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yk さんのレビュー一覧 

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     2013/09/08

    ホロビッツがカーネギー・ホールで行った演奏会だけでCD41枚にもなる記録があるとは知らなかった。有名な1965年の”Historic Return”演奏会を含め、カーネギー・ホールが彼の”本拠地”であったことを改めて思い知らされる。カーネギーと言う鉄鋼王の名を冠するこのホールは、如何にもアメリカ的で古い歴史を背負わない米国の(プチ)ブルジョワ文化の象徴でもある。このホールでホロビッツは50年に渡って”王様”であり、ニューヨークで音楽評論を書いたE. サイードに言わせれば”権力の座にあった”わけである。解説によればホロビッツは、カーネギー・ホールにデビューすることは”the end of a particular phase in the pianist’s career, not the starting point”(解説書 p.7)だと考えていたのだそうである。それは言葉を変えれば、高額のチケットを購入し恭しい礼装に身を包んで音楽を聴くことを一つのステータスと考える芸術”愛好家”のお気に入り・ペット・・・そして王様になることでもある。音楽を高尚なもの、虚飾を廃した真実なるものと考える純粋培養芸術の立場からは、カーネギー・ホールには鼻持ちならない白粉の臭が付きまとうことは否定できないし、実際このCDを聞いても大抵の演奏には盛大な”フライング拍手”が付属していて、(我が国のように?)音楽の余韻を楽しむ”精神性豊かな”聴衆の趣は乏しい。

    ・・・・しかし、それだからこそなおこの膨大なCDの記録を聴きながらホロビッツがこのホールで成し遂げたことの実績と意味を考えると圧倒されるものがある。それはやはりサイードが言うような単なる”政治家と同じく権力の座にとどまることしか望んでいないように見える演奏家”(E.サイード 「サイード音楽評論 I」、二木麻里訳、むすず書房 2012)でもなければ、ブレンデルやポリーニとの比較が適切な演奏家でもない。 ホロビッツはスカルラッティでもハイドンでもモーツアルトでもベートーヴェンでもシューマンでもショパンでもラフマニノフでもスクリャービンでも、何を弾こうと”ホロヴィッツ”であって、”猫の額も無い”知性をもって、あらゆる意味でホロヴィッツ自身の刻印を演奏に植え付けることが出来たことを示している。その意味で、この1943年から1978年に至る演奏においてもホロビッツは驚くほど変化することなく”ホロビッツ”であり続けているけれども、一方で最近まで未公開だった音源も含むこの全集を聴くと今まで見過ごしていたホロビッツの一面に改めて気づかされるところもある。例えば、エール大学に寄贈されていた”Private Collection”に含まれるバラキレフの”イスラメイ”では、”ホロビッツとは何者か?”・・・の問いに答えるように、彼のラフマニノフより更に古いロシア楽派末裔のDNAのエコーを聴くことが出来るように思う。
    あるいは、解説書の最後にカーネギー・ホールのステージに向かう階段を下るホロビッツ・・・と言う写真が挙げられている。どこか虚栄の香りがして、孤独で、それでいてプロフェッショナルな雰囲気を漂わせる、不思議なホロビッツの後姿が印象的であるけれど、彼がステージに上がるのにどれほどの”勇気”を必要としたのかを感じさせる写真でもある。

    ホロビッツのカーネギー・ホールでの活動記録を纏め系統的に聴くことは、ホロビッツ個人の音楽史を総括するだけでなく米国におけるクラシック音楽の一つの時代の側面を俯瞰することにもなっているように感じられる点でも、興味深いセットだと思う。

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     2013/09/03

    久しぶりのネトレプコのアリア新譜。

    ユニヴァーサルの宣伝によると「・・・重い“スピント”の役どころを、ネトレプコ自身の声の成熟によって満を持して収録・・・」とある。もともと”軽い”声では無かったネトレプコなので、「えらく変わった・・・」という訳ではないけれど、まあ確かにマクベス夫人などがレパートリーに入るようになったとということらしい。
    彼女も齢40を前にして貫禄もついてきたが、声の質は相変わらず滑らかさと影のある美しい声。やはりこう言う声でこう言うアリアを・・・と言うことになると、マリア・カラスの歌が影に日向に付きまとう。比べるとかどうとか言うのではないが、ちょっとしたところにカラスを思い起こす。彼女はカラスのレパートリーを歌うときには多かれ少なかれカラスを意識してるんじゃないかと思う。参考にするにせよ距離を置くにせよ声域の似た歌手はその扱いが難しい。
    歌は何れも何時もどおり美しく歌われているし、スタジオ録音と言うことも有って実演では時折見せる荒っぽさも無く丁寧で彼女の美点が好く現れた歌が楽しめる。いつものようにカラスに比べると凄みに欠けるとか、やや一本調子で微妙なニュアンスが足りない・・・とか、あげつらうことも出来るだろうが・・・・一体戦後のソプラノで誰がカラスの域に到達したと言うのだろう・・・・と、ネトレプコ信者は思う。

    クラシック音楽にも時流はある・・・と言うか、クラシック音楽もその演奏においては時代を反映する(或いは、時代が演奏に反映する)。カラスの歌は、戦後の荒廃の中から復興と繁栄を求める時代に生まれ、”希望”と言った言葉が生々しい意味を持った時代の唄だったと思う。”希望”に意味があるのは、”今”満たされぬものがある事を意味しているし、その意味では苦悩も不安も痛切であった時代とも言える・・・・・希望に切実さがある分だけ悲劇(もちろん喜劇)の現実味も生々しい時代を受け止めてカラスの歌は”凄み”も”微妙なニュアンス”も深みを帯びていた。翻って、今の時代が求め・与えるものは1950年代とは違っているのは当然でもある。ネトレプコの歌は良かれ悪しかれそういう”今”の時代を反映した歌だと思う。
    そう言えば、なにかと”悲劇”の影が付きまとうカラスとは対照的に、ネトレプコはマリンスキーの床掃除をしていた時代から一躍人気歌手としてキャリアを積み、順調に結婚し、一児を儲け、ロシアからは勲章を貰い、40を前にして今もスターダムのトップにあるシンデレラ・ストーリーの主人公である。
    その意味で、マリア・カラスは”殻”を打ち破って戦うことで将来への希望を象徴した時代(結末は悲劇に終わったけれど・・・)のディーバであり、アンナ・ネトレプコはクラシック・オペラと言えどもショウ・ビジネスの一環のなかで”芸術”を模索するこの時代の他には得がたいディーバに違いない。

    付録のDVDも映像は皆既出のものながら、もう一枚ネトレプコのアリア集が聴けると思えばとても楽しめる。

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