100人の偉大なアーティスト - No.17
Saturday, December 2nd 2006
20世紀を代表する名ポップス作曲家を選べば必ず名前が挙がってくるだろう バート・バカラック。彼の親しみ易くも転調や変拍子を多用した高度な作曲技術を盛り込んだ作風――いわゆる「バカラック・サウンド」、「バカラック・マジック」と呼ばれる音楽的魅力――は、そうした楽理的なところと関係なく全体的なムードを楽しむリスナーから、著名なミュージシャンまでをも魅了してやまない。また偉大なるポップ作曲家として知られるバート・バカラックが、同じくブリルビルディング系の偉大な作家キャロル・キングやバリー・マンらと異なる点は、彼が作曲家としてだけでなく指揮者、編曲家、プロデューサーとしても優れた才能を発揮したところだろう。それは大雑把に言えばキャロル・キングらがロックンロール世代であるのに対して、バカラックのほうのルーツがそれ以前のジャズや古典的アメリカン・ショウビズ時代に根差していることと関係しているかもしれない(反面ジャズといってもいわゆるモダン・ジャズにも影響されているところからプログレッシヴな作風が生まれるという面もあるが)。ともあれ、耳にすれば必ず、あぁバカラックだなぁ、という唯一無二といっていい特有のメロディ、コード感を感じさせてくれるユニークな個性は賞賛してもし過ぎることはないように思われる。バート・バカラックは1928年5月12日に米ミズーリ州カンザス・シティに生まれた。歌手に憧れていたと言われる母親の勧めにより、彼は小学生の頃からピアノを弾き始め、さらにその後ドラムも習うようになった。スポーツ選手になりたいという夢を持っていたことが示すように、バカラック自身、当初はピアノに興味がなく、学校から帰宅して一時間はピアノを弾かないと遊びにいかせてもらえない、という規律が課せられたため、この時期はいやいやながらも練習に励んでいたというのが本当のところらしい。
その時期から少し経ってから、一家はニュー・ヨークのフォレスト・ヒルに移り住む。バカラックはそこで高校に通うようになったが、彼は校内で最も背が低く、そのくせスポーツ選手になりたい、という夢を抱いていた。一方で音楽に関しては、学内の音楽クラブに所属しチェロを担当したり、仲間とバンドを結成し、ダンス・パーティやコミュニティ・センターでの催し物などに参加し人前で演奏したりすることもあったという。
後に彼自身が振り返るように、この時期までのバカラックは、音楽を人付き合いの手段や自分の内気な性格を打破するための口実として捉えていたようだ。しかしそんな彼に一大転機が訪れることになるのは間もなくのことだった。ジャーナリストである父親に連れられて行ったクラブで、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、タッド・ダメロン、ハリー・ジェイムスらのジャズ演奏を目の当たりにしたバカラックは、それをきっかけに音楽への興味を随分と募らせることになった。さらにその後、とあるドライブの帰りに車中で耳にしたラヴェルの<“ダフニスとクロエ“が彼を音楽への道に進ませることを決定づけたという逸話もある。
モントリオールのマッギル大学に進学したバカラックは、その後ニュー・ヨークのマンズ音楽院とカリフォルニアのサンタ・バーバラ音楽アカデミーに学び、そこでダリウス・ミリョーやヘンリー・カウエルといった人達に師事しソルフェージュや楽譜の読み書きを習った。また1950年から1952年にかけては、軍の慰問団に加わってピアニストを務めながら各地を巡演していくが、この時期にバカラックはポピュラー・ヴォーカリストのヴィック・ダモンと知り合っており、序隊後、ハリウッドで彼の伴奏を担当しショウビズのプロとしての音楽キャリアの一歩を踏み出した。やがてエームス・ブラザーズ、パリー・ボーゲン、スティーヴ・ローレンス、アレンジャーのピーター・マッツといった人物達と出会っていったバカラックは、確実にキャリアを前進させていく。一定の成果を上げ、仕事に広がりの出てきたこの時期にバカラックは、しかし最初の妻ポーラ・スチュワートを連れニュー・ヨークへ戻り、作曲活動に専念する方向に進むことになる。だが一年間をその作曲活動に費やしたものの、結局その活動が実ることは当初殆どなかった。音楽出版社に自分の楽曲を売り込みにいくが、思うように曲が売れず、結果的にアルバイト的なクラブの伴奏で生計をたてるような生活が続いていったのだ。そんなバカラックは心身ともにどん底の状態だったが、さらにこうした悪い状況に追い打ちをかけるかのように、結婚生活までも破綻してしまう。
しかし、そんなどん底の時期にも一筋の光明が差し込み始めていく。ようやく曲が売れ出したのはその離婚後のことだったというが、さらに同時期に彼のキャリアをぐんとアップさせる出来事が起こったのだった。彼はマリーネ・ディートリッヒの常任指揮者を担当しないか、という依頼を受けた。それを快諾した彼は1958年から1963年にかけて彼女の伴奏を務めながら全米、そしてヨーロッパ各地へと巡業していくことになったが、各地で大成功を収め、次第に大役を務めたバカラック自身の名前も知られるようになっていくのだ。
一方でバカラックの作曲活動のほうだが、彼は同時期からニュー・ヨークのブリル・ビルディングと呼ばれる音楽出版社の立ち並ぶ界隈で、ボブ・ヒリヤー、ハル・デイヴィッドといった作詞家と組むことで本格的な仕事を開始している。当初は出版社に対して曲がさほど売れるようなものではなかったようだが、彼が書いた曲で初めてのヒットとなった“ストーリー・オブ・マイ・ライフ”(マーティ・ロビンスの歌唱で知られる)をきっかけに彼の輝かしい作曲家キャリアがスタートすることになった。バカラックはこれ以降、先述の曲で作詞を担当したハル・デイヴィッドとともに、ペリー・コモの“マジック・モーメンツ”、ジーン・ピットニーの“リバティ・バランスを撃った男”といったヒットを連発していくが、とりわけバカラック=デイヴィッドの名を印象付けたのが、いわずと知れたディオンヌ・ワーウィックの歌唱による諸作品だ。しかしここでも何ともいえないバカラック的悲哀を感じさせる(?)逸話があるのが可笑しい。1962年発表の“ドント・メイク・ミー・オーヴァー”は彼らの代表作のひとつだが、これをデモの段階で聴いたセプター・レコードのオーナー、フロレンス・グリーンバーグはその曲を聴いて涙を流したらしいが、それは感動したからなどではなく、あまりの曲の酷さに泣いたというウソみたいな話がある。しかし同曲はそんな彼の反応とは逆に、チャートを駆け上り全米最高位21位というヒットになるのだから面白い。
こうしてポップ作曲家として認められるようになったバカラックだが、この頃に作曲家のジュール・スタインから、ブロードウェイでミュージカルを書くまでは本当の作曲家とは言えない、という嫌味ともとれる発言を受けている。この言葉に発奮したバカラックは1968年にニール・サイモン脚本によるブロードウェイ・ミュージカル『プロミセズ、プロミセズ』を書き下ろすことになるが、結果的に同作は翌年発表のグラミー賞を受賞し、また劇中で使用された“アイル・ネヴァー・フォール・イン・ラヴ・アゲイン”が世界的なヒットとなったことで、この分野で早々と成功を収めてしまうのだった。
また彼は映画音楽の分野においてもそれほど作品数が多くはないものの、印象に残る名作を生み出している。1957年の人喰いアメーバの恐怖(The Blob)で映画と初めての関わりを持つが、ここでは主題歌を書くにとどまり、本格的に全編を手掛けるようになるのは1965年何かいいことないか仔猫ちゃん(What’s New Pussycat?)から。その後紳士泥棒/大ゴールデン作戦(After The Fox) 、007/カジノ・ロワイヤル(Casino Royale) 、失われた地平線(Lost Horizon) 、明日に向かって撃て(Butch Cassidy And Sundance Kid) (同作ではアカデミー作曲賞を受賞)などを手掛け、これらのサウンドトラックは現在でも高い人気を誇っている。
セプター・レコードでハル・デイヴィッドと組み黄金のポップスを生み出した時期、すなわち60年代がバカラック自身の全盛期となっているが、バート・バカラック自身は80年代以降もパティ・ラベル“オン・マイ・オウン” (当時の奥方キャロル・ベイヤー・セイガーとの共作)などのヒットを放ち、最近では1998年にエルヴィス・コステロとの共作アルバムペインテッド・フロム・メモリーをリリースするなどの活動で知られている。また各種コンピレーションなどは現在でも数多く作られており、特に彼とハル・デイヴィッドの名コンビによる「人情喜劇」的なテンダーかつアグレッシヴ、華麗なる作風は心あるポップス・ファンから定着した高い評価を受けている。
for Bronze / Gold / Platinum Stage.
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