女の立場がないんじゃないですか

2023年08月16日 (水) 14:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第308回


 この1年間、いろいろなコンサートに出かけたが、夏休み前の締めくくりはチョン・ミュンフンが東フィルを指揮したヴェルディ「オテロ」(演奏会形式上演)だった。私はこのオペラが若い時分から大好きで、ヴェルディの作品中もっとも高く評価し、かつ愛するのは、これ以外ではあり得ない。ありとあらゆるところに無駄がない、あらゆる音に意味がある、極度に鍛え上げられたアスリートの身体のような作品。しかも、筋肉のための筋肉ではないというぐあいのよさ。
 しかし、このオペラは、ちょっと知っている人ならわかるように、主役のテノールがたいへん難しい。英雄的でありつつ、しかし男としての盛りは過ぎているので若い男を羨む、実に微妙な位置にいる人なのだ。かつてはデル・モナコが絶賛されたが、あんなに力強く歌ったら、奥さんが浮気するわけがないでしょうが、と思ってしまう。全盛期のドミンゴの才色兼備、じゃなかった、強さと知性を合わせたオテロでも、奥さんは浮気しないでしょう、ドミンゴ、いやオテロのほうが浮気しそうだ。
 というわけで、録音でもナマでも、心底感心できる「オテロ」はなかなかないのだけれど、私がサントリーホールで聴いた最終日のグレゴリー・クンデはすばらしかった。なんともうすぐ70歳、なのに強い。かつ、強すぎない。適度の年齢感がまさにぴったり。お客さんは正直だね、終演はほぼ22時だったけれど、すぐに席を立つ人はいなかった。そうですよ、コンサートやオペラは夜に時間を気にしないで愉しむものですよ、すぐさま客が帰るのは、あるいはそもそも来ないのは、上演の質に問題があるのです。
 チョンとクンデはヴェネツィアで収録した映像がある。歴史あるヴェネツィアの宮殿での現地収録。
 チョンはバスティーユ時代にドミンゴと「オテロ」を録音していて、こちらはいかにも若々しい。今ならもっと微妙さが表現できるだろうが、ぐいぐいと突っ走る熱い演奏は、確かに当時、新鮮さに驚かされたのも当然だった。劇場や音楽には、あるいは人生には祝祭の季節というものがある。その貴重な記録。

 テノールの中には、強さと同時に弱さを持つタイプの人たちがいて、たとえばカレーラスがその代表格だった。というより、テノールはメソメソするのも芸のうち。「トスカ」の「星は光りぬ」とか。オテロという役にも際立った英雄性とメソメソの両方が求められている。メソメソは要するに、母性愛をくすぐる作戦。テノールは人並外れた高音を出すがゆえに、危うい。どんなに強くても危うい。それが本質でもある。
 今特にドイツで大人気のカウフマンは、声にやや暗みがあるのはオテロ向き。数年前、彼がロイヤル・オペラで歌ったのを聴いたけれど、最後をあまりにもじくじく歌うのでじれったくなるほどだった。やられてから絶命するまで時間がかかるのがオペラや芝居だが、それにしても長かった。これほどまでに長いと、おい、まわりのやつら、何かしてやれよと言いたくなる。声の演技が濃いのは、CDで第4幕を聴けばよくわかる。特に「死んだよ」とか「カッシオ!」とか、ひとことの表現がすばらしく巧み。パッパーノの指揮は何だか子供が暴れているみたいなので、これはカウフマンを聴くべきCD。

 しかし、この「オテロ」というオペラは、すさまじい名作ではあるけれど、同時にすさまじく男目線の話だなとも思う。要するに男の出世と女の話じゃないか。デズデーモナはただのお人形さんみたいなもの。オテロやイヤーゴに比べると、実体感がない。うーん、ヴェルディ、高齢になっても女への理解は深まらなかったのか? と気づくと、ちょっと白けるところがなくはない。オテロがひとりで興奮しなければ、彼女は死なずにすんだのに。
 ちょうど6月に出た、講談社現代新書『出世と恋愛 近代文学で読む男と女』(斎藤美奈子)という本を読んでいたので、なおさらそう感じたのかもしれない。これは痛快すぎる名著ですよ。明治維新からこの方の有名な日本の小説、正確には男の登場人物たちがばったばったと切り捨てられる。文豪たちの一方的な思い込みがガンガンぶち壊される。男に対して辛辣のなんのって、読んでいる最中に、私も男ですみませんと謝りたくなってくる。特に武者小路実篤の主人公を情け容赦なく一刀両断。この本に書かれているのは、もはや歴史的な女の恨み。もし馬鹿な男のせいで死んだ女たちが集う会があったら、デズデーモナも当然会員だ。理事か理事長クラスだ。と思わされてしまう。
 でも、難しいですよ。もしヴェルディに会ったら、「このオペラには女の立場っていうのがないんじゃないですかあ」とは言えるのだけど、「そういうあんたはどうなんだ?」と切り返されると、やはりちょっと後ろめたい。人は知らぬ間に、男だったり、金持ちだったり、あるいはその逆だったり、何だか自明のものとして立場や環境に無意識になっちゃうので(なので、政治家はSNSですぐに炎上)。大事なのは、常に自分を相対化することですね、と言うはやすし。


 「オテロ」にはフルトヴェングラーの録音がある。この人のイタリア・オペラは珍しい。が、駆け出しのときの「何でもやります」の時期ではなくて、晩年になってもわざわざ振るだけあって、冒頭からやたらと激しい。いや、そこが激しいだけではなくて、そのあとのオテロ登場のところも力がこもっている。全体的にリズムのえぐりがすごい。合唱も渾身の絶叫状態。現在はどこの合唱団も、こういう音程とか音色の均一を無視した絶叫なんてやらないでしょう。やれないでしょう。いくらドラマ的にはリアルでも。
 一般的にフルトヴェングラー愛好家はイタリア・オペラが好きではないようだが、無視するのにはもったいなさすぎる非常に興味深い演奏である。ちなみに、この演奏では、デズデーモナが肉感的というか、まだ世の中のことをいろいろ知らないお嬢さんというよりも、むんむんする熱気を振りまいているのが何とも言えない。


 他方、ヴェルディ演奏の大権威であったトスカニーニのいかにもすっきり整然とした響きは独特。そして、チェロ奏者でもあったトスカニーニだけに、低弦のはきはきした表現力が目立つ。人々が酔っ払うところも、全然酔っ払ったふうではない。楽譜がどう書かれているか、これほどまでに目に見えるように聴かせてくれる演奏はほかにない。もしかしたらシンフォニー作品よりもこちらのほうが、トスカニーニのなしとげたことのとてつもなさはいっそうわかりやすいのかもしれない。ちょろっと登場する子供の合唱団も、罵詈雑言で叱りつけたのでしょうか。
 トスカニーニの明晰な響きを聴いていると、なんともいえず気持ちがよくなる。その分、「イヤーゴの信条」のような部分は歌もオケももっとドロドロしてほしいなとも思う。それにしてもドイツ人のフルトヴェングラーのほうがあからさまにたぎっていて、イタリア人のトスカニーニのほうが抑制的とは、心理的にいろいろ考えさせますなあ。
 あれかこれかで「オテロ」を聴き比べるのは愉しい。でも、女の人、これを見て居心地の悪さを感じないのかな。それを言っちゃあおしめえよで、19世紀のオペラにおける女の立場ってそんなものばっかりなのですけどね。歌の大会の景品になったり。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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