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Review List of 村井 翔 

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     2025/04/08

    2022年1月、オミクロン株が爆発的に流行し始めた時期の上演とあって、ウィーン少年合唱団の出演はかなわず、第1幕での子供たちの出演場面は女声合唱で代替、第3幕冒頭の牧童の歌は舞台上でカヴァラドッシが歌っている。さらにこの演出ではサンタンドレア教会もサンタンジェロ城も出てこず、一面の雪原、中央の冬枯れの樫の木には、切り刻まれた遺体がぶら下がっているという酷薄な舞台。したがって堂守、牢番もおらず、彼らのパートはシャルローネが歌っている。代わりに黙役のアッタヴァンティ伯爵夫人が、同じくスカルピアに囚われているという設定で登場しており、一番最後で重要な役割を担う。彼女にとってトスカは恋敵かつ兄の仇でもあるから、これも面白い。第3幕でトスカはスカルピアの血がついた彼の白セーターを奪って着ているのだが、シャルローネがそれを見とがめる様子もなく、彼らはカヴァラドッシのみならず、トスカも最初から殺すつもりであったようだ。マルク・アルブレヒトの速いテンポによる、甘さを排したハードボイルドな指揮が、この寒々とした舞台にぴったり。
    2017年のバーデンバーデン・イースター・フェスティヴァル(ラトル指揮)でも歌っていたオポライスが相変わらず素晴らしい。「歌に生き、愛に生き」など歌詞の内容と舞台上の演技が正反対なのは笑ってしまうが、この演出では原作通りの信心深い、清純な乙女ではなく、目的のためには色仕掛けも辞さない女性にキャラクターを変えている。オペラの舞台では滅多に見られないような、エロティックなトスカとスカルピアの駆け引きは、演出の最大の見どころ。歌と演技の総合点では、これまで見聞きしてきたトスカ役の中でも最高の一人と断言して良い。テテルマンは圧倒的存在感とは言えないものの、悪くない主役テノール。歌はいまいちのブレッツ(スカルピア)も演技はとてもうまい。

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     2025/04/06

    新星エレオノーラ・ブラットが素晴らしいトスカを聴かせる。声自体の輝かしさはもとより、繊細な表情の美しさ、劇的な場面のメリハリともに申し分なく、半世紀前のミレルラ・フレーニを思い出させると言っても過言ではない。フリットリ以来、久しぶりの純イタリア産ディーヴァだけに、このところロシアや東欧出身のソプラノ頼りだったイタリア・オペラ界をしばらく席巻するのではないか。テテルマンは強さと弱さを兼ね備えた「等身大」のカヴァラドッシ。これも悪くないが、さらに印象深いのは、例によって主役テノールを食ってしまっているテジエのお下劣な悪党ぶり。演奏会形式上演の映像もあるようだが、音だけでもその怪演ぶりが目に見えるようだ。ハーディングは全曲を完全に支配しているが、かつてのマゼールのようなアクの強さは感じない。緻密、周到だけど、このオペラがしばしば陥りがちな下品な感じにはならない。こういう『トスカ』どこかで聴いたよね、と思い返してみて分かった−−サイモン・ラトルに似ているんだ。

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     2025/04/05

    私の知る限りでは、ハンマー5回の演奏が聴ける唯一の録音。ハンマーの回数については、私の評価は肯定的。展開部の二回を除く第1、第4、第5ハンマーは結局、すべて同じ箇所、すなわち終楽章冒頭の序奏主題とその回帰の箇所で打たれているので、いわゆる第3ハンマー(ここでの数え方で言えば第5)を復活させるならば、作曲者の一番最初の構想通り、ハンマーを5回に戻してしまえ、というのはありうる判断。この演奏の問題は、それとは別のところにある。かつてのノットはきっちりした、スクエアな音楽を作る指揮者という印象が強かったが、近年の彼は時として、かなり遅いテンポの「巨匠風」な音楽を作るようになった。同じEXTONからライヴ録音が出ているチャイコフスキーの交響曲3番、4番などもそうだ。この曲も2008年のバンベルク響との録音と比べてみると、テンポの遅さが目立っている。前回が 22’56/13’04/14’52/29’29 なのに対し、今回は 25’01/13’43/15’06/32’05 だ(中間楽章の順序はどちらもスケルツォ/アンダンテ)。たとえテンポが遅くても、その時間を埋めるに足る濃密な表情や響きの厚みがあれば、それで構わないのだが--たとえばバーンスタイン/ウィーン・フィルやテンシュテット/ロンドン・フィル(特に1991年ライヴ)のように。しかし、今回の演奏は以前に比べても、やや表情が淡白に聴こえる。東響も技術的には満額回答と言えるが、音の厚みや響き自体の魅力という点では物足りない。「アレグロ・エネルジーコ」よりは「マ・ノン・トロッポ」を重んじたと考えれば、第1楽章のテンポは許容できるものだし、第3楽章までは致命的な不満はない。けれども、肝心の終楽章に関しては、アレグロに入ってから随所で、音楽が「間延びしている」と感ぜざるをえない。 

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     2025/03/28

    チャイコフスキーは『エフゲニ・オネーギン』と『スペードの女王』の間に4曲のオペラを書いている。スケールの大きな歴史劇だが、題材自体、彼向きとはいえない『オルレアンの乙女』『マゼッパ』。メルヒェン的な『チェレヴィチキ』。以上3曲は舞台の映像を見たことがあるが、次が、今回はじめて映像を見ることができた『チャロデイカ』だ。さすがに『スペードの女王』の一つ前のオペラだけあって、音楽の充実度は抜群。近年、上演されることが比較的多い『マゼッパ』より断然上だ。ただし、このオペラがオペラハウスのレパートリーに残らなかった理由も良く分かった。台本が無駄にくどく、劇の展開が遅すぎる。しかもストーリー自体は(今回は現代化演出のせいで一段とそういう印象が強まっているのだが)ひどく生々しい、ヴェリズモな話でこの作曲家の一般的なイメージとは合わない−−こういうオペラも書く作曲家だということは知っておいて良いが。
    というわけで、今回の映像ディスク。回り舞台のうまい活用、プロジェクション・マッピングの的確な使用(特に第4幕前の間奏曲)など見るべき点も幾つかあるが、やはり現代化演出は無理だったと思う。悪役、イェフプラクシア公妃の行動動機が「家門の名誉を守るため」であること、ヒロインに対する「魔女」呼ばわり、最後の毒薬ネタに至るまで、そのまま現代に持ち込むには難しい要素が多すぎた。ト書き通り、第4幕の舞台が「森の中」であれば、救いのないエンディングの印象も少し変わったのではないか(演出は父親がユーリを殺すという最後の展開自体を少し変えているのだけれど)。おそらく彼女が出演することで、この上演のディスク化が企てられたのだろう。サロメやルサルカに通じるファム・ファタル系のキャラクターゆえ、グリゴリアンの演唱は圧巻。マクニール(ニキータ公)、マーンケ(その妻、イェフプラクシア公妃)ともに申し分ない。
    マッチョを装う優男という演出の「ひねった」キャラ作りに災いされた感もあるが、ミハイロフ(ユーリ)のみ、違和感あり。『ペレアスとメリザンド』ならペレアスに相当する立ち位置のこの人物は、もっと叙情的な歌を歌うイケメンなはずなのだが。比較の対象がないが、指揮はとても良い。

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     2025/03/12

    ウィーン・フォルクスオーパーと東京二期会の共同制作、日本での公演は今年7月、東京と名古屋で行われる。『イオランタ』と『くるみ割り人形』はもともとダブルビルプログラムとして作曲された作品で、現代でもパリのチェルニャコフ演出のように一緒に上演されることはあるが、現代の観客にとって、この二本立てはいささかヘヴィであるのも確か(『神々の黄昏』よりは短いけど)。特に現代においては観客として想定されるお子様向けとは到底言えない。そこで演出家ロッテ・デ・ベアが振付家アンドレイ・カイダノフスキー(この人の名前がHMVレビューでは落ちている)、指揮者オメル・マイア・ヴェルバーと協力して作ったのが、この二作を完全に合体させてしまおうという大胆なプロジェクト。両作を解体、結合させて、真ん中に休憩を挟んで実上演時間80分あまりという子供でも飽きずに見られる長さになったが、これが何とも良くできているのには感嘆あるのみ。昨秋『影のない女』を無残に切り刻んでしまったペーター・コンヴィチュニーの杜撰で投げやりな演出とは対照的(実は彼はデ・ベアの師匠なんだけど)。
    冒頭の女声だけによる状況説明部分は大幅に刈り込んでいるが(オペラのナンバーで言えばNo.2は全部カット、イオランタのアリオーソは残っているが、No.1とNo.3も必要最小限に縮減)、軸になるのは『イオランタ』の方で、以後はオペラのストーリー通りに進行。そこに随時、『くるみ割り』の音楽が、元のストーリーやコンテクストとは切り離されて挿入され、ヒロインの心象風景をバレエで描き出すという仕掛け。もちろんオペラとバレエは全面的に相互浸透しており、オペラの人物がバレエに出たり、オペラのナンバーにバレエが加わったりする。たとえば、レネ王は悲痛なアリアを歌い終わると、鼠の被り物を付けて、バレエ場面で鼠の王様を演ずるが(ただし音楽は「雪のワルツ」)、これは悪意はなくても彼は娘の成長を邪魔する人物になっているという演出家の解釈。ちなみに、歌詞はすべてドイツ語で歌われており(日本人歌手たちはロシア語で歌うようだ)、オペラの人物たちが全員、現代の服装なのに対し、バレエ場面は伝統的な『くるみ割り』以上に幻想的。最も感心したのは、イオランタとヴォデモンの出会いの直後、『くるみ割り』のグラン・パ・ド・ドゥ(アダージョ)に変わって前半(第一部)が終わった後、後半冒頭で故意に出会いの場面を繰り返して(なぜなら、一番重要なシーンだから)、あの感動的な二重唱に入るところ。しかも二重唱が終わると直ちにバレエに移って、自分の運命を知ってしまったヒロインの動揺を表現する(鼠たちとの戦争の音楽)。ここなど、元のオペラの台本に不足している部分を完全に補完してしまっている。題名役ゴロヴニョーワはバレエ版のミラ・シュミットに比べると可憐、清純といったイメージは薄いが、現代的な芯の強い女牲になっている。その他、ヴォデモン、レネ王、エブン=ハキヤ、すべて好演。特筆すべきはヴェルバーの貢献で、彼がやっているらしい音楽部分の編曲も面白いが、本業の指揮も緩急自在、実に切れ味鋭い。今年秋からはハンブルク州立歌劇場の首席指揮者と、とんとん拍子に出世しているのも当然か。

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     2025/02/21

    バイエルン放送響とのマーラー三枚目だが、これまでの二枚には全く感心しなかった。9番はバーンスタイン/ベルリン・フィルのような一期一会の演奏じゃあるまいし、こんなに傷のあるライヴを無修正のままCDにするという神経がそもそも理解できない。6番はベルリン・フィルとの最初のライヴ(1987)がラトルのベストで、その後は録音を繰り返すたびに悪くなるばかり。けれども、7番だけは別で、録音するたびに良くなってゆく。彼にとって特別に相性のよい曲なのだろう。今回の新機軸は弦楽器のフレージングの使い分けで、「普通」のフレーズの他に、故意にアインザッツをずらした「ぼかし」、きわめてシャープな「鋭角」のフレーズを意図的に使い分けている。キリル・ペトレンコの7番(特にベルリン・フィルとの方)では、光が当たるべきすべての声部に等しく光が当たっているのに対し、こちらはハイライトとぼかしの使い分け。あちらが鮮麗なCGアニメとするなら、手仕事の肌理が細かいセルアニメといった印象。曲との相性で言えば、6番はペトレンコが絶対有利だが、7番なら好みの問題。
    さらにこの曲、第4楽章と第5楽章の間に断絶のある作品だと私は理解していたが、この演奏では、終楽章は能天気な乱痴気騒ぎにとどまらず、ここにも「夜」(あるいは「狂気」)の音楽が入り込んでいるようだ。日本のオケでは2023年4月の大野/都響がそういう方向を目指した秀演だったが、全五楽章の統一を感じさせるような演奏になっている。

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     2025/01/24

    現代最高のリゴレット歌い、カルロス・アルバレスが見られる映像ディスクは、このほかにロイヤル・オペラ版(2021年)があって、指揮はそちらの方が上だが(何と言ってもパッパーノ)、演出はこちらが断然良い。このオペラ、特にジルダが公爵の身代わりになって死んでしまう第3幕の展開はあまりにも「都合良すぎて」、オペラというそもそもアンチリアルな芸術ジャンルにしても、嘘っぽさがぬぐえない。「まあ、この時代のオペラだから」と諦めてしまわないで、それを何とか現代人にも納得できる舞台にしようとしたのが、この演出。時代を現代に移したわけでもなく、ストーリーの読み替えもない。その点では至極まっとうな演出なのだが、手前に傾いたり、上昇して二層になったりする、ほぼ正方形の可動式の舞台の上には何の大道具もない。つまり主人公の内面をサイコドラマとして見せる演出であって、すべての出来事はリゴレットが見た悪夢だとも解釈できる。名アリア「悪魔め、鬼め」の場面など、まさにこうでなくっちゃという的確な舞台。リゴレットとジルダには公爵とマッダレーナが見えているが、公爵側からは二人が見えないという四重唱も、大道具なしでどうやるのかと心配したが見事に解決。
    ロイヤル・オペラ版では背中にこぶをつけていたアルバレスだが、こちらは素のままで演技(最初の場面のみ白塗りの化粧)。60歳過ぎてからのヌッチの映像(2006年、チューリッヒ/2008年、パルマ)はあまりにリアルに老人で、ひどく生々しいが、アルバレスからはもっと普遍的な人間の悲しみが感じられ、リアリズムを捨てた舞台の趣旨にも合っている。カマレナは技術的には完璧。見た目は全くイケメンではないが、この演出なら問題なし。失礼ながら実年齢を言うと、ランカトーレはアルバレスより十歳ほど若いだけなのだが、さすがの演技力でちゃんと彼の娘になっている。指揮は手堅く、致命的な不満はない。

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     2025/01/07

    演奏自体は、きわめて高水準の『パルジファル』だ。エラス=カサドは『椿姫』、メンデルスゾーンの交響曲1番と5番など、見事な演奏も何度か聴かせてもらったが、ナマでも(N響とのマーラー5番)ディスクでも(シューマン交響曲全集)ひどい演奏に遭遇したトラウマがあって、まだ本当には信用していない指揮者。しかし、このバイロイト・デビューは素晴らしい成功だ。このオペラでいつも話題になるテンポについて言えば、全体としてほぼ中庸だが、緩急の起伏はかなりある。何よりも良いのは、混濁しがちなあそこのピットにも関わらず、響きの明晰さが一貫して確保されていること。しかも随所で鋭いスコアの読み(特定の声部の強調)を見せる。歌手陣も強力無比だが、誰よりも輝いているのはガランチャ。歌も文句のつけようがないが、演技が本当にうまい。題名役を歌うには、やや年をとった感のあるシャーガーだが、巧みな演技でカバー。ツェッペンフェルトは単なる過去の物語の語り部にとどまらぬ性格的な、気難しそうなグルネマンツだが、これも良い。ウェルトン(アムフォルタス)は安易な絶叫に走らぬ、ひとつひとつの言葉に細かい表情を載せた歌唱。シャナハン(クリングゾール)も良く、こんなに歌手の揃った『パルジファル』は滅多にない。
    演出は最悪だった一世代前のラウフェンベルク演出に比べれば、幾らかマシな程度。その前のヘアハイム演出の足元にも及ばない。舞台は人類文明の終末期だそうで、聖杯争奪戦をレアメタル(リチウムやコバルト)の採掘競争に擬している。だとすれば、主人公が聖杯を粉々に破壊してしまうエンディングは、こんな文明は滅びた方が良いというメッセージか。もっとも、これは物語の外側部分に新しい衣装を着せただけなので、演出家がご執心の(もちろん台本には何も書かれていない)グルネマンツとそのパートナー(黙役)との関係以外にストーリーの核心、1)パルジファルとアムフォルタスの同性愛的な共苦、2)異性愛の拒否、にも関わらず生まれてしまうパルジファルとクンドリーの間の愛、3)「さまよえるユダヤ人」クンドリーの運命、にどう向き合うかが本当は重要なのだが。クンドリーとパルジファルの接吻はいかにもありふれたマットレスの上で行われ、その直後に主人公は舞台上に転がっている死体から心臓を取り出してくる。さらに主人公のTシャツの背中にはRemember me、第3幕でのクンドリーの服にはForget meと書いてある、といったキッチュな仕様を見ると、演出家はあまり「真面目に」作品と向き合う気はないようだ。最も残念なのはARゴーグル内の映像が、ついにブルーレイに至っても何も見られなかったこと。そもそもこれがこの演出の目玉ではなかったか。

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     2025/01/04

    演出のつまらなさについては『ワルキューレ』のところであれこれ述べたので、繰り返さない。「ラインへの旅」「葬送行進曲」「フィナーレ」といったオーケストラだけの名場面ではクプファー、コンヴィチュニー、ヘアハイムなど過去の演出を参照した(パクった)と思しきアイデアもあるが、前年に同じベルリンで四部作通しのプレミエが行われたヘアハイム演出と比べると、絶望的なほど見せ方が下手だ。しかし、本作にはストーリーの根幹に関わる読み替えがあり、私は諸手を上げて賛同はしないものの、音楽は圧倒的に素晴らしい『黄昏』も台本は欠陥品であるという事実を改めて思い起こさせてくれた。「怪我の功名」とも言うべきその成果だけは評価しよう。
    チェルニャコフ版の読み替えは以下の通り。第1幕、「忘れ薬」という台詞は台本通り、ちゃんと歌われているが、誰かが飲み物に薬を入れるという演技はなく、そもそもジークフリートは飲み物に口をつけていない。第3幕の「記憶回復薬」についても全く同じ。すなわち、この英雄は薬を盛られたわけではないのに、あっさりとグートルーネに心変わりしてしまったのだ。さらに第1幕終わり、グンターに変装した(この演出では見た目、何も変わっていない)ジークフリートはブリュンヒルデを「凌辱」したことが暗示される。前述の通り、私はこの読み替えが成功したとは思わない。けれども、演出の設定では研究施設内で純粋培養された社会性のない人間だとしても、英雄の評価を間違いなく大きく下げる、このような読み替えを演出家が敢行せざるをえなかった理由は、私にはとても良く分かる。
    元の台本には明らかにまずい箇所が二つあるからだ。まず第一。前作『ジークフリート』ではミーメの用意した毒の飲み物を飲まなかったジークフリート、どうしてかくも不用意にハーゲンの策にかかって、忘れ薬を飲まされてしまうのか。あまりにもマヌケであり、以後の展開は茶番になってしまう。第二。こちらの方が遥かに問題だが、ブリュンヒルデはなぜ宿敵ハーゲンに夫の弱点を教えるという愚行に走ってしまうのか。夫の言動がおかしいことは、とっくに分かっているはず。なのに、その原因を探ろうともせず、自分の屈辱をぬぐうために「殺してしまえ」という結論にどうして短絡してしまうかな。そもそもこの夫婦の「愛」なんて、こんな程度のものだったのか。これでは「自己犠牲」でどんなにジークフリートの愛を讃えても、後の祭りだ。中世ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』では、確かにジークフリートは隠れ頭巾で変装して、グンターの代わりにブリュンヒルデを手に入れてやるが、彼とブリュンヒルデとの間には恋愛関係も婚姻関係もない。だから後に変装がばれた時、ブリュンヒルデに憎まれるのは当然だ。ワーグナーのオペラにおける不具合は、『エッダ』に代表される北欧神話の神々たちの物語と『ニーベルンゲンの歌』を接合したせいだが、『トリスタン』の台本では、大昔の叙事詩を現代人をも納得させる不倫物語に作り替えてみせた彼が、『黄昏』に限っては欠陥台本にそのまま作曲してしまったのは、残念と言うほかない。
    さて、ティーレマンの指揮はますます好調。本作の特徴であるオーケストラだけの部分もきわめてハイテンションだ。ルイージやジョルダンのようなポリフォニックな見通しの良さ、対位声部への目配りは望めないが、それは仕方ない。特にオペラティックな感興の高まる第2幕の修羅場はとびきりの大迫力。歌手陣では、何と言ってもシャーガーとカンペ。シャーガーは演技も上手く、チェルニャコフ版ではとりわけ強調される子供っぽさ、男という生き物の「業」の表現も完璧だ。カンペも技術的にはほんの少し、危うい瞬間があるとしても、堂々たるヒロインぶり。最終場面ではヴォータンも登場するのに、ストーリーのもうひとつの主軸、彼女が最後に父ヴォータンの望みをかなえてやる、つまり父を殺すというテーマが無視されてしまったのは無念だが、もちろんこれは演出家の責任。

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     2025/01/01

    ミュンヒェンのレジデンツ劇場、ウィーンのブルク劇場とストレート・プレイ専門劇場の監督を歴任し、しばらくオペラから遠ざかっていたマルティン・クシェイがオペラの演出に戻ってきた。現代の衣装による上演だが、HMVレビューの通り、伯爵はギャングのボス、全登場人物がギャング団の面々というのが今回の売り。『フィガロ』も一皮むけば、『ドン・ジョヴァンニ』に劣らぬセックスと暴力、ドラッグと酒の匂いのする酷薄なオペラであることを暴いてしまった。第1幕冒頭はホテル内のバー、第2幕は伯爵夫人の浴室など、すこぶる無機質なホテルの内部が舞台になっており、複数の部屋で出来事が同時進行するのはザルツブルクでの前の世代のベヒトルフ演出(2015年〜)と同じだが、第3幕冒頭では伯爵のモノローグと伯爵夫人/スザンナの会話が重なって語られる--確かにそう書かれているのだが、普通の上演ではどちらも聞き取れるように配慮される--など、さらに大胆。マルツェリーナとバジリオのアリアはカット、第3幕の伯爵夫人のアリアを六重唱の前に移しているが、これは先例あり。レチタティーヴォの台詞も少し書き換えられている。
    『レクイエム』でも素晴らしいモーツァルトを聴かせてくれたピションの指揮が抜群。速めのテンポで全曲に生気がみなぎっているが、最後のContessa, perdono!(妻よ、許しておくれ)はたっぷりしたテンポでコントラストが尖鋭。歌は適宜、譜面にないヴァリアントを加えるほか、フォルテピアノも奔放に動く。もちろんノン・ヴィブラートのHIPスタイルだ。歌手陣もきわめて強力。ほとんどドン・ジョヴァンニ風のシュエン(伯爵)、これまた「小」ドン・ジョヴァンニぶりを発揮するデサンドル(ケルビーノ)、演出の設定に従って、狡猾かつ清純なドゥヴィエル(スザンナ)、少なくともこの三人は超一級品だ。ゴンザレス(伯爵夫人)も歌だけなら及第点だが、演技がちょっとトロい。ポンチク(フィガロ)は鈍重で、頭の回転が速そうに見えないが、前からボスの愛人だったスザンナに何も知らずに求婚してしまったという設定なので、意外にハマリ役か。
    日本語字幕はCmajor時代のものから一新されたが、機械翻訳をそのまま載せたかのごとき直訳。Si「はい」とNo「いいえ」だが否定疑問文に対する答えとしては「はい」--の言い間違いでスザンナが伯爵を翻弄する二重唱(もともとそうだけど、この演出では、ひときわエロい場面)など、至る所で肝心な言葉の訳がなく、第2幕ではタイミングのずれありと散々な出来。

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     2024/12/28

    『アイーダ』は好んで聴くオペラではなく、DVDはあったが、これが初ブルーレイ。お目当ては、もちろんカーセン演出で、キャストを見てから演出プランを考えたのか、演出プランが出来てから人選したのか、常識的には前者だと思うけど、実に面白い舞台になっている。主役スティヒナがロシア生まれ、国王役のシム・インスンが(中国人じゃなく韓国人だけど)東洋人なので、国境を接する例の二超大国のことを考えないわけにはいかない。さらにランフィス(この演出では宗教色薄く、軍司令官といった役どころ)のハワードが黒人歌手なのでアメリカをも連想させるという仕掛け。架空のエジプト国旗がスターひとつだけ&白、青、赤(ロシア国旗の色)のストライプスなのはマジで笑える。ラダメスを裁く「軍事法廷」の様子を舞台上でリアルに見せるのは、むしろ異例とも言えるが、それも効果的。
    歌手陣ではメーリとテジエが抜群。メーリは伸びやかな声のいいテノール、かなり重い役も歌うようになったので、歌い過ぎにだけは気をつけて。ハルテロス/カウフマン以下を擁したパッパーノ指揮の録音にも出ていたテジエは、この種の役では今や無敵状態。出番は僅かたが、圧倒的な存在感だ。スティヒナは細やかな表情の美しさに見るべきものがあるが、とにかくストレートに声が出てこないので、イタリア・オペラを聴いている気がしない。アムネリスはアリアこそもらっていないものの、見せ場山盛りの「映える」役。舞台ではしばしばアイーダ役を食ってしまうので、今回もあまり華のないアイーダとのバランスに配慮した人選と見た。パッパーノの指揮は例によって緻密かつ周到。「ピアニッシモで始まり、ピアニッシモで終わるオペラ」だとご本人は述べているが、そのピアニッシモが極端に弱いので、だいぶ音量を上げないと聞こえない。この弱音の精妙さに対し、ドライとも言える暴力的な強音とのコントラストが最大限につけられている。彼としては、オペラはたくさん振ったから今度はシンフォニーを、という気持ちなのだろうが、しばらくオケピットの中の彼が見られなくなるのは、何とも残念。 

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     2024/12/27

    今や世界中で引っ張りだこのナディーン・シエラ。籠りがちの発声に癖があって、清純な娘役向きではないと思うけど、ちょっと崩れた感じが、ヴィオレッタにはちょうどいい。もちろんナタリー・デセイのような壮絶な演唱ではないし、イタリア語がきれいに聞こえないという難はあるけど。メーリの輝かしい声も素晴らしいし(アルフレードの愚行も結局は、若さゆえのものだと思うので)、舞台上で若く見えるのも、とても良い。一方、御歳79歳のレオ・ヌッチがまだ矍鑠たる歌を披露しているのは、ただただ驚き。さて毎度問題のメータの指揮だが、クラシックな型のあるオペラなので、そこそこ振れれば、ちゃんとサマになり、『ファルスタッフ』や『ばらの騎士』に比べれば不満は少ない。それでも新しい発見は何もないし、音楽の生きた呼吸が死んでしまっていることは確かなのだが。
    1968年のパリに舞台を移したリヴェルモーレ演出。クルティザーヌ(高級娼婦)が栄えた19世紀半ばパリの時代背景を無視するな、結核は今でも危険な感染症だが、20世紀では、かつてのような「死の病」のイメージはないはず等々、あれこれの批判は可能だが、私は大いに好感を持った。第2幕第2場でアルフレードが札束を投げつける相手がヴィオレッタではなくドゥフォール男爵であること、(ネタバレを避けるが)あっと驚くエンディングの描き方など、とても今風でファッショナブルな舞台だと思う。

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     2024/12/26

    ティーレマンがこれだけ高水準の歌手陣で『ワルキューレ』を振るのは2017年のザルツブルク・イースター・フェスティヴァル(ネミローヴァ演出)以来かと思われるが、あの時は手堅いものの、意外におとなしかった。今回はすこぶるアグレッシヴ。第1幕終わりなど、アッチェレランドを仕掛けるタイミングが早すぎ、空回りした感もあるが、とりあえず指揮は好調と見て良い。歌手陣ではフォッレとカンペの二人が抜群。ついに見ることができたフォッレのヴォータン。期待通りの出来だし、年齢的にも苦悩する『ワルキューレ』のヴォータンにふさわしくなった。しかも力押し一本槍ではなく(この演出では槍を持っていないけど)、皮肉や自嘲といった幅広い表現を織りまぜるところがさすが。2017年にはまだ若い印象があったカンペ(若さゆえの良さもあったが)、今や堂々たるブリュンヒルデになった。声の力、表現力ともに申し分なく、ほぼ理想通りの題名役。ワトソン(ジークムント)は声自体には力がありそうだが、今はまだ力任せに歌うばかりで、まだひどく荒っぽい。リトアニア出身のミクネヴィキウテ(ジークリンデ)はこれに比べれば遥かに良いが、見た目が老け顔でジークムントの双子の妹に見えないのが映像ではつらい(後述するように、この舞台にリアリティを求めても無駄だけど)。
    というわけで、チェルニャコフ演出だが残念ながら、これまで見てきた彼の舞台のなかでも最も不出来なものの一つ。物語の現代化=矮小化は彼の定番だが、エディプス・コンプレックス(『ドン・ジョヴァンニ』)、エレクトラ・コンプレックス(『エレクトラ』)のように物語構造が普遍的な場合は、矮小化が原作の思いがけぬ側面を照らしだすこともあった。『指環』も所詮はファミリー・プロット、ヴォータンとその子供たち&孫の物語だから、いつもの手で行けると演出家は踏んだようだが、『トリスタン』や『パルジファル』と比べても遥かに外的な事件の多い本作に、いつもの手は通用しなかった。例えてみれば、スマホゲームFGOが一度もタイム・トラベルに出かけず、南極のカルデア本部内だけで完結してしまうようなもの。それでもノートゥングだけはちゃんとあって、小ぎれいな現代の家の壁に剣が刺さっているという仕様はそれだけで笑えるが、では決闘は拳銃を持つフンディングにジークムントが剣で斬りかかるという構図になるかと思いきや、舞台上に見えるのはジークリンデのみ。決闘は茶番に過ぎず、誰も死んでいないというのは、そう言えばチェルニャコフの出世作『エフゲニ・オネーギン』と同じだと思い当たったが、今度は何だかなあ。

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     2024/12/18

    ユリアン・プレガルディエン、本当にいいテノールになりましたね。HMVレビューの通り、シューベルト時代の歌唱様式の研究に基づいて、旋律装飾を加えた演奏。こうしたやり方の端緒は父クリストフの2007年録音(ミヒャエル・ギース伴奏盤)かもしれないが、これを遥かに大胆にやったのが2013年のマルクス・シェーファーとトビアス・コッホの録音。でも私の見るところ『水車小屋』に限っては、これは失敗。演奏者の方法論が練り上げ不足だったと思う。近年では、いかにも頭の良さそうな(声自体にいまひとつ魅力がないのが惜しまれる)コンスタンティン・クリンメルとダニエル・ハイデ(2022年録音)がとても良いバランスで装飾を加えた歌唱を成功させている。一方、装飾なしの昔ながらのスタイルでも、美声で一気に押し切ってしまったようなアンドレ・シュエンとダニエル・ハイデの直線的な歌唱(2020年録音)も捨てがたい。
    というわけでこの録音、やはり原調通り歌えるテノールであること、伴奏にベザイデンホウトを迎えたことのメリットはきわめて大きい。歌手はささやき声のようなソット・ヴォーチェから叫び声に近い強烈な表現まで、実に幅広い技巧を投入しているが、それが旋律装飾と相まって主人公の傷つきやすい心をこれまでになく「なまなましく」描き出すことにつながっている。だって遍歴職人が親方の娘と恋仲になって振られる、なんて日常茶飯事だったはずだが、主人公はそれで命を絶ってしまうわけだから。もちろん旋律装飾と言っても、のべつまくなしに譜面と違う音符を歌うわけではなく、全曲のクライマックスと目される第18曲「しぽんだ花」ではヴァリアントを控えている。こういう加減もまたお見事。パドモアとの『冬の旅』では明らかに不発だったベザイデンホウトも今度は素晴らしい。控えめながら彼も旋律装飾を加えているし、最終曲「小川の子守歌」でのアルペジオの揺らしなどまさに絶妙。

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     2024/12/08

    祝・全集完結! モダン・ピアノによるモーツァルトのソナタ全集では今のところ、これを凌ぐ録音はないと断言しても良いだろう。録音データを見ると、この全集、2019年の7月、8月に一気に録音され、2020年9月に全体の見直し、部分的な録り直しが行われたようだが、CD6枚分を四つのセットに分けて発売することになった。発売の順番を見ると、明らかに出来の良い曲、彼女の旋律装飾スタイルがうまくマッチする曲を先に出したのだと思う。というわけで、CD4枚目以降は「落ち穂拾い」的選曲になっているのだが、実際、最後の6枚目などは非常にシリアスなハ短調K.475、(第2楽章までは)対位法的、バロック的なヘ長調K.533/494と、この全集の目玉である旋律装飾に不向きな「非遊技的」なソナタばかりだ。しかし、そういう曲でもオルリ・シャハムの演奏の魅力は少しも褪せない。実際、K.475の両端楽章、K.533の第1楽章では旋律装飾はごく僅かにとどめられているのだが、その僅かな装飾が実に効果的。K.475の終楽章コーダでのテンポの落とし加減も魅力的で、何よりも得難いのは、すべてが実に「モーツァルティアン」に聴こえることだ。逆に両曲の緩徐楽章、K.494のロンドでは豊富な旋律装飾が聴かれる。K.533/494のソナタは対位法的な第2楽章までと能天気なロンドとのギャップが大きく、一曲のソナタとしてまとめるのは難しい曲だが、彼女の演奏では旋律装飾によってこのギャップが可能な限り埋められている。

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