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ブルックナー (1824-1896)

CD チェリビダッケ・エディション第2集 ブルックナー:交響曲集、テ・デウム、ミサ曲第3番(12CD)

チェリビダッケ・エディション第2集 ブルックナー:交響曲集、テ・デウム、ミサ曲第3番(12CD)

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  • ★★★★☆ 

    AKINARI  |  愛知県  |  不明  |  2015年02月01日

    チェリ&ミュンヘンのブルックナーは昔FMで聴いたがテンポが曲想と合っていないと思っていた。が、しかし今回のCDではこのテンポはオーケストラの音響美の追求ゆえのことであったと理解することができた。それほど録音が良いということだ。フルトヴェングラーのように思念の表現ではなくともブルックナーの音楽は 様々な演奏が成立する説得力を持つ証となろう。

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  • ★★★★☆ 

    うるさい高校生  |  山形県  |  不明  |  2013年01月13日

    安いなあ。チェリビダッケはMPO時代、映像無しの録音をほとんど認めなかったはず。しかし、映像見てみると、あまりに動きのない指揮にがっかりしてしまう。ファンには怒られるかも知れないが、正直、CDで充分だと思う。 演奏は、3・4・5・8番が特に良い。8番は有名なあのライブ盤があり、完成度や聴きやすさはそちらに譲るだろうが、これはホームでゆったり構えた感じ。テンポは本当に遅い。しかし、決して弛緩しないところが凄い。このテンポで聴くと、特に8番の4楽章が味わい深い。また、MPOのザードロのティンパニの強烈さだけでも、オケの意欲を充分に感じられる。一方、比較的正常なテンポなのが、5番。これは同曲屈指の名盤だと思う。全体に、チェリビダッケのブルックナーは計算しつくされた感じがする。そのためやや冷たい印象を受けることもあるが、聴後感は爽快。6番なども当初気に入っていたが、よく聴いてみると、この人にしては迷いが感じられるか。9番は、私は受け付けなかった。テンポ設定のため、全体のバランス、見通しが悪い。

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  • ★★★★☆ 

    saitaman  |  埼玉県  |  不明  |  2013年01月04日

    遅い。ここまでスローだとは。でも、こんなに弱音をゆっくり長く引っ張っぱり続けているのに、各パートの均整が整然と取れていて全く音がかすれない。ああ、これなのか、チェルビダッケのブルックナーの世界は、という感じ。ただ、感動したかと問われると、あまりの遅さに対してちょっとついていけないものがあったというのが正直なところ。

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  • ★★★★☆ 

    mio  |  東京都  |  不明  |  2012年09月30日

     この12CDの交響曲集とヴァントの33CDボックスの購入を機に、カラヤンとインバルの全集、ベーム、フルトヴェングラー、ジュリーニ、クレンペラーの何曲かを聴き比べながら、ブルックナー浸けの夏休みを過ごしました。  チェリビダッケの美点が、ライブ録音でありながら入念なリハーサルによって得られた整った響きで、楽譜にあるすべての音を聞き分けることができることにあることについては、多くの方が述べられているとおりです。条件の良い録音用の演奏でありながら、この楽器の音が鳴っていないなと教えられた箇所がいくつもあり、この演奏によって、新しい魅力を発見することができました。  一方、チェリビダッケの演奏には、テンポの遅さのため曲に対する構成感が希薄(魅力ともなりますが…)で、強音の箇所でオーケストラ側がどこまでの音量と長さで演奏するか混乱して、音が鳴りきらないうちに脱力してしまう傾向があります。  第9番では、天空に昇っていくように静かに消えてゆくべきホルンの音が、余りのテンポの遅さのため奏者の息が続かず、息継ぎか吹き継ぎのために最後の最後で音が不安定で厚くなってしまっています。  第7番以降の3曲の特に7番の第2楽章(音楽の友社のポケットスコアでは練習番号Sから)、8番の第1楽章(同じく練習番号Uから)、9番の第3楽章(同じく練習番号Oから)のそれぞれの最後のクライマックスの部分は、ヴァグナーの死ややがて訪れる自分自身の死に対する極めて人間的な切羽詰まったおののきや痛切な悲しみの爆発を聴き取ることができると思うのですが、チェリビダッケのコントロールが効いた破綻のない音で演奏されるとその痛切さが伝わらず、どうしても不満が残るのです。  私は、静かに終わる曲で、最後の音が消えた後の拍手までの間の素晴らしさをこよなく愛する者ですが、クライマックスを作って強音で終わる曲で、このCDのように楽譜よりも明らかに長すぎる拍手までの間については、聴衆と同じ空気を共有していない私には、その間を強制されているようで興ざめでした。  したがって、チェリビダッケのファンの方には納得できないでしょうが、私の好みで★3と★5の間の★4とさせていただきます。  最後に私がこの交響曲集の中でどうしても忘れることのできない演奏があります。  何人かの方がチェリビダッケの第4番の演奏を高く評価していますが、私も賛同します。付け加えますと、チェリビダッケは終楽章のコーダ(音楽の友社のポケットスコアでは練習番号Vから)で第1、第2ヴァイオリンとヴィオラのトレモロを浮き上がらせ、最初はややそっけなく、そしてクライマックスに向かって次第に悲しみとも怒りともつかない行進の足取りのように響かせて演奏させています。そのために、クライマックスで壮大に演奏される冒頭の動機が輝かしい変ホ長調であるにもかかわらず、これほどまでに痛切な響きで聴いたことはありませんでした。(あるいは、この第4番の拍手が録音されていないのは、チェリビダッケの意図しない早すぎる拍手のせいだったのでしょうか。)

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  • ★★★★☆ 

    つよしくん  |  東京都  |  不明  |  2012年04月29日

    チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であったと言える。もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。正に、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであったと言える。チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追及しようというものではない。むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、正に音のドラマ。これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、一音一音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の一つ一つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは一つ一つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤におさめられたブルックナーの交響曲集についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。特に、第5番、第8番、第9番の超スローテンポによる演奏は、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないだろうか。他方、第3番や第6番などは、その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。このように、功罪相半ばする交響曲集であると言えるところであるが、チェリビダッケの最晩年の芸風を満喫することができることや、約3000円という信じ難いような廉価(私は、国内盤として愛蔵家ナンバー付きの選集を購入した記憶があるが、約3万円であったと記憶している。)であることに鑑みれば、★4つの評価が至当ではないかと考えられるところである。

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