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Review List of 村井 翔 

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  • 6 people agree with this review
     2015/01/18

    何といっても10番はマーラー全作品中、最愛の一曲であるから、渡邉暁雄と都響によるクック版の日本初演(1976年)以来、聴きうる限りの5楽章版の演奏には欠かさず足を運んできたが、これはやはり別格と言うべき圧倒的な演奏。近年のインバルの指揮は、総譜の緻密な再現に徹して、余分な表情づけをどんどん切り捨てていっているが、クック版は演奏家による表情づけがなければ、もはや音楽にすらならないような楽譜。全曲最後のヴァイオリンのグリッサンドをフリーボウイングで印象づける(結果としてトーン・クラスターのように聞こえる)など、演奏経験豊富な指揮者ならではの練達の技が随所で光るが、インバルとしては珍しい積極的な楽譜への踏み込み(第2スケルツォではマーラーの書法ではないと評判の悪いシロフォンをあえて採用してさえいる)がもともと淡白なクック版と絶妙な化学変化を起こしたと考えるべきだろう。今回のマーラー・ツィクルス最大の成果であることは間違いない。ただ、一箇所だけ文句を言うならば、響きの薄い箇所でせっかちになりがちな、彼の悪癖が顔をのぞかせてしまっている。具体的には第4楽章末尾や第5楽章冒頭だが、こういう所ではもっと休符に「物を言わせて」ほしかった。都響はもちろん圧倒的にうまく柔軟性に富み、その限りでは何も言うことはないのだが、今のところは指揮者の道具でしかない。オーケストラ自体が明確な個性と自発性を持って、指揮者の解釈に対峙できるようになれば正真正銘、どこへ出しても恥ずかしくない世界第一級のオーケストラだ。

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  • 1 people agree with this review
     2015/01/18

    「高雅で感傷的なワルツ」と「ラ・ヴァルス」を両端に置き、スクリャービンからも珍しい「ワルツ Op.38」を入れているが、まずこの人の三拍子の取り方が面白い。前のめりに突っ込むかと思うと、ウィンナ・ワルツ風に二拍目を遅らせてみたりと、変幻自在だ。本人は直感的にやっているのかもしれないが、譜面上は三拍子でも変拍子のような不安定な感覚を味わわせる。「ラ・ヴァルス」ソロピアノ版はユジャ・ワンと互角の勝負。テンポの緩急や強弱を含めて「押したり引いたり」の呼吸は、今のところユジャ・ワンの方がうまく、現時点ではより完成されたピアニストであることが分かる。リムは終始押しまくりなので聴き疲れするが、眩暈がするような麻薬的な感覚は、こちらの方が上だ。一見、彼女の芸風に合いそうにない「ソナチネ」も面白い。ラヴェルの擬古典主義の仮面をひっぺがして、不穏な情動をえぐり出してみせる。一方のスクリャービンは相変わらず個性的ではあるが、様式的には全くぴったり。でも彼女がスクリャービンでデビューしなかった理由は良く分かる。技巧の切れ味は申し分なく聞き取れるが、ベートーヴェンのような暴力的なインパクトはないからだ。ヤマハを弾くのも、響きが飽和するのを嫌って、むしろ金属的な鋭さを求めているからだろうが、録音はベートーヴェンより直接音が多めになって、指が回りすぎるために細かい音が聞き取れないという不満はだいぶ解消された。

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     2015/01/12

    この時の演奏がディスクで出ることになったのは、何といってもネトレプコのおかげなのだから彼女には感謝しないわけにはいかない。肝心の演奏はというと・・・一昔前までのロシア人歌手のドイツ語たるや実にひどいものだったが、さすがに彼女の世代になれば、そんな心配は無用。声自体には今が盛りの歌手らしい堂々たる輝きがあるし、歌詞への情感の乗せ方も、何語で歌ってもやはり彼女はうまい。けれども、発音自体の明晰さやここぞという所(たとえば全曲最後の一行)の決め方では、まだドイツ語ネイティヴの歌手にかなわない(近年の録音ではシュヴァネヴィルムス/シュテンツが秀逸。ジェシー・ノーマンの録音は依然として比較を絶した遥かな高みにあるが、これを聴いて、もうシュヴァルツコップは要らないなと私は思った)。いずれ映像も出るだろうが、譜面台を前に置いて、楽譜を見ながら歌っている。
    というわけで、この盤の本命はもちろん『英雄の生涯』。これはバレンボイム昔からの得意曲で、(前座のモーツァルト K.595のピアノ協奏曲の方がさらに凄かったが)1989年、昭和女子大人見記念講堂でのパリ管との演奏など、私の生涯最高の音楽体験に数えられるほどだ。細部まで非常に克明、力こぶもりもりという印象だったシカゴ響との録音に比べると、今回はやや枯れた感じ。特に前半は抑え気味に進むが、「英雄の戦場」は相変わらず華々しく盛り上がり、再現部の頭にクライマックスを持ってくる。音楽自体としてはこの先「英雄の業績」「隠遁と完成」と嫌らしさ満点の部分が続くのだが、今のバレンボイムは、ついにこういう所をそれにふさわしい風格を持って振れる年齢に達した。このピアニスト=指揮者を半世紀にわたって聴き続けてきた聴き手としては、まことに感慨深い演奏。

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     2015/01/05

    演奏スタイルは『フィガロ』と同じ。即興的なカデンツァの挿入は華々しいし、コンティヌオのフォルテピアノは雄弁。テンポの速さも相変わらずで、序曲主部や第2幕フィナーレ冒頭では正真正銘のプレストが聴ける。歌手陣も『フィガロ』以上の充実で、ドン・アルフォンソ役がやや弱く、「恋人たちの学校」の仕掛け人としての存在感を示し得ていないのは残念だが、他はいずれも良い。ケルメスの清潔だが貧血性気味の歌はあまり好きではなかったのだが、ちょっとアナクロなほど貞操の固い姉娘にはぴったり。妹役のエルンマンは技巧の切れ味、性格表現ともに達者だ。デスピーナはそもそも見せ場たっぷりのおいしい役だが、カシアンも大車輪の活躍。ターヴァー/マルトマンの士官コンビも申し分ない。このオペラは一面では典型的なオぺラ・ブッファでもあるので、そういう面に限れば、つまり第1幕の終わりまでなら百点満点の演奏と言える。
    けれども、『コジ』はそのストーリーも音楽も『フィガロ』とは比べ物にならぬほど深く、苦く、過激だ。もちろん指揮者もそれを知らないわけではなく、第2幕のドラベッラ/グリエルモの二重唱の全部、あるいはフィオルディリージのロンドやフィオルディリージ/フェランドの二重唱の一部、さらに第2幕フィナーレの一部(乾杯の四重唱)などでは歌手たちに声を張らせず、ソット・ヴォーチェのまま押し通している。ショスタコの交響曲第14番でも使われたスタジオ録音ならではの手法だが、これらの音楽における情念の深さに配慮した解釈だろう。ただ、そうした部分が全体のアグレッシヴな様式の中でやや浮き気味で、渾然一体となっていないのが惜しい。第2幕フィナーレ終盤も本来、全員が途方に暮れた状況であるはずなのだが、少し素っ気なさ過ぎる。というわけで、若干の注文はつけたが、凡百のモーツァルト演奏をはるかに超える水準の録音であることは変わらない。星は5つのままにしておきたい。

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     2014/12/29

    ミキエレットの演出では例外なく舞台は現代、つまりは読み替え演出だ。けれども彼の場合、現代のスター演出家が必ず見せてくれるような、読み替えによってオペラから何が取り出したいのか、どんな新しい面を見せたいのかという問題意識が希薄であるように思えてならない。ただ、こうも読み替えられるから、この方がファッショナブルだから、という理由で舞台を現代に変えているだけなのだ。それでも同じザルツブルクの『ボエーム』、新国立の『コジ・ファン・トゥッテ』、二期会の『イドメネオ』ではそれなりに光るところがあった。それらに比べると、この『ファルスタッフ』は最悪だ。これは確かに練達の書法で書かれたヴェルディ最後のオペラだが、老いを感じさせるようなところは皆無だし、むしろ非常にみずみずしい作品だ。それをどうして「カーサ・ヴェルディ」住まいとなった老人の見た夢にしなければならないのか、私にはさっぱり理解できない。
    歌手陣は決して悪い出来ではないが、マエストリの芸達者ぶりを味わうのならベヒトルフ演出のチューリッヒ版以下、他にいくらでも良い映像ソフトがある。他にもう一つ、耳を覆いたくなるほどひどかったのは、鈍重なだけで全く生気のないメータの指揮。少なくとも壮年期まではいい仕事をした指揮者なのだから、これ以上、晩節を汚さないでほしいというのが私の切なる願いだ。

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  • 1 people agree with this review
     2014/12/29

    日本で売られている商品に付いている「くるみケース」には「日本語字幕付き」と大書されているものがあるが、HMVレビューの記述通り日本語字幕はないので、くれぐれもお間違えなく。こういう不当表示は困るが、字幕があろうがなかろうが、この稀代の名演出、名舞台がNTSC版DVDになったのは大歓迎だ。PAL版DVDを持っていた私も買い直しました。これをコンヴィチュニー演出の最高傑作と断言する勇気はないが(許先生の著書によれば、日本で見られるのは彼の仕事のまだほんの一部に過ぎないようだ)、彼以外の誰にも作れない独創的な舞台であることは確かだ。序盤のパロディ路線が徐々にマジ路線に転換してゆくペース配分のうまさ。第2幕第2場の終わり、メロートに先導されたマルケ王一行が逢引きの場を急襲すると(その時、劇場内のすべての明かりが点灯する)、いるはずの二人の恋人たちはもぬけの殻で、それまで舞台だと思ってきた空間の下にさらに舞台があることが分かるという鮮やかな仕様。そして、もはや語り尽くされた感すらあるが、オペラとは演劇ではなく、演劇とは全く別種のアンチリアルな劇形式であることを改めて思い知らされる「愛の死」の名演出。何度見返しても感嘆するばかりだ。
    マイアーは来日公演時のインタヴューでこの演出のことをボロクソにけなしていたが、あれはオールド・ファン向けのリップサービスに過ぎなかったのだろう。映像を見ると、彼女が演出意図を完全に理解していることが良く分かるし、しかも三種類の映像があるマイアーのイゾルデ役のなかで、明らかにこれが最も良い。そもそも主演歌手にとって、「愛の死」の場面など、こんなに「おいしい」演出は他にあるまい。小太りで童顔のジョン・フレデリック・ウェストは見た目のイメージとしては好ましいトリスタン役ではないかもしれないが、その強靱な声は得難いし、演技はとても上手いのだ。他にはリポヴシェク、ヴァイクル、モルという完璧な布陣。(顔の演技だけだが)第2幕終盤でのモルの喜劇的センスには思わず吹き出してしまう。そしてメータの指揮がまた実に素晴らしいのだ。第2幕の白熱的な愛の二重唱には、手に汗握る。われわれが知るフルトヴェングラーの『トリスタン』全曲演奏は彼のベスト・フォームからは程遠いフィルハーモニア管とのスタジオ録音しかないことを割り引いて考える必要があるが、とりあえずあれを基準とするならば、メータの指揮は「フルトヴェングラー以上」と言っても差し支えない。メータ一世一代の名演だ。

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     2014/12/07

    カップリング曲がないために2006年録音の第14番の発売が延ばされていたようなのだが、「何て事だ」と叫ばずにはいられない。2013年録音の第6番も悪くはないが(ただし、第1楽章ラルゴの沈痛な悲しみは今一つ)、第14番が圧倒的な名演だからだ。最近出たワシリー・ペトレンコの録音も好演だったが、表出力の強さではそれをさらに凌ぐ。そもそもモノガローワ、レイフェルクスという独唱者二人は現在望みうるベストメンバーだろう。モノガローワは第2、第3、第5楽章いずれも素晴らしいが、第4楽章「自殺」の憑かれたような狂気の表情には怖気をふるう。レイフェルクスも第7楽章「監獄にて」の深みは最高。対照的な第8楽章も単に激烈なだけでなく、むしろ切れ味鋭い歌唱だ。ヴィシネフスカヤ、レシェチンら初演直後の世代の熱さも確かに貴重だが、この二人の歌からはショスタコーヴィチ受容の深まりを感ぜずにはいられない。ユロフスキーのシャープで目配りのきいた指揮も申し分なし。たとえば最終楽章はこれまでややアイロニカルな、軽みのある音楽として扱われてきたが、彼の指揮だと遅いテンポで、堂々たる終結楽章になっている。

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     2014/11/29

    2013年12月、つまりワーグナー・イヤー最後の月の収録(HMVレビューの収録時期情報は誤り)。演出はとても良く考えられている。ジャケ写真の通り、舞台中央にアンフォルタスの病室が置かれているが、ここを一貫していわば副舞台として活用しようというアイデアだ。退屈になりがちな第1幕では、クリングゾールの自己去勢、アンフォルタスが傷を負う、パルジファルの両親など、過去の出来事をこの中で説明的に見せる。両端幕の終わりでは、この病室が聖杯を覆う箱にもなる。ただし、聖杯騎士団はここでもあまり好意的に描かれず、聖杯開帳の儀式はかなり怪しげ、かつ同性愛的な、カルトな儀礼になっている。これはなかなかの見もの。第1幕で白鳥の死体を埋めた場所から第3幕になると草が生えてくる、第2幕終わりのクンドリーの呪いでパルジファルが一時的に盲目になる、など細部へのこだわりも面白いし、あらゆる可能性が試された感があるエンディングも、そうかまだこの手があったかと思える斬新な幕切れ。ワーグナー自身の異性愛否定思想には反するが、とても秀逸だ。けれども、この演出で特に重要なパルジファルとアンフォルタスが主要キャストの中で最もメリ込んでしまったのは、演出家にとって手痛い計算違い。
    オニールは立派な声の持ち主だが、すこぶる野性的で、全く知的に見えないのは何とも残念。オペラ後半の感銘を大きく減ずる結果になってしまった。フィンリーも熱演だがすべてが型通り、想定範囲内という感が否めない。デノケのクンドリーはさすが。マイアー以後では最も存在感あるクンドリーだ。ホワイトのクリングゾールも堂々たる歌唱(槍を持つ姿は、どうしてもヴォータンを思い出してしまうが)。パーペのグルネマンツは相変わらず完璧なハマリ役と、他のキャストはすべて良い。パッパーノの指揮は綿密かつ周到。一昔前までは、こういうオペラでは全くダメだったコヴェントガーデンのオケも非常に質が高い。

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     2014/11/22

    目もくらむような輝かしい音楽が支離滅裂なストーリーに付けられているこの名作。現代の演出家ならば、このオペラのハチャメチャな物語に何とか筋を通すような演出をやってみたいという野心を抱くのも当然だろう。というわけで、注目はまずチェルニャコフの演出。HMVレビューの記述通りに始まるが、これはこのオペラ前半の歌詞がほとんどすべて過去の出来事の回想を語っているのを利用した読み替え。しかし、後半になると虚構と現実の区別がつかなくなったルーナ伯爵がアズチェーナから主導権を奪い取って・・・という趣向。結局、読み替えとして成功したかと問われると、やや微妙な出来。舞台は終始、同じ部屋の中だし、昨今流行のプロジェクション・マッピングも全く使わないので、禁欲的とも言えるが印象は地味ではある。現代人たちがなぜ中世スペインの物語を語り始めるのか、何の関連づけも示されないのは安易とのそしりを免れまい。
    このディスク最大の聴きものはミンコフスキの素晴らしい指揮。オケはやや小さめの編成のようだが、テクスチュアは透明で見通しよく、細部まで非常に緻密。特にpからppppまでの弱音部のニュアンスが実に豊富だ。しかもこの作品に不可欠な劇的な迫力にも欠けていない(指揮者自身のコメントによれば、初演時のローマの劇場はコントラバスがチェロより多かったという史実を踏まえてオケの編成を考えたとのこと)。歌手陣はミンコフスキ流の総譜のリニューアルに対応できる知的な人たちばかり。最もめざましいのはポプラフスカヤで、ネトレプコほどの押し出しはないとしても、極めて細やかな歌唱で素晴らしい。南欧系の歌手たちに混ざると、また印象は変わるかもしれないが、この面子の中ではディディクも十分に輝かしい。ブリュネ=グルッポーソは従来のアズチェーナ像と正反対の清潔な歌。普通に考えれば迫力不足だが、「記憶回復セミナー」の主宰者たる精神科医といった風の演出の役作りにはぴったりだ。ヘンドリックスは激しやすく、幻想にのめり込みやすい、ほぼ従来のイメージ通りのルーナ伯爵。少なくとも演技はうまい。

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     2014/11/16

    インバル指揮の9番はフランクフルト放送響(CD)、都響(第1次マーラー・ツィクルス)、フィルハーモニア管(来日公演)の順で聴いてきたが、これまで本当に心動かされたことはなかった。だから、この曲はやはりインバルには合わないのだと思ってきたし、ベルティーニ/都響(幸いこのコンビによるライヴ録音もある)が聴かせてくれた、指揮者その人の全人格からにじみ出るようなスケールの大きさと呼吸の深さには決して到達できないだろうと思っていた。こういう曲では聴衆はやはり指揮者その人からのメッセージ、いわゆる「解釈」を受け取りたいと欲するが、インバルは基本的に「音楽とは解釈されるべきものじゃない」という立場だから、お互いの思惑はどうしてもすれ違ってしまわざるをえないのだ。しかしもちろん、解釈なしに演奏することなど実際にはできはしない。たとえば第3楽章終盤のエピソード、終楽章先取り部分。総譜には「幾らか控えめに Etwas gehalten」とあるから基本テンポ(アレグロ・アッサイ)より遅くすることを求めているのは明らかだが、「幾らか」とはどの位なのか。楽想としては終楽章の先取りだからアダージョにまでテンポを落とすべきなのか。指揮者の解釈なしにはどうにもならない部分だ。
    さて、そこで今回の演奏。インバルがベルティーニに化けるはずもなく、彼としてはこれまでのポリシーを貫いただけだった。細かな緩急のアゴーギグ、対位声部の強調など、いつもながら巧緻に作られた演奏だが、終楽章最後のクライマックス、第1楽章序奏のリズム動機がヴァイオリンに戻ってくるところで、思いっきり粘っているのは、ちょっとインバルらしからぬ、はっきりとした「解釈」。けれども全体としては、すべてが完璧にツボにはまって作り物めいた感じを与えない。まるで楽譜をそのまま音にした「かのように」聴こえるところが現在のインバル/都響の至高の境地。正直言うと第1楽章だけは、まだほんの少し食い足りないが、第2楽章以下は全く文句の付けようがない。私にもベルティーニの亡霊を呼び出す余地を与えなかった。

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     2014/11/16

    実に意外だが、にもかかわらずとてもいい演奏。このコンビ、ライヴでは大いにパワフルだが、かなり荒っぽいという印象があったのだが、見事にはずれた。この曲の基軸である暗と明のコントラストを細かく描くのは苦手だが、その代わり終楽章のどんちゃん騒ぎはさぞ盛大にやってくれるだろうと思ったのだが、これもはずれ。ここでのシモン・ボリバル響はいつのまにこんな洗練されたオケに変身したのかと思うほど、表情が細やかでしかも自然だ。終楽章もやや速めのテンポではあるが、対位旋律の表出が克明で、むしろ着実な演奏。ラテン・アメリカ風のところなど、どこにもない。もはやドゥダメルにとっては、マーラーの7番だって特に異化効果を意識すべき音楽ではなく、ごく自然に「美しい」作品なんだろうね。7番はやっぱり「変な曲」だと感じさせる演奏も依然として魅力的だけれども、その対極にこういうアプローチがあってもいい。技術的にも極めて高度な演奏だ。

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     2014/10/18

    シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウとの全集録音の最後、2004年に録音した第9番は、情動的なのめり込みを排してスコアを虫眼鏡で拡大したような克明、精細な演奏。全体としてはあまりブリリアントとは言い難い全集録音の中で断然光る一作だった。しかし、それから9年後のこの録画は全く別人のよう。映像から確認できる新機軸は第2ティンパニに硬いマレット(ばち)を使わせ、通常のマレットで叩く第1ティンパニと音色上の対比をつけていることだが、何よりもテンポの違いが大きい。全楽章とも前回録音に比べて遥かにテンポが速くなり、コンセルトヘボウ盤で89:46だった全4楽章の演奏時間は今回、77:35(拍手などを含まぬ実測時間)と相当に速い部類の演奏となった。そもそも入念なセッション・レコーディングと一発ライヴの今回録画を比べるべきではないのかもしれないが、基本的にクールなアプローチであることは変わらないものの、前回録音の精妙な細部拡大趣味は吹っ飛ばされてしまい、普通いや普通以下の演奏になってしまった。中間二楽章のダイナミズムにはそれなりに見るべきものがあるが、両端楽章はオケが速いテンポに乗り切れておらず、淡白どころかむしろ散漫。この演奏のテンポ設定のモデルかと思われるワルター/ウィーン・フィルの1938年録音、ノリントン/シュトゥットガルト放送響、シュテンツ/ケルン・ギュルツェニヒ管、そしてインバル/都響などは速いテンポによる録音だが、決して嫌いではない。しかし、この演奏からは音楽の自然な呼吸に逆らった「せっかちさ」しか感じられなかった。
    シャイーとド・ラグランジュの対談、指揮者自身による曲についてのコメント、どちらにも今回から日本語字幕がついたが、悲しいほどに内容空疎。楽譜そのもののアナリーゼなら何とでもやりようがあるが、「第9交響曲を書くと死ぬという迷信にとらわれて・・・・」というアルマ作の嘘物語を語らぬとすれば、この曲には聴衆に分かりやすく言葉で語りうるような物語はもはや何もない、ということだろう。後者で現在のドッビアーコ(ドイツ読みトーブラッハ)村と作曲小屋の百年前とほとんど変わらぬ風景が見られるのが唯一の救い。かつてのバーンスタイン、現役世代ではティルソン=トーマスのように、こういう所で俳優顔負けの巧みな話術を見せる指揮者もいるが、(決して頭の悪い人ではないはずの)シャイーがこういう喋りに向いていないのも、今や明らかだ。

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     2014/10/12

    ティーレマン指揮のオペラでは、久しぶりに演出がまとも。第2幕の一部で主役たちの分身(ダブル)を使うほかは、ほとんど新機軸らしきものがない舞台だが、なかなか良いと思う。このオペラには確かにフロイトとシュニッツラーの街、ウィーンらしいエロティシズムがあるが、そういう「きわどさ」はちゃんと表現しつつも、これ以上やったら下品になるというぎりぎりの線で踏みとどまっているところが見事だ。つまり、私が言っているのは第2幕幕切れの「女体型ケーキ」(?)や第3幕でズデンカをどういう格好で舞台に出すかということだ。後者の場合、全裸は論外としても、彼女は女物の下着など持っていないと考えるならば、ネグリジェというのも実は変だし、インパクトに欠けるのだ。
    フレミングは歌、演技とも例のごとく作り物めいて見えるが、この役ならアリアドネほど声の衰えを感じずに済むし、相手役のハンプソン、指揮のティーレマンすべてが同じような人工的な様式で統一されているので、彼女の持ち役のなかではまだ見られる部類。マンドリーカは二枚目かつ三枚目というなかなか面白いキャラクターだが、ハンプソンが演じると「三」の側が何ともわざとらしい。これで、もともと人工的なキャラであるズデンカもまた人工的に演じられると、さすがに我慢の限界を超えるだろうが、新鋭ハンナ=エリーザベト・ミュラーの清新さがきわどいところで上演全体を救っている。

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     2014/10/12

    カーセン演出の『メフィストーフェレ』は彼が今日知られるような名声を築くに至るきっかけとなった出世作とのこと。1989年の録画も愛聴していたが、最新の再録画はありがたい。最初の「天上のプロローグ」を見ただけでも、この演出の優秀さははっきり分かる。演技の細部は1989年版と若干の違いがあるが、基本的なコンセプトはもちろん一緒。「ワルプルギスの夜」の場で男性たちが局部(実は作り物だと思う)を露出しているのが見えるのは、時代の推移と言うべきだろうが、そんなに「型崩れ」しているという印象は受けない。主役メフィストーフェレでは1989年版のレイミーが忘れがたいが、アブドラザコフもまあ悪くない。ラモン・ヴァルガスはいつもながら。彼もかなり年齢を重ねたはずだが、相変わらず童顔なので、老学者ファウストには見えない。ラセットもまあまあだが、彼女もマルゲリータよりはエレナ向きだ。ルイゾッティの指揮は手堅いが、もう一歩の踏み込みが欲しい。

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     2014/10/05

    オペラ全体は妻に家から叩き出された老人(オペラの中では「水の精」)が見た妄想というのが基本構想。ただし、HMVレビューの記述には若干、誤りがあって、最後に殺されてしまう老人の妻はオペラの中では「外国の皇女」、「魔法使い」は駅前の花売りおばさんだ。したがって、現実(現代のブリュッセルの街)の中に幻覚が侵入してくるというヘアハイム・マジックが随所で見られるわけだが、これが唖然とするほど良くできている。第2幕のポロネーズが崩れて水の精の嘆きの歌に移る場面(ジャケ写真)など、巨大な鏡を使った現実崩壊シーンが鮮烈だ。第3幕に10分ほどカットがある(森番と皿洗いが湖に来る場面がない)ほか、第2幕冒頭の森番と皿洗いの対話は肉屋、警官、司祭など別の人物に分割されている。当然ながら「水の精」こと老人は本来、出番のない所でもほとんど舞台上におり、第2幕終わりの「外国の皇女」と「王子」(老人の分身に過ぎない)の言葉は老人に向けて発せられる、など幾つかコンテクストの変更がある。しかし、これらの改変に腹を立てる気も起きぬほど、読み替えは見事に的中しており、特に音楽がこの演出での新しいアクションにぴったり一致している様は、驚異ですらある。 パパタナシウは声の力自体ではオポライスに一歩譲る感があるが、スリムな体型、細やかな歌いぶりで申し分ない題名役。それ以上に重要なのは事実上の男主役であるウィラード・ホワイトで、彼の存在感がこの上演を支えていると言っても過言ではない。アダム・フィッシャーもこんなに「デキる」指揮者だとは思わなかった。演出に触発されたのだろうか。ともあれ、両性(特に男)にとって愛の対象とは妄想でしかないという「イタい」真実をこれでもかと突きつけてくる痛烈なメルヒェンだ。

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