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ベルリン・フィル・ラウンジ特別号 「ペトレンコ指揮ブラームス 交響曲第1番」がリリース!

Wednesday, November 12th 2025


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ベルリン・フィル&HMV&BOOKS online提携ページ『ベルリン・フィル・ラウンジ』

 「ペトレンコ指揮ブラームス 交響曲第1番」がリリース


 この秋から冬にかけて、ベルリン・フィル・レコーディングスより注目の新タイトルが続々と登場します。まずご紹介するのは、この11月、二度目の来日を果たす首席指揮者キリル・ペトレンコとベルリン・フィルの来日記念盤としてリリースされるブラームスの交響曲第1番の最新録音です。
 1882年の創設以来、ベルリン・フィルはブラームスと特別な関係を築いてきました。1884年には作曲家自身が《悲劇的序曲》や交響曲第3番などの自作を指揮。ブラームスの交響曲上演は、初代のハンス・フォン・ビューローからサイモン・ラトルに至るまで、歴代首席指揮者の活動において常に重要な位置を占めてきました。
 ペトレンコがキャリア初期(1999〜2002)に音楽監督を務めていたマイニンゲン宮廷楽団は、ブラームスと特別な関係を持つオーケストラです。1886年に宮廷楽長に就任したフリッツ・シュタインバッハは、ブラームスの音楽に精通し、定期的にマイニンゲンを訪れた作曲家の要望を楽譜に細やかに記しました。ペトレンコは19世紀末の指示が書き込まれたマイニンゲン宮廷楽団のパート譜を読み込み、研究を重ねてきました。
 ちなみに、ペトレンコによるこの作品の興味深いリハーサルの様子は、デジタル・コンサートホールの無料映像(日本語字幕付き)でご覧いただけます。

「アウフタクト」:ブラームス「交響曲第1番」(外部サイトが開きます)

 当CDに収録された交響曲第1番は、2025/26年シーズンの開幕演奏会で取り上げられた後、9月中旬のベルリンでの定期演奏会で綿密にライブ収録されました。ペトレンコとベルリン・フィルによる初のブラームス録音は、必聴の1枚といえるでしょう。ハードカバー装丁によるCDには、交響曲第1番の創作過程とマイニンゲンに受け継がれるブラームス演奏の伝統について、マレン・ゴルツとペーター・ギュルケの洞察に満ちたエッセイを収録しています。 

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 ベルリン・フィル&ペトレンコの『ファースト・エディション』がSACDで再登場


 キリル・ペトレンコとベルリン・フィルによる初のボックスセットが、この度SACD仕様で再登場します。
 このエディションでは、両者による3つのレパートリーを聴くことができます。一つはベルリン・フィルの中心的なレパートリーであるドイツ・オーストリアの古典派とロマン派音楽で、ペトレンコが過去のシーズン開幕演奏会で指揮したベートーヴェンの交響曲第7番と第9番が収められています。
 ペトレンコの音楽的ルーツとも言えるロシア音楽からは、首席指揮者就任前後に行われた演奏会よりチャイコフスキーの交響曲第5番と第6番《悲愴》を収録。作品の情熱と力強さだけでなく、細部のディテールや繊細な陰影が存分に発揮されたドラマティックな解釈をご堪能いただけるでしょう。
 ペトレンコは、歴史の中で不当に忘れ去られた作曲家たちにも強い関心を寄せます。このエディションでは、その例として、後期ロマン派とモダニズムの狭間にいる2人の作曲家を紹介しています。愛娘の死を悼んで書かれたシュミットの交響曲第4番と、第一次世界大戦で悲劇的な死を遂げたシュテファン「管弦楽のための音楽」です。
 6シーズン目を迎え、ますます充実した共同作業を続けるペトレンコとベルリン・フィルの最初の一歩となった当エディションを、高音質のSACDでぜひお楽しみください。

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 『アルノルト・シェーンベルク・エディション』がリリース


 ベルリン・フィル・レコーディングスよりシェーンベルク生誕150周年の特別企画として制作された「アルノルト・シェーンベルク・エディション」は、この作曲家の代表作をキリル・ペトレンコとベルリン・フィルの最新録音に収めた画期的なセットです。
 3枚のCDには、ロマン派的な抒情性を湛えた初期の《浄められた夜》から、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルによって初演され、一大スキャンダルを巻き起こした「管弦楽のための変奏曲」、アメリカ亡命中に作曲されたヴァイオリン協奏曲(独奏はパトリシア・コパチンスカヤ)まで、シェーンベルクの創作の全時代を網羅する作品が収録されています。
 大きなハイライトは、未完に終わった上演稀少なオラトリオ《ヤコブの梯子》。通常のオーケストラ、合唱、ソリストに加え、複数の遠隔オーケストラが配置されるこの作品には、コンサート映像に加えて、ドルビーアトモスのオーディオ録音がボーナス素材として含まれます。この作品を立体音響として味わうには理想的なツールといえるでしょう。


 シェーンベルク・エディションをより印象深くしているのが、アメリカのアーティスト、ピーター・ハリーが手がけた鮮烈なまでにカラフルなデザイン。充実したブックレットに加えて、2枚のCDとBlu-rayに収録されたハイレゾ音源をダウンロードできるコード、さらにデジタル・コンサートホールの7日無料視聴チケットが含まれています。

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 シェーンベルク情報


 シェーンベルクのイメージについて

気難しい皮肉屋で、アメリカでの生活は不幸なものだったとされることの多いシェーンベルクですが、そうしたイメージの醸成には、以下の要素が絡んでいると思われます。

◆発言や手紙の内容
◆顔写真や自画像の表情


これらの要素に対して、さまざまな「解釈」がおこなわれた批評や伝記などの文章が数多く発表され、また、音楽愛好家たちもそれらの要素や紹介文に接することで、シェーンベルクに対して、「気難しい」、「皮肉屋」、「毒舌」、「冷遇」、「不幸」といったイメージが醸成されたと考えられます。
  しかし、昔の音楽業界の文章は、勝手な想像や歪曲、偏向も多かったため、ここでは範囲を音楽業界に限定しないニュートラルな視点から、シェーンベルクについて簡単に検証しておきます。


 発言や手紙の内容にはディール的な側面も

ウェルナー社
ときに「歯に衣着せぬ」とか「毒舌」ともいわれたシェーンベルクの過度な発言は、主に交渉ごとや手紙で確認されるものですが、背景には、16歳から21歳までの多感でのびしろのある時期に、見習いとして入社し、5年間働いていた「ウェルナー社」の影響もありそうです。

世界初のブラック・フライデー
「ウェルナー社」が設立された1873年は、ウィーン証券取引所が世界初の「ブラック・フライデー」を引き起こした年で数多くの証券取引仲介銀行が倒産。一方で、直前数年間に異常な規模で投入された資金のおかげで急激に成長したウィーンの実体経済の底力を楽観視する見方もあり、下がりに下がった証券価値はむしろ勝機と見做す勢力も出現。

ブラック・フライデーを勝機と捉えた勢力
ウィーンのユダヤ人証券ディーラーであるウェルナーとヒルシュラーによって設立登記された「ウェルナー社」もそうした証券類の取引仲介を目的としており、以後、1895年にシェーンベルクが退職する時点で、22年間も激動の恐慌時代を生き抜いていたのは、短期破綻が当たり前だった当時の零細ブローカー銀行としては非常に優秀といえると思います。

ウェルナーの破産発言の真意
ちなみにシェーンベルクが退職した話は、1895年にウェルナーが「破産だ」と言ったことに関連付けられていますが、この破産が本当の破産なのか、それとも同年のウィーン市議会選挙で、キリスト教社会党が過半数議席を獲得したことを嘆く言葉なのかはよくわかりません。
  キリスト教社会党は反ユダヤ主義的な政党なので、それまで実に30年以上に渡ってリベラル派が過半数を占めてきたウィーン市議会の運営が激変することは明らかだったため、ウェルナー社の顧客離れを見越しての発言だったのかもしれません。

シェーンベルクへの影響
こうした時代環境の中、2人の証券ディーラーの仕事に約5年間身近に接していた多感なシェーンベルクが、「ディール」の影響を受けないとは考えにくく、会話や文章に誇張や仕掛けが含まれ、ときには冗談やウソまで交えた心理戦めいてくるのもむしろ自然な成り行きでした。
  その意味では、シェーンベルクの交渉や仕事関係の発言・手紙の言葉をなんでも「額面通り」に受け止めるのは判断ミスに繋がりかねないため、政治・経済・金融・物価・気候なども含めた歴史的関連事実の幅広い情報収集も求められるところです。


 顔写真や自画像の表情

不機嫌そうと言われても
昔の肖像写真や肖像画は、目的や運用コストの問題もあって真面目な表情が一般的なので、シェーンベルクの一見すると不機嫌そうな表情も妥当なものです。

実像は愉快で快活な人物
シェーンベルクの場合、スナップ写真やムーヴィー・フィルムでは笑顔が多く、活発な動きでガーシュウィンや仲間たちの前でコメディアンのように演じたりゲラゲラ笑いあったりと、肖像写真や肖像画とは全く異なる姿を見せているのが印象的。半世紀近く音楽教育に関わり、名声も人望も得ていたシェーンベルクの実際の意思疎通能力の高さにはかなりのものがあったようです。


 居住地、家族、仕事

シェーンベルクは76歳で亡くなるまで常に家族と共に生活していた子煩悩な父親でもありました。
  シェーンベルク7歳、妹5歳の時には、リング劇場に「ホフマン物語」を見に行って焼け死んだ母の兄夫婦の遺児である3歳の娘と1歳の娘の2人が加わって6人の大家族となり、その5か月後には弟が生まれてシェーンベルク家は7人の大所帯にまで成長。
  つまり、シェーンベルクが7歳の時に母を手伝って世話をしていたのは、0歳、1歳、3歳、5歳という目が離せない4人の子供たちで、それがシェーンベルクのコミュニケーション能力を高め、老齢になっても子供とうまく過ごせた理由なのかもしれません。そしてそれが教育という仕事への適性を育んだ可能性もあります。

1874〜1901(27年間) ウィーン(3〜7人家族)
◆証券取引仲介銀行「ウェルナー社」(見習い)
◆メードリング合唱協会(指揮者)

1901〜1903(2年間) ベルリン(2〜3人家族)
◆ブンテス・テアター(楽長)


◆シュテルン音楽院(講師)


1903〜1911(8年間) ウィーン(3〜4人家族)
◆シュヴァルツヴァルト学校(講師)


1911〜1913(2年間) ベルリン(4人家族)
◆シュテルン音楽院(講師)


1913〜1925(12年間) ウィーン(2〜4人家族)
◆シュヴァルツヴァルト学校(講師)


1925〜1933(8年間) ベルリン(2〜3人家族)
◆プロイセン芸術アカデミー(教授)


1933〜1934(1年間) ボストン(3人家族)
◆マルキン音楽院(講師)


通説ではシェーンベルクは東海岸の気候が合わずロサンジェルス行きを選んだとされていますが、ボストンやニューヨークの気温はベルリンやウィーンと大差ないので、たまたまこの冬に到来した記録的大寒波(ボストンで摂氏マイナス27.8度、しかも強風)に衝撃を受けて決断したということでしょう。


1934〜1951(17年間) ロサンジェルス(3〜5人家族)
下の画像はシェーンベルクが到着間もなく購入したキャデラックの1933年型ラサール。通説と違って東海岸時代にかなり稼いでいたことがわかります。


◆南カリフォルニア大学(講師)


◆カリフォルニア大学ロサンジェルス校(教授)


下の画像はシェーンベルクが購入したキャデラックの1937年型ラサール。


 私的演奏協会

批評家や敵対勢力の妨害から逃れるための演奏会開催
第1次大戦が終わっても収束しない反ユダヤ主義的風潮の中、いわれのない誹謗中傷や妨害行為に悩んでいたシェーンベルクは、仲間たちと会員制の演奏会シリーズを企画し、1918年11月にシェーンベルクの暮らすウィーン近郊のメードリングで「私的演奏協会」を設立。

順調な活動
ほどなく「赤いウィーン」と呼ばれる左派体制の世の中になって、公演も順調に推移。3年間で117回のコンサートが開催され、154曲の現代作品が演奏。コンサートやリハーサルは、ウィーン・コンツェルトハウス、ウィーン楽友協会などで実施。レパートリーは、マーラー、R.シュトラウス、ブゾーニ、レーガー、ドビュッシー、サティ、ストラヴィンスキー、コルンゴルト、ウェーベルンなど数多く、シェーンベルク自身の作品は1920年から登場。演奏者は主にシェーンベルクの弟子たちで、オーケストラが利用できないため、シェーンベルクの5つの管弦楽曲、ブルックナーの交響曲第7番、マーラーの交響曲第4番、ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲などが特別に室内アンサンブル用に編曲されたりもしています。

活動停止
戦後のインフレ下でも活動は順調でしたが、やがてオーストリアのインフレがハイパーインフレに移行すると、予約演奏会システムは崩壊し、1921年12月に活動ができなくなり、事実上の解散に追い込まれています。


 マルキン音楽院の待遇問題

窮地のシェーンベルクを救ったマルキン
1933年初夏、フルトヴェングラーやカザルスの支援が受けられず困っていたシェーンベルクは、ユダヤ人コミュニティの助けを求める目的もあったのか6月にユダヤ教に改宗し、7月に「フランス・イスラエル自由連合」に入会し、ユダヤ人コミュニティに復帰。ほどなく、アメリカのユダヤ人チェロ奏者マルキンから自分の音楽院で働かないかと誘いがあり、10月に渡米しています。

異例の好待遇
マルキン音楽院の基本年俸は当時のアメリカ人フルタイム就業者平均年収の4倍以上にあたる4,800ドル。この金額は生徒12人の基本額で各1時間の講義を週2回×32週間、つまり年に正味わずか64時間で、準備に時間がかかるにしてもかなりの待遇の良さです。そして、生徒が1人増えると200ドルが追加され、さらにニューヨーークの教室などへの出張講義の金額は別途加算されるという好条件。また、時間に余裕ができるため、自宅で生徒を個人指導することも許可され、1時間あたり最低30ドルで教えてもいました。

シェーンベルク流ディール発言
前職のプロイセン芸術アカデミーでは、講義時間が長いにも関わらず、年俸はドル換算で約4,500ドルだったので、時間当たり賃金では数倍以上の上昇ということになります。
  しかし、シェーンベルクはこの好条件でも、報酬が想定の4分の1だったとか、渡航費用が自己負担だったなどとヨーロッパの知人に不満を表明して、自分がひどい目に遭っているように見せています。
  これはおそらく、大恐慌下でドイツの失業率が26.3%(約480万人失業)、アメリカも24.9%(約1,283万人失業)と、一般の人々は悲惨な状況に置かれていることに配慮したものでしょう。特にドイツのユダヤ人や現代音楽関係者は悲惨な目に遭っていましたし。
  面白いのはこの不平表明を額面通りに受け取った素朴な記述が多いことで、それが「アメリカで不幸だったシェーンベルク」などという話に繋がっているのかもしれません。


 グッゲンハイム・フェローシップ問題

応募そのものがシェーンベルク流ディール
ディール的な逸話が多いシェーンベルクですが、中でもグッゲンハイムの助成金をめぐる話には面白いものがあります。

年齢制限40歳の選考会に70歳で応募
1945年4月、どう考えてもダメモトで応募したとしか思えない選考会で、当たり前のようにプロジェクトが落選。シェーンベルクが申請した3つのプロジェクトは以下の通り。

◆オペラ「モーゼとアロン」の完成(作曲目安6〜7か月)
◆オラトリオ「ヤコブの梯子」の完成(作曲目安18〜24か月)
◆音楽理論書全3巻の執筆

落選理由としてジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団側は、助成金制度が、将来性豊かな「若手」研究者及び創作活動従事者への支援を目的とするもので、当該資金が余った場合に限り、その他の対象者への助成を検討すると説明しています。助成を勝ち取ったクラシック作曲家は、サミュエル・バーバー、エリオット・カーター、ルーカス・フォス(ドイツ系アメリカ人)、ノーマン・デロ・ジョイオ(イタリア系アメリカ人)、ニコライ・ロパトニコフ(ロシア系アメリカ人)、ダイ・キオン・リー(中国系アメリカ人)の6名。
  ちなみにこの1945年は、第2次大戦の兵役のおかげでプロジェクト申請できなかった研究者や創作活動従事者が50名近く追加で助成対象となったため、余剰資金もない状況でした。

当然の結果に対する異常な反応
シェーンベルクとしてもわかりきっていたからこそ、長く手を付けていなかった未完作品の完成という無茶な話を持ち出したのでしょう。
  しかしこれに対して音楽業界では、グッゲンハイム財団の判断ミスが2つの偉大な傑作の完成を阻んだなどと書かれたりしているのを見ると、財団もお気の毒というほかありません。


 健康状態

父は喘息
石炭の煤煙などによる大気汚染が過酷だった19世紀後半のウィーンに暮らした父サムエルは、おそらく喘息が持病だったにも関わらず、酒好きのヘヴィースモーカーを貫き、1889年の大晦日にインフルエンザがきっかけとなり51歳で死去(1890年は誤り)。

幼少期から喘息
シェーンベルクはその遺伝なのか、幼い時から喘息の発作に悩まされ、呼吸困難で体調不良に陥ることも多く、猩紅熱に罹った際には鼓膜が再発性の炎症を起こし、また、インフルエンザには毎年のように苦しめられたといいます。第1次大戦中の2度の兵役が短期間で済んだのは喘息の発作によるものでした。

ハイパーインフレ下での禁酒禁煙とその後のリバウンド
第1次大戦後のハイパーインフレによりタバコも酒も買いにくくなったため、シェーンベルクは禁酒禁煙を実行。しかし、ハイパーインフレが収束すると、再び酒を呑み始め、毎日タバコを60本吸う生活になり、加えて濃いコーヒーを日に3リットルも飲んでいたのだとか。

健康状態悪化により節酒禁煙
シェーンベルクが再び禁煙に踏み切るのは、1944年に70歳となり定年退職してからのことで、糖尿病悪化のためインスリン注射治療を開始したという事情がありました。禁煙に加えて、飲酒もウイスキーかコニャックをたまに一杯飲む程度にとどめ、健康のため、卓球、テニス、水泳、ボート漕ぎなどで体を動かすことを優先しますが、翌1945年にはインスリン注射による失神回数が増加したため糖尿病治療を中断。

喘息薬がきっかけで一気に体調悪化
1946年になると喘息の発作を抑えるために、ベンゼドリン(≒アンフェタミン)治療をおこないますが、数時間後に心臓付近が激痛に襲われ、処方した医師を探すものの見つからず、別な医師が治療にあたり、麻酔薬系の鎮静剤を注射したところ痛みが無くなるものの10分後にシェーンベルクは昏睡状態に陥り、心拍と脈拍が停止。医師が心臓に直接アドレナリン注射をするなどしてなんとか蘇生。回復には3週間ほど要し、その間、ペニシリンを160回も注射されています。この治療によりシェーンベルクの健康は大きく損なわれ、4年後に心臓発作で亡くなることになります。

シェーンベルク年表(商品ページ)
* Point ratios listed below are the case
for Bronze / Gold / Platinum Stage.  

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