教養の力 東大駒場で学ぶこと 集英社新書

斎藤兆史

基本情報

ジャンル
ISBN/カタログNo
ISBN 13 : 9784087206852
ISBN 10 : 4087206858
フォーマット
出版社
発行年月
2013年04月
日本
共著・訳者・掲載人物など
:
追加情報
:
183p;18

内容詳細

一九九〇年代、大学から「教養」の名を冠した学部が次々に姿を消した。それに呼応する形で専門知・実用知の優位性が喧伝されると、いまや「教養」はかつてのエリート達による懐古趣味のようなカビ臭い存在になってしまった感がある。しかし、本来の教養は、行き過ぎた専門知の追究に対して物事を多角的に捉える視点を与えるものでもあった。本書では、そうした意義に加え、人格的な豊かさを体現するためにも不可欠な教養の意味を問い直し、今の時代にも活きる新しい形を提示する。東大教養学部で長年教えた著者が授ける教養の力。

目次 : 第1章 「教養」は変質しているか(教養人をイメージしてみる/ 「なんとか教養」の謎 ほか)/ 第2章 学問/知識としての教養(ヨーロッパにおけるリベラル・アーツの起源/ 中国から輸入した教養 ほか)/ 第3章 教え授ける/修得する行為としての教養(教養は誰がどのように授けるものか/ 高校の授業の余談における教養教育 ほか)/ 第4章 身につくものとしての教養(知識/ 知的技術 ほか)/ 第5章 新時代の教養(情報処理の今、昔/ 情報選別の基準その一―情報提供源の信頼性 ほか)

【著者紹介】
斎藤兆史 : 1958年、栃木県出身。東京大学大学院教育学研究科教授。専門の英学・英語教育の他、英文学の翻訳も数多く手がける。英ノッティンガム大学英文科博士課程修了。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部で長年教鞭をとった(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(「BOOK」データベースより)

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読書メーターレビュー

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  • mitei さん

    東大が何故教養学部が残っていたのか?など解説されていた。教養というのは人格的な部分にも及ぶんだなと思った。

  • mazda さん

    知識を詰め込むだけなら、コンピュータの方が得意だと思います。そうではない「教養」というのは、斎藤さんも書かれているように、一旦取り込んだ知識をもう一段上で抽象化し、文学作品なら作者の世界観や他作家と比較した場合の位置づけなど、自分の中で消化した内容が語れることかも知れません。私が考えているのは、知識を詰め込むのが「点」を集める作業なら、教養を身につけるのは点を「線」に変えていく作業なのではないか、ということです。それが未来像を形成し、私たちがどういった方向へ進むべきかを教えてくれると思います。

  • Saiid al-Halawi さん

    古典リテラシー、センスオブプロポーション、全人教育。今や「読まれて然るべき古典」が肥大し過ぎて全部カバーすることは難しいけど、知的フレームワークとして少数ないし1つのホンモノの古典作品を精読することが必要、という。

  • Gatsby さん

    自分が大学生の時は、「一般教養」がいやで、授業に出ていかなくなった。バカな奴だ。別に大学の一般教養の授業だけで教養が身に付くわけではないので、授業以外の時間でそれなりに身に付いているとは思うのだが、この本の中で取り上げられたsense of proportionという言葉を聞いていれば、もう少し意識的に取り組めたのではないだろうか。東大があくまで教養にこだわり、教養学部の名前を残して取り組んできたことは正解だっただろう。企業が要求する「実学」とは別のところで何ができるか、高校現場でも考えてみたい。

  • KAZOO さん

    やはり今の若い人は、本を読まなくなってきているのでしょうね。駒場で学ぶことの意義はやはり必要なのだと考えます。専門課程が2年というのも非常に問題はあるのでしょうが。昔は旧制高校という役割がありましたが、今の高校ではその役割を果たすのは皆無でしょう。この筆者が推薦している本(三太郎の日記、愛と認識との出発、善の研究)は、いい本なのですが、昔と全然変わっていないというのは、私としては物足りないなあという感じがします。

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