ヴィヴァルディの闇

2019年02月26日 (火) 16:35 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第267回


 最初に注意。
 ヴィヴァルディの音楽を心安らかに楽しみたい人は、以下を読んではいけません。特に、イ・ムジチ合奏団の甘美きわまりない美しい演奏を愛する人は、読まないでください。

 後味の悪い本を読んでしまった。読み終えたのは午後4時前。そのあと夕食をとっても、酒を飲んでも、気分が晴れなかった。なんだか気分が重苦しかった。
 その本とは? 『失われた手稿譜』(サルデッリ著、関口英子・栗原俊秀訳。東京創元社)。ヴィヴァルディが遺した手書きの譜面をめぐる小説である。ただし、小説仕立てにはなっているとはいえ、事実に基づくノンフィクション的なもの。著者はヴィヴァルディ研究家にして演奏家。
 ヴィヴァルディはヴェネツィアで活躍し、彼が勤めていたピエタ慈善院の演奏の見事さは、ヨーロッパ中の好事家に知られるほどだった。しかし、晩年のことがよくわからない。そもそもどこで死んだのか、墓がどこにあるのかさえ長い間不明だったのだ。ようやく突き止められた場所はなんとウィーン。ヴィヴァルディの音楽は、ヴェネツィアでは飽きられてしまったため、仕事を求めてウィーンに行き、そこで息絶えていたのだ。
 ヴィヴァルディの音楽の魅力が再発見されたのは死後二百年が経過した20世紀になってからだ。この本は、ガラクタ同然、まったく価値を認められていなかった手稿譜がどのようにして後世に伝えられたかを記している。ミステリーのような、サスペンスのような、饒舌な文体。だが、後半からぐんぐん緊迫感が増す。
 後味が悪いのは・・・。ヴィヴァルディを再発見し、楽譜の保存に尽力したトリノの人たちは、学者もスポンサーも、ユダヤ人だった。しかし、やがてムッソリーニが率いるファシストたちがイタリアを支配した。彼らはユダヤ人を公職から追放した。ヴィヴァルディ作品を守った人々の手柄を横取りした。そして、ヴィヴァルディの音楽は、イタリアが誇る美しい芸術としてファシストたちによって宣伝されたのだ。あえて結末を書いてしまうが、本書の最後、ヴィヴァルディの楽譜が散逸しないように尽力した学者は、大学を追い出され、わずかな手荷物だけ持って町を去っていく。まるで犯罪者のように、誰にも見つからないように。
 むろん、ヴィヴァルディ自身には何の罪もない。だが、この本を一度読んでしまうと、もう虚心でヴィヴァルディを聴くことはできない。彼の音楽が現代にまで伝えられている背後には、こんなにもいやらしく、醜く、おぞましいことがあったのかと、ことあるごとに思い出さずにはいられない。音楽は美しい。だからこそ、この本で記されている事実がよけいに腹立たしい。
 イ・ムジチ合奏団の甘美きわまりない「四季」。1950年代にあの美しい録音が制作される前に、こんなことがあったのか。知ってしまうと、あの美しさを無邪気に楽しむことは、私にはできなくなってしまった。
 しかし、これでいいのだ。歴史は知らねばならない。イ・ムジチを無邪気に楽しんでいた私よりも、今の私のほうが多少とも利口になったはずだ。おそらくもう少ししたら、イ・ムジチの甘みを、苦みを感じつつ再び鑑賞できるようになるだろう。そういうものである。


 残念ながら、クラシック音楽が為政者に利用されたのは、ヴィヴァルディに限ったことではない。ワーグナーはむろんのこと、ドイツ音楽はナチの政策や宣伝に利用された。他方、ドビュッシーがフランス音楽の英雄としてまつりあげられたのはドイツに対抗するためでもあった。実際にはドビュッシーはワーグナーに強い影響を受けていたのに。
 バッハはもちろん偉大な作曲家だったが、イタリアやフランスの音楽を巧みに取り込んでいた。が、彼もまたドイツのナショナリズムに利用された。「マタイ受難曲」が復活したのは、ユダヤ人メンデルスゾーンの功績なのに、そんなことは無視されて、である。
 1944年、カラヤンが大ドイツ放送帝国ブルックナー管弦楽団と録音した「フーガの技法」がある。当時、野心満々だった若い音楽家が、こんな曲を指揮したことには、何か意味があるのかもしれない。
 冒頭からして、あまりにきれいで驚く。カラヤンはやはりただものではなかった。基本的には昔のバロック演奏だ。現代の軽妙なバロック演奏とは違う。しかし、フルトヴェングラーやメンゲルベルクのバッハのような重苦しさや大仰なところがない。今聴いても流麗で美しい。見当違いな感じはしない。フーガの立体的な構造性を際立てることはしないが、チャイコフスキーやドヴォルザークの弦楽合奏曲のようになっているわけでもない。生き生きした進み方と落ち着きの絶妙のバランス。すでに風格や透明感すらある。統一感がある。こんないい演奏ができるのに、どうしてカラヤンは後年この曲をやろうとはしなかったのだろう? この録音については、前から一度は書かないと、と思っていた。歴史の暗い淀みの中から掘り出された、ミステリアスな演奏である。


 それとは対極的な、バロックの美しさを素直に楽しめるアルバムも挙げておこう。ヴィヴァルディではないが、最近出たサヴァールのCDがすばらしい。
 「テルプシコール」というタイトルのアルバムで、ルベルとテレマンの作品集。完全にサヴァール節で、特にルベルが美しい。ルベルは死んだのが1747年だから、バッハと同時代のヴェルサイユの音楽家。特に「四大元素」が有名で、サヴァールのレパートリーにも入っている。まるで楽器を叩き壊すかのようなグシャーンというすさまじい音がするあれもおもしろい曲で、ことに生で聴けば複雑怪奇さに仰天間違いなしだが、このアルバムに入っている作品も実に魅力的だ。むろんサヴァールの音楽性があってのことだろうが。
 ゆっくりめの舞曲の優雅な趣はたまらない。時間の中に音を流れ出させるかのような、陽炎さながらに妖しい美しさ、儚さ。正直な話、サヴァールとクリスティのあと、こんな演奏ができる人はバロック界には誰もいないと思う。
 「田舎の楽しみ」は、全然田舎っぽくない、優雅のきわみ。踊りの曲というのは、ここまで美しくなれるものか。もちろんバッハも含め、バロック音楽とは、舞曲をどこまで美しく洗練されたものにできるか、その壮大な試みだったのかもしれない。「ファンタジー」も絶品。トラック38のグラーヴは崇高なまでに美しい。風が止まった夕方の、透き通った空気のようだ。
 楽器の溶けあいをほどよく感じさせる音質にも好感が持てる。

 あれもバロック、これもバロック。どう演奏されてもバロックはバロック。今ほどさまざまなバロック作品、演奏を聴ける時代はかつてなかった。私たちは存分に恩恵を受けるべきだろう。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

評論家エッセイ情報
ヴィヴァルディ・エディション
カラヤン
サヴァール
失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語

失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語

フェデリーコ・マリア・サルデッリ

価格(税込) : ¥2,310

発行年月: 2018年03月

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