HMVインタビュー:ジェイソン・チャンピオン
Tuesday, January 27th 2009
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ジェイソン・チャンピオン インタビュー |
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Interviewed by 二木崇(D-ST.ENT) *インタビューはプロモーション来日決定前に行ったものです。 |
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「ジェラルドと一緒にいれるだけで驚きなのに、僕はまだ17歳の高校生だったから、夢のようだった」 --- 生まれ故郷のクリーヴランドについて語ってください。幼い頃はどんなタイプの子供でしたか? Jason Champion (以下 J) オハイオ州クリーヴランドで生まれ育った普通の子供さ。よく外で近所の子供と遊んだよ。学校や周囲の環境の影響で音楽には深く関わっていた。教会の聖歌隊、学校、学芸会、あらゆるところで歌った。他にはゲームをやったり、悪さをしたりだよ。 --- また、チャンプ(本名?)と呼ばれるようになった理由を教えてください。 J チャンピオンは本名だよ。2005年頃に誰かが「チャンプ」ってあだ名で呼び始めたんだよ。しっくりときてたんだろうな。 --- お父さんは、やはりゴスペルが好きだったのですか? J 父はゴスペルが大好きだった。実は祖父はプロのボクシング選手だったんだけど、父は音楽の才能に恵まれていたから、ボクサーの道は歩まなかった。クリーヴランド・オペラに特待生として通い、ゴスペル・シンガーになったんだ。メロディアスなバリトン・ヴォイスに定評があったそうだ。だから父の影響は僕にとって大きい。
--- 歌い始めたのはいくつのころで、そのキッカケとは?
J 詳しくは記憶してないけど、気が付いたら音楽に囲まれていたよ。ある日みんなで歌ってみたら僕も歌えるってこと発見したんだ。歌手になりたいって思っていたわけでもなく、みんなやってたらか自然にやってたってだけ。大きくなるにつれて歌手になりたいっていう明確な野心が出てきたね。
--- 最初に影響を受けたシンガーは? また、初めて買ったレコードは何でしたか?
J 父以外では、ダニー・ハザウェイとナット・キング・コール。レコードは覚えてないなぁ。ダニーのアルバムかな。いや、ナット・キング・コールの「メリー・クリスマス」だ。
--- 自分のテナー・ヴォイスが「イケる!」と確信した瞬間は?
J 本当に、自分の声を気に入ったことは一度もないんだ。今でも自分の声が特別だと思えていないし。だから、気に入ってくれる人がいることを知ると嬉しい。日本で気に入ってくれる人がいるってことも信じられないくらい驚きだし。自分で自分の声を特別なものだとは思わないけど、奥さんは褒めてくれるよ。それは僕のことを愛してくれているからだと思う。
--- デヴィッド・トリヴァーとのデュオ=メン・アット・ラージは、どういうキッカケで始まったのですか?
J デヴィッドとは幼なじみ。お互いの母親同士が深い友人で、デヴィッドの母親がなくなるまで30年間の付き合いだった。僕らは子供の頃からずっと一緒に歌って育ってきたんだ。壮大な目標があったわけではないよ。タレント・ショーとかを探しては参加して、優勝したり負けたりね。ある日デヴィッドがジェラルド(・リヴァート)に出くわしたとき、その昔僕が10歳、デヴィッドが13歳の時に彼のオーディションを受けてたことをジェラルドが思い出したんだ。僕はその頃17歳位かな。で、改めてジェラルドと彼の父でありオージェイズのメンバーであるエディのオーディションを受けに行ったんだ。彼らには構想があってそれが踊れる大きい男二人によるグループっていうこで、僕らは採用されたんだ。まずグループ名を「ボーイズ・フロム・ザ・フッド」にしようって言われたんだけど、「ボーイズ・イン・ザ・フッド」って映画とか「ボーイズUメン」ってグループとかぶるから僕は嫌だったんだ。あと年をとっても音楽を続けていく夢があったから、50歳になって「ボーイズ」っていうのはいかがなものか、ってことで最終的にメン・アット・ラージになったんだ。
--- ジェラルド・リヴァートに最初に掛けられた“言葉”を覚えていますか?
J 最初の言葉は覚えていないけど、オーディションのときにジェラルドが彼の父エディにむかって「コイツラいいよ!」って話しかけているのを聞いてとても気分がよかったよ。僕らはジェラルドのファンだったからね。その後も全てが驚きだったよ。ジェラルドと一緒にいれるだけで驚きなのに、僕はまだ17歳の高校生だったから、夢のようだった。その日スタジオに入った最初から、メン・アット・ラージを終える最後まで、すべてが驚き。僕にとっては特別な名誉だった。お金をいただきながら、こんなに楽しい経験をさせてもらえるなんて
--- また、トレヴェル(Trevel:ジェラルド・リヴァートが86年に立ち上げたプロダクション)の一員として学んだ最も大きなこととは?ワン・オブ・ザ・ガールズのアルバムに裏方として参加してましたよね?
J よくそんなこと知っているね!かかわっているその当時は何かを得たとも思っていなかったけど、今思うとソング・ライティングに役立ったと思う。あの当時僕が書いていた曲はひどいもんだったよ。こんなことまで聞いてくれてありがとう。
--- 当時のアルバム『Men At Large』『One Size Fits All』を振り返ってコメントして下さい。
J 高校卒業した後にファースト・アルバム『Men At Large』をリリースしたんだけど、父はその1ヶ月前ほどに亡くなったんだ。実は、父は僕の音楽活動をずっと認めてくれてなくて。教会の人だからね。父が死ぬ前、高校卒業したばかりの僕にいってくれたんだ。「オマエのことは誇らしいし、いい歌と音楽をやっていると思うよ」って。こんなことを父に言ってもらうのは初めてだったんだ。父は本当にそれこそ相撲とりのように大きくて、僕にとっては常に巨大でこわい存在だったから、それは嬉しかったよ。グループの活動としてはツアーで色んなところにいって、新たな体験をして、驚きの発見だらけの毎日だった。セカンド・アルバムをリリースする頃には、ある程度自分たちがやっていることも客観的に把握できるようになっていたしね。カメラや観客の前の表舞台だけでなく、リハーサルすらも楽しかったよ。
--- そのデュオを解散したのは神のお告げと聞いたのですが、その状況について詳しく教えてください。
J セカンド・アルバムからのファースト・シングル「Let's Talk About It」のPVを撮影しているときだった。僕は父の影響もあって(キリスト教の)説教のマネゴトをするのが好きだったんだけど、そのときもやっていたんだ。多分遊びで始めたのが徐々にシリアスになってきたんだろうね。そうしたらデヴィッドが涙ぐんでいつもと違う顔つきで「もうやめてくれ!これが俺らの最後のレコードだ。オマエはここでこういう音楽をやっているべきではない。オマエは牧師になるべき男なんだ!」って言われて。それを聞いた僕は怒ったさ。メン・アット・ラージであり続けたかったからね。でも、今思うとそれは神がそのタイミングを知らせてくれたんだと思っている。その数ヵ月後、自宅にいるときに神から「いまの活動を終えて、次に進みなさい。」って理由はなく告げられたんだ。でも、自分のただ一つのアイデンティティであるメン・アット・ラージを僕は続けたかった。ただ銃弾がガンガン聞こえるようなゲットーのクラブでもたくさんライヴやっていながら自分たちが被害を受けていなかったことは神のご加護あってのことだとも思っていたから、ここで忠告に背こうとは思えなかった。だからやめるという結論を出して、それを伝えるためデヴィッドに電話したら発信音が一瞬たりとも鳴ることなくつながっていたんだ。僕とデヴィッドは全く同じ瞬間にお互いに電話たんだよ。僕はグループを辞めたいってこと、彼ソロになりたいってことを伝えるために。
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