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Review List of つよしくん 

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     2011/06/04

    本盤には、フルトヴェングラーのレパートリーとしてはきわめて珍しい歌曲集がおさめられている。マーラーのさすらう若人の歌と、マーラーと同年生まれで、歌曲に劇的で深い要素を導入したことで知られる後期ロマン派の作曲家、ヴォルフの歌曲集の組み合わせだ。このように、フルトヴェングラーにとってなじみが薄い楽曲においても、そのスケールの大きい芸術はいささかも揺るぐことはない。さすらう若人の歌はスタジオ録音、ヴォルフの歌曲集はライヴ録音(拍手入り)であるが、荘重なインテンポでいささかも急ぐことなく音楽の歩みを進めていっており、楽曲の心眼を抉り出していくような彫の深さは、深沈とした情感を湛えていて実に感動的だ。マーラーのさすらう若人の歌については、ワルターやバーンスタインによる名演が、本録音の後に登場してくることになり、本演奏のような演奏様式は時代の波に取り残されていくことになったが、それでもこのような深みのある人間のドラマとも評すべき奥行きのある名演は、人間関係やその絆が希薄になりつつある現代においてこそ、なおその存在意義は高いものと言わざるを得ないだろう。フィッシャー・ディースカウは、その後も同曲を何度も録音しているが、本盤が随一の名唱と言えるのではないだろうか。というのも、後年の歌唱では巧さが全面に出てしまいがちであると言えるからである(それでも、十分に堪能させてくれるので、文句がつけようがないのだが)が、本演奏では、巧さよりも人間味や情感の豊かさが全面に出てきており、フルトヴェングラーの人間のドラマの構築に大きく貢献しているのを忘れてはならない。ヴォルフも素晴らしい名演だ。ここでのフルトヴェングラーのピアノは、さすらう若人の歌における指揮ぶりと何ら変わりがないと言えるところであり、深沈とした奥行きのある演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある音楽の醸成に成功していると言える。シュヴァルツコップの歌唱も、フルトヴェングラーの凄みのあるピアノ演奏に一歩も引けを取っておらず、このような至高・至純の名演に大きく貢献していると言っても過言ではあるまい。音質は、今般のSACD化によって、既発CDとは次元が異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。特に、フィッシャー・ディースカウやシュヴァルツコップの息遣いまで聴こえるような声楽の鮮明さには大変驚かされた。いずれにしても、このような歴史的な名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができることを大いに歓迎したい。

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     2011/06/03

    ティーレマンによるR・シュトラウスと言えば、同じくウィーン・フィルを指揮したアルプス交響曲の名演が記憶に新しいところだ。その壮麗なスケールと美しさは、極上の高音質録音(既にシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤として発売)も相まって、素晴らしい名演に仕上がっていると言える。本盤はティーレマンにとって、アルプス交響曲に続く2枚目のR・シュトラウス管弦楽曲集のアルバムということになる。交響詩「英雄の生涯」と言えば、どうしてもカラヤンによる名演が念頭に浮かぶ。スタジオ録音を3度行い、さらに数多くのライヴ録音を遺したカラヤンによる同曲の演奏は、いずれも至高の超名演であり、今もなお強烈な存在感を発揮しているとさえ言える。このようなカラヤンによる強烈無比な超名演を超える演奏を成し遂げるというのは、至難の業とも考えられるところだ。まして、同じく独墺系の指揮者であるティーレマンにとっては、カラヤンによる超名演の残像は相当に強いものであったはずだ。しかしながらティーレマンは、カラヤンによる超名演の呪縛を見事に解き放ち、ウィーン・フィルの美しい音色を存分に活かすことによって、カラヤンによる各種の超名演(カラヤンによる演奏はいずれもベルリン・フィルとのもの)とは違った情感豊かな名演に仕立て上げるのに成功している点を高く評価したい。カラヤンは、同曲の主人公である英雄と同化したような豪演を披露したが、ティーレマンは一歩引いて、あくまでも同曲の英雄を客観的に捉えた演奏を繰り広げていると言える。それでいて、前述のようにどこをとっても情感の豊かさに満ち溢れており、R・シュトラウスが同曲に盛り込んだ美しい旋律の数々を徹底的に歌い抜くことに腐心しているように思われる。また、強靭さにおいても不足はないが、どこをとっても格調の高さが支配しており、スケールはきわめて雄大であると言える。このような堂々たる名演奏を聴いていると、あらためてティーレマンが、ドイツの音楽界を牽引する指揮者として将来を嘱望されていることがよく理解できるところだ。近年では指揮者に軸足を移したライナー・ホーネックによる美しさの極みとも言うべきヴァイオリン独奏を聴くことができるのも本名演の大きなアドバンテージであると言える。併録の交響的幻想曲「影のない女」は、R・シュトラウスが歌劇「影のない女」から有名曲を編曲して纏め上げた作品であるが、オペラを得意とするティーレマンならではの演出巧者ぶりが発揮された素晴らしい名演であると評価したい。録音は、従来盤でも比較的満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質がさらに鮮明になるとともに、音場が若干にではあるが幅広くなったように感じられる。ティーレマンによる素晴らしい名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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     2011/06/02

    精神医学を修め作曲家としても活躍したシノーポリの演奏は、正に精神分析的とも言えるような、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰なものであった。シノーポリは、このような精神分析的なアプローチが効果的なマーラーやシューマンの交響曲において、素晴らしい名演の数々を遺したところである。シノーポリは、R・シュトラウスについてもオペラをはじめ、数々の管弦楽曲の録音を遺しているが、問題はこのような精神分析的なアプローチが効果的と言えるかどうかである。R・シュトラウスの管弦楽曲は、その色彩感豊かなオーケストレーションが魅力であることから、その魅力を全面に打ち出した名演が数多く成し遂げられてきた。特にカラヤンは、手兵ベルリン・フィルを率いてオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功したと言えるところだ。これに対して、フルトヴェングラーは、各楽曲が描いている登場人物の深層心理を徹底的に追及した彫の深い演奏を成し遂げたと言えるところである。このように、20世紀の前後半を代表する大指揮者の演奏は対照的と言えるが、シノーポリの精神分析的な演奏は、紛れもなくフルトヴェングラーの演奏の系譜に連なるものと言えるだろう。シノーポリは、演奏に際してドン・ファンやサロメなどの登場人物の深層心理の徹底した分析を行い、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くしていると言える。しかしながら、かかる精神分析的なアプローチの懸念すべき問題は、細部に拘るあまり演奏の自然な流れが損なわれる危険性があるという点であり、それ故に、テンポが異様に遅くなってしまうことがあり得るということだ。しかしながら、本盤におさめられた諸曲の演奏においては、テンポは若干遅めとは言えるが、音楽は滔々と流れており、シノーポリのアプローチが功を奏した彫の深い名演に仕上がっていると高く評価したい。特に、ドン・ファンについては、ドレスデン・シュターツカペレによるいぶし銀の音色が、演奏全体に更なる深みと潤いを与えるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。録音は従来盤でも十分に満足し得る音質であったが、今般のSHM−CD化によってさらに鮮明さが増すとともに、音場が若干幅広くなった。シノーポリによる名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2011/06/01

    ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけてマーラーの交響曲全集を録音したが、本盤におさめられたマーラーの第9は、その最初期の録音である。演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃には、すっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。もっとも、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追及した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、複雑なスコアで知られるマーラーの第9を明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。それ故に、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴と言えるだろう。さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、マーラーが同曲に込めた死への恐怖や生への妄執と憧憬にまで及んでおり、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、かかる楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能であると言える。これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。いずれにしても本演奏は、バーンスタイン&COAによる名演(1985年)とあらゆる意味で対極にあるとともに、カラヤン&ベルリン・フィル(1982年)の名演から一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。このようなブーレーズの徹底した純音楽的なアプローチに対して、最高のパフォーマンスで応えたシカゴ交響楽団の卓越した演奏にも大きな拍手を送りたい。録音は、通常CDでも十分に満足できる音質ではあったが、今般のSHM−CD化によって鮮明さが増すとともに、音場が若干ではあるが広がることになった。このような純音楽的な名演を、SHM−CDによる鮮明な高音質で味わうことができる意義は極めて大きいと言わざるを得ないと考える。

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     2011/05/31

    本盤におさめられたマーラーの交響曲第2番は、ブーレーズによるマーラーチクルスが第6番の録音(1995年)を皮切りに開始されてからちょうど10年目の録音である。このように10年が経過しているにもかかわらず、ブーレーズのアプローチは殆ど変っていないように思われる。かつては、作曲家も兼ねる前衛的な指揮者として、聴き手を驚かすような怪演・豪演の数々を成し遂げていたブーレーズであるが、1990年代に入ってDGに録音を開始するとすっかりと好々爺になり、オーソドックスな演奏を行うようになったと言える。もっとも、これは表面上のこと。楽曲のスコアに対する追及の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在であると言える。本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることができないような旋律や音型を聴き取ることが可能なのも、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の一つと言えるだろう。もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。したがって、第2で言えば、ドラマティックなバーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年ライヴ)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1989年ライヴ)の名演などとはあらゆる意味で対照的な演奏と言えるところである。もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。さらに、ウィーン・フィルの優美な演奏が、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることも忘れてはならない。クリスティーネ・シェーファーやミシェル・デ・ヤングによる独唱やウィーン楽友協会合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言える。なお、このような細部への拘りを徹底した精緻な演奏としては、最近ではホーネック&ピッツバーク交響楽団が第1番や第4番で見事な名演を成し遂げているが、ホーネックが今後第2番を手掛けた時に、本演奏を超える演奏を成し遂げることが可能かどうか興味は尽きないところである。録音は、今般のSHM−CD化によって従来盤よりも音質はやや鮮明になるとともに音場が広がることになったが、必ずしも抜本的な改善が図られているとは言い難い。いずれにしても、本演奏はマーラーの交響曲演奏に新風を吹き込むことに成功した素晴らしい名演でもあり、第3、第4及び大地の歌と同様にSACD化していただくことをこの場を借りて大いに望んでおきたい。

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     2011/05/30

    本盤におさめられた演奏は、ツィマーマンによる約20年ぶりのブラームスのピアノ協奏曲第1番の録音ということになる。前回の演奏・録音は1984年であり、バーンスタイン&ウィーン・フィルをバックにしたものであった。当該演奏も素晴らしい名演であったが、どちらかと言えばバーンスタインによる濃厚な音楽が全面に出た演奏になっており、必ずしもツィマーマンの個性が発揮された演奏とは言い難い側面があったことは否定できないのではないかと考えられる。それに対して、本演奏では徹頭徹尾ツィマーマンの個性が全開と言える。ツィマーマンは「思索と研鑽の人」と称されるだけに、同曲についても徹底的に研究を重ねたのだと考えられる。同曲はブラームスの青雲の志を描いた作品であるが、ツィマーマンはそうした疾風怒濤期にも相当する若きブラームスの心の葛藤のようなものを鋭く抉り出し、奥行きのある彫の深い演奏を行っているのが素晴らしい。また、技量においても卓越したものがあるとともに、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅は桁外れに幅広く、スケールも雄渾の極みであり、情感の豊かさにおいてもいささかの不足もない。正に、技量においても内容の深みにおいても完璧なピアニズムを展開していると言えるところであり、ツィマーマンとしても会心の名演奏と言えるのではないだろうか。このような凄みのあるツィマーマンのピアノに対して、ラトルの指揮も一歩も引けを取っていない。同曲は、ピアノ演奏付きの交響曲と評されるだけあって、オーケストラの演奏が薄いとどうにもならないが、ここでのラトルは、ベルリン・フィルを率いて実に重厚でシンフォニックな演奏を繰り広げていると言える。本演奏は2003年の録音であり、ラトルがベルリン・フィルの芸術監督に就任して間もない頃のものである。この当時のラトル&ベルリン・フィルの演奏には、ラトルの気負いだけが先走った浅薄な凡演が多かったところであるが、本演奏では、そのような浅薄で気負ったラトルとは別人のような充実した重厚な名演奏を繰り広げている。その理由は、DGとEMIの音質の違いがあるのかもしれないが、それ以上に、ラトルがツィマーマンの凄みのあるピアノ演奏に触発されたといった側面も否定できないのではないかとも考えられるところだ。このコンビによる第2番を聴きたいと思う聴き手は私だけではあるまい。録音は、従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、音質がより鮮明になるとともに、音場が若干ではあるが広くなったように思われる。いずれにしても、このような至高の名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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  • 11 people agree with this review
     2011/05/29

    数多くの若手ヴァイオリン奏者が活躍する今日においては、残念なことではあるが庄司紗矢香の存在感はやや薄くなってしまっていると言わざるを得ない。しかしながら、今から5年ほど前の本盤におさめられた演奏当時は、庄司紗矢香は次代を担う若手ヴァイオリニストの旗手として飛ぶ鳥を落とす勢いであったと言える。本演奏では、そのような前途洋々たる将来を嘱望されていた庄司紗矢香の素晴らしいヴァイオリン演奏を聴くことが可能であり、両曲ともに素晴らしい名演と高く評価したい。まずは、庄司紗矢香の若手ヴァイオリニストとは到底思えないような落ち着き払ったテンポ設定に大変驚かされる。あたかも一音一音を丁寧に、しっかりと確かめながら演奏しているかのようであるが、それでいて音楽の自然な流れが損なわれることはいささかもなく、むしろこれ以上は求め得ないような美しさの極みとも言うべき極上の音楽が滔々と流れていく。その心の籠った情感の豊かさは、切れば血が吹き出てくるような熱い情熱に裏打ちされており、実に感動的だ。もちろん、庄司紗矢香の卓越した技量は比類がないものであり、とりわけ両曲の終楽章の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫溢れる力強さやエネルギッシュな生命力は、圧倒的な迫力を誇っていると言える。この庄司紗矢香の素晴らしいヴァイオリンをうまくサポートしているのが、チョン・ミュンフン&フランス国立放送フィルによる好演だ。チョン・ミュンフンは1990年代の全盛期に比べると、かなり大人しい演奏に終始するようになったと言えるが、本演奏ではこれが逆に功を奏し、ゆったりとしたテンポによる控えめな演奏が庄司紗矢香のヴァイオリンをうまく引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。録音は、従来盤ではヴァイオリンとオーケストラのバランスについて問題視されるなど、必ずしも満足できる音質とは言い難い面があったが、今般のSHM−CD化により鮮明さが増すことによって、かなり満足できる音質に生まれ変わったと言えるのではないだろうか。いずれにしても、飛ぶ鳥落とす勢いであった庄司紗矢香による素晴らしい名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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     2011/05/29

    本盤には、ブラームスのヴァイオリン協奏曲と二重協奏曲がおさめられているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。ヴァイオン協奏曲は、メニューインがヴァイオリンをつとめているが、フルトヴェングラーの没後の凋落ぶりに鑑みれば、とても信じられないような素晴らしい演奏を披露していると言える。メニューインは、本盤の録音の頃がベストフォームにあったと言えるのかもしれない。ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、4大ヴァイオリン協奏曲の中でもオーケストラが特に分厚いことで知られており、オーケストラ演奏が薄っぺらだとそもそもどうにもならない。フルトヴェングラーの場合は、そのようなことはいささかも心配ご無用で、本演奏においても、粘ったような進行や重厚さが際立っており、楽曲の核心に向かって鋭く切り込んでいくような彫の深さも健在だ。オーケストラは、いつものベルリン・フィルやウィーン・フィルではなく、ルツェルン祝祭管弦楽団ではあるが、フルトヴェングラーの統率の下、持ち得る能力を最大限に発揮した最高のパフォーマンスを示しており、重厚さにおいても前述の両オーケストラと比較してもいささかも引けを取るものではない。二重協奏曲は、ウィーン・フィルの首席奏者をソリストに起用して演奏したものであるが、これまた素晴らしい名演と評価したい。ブラームスが最晩年に作曲した協奏曲だけに、フルトヴェングラーのような深遠なアプローチは見事に功を奏しており、孤独な年老いた独身男性の寂寥感を抉り出すような凄みのある演奏に仕上がっていると言える。ボスコフスキーのヴァイオリンやブラベッツのチェロもウィーン・フィルと一体となってフルトヴェングラーによる崇高な音楽の醸成に奉仕しているのが素晴らしい。また、この当時のウィーン・フィルの音色に顕著に存在した独特の音色が、演奏全体に適度な潤いとあたたかみを付加している点も忘れてはならない。録音は、ヴァイオリン協奏曲が1949年とやや古いが、今般のSACD化によって見違えるような素晴らしい音質に生まれ変わったと言える。特に、ヴァイオリンやチェロの弓使いまでが鮮明に聴こえるのは、録音年代を考えると殆ど驚異的ですらあると言える。いずれにしても、このような歴史的な名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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  • 6 people agree with this review
     2011/05/29

    本盤にはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と、フルトヴェングラーのレパートリーとしては大変に珍しいバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番がおさめられているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。ヴァイオリンはいずれもメニューインであるが、これまた素晴らしい名演奏を披露していると言える。メニューインは、フルトヴェングラーとの共演が終わった後は、これと言った名演は遺しているとは必ずしも言えないので、本演奏の録音当時がベストフォームにあったのではないかとも考えられる。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、四大ヴァイオリン協奏曲の中でも、チャイコフスキーと同様に音楽内容の深みよりは旋律の美しさが売りの作品である。したがって、音楽の表層を美しく装っただけの演奏でも十分に魅力のある演奏を成し遂げることは可能であるが、さすがにフルトヴェングラーはそのような薄味の演奏は行っていない。荘重なインテンポで楽曲の心眼を抉り出していくような奥行きのある演奏は、深沈とした情感を湛えていて実に感動的であり、スケールも雄大だ。メニューインのヴァイオリンも、表面上の美麗さに拘泥することなく、情感の豊かさと気品の高さを湛えているのが素晴らしい。バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番も名演だ。バルトークは巷間「現代のベートーヴェン」と称されているが、フルトヴェングラーの同曲へのアプローチは、ベートーヴェンの楽曲に接する時と何ら変わりがない。ヴァイオリンだけでなく、オーケストラ演奏にも超絶的な技量が求められる楽曲であるが、フルトヴェングラーは同曲でも徹底した内容重視。音楽の内容の精神的な深みを徹底的に追及しようという姿勢は健在であり、楽曲の核心に鋭く切り込んでいこうとする凄みのある演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。メニューインのヴァイオリンもフルトヴェングラーの指揮に一歩も引けを取っていない。バルトークも生前、メニューインのヴァイオリン演奏を高く評価していたということであり、メニューインもバルトークの音楽に私淑していたとのことであるが、本演奏でも、卓越した技量をベースとしつつ、楽曲への深い理解と愛着に根差した濃密で彫の深い演奏を披露しているのが素晴らしい。両演奏ともに1950年代のスタジオ録音であることもあって、今般のSACD化による高音質化の効果には大変目覚ましいものがあり、これまでの既発CDとはそもそも次元の異なる鮮明な音質に生まれ変わったと言える。メニューインのヴァイオリンの弓使いまで聴こえる鮮明さはほとんど驚異的ですらある。このような名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2011/05/28

    これは素晴らしい名演だ。即興曲集は、楽興の時と並んでシューベルトのピアノ作品の中でも最も人気の高いものであるが、楽興の時とは異なり、一聴すると詩情に満ち溢れた各フレーズの奥底には作曲者の行き場のない孤独感や寂寥感が込められており、最晩年の最後の3つのピアノソナタにも比肩し得る奥深い内容を有する崇高な作品とも言える。したがって、かかる楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいく彫の深いアプローチを行うことは、同曲の演奏様式としての理想の具現化と言えるところであり、かかるアプローチによる演奏としては内田光子による彫の深い超名演(1996年)が掲げられるところだ。これに対して、ピリスのアプローチは、内田光子のように必ずしも直接的に楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫の深い表現を行っているわけではない。むしろ、同曲の詩情に満ち溢れた旋律の数々を、瑞々しささえ感じさせるような透明感溢れるタッチで美しく描き出していくというものだ。その演奏は純真無垢とさえ言えるものであり穢れなどはいささかもなく、あたかも純白のキャンバスに水彩画を描いていくような趣きさえ感じさせると言えるだろう。もっとも、ピリスのピアノは各旋律の表層をなぞっただけの美しさにとどまっているわけではない。表面上は清澄なまでの繊細な美しさに満ち溢れてはいるが、その各旋律の端々からは、同曲に込められた寂寥感が滲み出してきていると言える。このようなピリスによる本演奏は、正にかつてのリリークラウスの名演(1967年)に連なる名演と評価し得るところであり、即興曲集の演奏史上でも、内田光子の名演は別格として、リリークラウスによる名演とともに上位を争う至高の超名演と高く評価したいと考える。録音は従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、ピリスのピアノタッチがより鮮明に再現されるとともに、音場が幅広くなったように思われる。いずれにしても、ピリスによる至高の超名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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     2011/05/28

    ルーペルト・シェトレ著の「舞台裏の神々」には、明らかにガーディナーのことを指摘しているとわかるような記述がある。それによると、ウィーン・フィルはガーディナーのことを「イギリス系のひどくいけ好かない」指揮者と考えていたようで、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレート」のリハーサルの際にもひどく巧妙な復讐を企てたらしい。ガーディナー自身もテンポ感覚が全くなかったようで、本盤の交響曲第4番の録音の際には400箇所にも及ぶ継ぎはぎが必要であったとのことである。これによって、ガーディナーはDGからレコード録音の契約解除を言い渡されたということらしい。したがって、本盤におさめられた演奏についても、事後にかなりの編集が行われたと言えるが、その上で仕上がった演奏(作品)としては、素晴らしい名演と高く評価したいと考える(ルーペルト・シェトレの指摘のように、編集技術の絶大な威力のおかげと言えるのかもしれない。)。少なくとも、本演奏を聴く限りにおいては、ガーディナーとウィーン・フィルの緊張した関係を感じさせるものは何もないと言える。本演奏で素晴らしいのは、何よりもウィーン・フィルの奏でる音の美しさと言うことであろう。メンデルスゾーンの交響曲第4番及び第5番の他の指揮者による名演について鑑みれば、トスカニーニ&NBC交響楽団による超名演(1954年)を筆頭として、ミュンシュ&ボストン交響楽団による名演(1957〜1958年)、カラヤン&ベルリン・フィルによる名演(1971年)、第4番だけに限るとアバド&ベルリン・フィルによる名演(1995年)などが掲げられる。したがって、ウィーン・フィルを起用した名演は皆無と言えるところであり、その意味でもウィーン・フィルによる両曲の演奏は大変に貴重ということができるのではないだろうか。ガーディナーには大変申し訳ないが、本演奏にはバロック音楽における個性的な指揮で素晴らしい名演の数々を成し遂げている常々のガーディナーは存在していない。むしろ、ウィーン・フィルがCDとして演奏を商品化するに当たって、「イギリス系のひどくいけ好かない」指揮者を黙殺して、自分たちだけでもこれだけの美しい演奏ができるのだというのを、自らのプライドをかけて誇示しているようにさえ思われるのだ。もっとも、我々聴き手は演奏に感動できればそれでいいのであり、これだけ両曲の魅力、そして美しさを堪能させてくれれば文句は言えまい。なお、本盤には、メンデルスゾーン自身が後年に第2〜4楽章に施した交響曲第4番の改訂版がおさめられており、世界初録音という意味でも貴重な存在である。これは、いかにもバロック音楽などにおいても原典を重んじるガーディナーの面目躍如とも言える立派な事績であると考える。録音は従来盤でも十分に満足できる高音質ではあったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに、音場が広くなったように思われる。ウィーン・フィルによる希少な両曲の美しい名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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     2011/05/28

    フルトヴェングラーによる交響曲や管弦楽曲のSACD化に引き続き、今回のSACD化シリーズは協奏曲や管弦楽伴奏付きの歌曲が中心だ。次回にはオペラのSACD化が予定されているということである。クラシック音楽業界が不況にあり、ネット配信の隆盛によりパッケージメディアの権威が大きく揺らいでいる中でのEMIによるこのような果敢な取組は、大いに賞賛に値すると言える。本盤には、エドウィン・フィッシャーと組んだベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番と、ルフェビュールと組んだモーツァルトのピアノ協奏曲第20番、そしてフルトヴェングラーによる自作自演である交響的協奏曲がおさめられている。いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。このうちベートーヴェンは、正にフルトヴェングラーの独壇場と言える。ピアノの伴奏箇所においては、エドウィン・フィッシャーのピアノを引き立てる立場に徹しているようにも感じられるが、オーケストラ単独の箇所はフルトヴェングラー節が全開。オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団であるが、このイギリスのオーケストラからドイツ風の重心の低い音色を引き出し、音楽の構えの大きい雄渾なスケールの演奏を行っている。スタジオ録音ということもあり、ライヴ録音の時のような猛烈なアッチェレランドなどは影を潜めてはいるが、重厚にして力感溢れる演奏は、いかにもフルトヴェングラーの音楽ならではの奥行きの深さを誇っていると言える。エドウィン・フィッシャーのピアノも、フルトヴェングラーの指揮にはいささかも引けを取っておらず、生命力溢れる力強さの中にも崇高な深みを感じさせるピアニズムが見事である。他方、モーツァルトは、必ずしもフルトヴェングラーが得意とする作曲家とは言えないが、本盤におさめられたピアノ協奏曲第20番はそうした通説を覆すほどの名演だ。これには、ピアノ協奏曲第20番という楽曲の性格に起因するところが大きいと思われる。本演奏における冒頭は慟哭に聴こえるし、その後も思い切った強弱や適度なテンポの変化などドラマティックな表現も散見されるが、音楽がいささかも矮小化することはなく、スケールの雄大さを失っていないのは、フルトヴェングラーだけが成し得た卓越した至芸の賜物と言える。ルフェビュールのピアノも、むしろフルトヴェングラーの指揮と歩調を合わせるように、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで、豊かな表現力を披露しているのが素晴らしい。録音については、既発CDはピアノの音は比較的よく聴きとることができたが、フルトヴェングラー指揮のオーケストラの音がやや判然としなかったと言わざるを得なかった。しかしながら、今般のSACD化によって、ピアノの音色もよりクリアになるとともに、オーケストラの音が非常に鮮明になったと言える。このような歴史的な名演を、望み得る最高の高音質SACDで味わうことができることを大いに喜びたい。

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     2011/05/28

    本盤におさめられたベートーヴェンの交響曲第5番は、新たに発見されたメタル・マスターよりリマスタリングを行っているとのことである。録音は、1937年のスタジオ録音であるが、確かに、これまでの既発売のCDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。フルトヴェングラーの第5の名演としては、1947年の復帰後のコンサートの3日目のライヴ録音が超名演として知られているが、これはSHM−CD化もされている(DG)ものの音質は極めてよろしくない。ところが、復帰初日のライヴ録音が昨年、アウディーテからきわめて鮮明な音質で発売されたことから、今後は当該アウディーテ盤が決定盤との評価が確立するものと考えられる(近々にも前述の3日目のライヴ録音がシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されるようなので、それによって音質の抜本的な改善がみられれば、事情が変わるかもしれない。)。これに次ぐ名演とされているのが、本年1月にEMIからSACD盤が発売されたが、1954年のスタジオ録音ということになる。ドラマティックな1947年盤に対して、こちらは荘重なインテンポを基調とする奥行きのある演奏ではあるが、フルトヴェングラーの芸術の懐の深さをあらわすものとして、この2強の地位は今後ともいささかも揺るぎがないと考えられる。そして、この両横綱に続く名演が、1943年のライヴ録音(既にドリームライフによりSACD化)と本盤の1937年のスタジオ録音ということになるのではないだろうか。フルトヴェングラーの全盛期は1930年代と主張される識者の方も多数おられるところであり、本演奏においても、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルの黄金時代の演奏がいかに重厚で深みのあるものであったのかがよく理解できるところだ。既発CDの音質がきわめて劣悪であったことから、前述の両横綱や1943年盤の後塵を拝していた名演が、今般のSACD化によって再び脚光を浴びることになることが大いに期待されるところだ。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、メニューインと組んでルツエルン祝祭管弦楽団を指揮したスタジオ録音であるが、一般的にメニューインとの演奏で名演とされているのは1953年のスタジオ録音盤(同様に今回SACD化)の方である。しかしながら、今般のSACD化によって見違えるような良好な音質に生まれ変わっており、1953年盤にも比肩し得る名演であることが証明された意義は極めて大きい。メニューインについては、とある某有名評論家を筆頭に芳しからざる酷評がなされているが、フルトヴェングラーの下で演奏する際には、気品溢れる芸術的な演奏を披露していると言っても過言ではあるまい。それにしても、メニューインのヴァイオリンの弓使いまで聴こえる今般のSACD化による高音質化の威力は殆ど驚異的ですらある。ブラームスのハイドンの主題による変奏曲は、1952年のライヴ録音だけに、今般のSACD化による音質向上効果には著しいものがあり、実演ならではのフルトヴェングラーのドラマティックな表現をも加味すれば、フルトヴェングラーによる同曲の演奏の中では最高の名演と高く評価したい。ワーグナーの2曲は、いずれも1948〜1949年にかけてのスタジオ録音であるが、こちらもSACD化によって素晴らしい音質に蘇った。いずれも定評ある懐の深い名演であるが、特に、ブリュンヒルデの自己犠牲におけるフラグスタートの名唱が鮮明に響くのには大変驚いたところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。なお、本盤におさめられたハイドンの主題による変奏曲は、第1弾のブラームスの交響曲第1番(TOGE−11006)と同じ日のコンサートの際の演奏であるにもかかわらず、当該盤には本演奏ではなく1949年のスタジオ録音の方がおさめられていた。フルトヴェングラーの実演での凄さに鑑みれば、同一のコンサートの演目は可能な限り同じCDにおさめるのがベストであり、このようなカプリングには若干の疑問を感じることをこの場を借りて指摘しておきたい。

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     2011/05/27

    本盤には、2001年に惜しくも急逝したシノーポリによるシューベルトの未完成とザ・グレイトがおさめられているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。本名演の性格を簡潔に表現すれば、シノーポリによる楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精神分析的なアプローチといぶし銀の音色が魅力のシュターツカペレ・ドレスデンによる絶妙のコラボレーションということではないだろうか。シューベルトは、かつてはウィーンの抒情的な作曲家として捉えられており、ワルターなどそうした捉え方に沿った名演が数多く生み出されてきたが、近年では、美しい旋律の中に時として垣間見られる人生の寂寥感や絶望感などに焦点を当てた演奏も数多く行われるようになってきたように思われる。医者出身という異色の経歴を持つシノーポリだけに、本演奏においても、正に両曲の心眼を鋭く抉り出していくようなアプローチが展開されていると言える。テンポ自体はシノーポリとしては全体として若干早めであると言えるが、表面上の旋律の美しさに惑わされることはなく、どこをとってもシューベルトの心底にあった寂寥感や絶望感にメスを入れていこうという凄みや鋭さが感じられるのが素晴らしい。こうしたシノーポリによる楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精神分析的な鋭いアプローチに適度の潤いと温かみを与えているのが、シュターツカペレ・ドレスデンによる美しさの極みとも言うべき名演奏であると言える。シュターツカペレ・ドレスデンが醸し出すいぶし銀の音色は、本演奏をより優美にして重厚な至高の名演に高めることに大きく貢献していることを忘れてはならない。録音は、従来盤でも十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によってさらに音質が鮮明になるとともに、音場が広くなったと思われる。いずれにしても、シノーポリ&シュターツカペレ・ドレスデンという絶妙のコンビが生み出した至高の名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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     2011/05/26

    本盤にはシューマンのピアノ曲の中でも特に有名な子供の情景とクライスレリアーナがおさめられているが、いずれも素晴らしい超名演と高く評価したい。常々のレビューにおいて記していることであるが、シューマンのピアノ曲の演奏は非常に難しいと言える。弾きこなすのに卓越した技量が必要なことは当然のことであるが、それ以上に詩情の豊かさやファンタジーの飛翔を的確に表現することができないと、ひどく退屈で理屈っぽい演奏に陥ってしまう危険性があると言える。アルゲリッチは、超絶的な技量と圧倒的な表現力において、現代最高の女流ピアニストと言える偉大な存在であるが、本演奏においてもそれは健在だ。子供の情景を構成する各曲については、その桁外れに幅広い表現力を効果的に駆使して見事な描き分けを行っており、その卓越した思い入れたっぷりの表現によってあたかも子供が遊ぶ風景が眼前に浮かんでくるかのようであり、抗し難い魅力に満ち溢れていると言える。クライスレリアーナは、正にアルゲリッチの独壇場であり、変幻自在のテンポ設定、思い切った強弱の変化、スタジオ録音とは到底思えないような猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使して、細部に至るまで彫琢の限りを尽くしており、迸るような情熱の炎といい、情感の豊かさといい、正に完全無欠の演奏に仕上がっていると言える。いささか極論ではあるが、ラヴェルの夜のガスパールと同様に、あたかもアルゲリッチのために作曲された楽曲であるかのように聴こえるところであり、おそらくは、本演奏は同曲演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。録音は、従来盤でも十分に満足し得る高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はきわめて鮮明になるとともに、音場が非常に幅広くなった。ピアノ曲との相性抜群のSHM−CDだけに今般のSHM−CD化は大いに歓迎すべきであり、アルゲリッチによる至高の名演をこのような高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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