用した『ばらの騎士』再録音が完成。
7度目の『悲愴』をウィーン・フィルと録音。映像も収録。
4度目のベートーヴェン交響曲全集が、映像版より一足先に録音完了。
6月、当初ベルリン・フィルを起用する予定だった『四季』をウィーン・フィルとレコーディング(ヴァイオリン独奏はムター)。EMIへの最後の録音。
7月、ザルツブルク音楽祭での『ばらの騎士』公演を映像収録。
10月、ベルリン・フィルを率いて日本、韓国ツアー。大阪のザ・シンフォニーホールで公演、その音響を絶賛。
CD
リヒャルト・シュトラウス:『ばらの騎士』
ベートーヴェン:交響曲全集
チャイコフスキー:『悲愴』
ヴェルディ:レクイエム
EMI
ヴィヴァルディ:『四季』
SONY(映像)
ライヴ・イン・大阪1984
チャイコフスキー:『悲愴』
ヴェルディ:レクイエム
リヒャルト・シュトラウス:『ばらの騎士』(ザルツブルク・ライヴ)
『死と変容』、メタモルフォーゼン(ベルリン・ライヴ)

1985年
1月、初録音となった『ドン・ジョヴァンニ』をレコーディング。
2月、『英雄の生涯』をデジタル録音。
6月29日、ヴァチカン市国の聖ピエトロ大聖堂でおこなわれたローマ法王主催のミサにウィーン・フィルを率いて参加、モーツァルトの『戴冠ミサ曲』を式次第に従って指揮。神前演奏を希望するカラヤンの請願を、音楽好きで知られた法王ヨハネ・パウロ二世が快諾して実現したとされています。
11月、全聖徒の日記念演奏会でベルリン・フィルを指揮。
DG
モーツァルト:『ドン・ジョヴァンニ』
ドヴォルザーク:『新世界より』
リヒャルト・シュトラウス:『英雄の生涯』
ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス
教皇ヨハネ・パウロU世により挙行された荘厳ミサ
SONY(映像)
ブルックナー:交響曲第9番(ベルリン・ライヴ)
ドヴォルザーク:『新世界より』
リヒャルト・シュトラウス:『英雄の生涯』
ブラームス:ドイツ・レクイエム
教皇ヨハネ・パウロU世により挙行された荘厳ミサ

1986年
3月、ザルツブルク・イースター音楽祭で『ドン・カルロ』を上演。
9月、『第9』を収録して、2度目の映像版ベートーヴェン交響曲全集が完成。
10月、ウイルス性の病に倒れ、ベルリン・フィルとのアメリカおよび日本ツアーをキャンセル。サントリーホールのオープニング・コンサートを含む日本公演は小澤征爾が代行。
DG
モーツァルト:レクイエム
ムソルグスキー:展覧会の絵
SONY(映像)
ヴェルディ:『ドン・カルロ』(ザルツブルク・ライヴ)
ベートーヴェン:交響曲第9番
モーツァルト:レクイエム
ムソルグスキー:展覧会の絵

1987年
1月1日、『ニューイヤー・コンサート』を初めて指揮。
5月、ベルリン市制750周年記念演奏会で『ツァラトゥストラはかく語りき』ほかを指揮。
7月、ザルツブルク音楽祭での『ドン・ジョヴァンニ』を映像収録。ジェシー・ノーマンを独唱とした『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」を指揮、ノーマンに惚れ込んだカラヤンは、近い将来の『トリスタン』全曲公演を提案。
10月、ベルリン、フィルハーモニー室内楽ホール落成記念コンサートで、ヴィヴァルディ『四季』を演奏。
DG
ニューイヤー・コンサート
ワーグナー・プロ
ブラームス:交響曲第1番
SONY(映像)
モーツァルト:『ドン・ジョヴァンニ』(ザルツブルク・ライヴ)
『ツァラトゥストラはかく語りき』(ベルリン・ライヴ)
ニューイヤー・コンサート
ブラームス:交響曲第1番
ヴィヴァルディ:『四季』(ベルリン・ライヴ)

1988年
4月、体調の悪化をおしてベルリン・フィルと最後の来日。
11月、ウィーン・フィルを指揮してブルックナーの交響曲第8番をレコーディング。同時に映像収録。
12月31日、ベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサートを指揮、キーシンとのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番がDGからCD化、当日の全演目をテレモンディアルが映像収録(ベルリンでの最後の演奏会)。
DG
ブルックナー:交響曲第8番
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
SONY(映像)
ブルックナー:交響曲第8番
ジルヴェスター・コンサート

1989年
1月、最後のオペラ録音となった『仮面舞踏会』をウィーンでレコーディング。7月のザルツブルク音楽祭では同オペラを指揮・演出する予定でした(公演はゲオルク・ショルティが代わって指揮)。
2月、体調が危ぶまれるなか、ウィーン・フィルのニューヨーク公演に同行。
3月27日、ザルツブルクでベルリン・フィルを指揮(ベルリン・フィルとの最後の共演)。
4月、ムジークフェラインザールでウィーン・フィルとブルックナーの交響曲第7番をレコーディング。セッション最終日の23日には同曲によるコンサートがおこなわれ、これが生涯最後の演奏会となりました。
ベルリン・フィルの芸術監督・終身指揮者のポストを辞任。
7月16日、ザルツブルク郊外アニフの自宅にて死去。
DG
ヴェルディ:『仮面舞踏会』
ブルックナー:交響曲第7番

【カラヤンの芸風】
長大な歴史を持つカラヤンのレコーディングの中でも、交響曲録音はオペラのそれと並んで、もう一方の柱ともいうべき総量と水準の高さを誇るものです。敬愛するトスカニーニがそうであったように、カラヤンがオペラと並んでこのジャンルに情熱を傾けていたことは、残された数々の名盤が物語るところ。カラヤンの飛び抜けた国際的名声は、この交響曲のレコードによって支えられている、と言って過言ではないでしょう。ここでは10枚のディスクを選び、カラヤンの芸風の変遷を交えつつ、年代順にご紹介してゆきます。

 1950年代
 第2次大戦後、敏腕ディレクター、ウォルター・レッグの下で、EMIへの録音が1960年まで続きます。レッグとの出会いは、レコードに対するカラヤンの意識に多大な影響を与えたと言われていますが、ナチ疑惑のため、戦後しばらく演奏会活動を禁じられたカラヤンが、新たに示された『レコーディング』という分野に、以前とは比較にならない意欲をもって関わっていったことは十分考えられます。この時期の演奏は、録音のパートナーだったフィルハーモニア管の高性能を背景とした、機能的かつ明快、颯爽たる表現が特徴。1960年に収録されたシベリウスの2番はその集大成とも言える見事な出来栄えで、清新の息吹みなぎる明朗なサウンドはいまも新鮮です。

 1960年代
ベルリン・フィル音楽監督に就任(55年)、レコード会社もドイツ・グラモフォンへと移り、その盤歴も新たな局面を迎えます。この時期はウィーン、ザルツブルグと活動の場を拡げ、その権勢が絶頂を極めた10年でもあります。 ベルリン・フィルという強力なオケを得て表現が拡大、起承転結の構成を基本とするドラマティックなアプローチも明確になり、メリハリの効いた『聴き映えのする』演奏がこの時期の特徴。中でも、1961年から62年に収録されたベートーヴェン全集は言い落とせません。壮年期カラヤンの豪腕と名門オケのプライドのぶつかり合いがきわめてスリリング、このせめぎ合いを通じて、カラヤンはベルリン・フィルを掌握していったのでしょう。 翌63年のブラームス1番はカラヤンの勝利宣言とも言えるもので、その異様なまでの高揚感、強靭なオケのコントロール、輝かしいサウンドが圧倒的です。

 1970年代
ベルリン・フィルとの共同作業がピークに達した時期。ステレオ録音が完成期を迎えたこともあり、録音済みの作品を次々と再録音してゆきます。
 この時期の演奏は、まさに完璧というほかありません。その細密をきわめた表現は、近代オーケストラ演奏の極致とさえ評されたほどです。1975から77年のチャイコフスキー後期3大交響曲集は代表的傑作。
 1977年の合唱は、理想的な音場を求めて、オケと合唱を別会場でそれぞれ収録するという手法を用いたもので、最新技術を積極的に取り入れるカラヤンの姿勢を象徴する一枚。また、マーラー等この時期には新たな録音レパートリーが登場、中でも1971年のスコットランドは、過剰演出を拒むこの作曲家独自の抒情を巧みにすくい上げ、音色の濃淡と配合に鮮やかな手際をみせた印象深いものです。
 また、世間で賛否両論のカラヤンのブルックナーですが、この時期、同じ4番がわずか5年違いで大幅にアプローチが変更されて録音されているのは注目に値します。1970年にイエス・キリスト教会で収録された旧盤は、ハース版をほぼそのまま用いた演奏でありながら、徹底的に壮麗趣味で飾られた凄まじいアプローチがポイントです。冒頭の悪趣味な媚態改変からして世のブルックナー好きの神経を逆なでし、アンチ・カラヤン・ムードを煽りたてたアルバムとして既に知名の存在ですが、是非や好悪はともかく、ある種独特の強烈かつ壮麗なアウラを放つその内容は、一聴の価値あるものでしょう。最新のリマスター技術“ART”による音質向上も見逃せないところで、ほとんど威圧的ですらある大迫力のトゥッティは、LP時代には再現できていなかったほどのものです。
一方、1975年にフィルハーモニーで収録されたDG盤は、旧盤からわずか5年後というのに、諸先輩に倣ってか(?)第1・4楽章の例の改訂版のアイデアを復活させており、全体のプロポーションも引き締め気味にするなど、作品解釈の方向転換をみせているのが興味深いところです。録音方式・会場の違いによる音響の差も顕著で、ソリッドな感触の新盤は確かに前回やりすぎたカラヤンのみそぎ(?)にはふさわしいものとも思われます。
 なお、カラヤン&ベルリン・フィルには1979年のザルツブルク・ライヴを収録したとされる海賊盤も存在しますが、きわめて劣悪な音質ゆえ内容的には特にみるべきものはありません。

 1980年代
 デジタル録音と、それに続くCDの登場で、さらなる再録音、再々録音が生み出され、その活動は最晩年に至るまで病をおして続けられます。
 この時期の傑作は、何と言っても1980年のアルプス交響曲。初録音となるこの演奏が、同時に交響曲では初のデジタル録音であることも、いかにもカラヤンらしいところ。
1982年にはマーラー9番をライヴで再録音、これはカラヤン晩年の演奏様式の嚆矢とも言えるきわめて印象深いもの。特に終楽章に顕著な静かな諦念は、79年のスタジオ盤にはなかったものです。
 最晩年にはウィーン・フィルとの録音が増えますが、中でも1984年の悲愴と、88年のブルックナー8番が印象的。完熟をきわめたアプローチに晩年の心境がにじみ、その心情をオケが絶妙にフォローした、他に類をみない味わいを持つ名演です。
 その再録音の多さから『志のない商売人』という批評がいまだに絶えないカラヤンですが、レコードの価値をいち早く見抜き、自己の音楽を積極的に投影していったカラヤンの録音には、いわゆるルーティンなものはひとつとしてないと言えるのではないでしょうか。没後10年を迎え、その業績はより客観的な見地から考え直されるべきでしょう。

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