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TOP > My page > Review List of 村井 翔
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5 people agree with this review 2015/08/20
第5番は確かに一面では、対位法的にがっちりと組み立てられた純粋器楽交響曲であり、また金管奏者を中心にその名人技を極限まで引き出す「管弦楽のための協奏曲」的な側面もある。そういう構築的な面、あるいはオケの名人技を重んずる人にとっては、この演奏はやや物足りないかもしれない。しかし、曲の内的プログラムを考えれば、この曲はたとえばベートーヴェンの第5番のように「闇」から「光」へのドラマが一直線ではなく、屈折した味わいに満ちている。その点では、これはやはり無視し得ない、説得力に富んだ演奏だ。具体的に言えば、細かい緩急のアゴーギグ、音色の明暗を駆使して曲のプログラムを細密に描こうという演奏。2013年6月のN響定期でも大変感動的だったが、たとえば第2楽章展開部序盤、ティンパニのとどろきを背景にチェロがユニゾンで第2主題をレチタティーヴォ風に奏する部分などは、音楽が止まってしまいそうなほど遅い。柔らかく、繊細きわまりない表情のアダージェットも絶美だし、終楽章では音楽が一気呵成に突っ走ってしまわないように、そのアダージェットから終楽章に持ち込まれた主題が「鎮静」と「異化」の効果を担っているのだが、この楽章での変化に富んだテンポ配分も実にうまい。最後は盛大な拍手入り。
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9 people agree with this review 2015/08/20
ベルリン・フィルからの首席指揮者就任要請を蹴ったと噂されるネルソンス。事の真偽はともかく、「まあ、それも良かったんじゃないの・・・あまり早く頂点に登りつめると、その後の身の振り方も難しいし」と納得できるような、きわめて充実したボストン響との第1弾録音が登場。まずは『ムツェンスクのマクベス夫人』からの「パッサカリア」で強烈な先制パンチを見舞う! そのまま交響曲の第1楽章に入ってゆくが、これは実にいいアイデアだ。第10番の第1楽章は素晴らしい緩徐=冒頭楽章だが、出だしのインパクトという点では第5番や第8番の冒頭ほどではないからだ。第10番は今世紀に入ってからだけでも、数種類の有力録音が出ている超激戦区だが、とりあえずアメリカのオケで比較すると、パーヴォ・ヤルヴィ/シンシナティ響がスリムで鋭角的な演奏なのに比べ、ボストン響はもっと響きがグラマラスで厚みがある。しかし決して脂肪太りではなく、第2楽章など物理的な速さ以上にスリリングでカッコいい。この指揮者の美質は音楽からドラマをつかみだす劇的な嗅覚があるところ、にもかかわらず断じて粗い仕上げにはならず、音楽作りがとても丁寧なところだ。第1楽章の息の長い持続力は見事だし、最終楽章も安易には突っ走らない。半ば大向こう受け狙い、半ばパロディという複雑な味わいをうまく出している。終盤のDSCH音型連打のくだりでは、ショスタコ先生のドヤ顔が目に浮かぶよう。最後には盛大な拍手が入っている。
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3 people agree with this review 2015/08/03
アーノンクールとベルリン・フィルの録音はブラームス全集、ブルックナー8番など、あまりめざましいものが無かったが、これは出色の全集。テルデックによって収録されたが、折からのCD不況で発売中止になってしまった録音らしい。交響曲全集では当然ながら前回のコンセルトヘボウとの録音との比較になるが、全体にテンポが遅くなり、表情は一段と濃厚、初期の交響曲ですら音楽の恰幅が良い。弦楽器の人数もかなり多めではないか。舞曲楽章で主部とトリオのテンポが全く違うのは、いつものアーノンクール流だが、今回はトリオがとりわけ遅い。第2番終楽章では第2主題の終わりで毎度リタルダンドするという新解釈。指揮者がロッシーニのパロディだと言っている第6番終楽章では変幻自在のアゴーギグ(これは前回録音と同じ)。『未完成』の第1楽章は提示部反復込みで17:13という恐るべきスローテンポだが、一方の『大ハ長調』はオケの威力を生かして、いつも以上にストレートな解釈で力押ししてくる。最後の音は例によってディミヌエンドだ。これがアーノンクールの録音としては唯一となる『アルフォンゾとエストレッラ』も強力なキャストを揃えた堂々たる演奏。ただ、『フィエラブラス』よりは幾らかマシとしても、このオペラ、聴くたびにストーリーが全く駄目であることを痛感する。歌曲ではあんなにいい詩を選択しているのに、まともな台本作者にめぐり合えなかったのが、オペラ作曲家シューベルトの不幸だ。
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2 people agree with this review 2015/08/01
ベヒトルフの演出はいかにも「青臭かった」チューリッヒ時代のものより遥かに良い。セットとしては奥に階段のあるホテルのロビーを一貫して使うが、黒子役のホテル従業員たちが小道具を用意し、また片づけることによってスムーズに舞台転換する。マゼット/ツェルリーナを従業員同士のカップル、他の人々は泊まり客にすることによって、このような現代化演出では失われがちな、元の設定にあった平民/貴族の身分差を保存しているのも、なかなか秀逸なアイデア。工夫の行き届いた、とても器用に作られた舞台ではあるが、クーシェイ、グートという最近二つのザルツブルクにおける『ドン・ジョヴァンニ』演出(これが全部、映像ディスクで見られるというのも、凄い時代になったものだ)に比べると、強烈なインパクトには欠ける。 ダルカンジェロ、ピサローニ、コニェチュニの低声陣は盤石。ギャラントな色男で押しの強さも申し分ないダルカンジェロはシェピ以来のドン・ジョヴァンニ像の一典型だろう(もちろん多様な解釈の余地がある人物で、ハンプソンもマルトマンも私は好きだが)。対する女声陣は若い美人揃い。なかでも達者な演唱をみせるフリッチュのドンナ・エルヴィーラが出色だ。ドンナ・アンナは声自体はやや非力だが、演技を含めた役作り(彼女もドン・ジョヴァンニが忘れられない)はなかなかうまい。ツェルリーナは可愛く演じられているが、欲を言えばもう少し「したたかさ」が見えると良かった。一番問題なのはエッシェンバッハの指揮。確かにウィーン・フィルを気持ちよく弾かせているが、前の二人、ハーディング、ド・ビリーに比べると最も微温的だ。これでは今秋のウィーン・フィル来日公演も大いに懸念される。
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3 people agree with this review 2015/07/12
ピリオド・スタイルによる『真夏の夜の夢』にはアーノンクール、ブリュッヘン、ヘレヴェッヘなどの録音があったが、いまだ決定打がなかった。リープライヒとミュンヘン室内管弦楽団は指揮者、オーケストラともに日本ではほぼ無名かもしれないが、ロッシーニ序曲集の素敵なディスクを出していたこのコンピによる新録音は素晴らしい。弦の編成が6/5/4/4/2と小編成なので、音像がとてもクリアで各パートの隅々まで良く聴こえる。欲を言えば、序曲冒頭の「妖精の羽ばたき」ではレヴァイン/シカゴのような繊細さがあるとなお良かったが、足どり軽やかな「結婚行進曲」など魅力的だ。ナレーターがいないと間の抜けてしまう「メロドラマ」は含まないが、「妖精の歌」や「フィナーレ」を含む11曲を収録。『イタリア』は一見、爽やかな曲想にもかかわらず、意外にポリフォニックかつ目の詰んだオーケストレーションがされた曲で、演奏はなかなか難しい。トーマス・ファイは過激すぎるが、クリヴィヌではもの足らぬという人には、これが最適の演奏。たとえば第1楽章冒頭の第1主題、ファイの録音ではヴァイオリンの主旋律がリズミックな木管の対位旋律にかき消されがちだが、そのあたり、この録音はとてもバランスがいい。終楽章のサルタレロもファイほど猛烈ではないが、かなり速いテンポ(5:21)で十分にスリリングだ。
3 people agree with this review 2015/07/04
このオペラに対する「脱神話化」の企ては何度か試みられてきたが、ここまで過激なものはかつてなかったのではないか。この作品、副題は確かに「喜劇」なのだが、演出家はこれを全く字義通りに受け取ろうとしている。喜劇という意匠の下にシリアスなテーマを含ませるというのは、同時代の(音楽の付いていない)喜劇『気難しい男』に端的に見られるようにホフマンスタールの得意とするところだが、演出家はこのオペラにおけるシリアスなテーマ、必然的に「心変わり」や「老い」を招く無情な時間の流れにわれわれ人間はどう対処したら良いか、といったテーマに全く関心がないようだ。オックス男爵をめぐる喜劇的な場面が生彩豊かであるのは、なるほど結構なこと。けれども、この舞台では銀のバラの献呈式における恋人たちの一目惚れシーンなども喜劇的に色付けされており、彼らも戯画化、パロディ化されてオックスと同じ水準に引き下げられている。特にオールド・ファンを激怒させそうなのは元帥夫人に対する扱い。演出家自身が言う通り、夫のいぬ間に愛人をベッドに引き入れている彼女は確かに倫理観の欠けた人物ではあろう。そうは言っても、ここまで「下品に」描かれると、さすがにショックを隠せない。たとえば第1幕冒頭、舞台中央奥が浴槽になっていて、彼女はここで(実際にはボディスーツ着用らしいが)全裸を見せる。カーセン演出に全裸の売春婦が出てくるのとは次元が違う。第3幕でオックスに自分とオクタヴィアンの関係を漏らさぬよう脅迫するあたりも、実に嫌らしい人物として描かれるし、ゾフィーにオクタヴィアンを譲る「美しい」幕切れも、複数の愛人のうち一人を見切っただけであることが露骨にほのめかされると、(確かに実際にはそうかもしれないが)すっかり白けてしまう。もちろん黙役だが、両端幕にはジクムント・フロイト博士も姿を見せる。各幕の装置の歪んだパースペクティヴも不条理な、夢のような印象を強調するかのよう。 相変わらず好きになれないケイト・ロイヤルの作り物めいた演唱も、この演出ならまあ仕方ないか。小太りで愛嬌のある・・・つまり普通に考えれば、あまりオクタヴィアンにふさわしくないタラ・エロートもうまく演出コンセプトにはまっている。ティチアーティの若々しく俊敏な指揮は魅力的だが、できれば違った演出で聴きたかった。
13 people agree with this review 2015/05/31
なぜかまだレビューがないが、NHK-BSでは既に昨秋に放送された2014年夏のザルツブルクの目玉公演。『ばらの騎士』21世紀の新スタンダードと呼ぶにふさわしい見事な出来だ。まずは老匠クプファーの演出。かつてのような挑発的な舞台ではもはやないし、20世紀初頭への時代変更も今や定番だが、ヴェテランらしく劇的なシチュエーションの作り方がうまいし、小道具の配置も実に面白い。たとえば第1幕の背景にさりげなく置かれた二輪の白いカラーの花。フロイト的な読み方を知っていれば、性的な含意は明白だろう。解説してしまうと身も蓋もないが、花はもちろん女性の象徴。それが二輪あるのは、ここで恋人を演じるのが実は女性同士、「百合」関係だということだ。黒人のお小姓モハメッドがカーセン演出同様、若い青年で、朝食を運んできた彼が懐から大事そうに取り出したばらの花に口づけして、そこに添えるのも印象的。彼は一番最後のシーンで拾ったゾフィーのハンカチにも接吻する。第2幕ではオックス男爵がゾフィーをつかまえて、例のワルツを歌い始める場面。オクタヴィアンとファニナルの引きつった表情に、思わず吹き出しそうになる。プロジェクション・マッピングで背景に投影される主としてモノクロの風景も美しく、第1幕幕切れの冬枯れの並木道、第3幕三重唱の場面の朝霧のたちこめる野外(ジャケ写真)など秀逸だ。 歌手陣もすこぶる強力。少し老けたとはいえ、相変わらず最高のオクタヴィアンであるコッホ、可憐だがいかにも芯の強そうなエルトマンももちろん良いが、傑出しているのは元帥夫人とオックス男爵。ストヤノヴァがこんなに見事な元帥夫人を演じるとは思ってもみなかった。ドイツ語のディクションは完璧でないかもしれないが、誰かさんのようにシュヴァルツコップをコピーしようとするのではなく、積極的に新しいマルシャリン像を作ろうとしていることに好感が持てる。実際、この元帥夫人はデカダンで「壊れやすい」女性ではなく、もっと生活力のありそうな、逞しい女性だ。グロイスベックのオックス男爵も豪放さはやや影をひそめたが、貴族らしいノーブルで若々しい役作り。今回はトラディショナル・カットを排した完全全曲演奏だが、復活したのは主としてオックスに関わる場面なので、彼が魅力的なのはありがたい。チューリヒでの録画も素晴らしかったヴェルザー=メストは、あえてティーレマンのようにタメを作らず古典的な格調を重んじた、しかし同時にデリカシーも大いにある指揮。ウィーン国立歌劇場が「黄金時代」を築けそうな指揮者を追い出してしまうのは毎度のパターンだが、またしても逃した魚の大きさを思い知らされる結果になった。
13 people agree with this review
3 people agree with this review 2015/05/30
クラシックの名曲の場合、最初に聴いた演奏によって文字通り「刻印を押されて」しまうことは良くおこりがちだが、私の場合、チャイコの5番はまさにそういうケース。私がこの曲を大好きになったのは、1960年に録音されたバーンスタインとニューヨーク・フィルのCBS録音によってなのだ。このLPはたちまちすり切れてしまったのでLP時代に二度も買い直し、今は通算4代目のCDがわが家にある。バーンスタインは例によって最初から最後までやりたい放題やっているが、彼の読みが逆に楽譜通りである箇所も少なくない。この曲には変な演奏伝統があって、たとえば第1楽章第1主題の提示部「アレグロ・コン・アニマ」はたいていの指揮者がテンポを遅くとり過ぎる。バーンスタインの方が正しいのだ。第2楽章中間部「モデラート・コン・アニマ」もまさにそうで、バーンスタインのテンポが正解だと思う。もちろんDGへの再録音も大好きだが、私の場合、とにかくこの曲は彼以外の指揮者ではどうしても満足できないのだ。 さて、そういうわけでティルソン・トーマスの今回の録音。基本的には21世紀のリファレンスとしての地位を既に確立している、あの輝かしいマーラー全集と同じスタンスのアプローチだと思う。スコアを徹底的に掘り起こして、これまでちゃんと聴こえなかった音楽の姿を明らかにしようというやり方で、第1楽章第1主題の弦の主旋律に、入れ代わり立ち代わり木管がからんでくる所など、ああこういう音楽だったのかと手に取るように分かる。全く楽譜通り、かつ楽譜に書いてないことはほとんどやらない演奏で、終楽章コーダの追い込み部におけるヴァイオリンの細かい動きに至るまで、音楽の姿が克明に聞き取れる。その点では驚くべき高水準の演奏なのではあるが、指揮者自身がやや枯れたのか、マーラーの時ほどの集中力と曲に対するのめり込みは今回あまり感じられなかった。私をバーンスタインの呪縛から解き放ってはくれなかったのだ。フィルアップの『ロメ・ジュリ』はやや精度の落ちる普通の演奏で、最後には盛大な拍手が入っている。
1 people agree with this review 2015/05/30
第9番は2009年6月、第10番(アダージョのみ)は2008年6月、いずれもエーベルバッハ修道院で収録。この素晴らしいマーラー・ツィクルスのほぼ唯一の欠点は、大半の曲がこの修道院での収録になってしまったこと。第9番は非常にポリフォニックな様式で書かれた曲だし、演奏者も複音楽的な線の絡み合いを克明に表出しようとしているのだが、聖堂内の長すぎる残響に災いされているのは明らかだ。けれども、演奏そのものは大変すばらしいと思う。ほぼ一年前の来日公演の時よりも、さらに練れた印象があり、6番、7番と並んでこのツィクルス白眉の演奏と言える。ただし、第9番の演奏と言うと、われわれ聴き手はその指揮者のマーラー解釈の総決算的な出来を期待してしまいがちだが、パーヴォとしてはこの時点でのベストを尽くしたことは間違いないものの、まだまだ発展途上の演奏だと思う。第1楽章は全体としては遅めのテンポを基本にしつつも、提示部の終わり、展開部の二度のクライマックスなど総譜がテンポ上げを指示している箇所での、きわだった加速の仕方が印象的。根本的にはクールなアプローチながら、そのために「熱い」、表現主義的な感触が感じられる。しかも徐々にアッチェレランドするのではなく、デジタル的にテンポが動く。第2楽章は3種類の舞曲の描き分けがテンポ配分とともに実に理想的。第3楽章はポリフォニーに目配りしつつも、一気呵成な速度で進む。しかし、終楽章の先取り部は非常に遅く、アダージョに近い。終楽章も遅めの基本テンポの中に、細かい緩急のアゴーギグを盛り込んだ演奏だ。 第10番のアダージョは2007年10月、ヴァージン・レーベルへの録音もあったが、やはりこちらの方がさらに熟した印象。遅いテンポによる濃密な表現だが、動きの細かい第2主題では、はっきりテンポを上げるなど、コントラストが鮮やかだ。
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0 people agree with this review 2015/04/25
第7番は第1番と同じヴィースバーデンのフリードリヒ・フォン・ティーアシュ・ザール、第8番はフランクフルト放響の本拠、フランクフルトのアルテ・オーパーで収録。演奏は第7番が圧巻の出来ばえ。パーヴォの指揮は曲が複雑になればなるほど、ますます冴える傾向があるが、その見本のような演奏だ。第1楽章冒頭、伴奏音型の符点リズムのクリアな処理以下、全曲のスコアを徹底的に掘り起こしていて、会場の音響特性が良いので、それが細部まで克明に聴こえる。たとえば第5楽章冒頭、金管のファンファーレに唐草模様のようにからみつく木管の「茶化し」音型をこれだけ明確に聴かせるのは、このような一発ライヴでは容易ではあるまい。全体としては速めのテンポ設定だが、終楽章は意外に速くなく、むしろ余裕のある運び。 その中でこの楽章の盛りだくさんのコラージュ風音楽を万華鏡のように繰り広げる。 一方の第8番は特に実演では肥満した巨大化のあまり、俊敏な動きのできない演奏を聞かされることが少なくないが、これは極限まで曲をシェイプアップし、スリム化した演奏。そもそも演奏者の人数が少ない。二百数十名ほどで、8番では最小の部類だと思うが、少年合唱など驚くほど少人数だ。ゆえにテンシュテットの録画のような巨大なスケールは全く望めないし、あくまで他の曲の演奏と比べてではあるが、パーヴォの指揮としては細部の彫琢、メリハリの効果ともに、やや物足りない。第2部の真ん中(スケルツォ部)あたりは、どうもダレ気味だ。指揮者自身のコメント以上に、演奏そのものが曲に対する愛着の薄さを物語ってしまっている。
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3 people agree with this review 2015/04/19
何と5番、6番もエーベルバッハ修道院で収録。ラインガウ音楽祭を機に録画ということなので仕方ないのかもしれないが、ポリフォニックな様式の5番などは残響の長い聖堂内での収録は明らかに不利だ。演奏自体もやや粗いところがあって、2012年の日本での演奏の方が上であったように思うが、やはりここぞという勘どころは外さない。たとえばアダージェットは、煩瑣な作曲者のテンポ変化の指示に忠実に従った、理想的な出来ばえだ。スケルツォのオブリガート・ホルン奏者はラトル/BPOと同じく指揮者の横に出てきて吹くが、来日公演ではオケの右奥、テューバの横、コントラバスの後ろあたりに移動して、立って吹いていた。これだと左奥に位置する他のホルンとの掛け合いも完璧で、こちらの扱いの方がベストだと思った。 一方、最も新しい収録の6番は気力充実、きわめてメリハリの強い圧倒的な出来ばえで、これまでに発売された6曲の中ではベストと言える。中間楽章はスケルツォ/アンダンテの順で、やはり私はこれが「正しい」と思うが、特にアンダンテから終楽章への接合のスムーズさ(この演奏ではほぼアタッカで続けている)は間違いなく「正しさ」を裏付けてくれる。ハンマーは(指揮者自身の発言に反して)2回だけ。総譜では第1ハンマーはfff、第2ハンマーはff、第3の運命の打撃に相当するタムタムはfになっていて、アバドのようにこれをその通りにやる指揮者もいるが、パーヴォは反対。第1より第2ハンマーの方が強いし、最後のタムタムも思いっきりひっぱたく。劇的効果としては、まさにこれが正解だと思う。ハンマーも重く鈍い音ではなく、凄まじい衝撃音がする。それにしても、この6番でのフランクフルト放送響の精度の高さには舌を巻く。1960年代から「マーラーの時代が来た」と言われるが、実は半世紀前にはニューヨーク・フィルをもってしても、これほど総譜の要求に従った精密な演奏はなしえなかったのだ。パーヴォが予定通り、1シーズンに1曲ずつマーラーを振ってくれるなら、この水準の演奏がおそらく東京でも聴けるわけだ。
4 people agree with this review 2015/04/13
この種の音楽には少し広すぎる祝祭大劇場でのライヴだが(拍手はなし)、ややインティメートな雰囲気に欠けるとしても、音そのものはきれいに録れている。ここでも指揮者自身がライナーノートを書いていて、シュトラウス・ファミリーの音楽にとってテンポ・ルバートがいかに重要かを力説しているが、なるほど『ジプシー男爵』序曲(HMVレビューの収録情報は誤り。『こうもり』序曲ではありません)に始まり、ヨーゼフのポルカ・マズルカ『とんぼ』、ワルツ『オーストリアの村つばめ』、珍しいエドゥアルトのフランス風ポルカ『蜜蜂』と、盗み(ルバート)なしではどうにもならない曲を並べている。一方、ポルカ・シュネルでは俊敏な身軽さとめざましいノリの良さが印象的。こういう演奏、どこかで聴いたことあるなと既視感(既聴感)を感じたが、そう、カルロス・クライバーだ! ホーネックは確かにカルロスの後継者と言われることがあるらしいのだが、このディスクを聴いて初めて、なるほどと納得できた。最後の『雷鳴と電光』など、カルロス以上にカルロス風ではないか。
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2 people agree with this review 2015/04/12
2010年6月のブルックナー・ツィクルス最終日の録画。このコンビの近年におけるベスト・フォームを記録した演奏に挙げていいだろう。第1楽章冒頭からトゥッティ(かつての言い方だと第1主題提示)に至るまでのテンポの動かし方(徐々に加速+最後に急減速)はフルトヴェングラーそっくり。かつてのバレンボイムの場合、こういう所がどうも「とってつけたように」不自然に聴こえたのだが、今やフルトヴェングラー様式−−と呼んでいいのでしょうね。今やわれわれはフルトヴェングラーしか聴かないが、20世紀前半の演奏ではこういうテンポ操作はかなり普遍的であったはず−−は完全に消化され、彼の身についたものになっている。たとえば、前日に演奏された第8番最後のアッチェレランドも、確かに加速はしているのだが、今やごく自然に納得できるものになっている。ただし、8番の場合は手抜きのない誠実な演奏ではあるが、表現が穏当なものになった代わりに、かつてのようなスリリングさが失われたとも言える。それに比べるとこの9番は最後まできわめてテンションが高く、表現意欲がみなぎっている。第1楽章再現部冒頭やコーダの圧倒的な気迫、スケルツォ主部の荒々しさも出色。第3楽章のいわゆる「生への訣別」部の壮絶な響き、コーダ直前の不協和音の強烈さも凄まじいかぎりだ。
1 people agree with this review 2015/04/04
3番はともかく、まさか4番までエーベルバッハ修道院で収録するとは思わなかったが、すこぶる世俗的な「愛が私に語るもの」(作曲者自身は「神の愛」とか何とか言っているが、カムフラージュに過ぎないと思う)や(ヤルヴィ自身も言う通り、子供が語るという設定によって隠蔽されているが)キリスト教に対する悪意ありありの「天上の生活」が聖堂内で奏でられるというアイロニーはなかなか捨てがたい。ただし、指揮者はポリフォニックな線の絡み合いを克明に表出しようというアプローチをとっているので、残響の長い響きは逆効果ではある。3番はヤルヴィ自身「好きな作品」と言う通り、全曲録画最初の収録作品。そんなにきわだった特徴のある演奏ではないにもかかわらず、非常に聴き応えがあるのは、個々の楽想が和声の変転も含めて、適切なテンポで明晰に描かれているせいだろうか。やや速めの終楽章は、この指揮者らしからぬ「熱い」演奏。私はこの楽章、第4楽章のニーチェの歌詞の内容を純粋器楽で描いたものだと思うが、「苦痛」と「快楽」の永遠の繰り返しがまことに迫真的だ。4番はその次の収録作品。コンサートホールでの収録でないために、精妙さではインバル/都響に及ばないし、弦のグリッサンドもそれほど律儀にはやらないが、やはり勘どころは外さない。第3楽章は逆に遅めのテンポで「冷たい」音楽だが、終盤のクライマックスの作り方は実にうまい。
6 people agree with this review 2015/04/04
珍しいフランス語オリジナル版での上演だが、ヘアハイム演出に手抜きなし。序曲の間にパントマイムで「過去の因縁」を克明に見せた後、幕が上がると舞台上に観客席が出現。ドラマ全体が劇中劇という仕様だ。フランス人たちは明らかに19世紀の服装で、13世紀のシチリア島民vsフランス占領軍の対立に19世紀半ばのパリ(初演の時代)における若い芸術家vs保守派の対立が重ねられている。プロシダが新芸術の守護者たるバレエ・マスターという設定もあって、第3幕に挿入される本来のバレエ「四季」はないにもかかわらず、ロイヤル・バレエ団の出番は豊富。オペラの要所要所にバレエを重ねるこの手法は実に新鮮だ。第2幕ではナイフをかざすテロリスト御一党がバーにつかまってバレエのポーズをとるのに笑ってしまうし、第5幕でのシュロットの女装(見てのお楽しみ)もいゃあ、やりますね。ここまであれこれいじっても、話が見えなくなるどころか、むしろ明晰で分かりやすくなるところが、さすがヘアハイム。 パッパーノの指揮もまことに強力。もちろん演出に沿った解釈だが、『ドン・カルロス』仏語版などに比べればまだ定型的な音楽が多いと思ったこのオペラから、これほどの深層心理学的な深みを引き出すとは驚きだ。歌手陣ではいわゆる二枚目テノールとは一味違ったイーメル(ハイメル)の悩める主人公ぶりもなかなか良いが、この演出で遥かに彫りの深いキャラクターになったフォレ、シュロットの宿敵同士が圧巻。できればこの演目を日本に持ってきてもらいたいところだが、NHKホールにこのセットを作るのは無理か。ともあれ、演出と指揮の圧倒的勝利。必見である。
6 people agree with this review
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